波乱の海をぶじ目的地へ

現世は激しく変動しています。何があるか判りませんが、どうあろうと、そんな日々を貧しい言葉でなりと綴っていけたらと思います

木守柿

2018-10-31 23:03:41 | 散文



木守柿

駅長がひとりで守ってきた無人駅が
なくなったのではない。
駅がなくなったのだから、
名を失ったのだ。
もうここには、
電車は停まらない。
走って来たのと同じ速度で、
過ぎてゆくだけである。
駅員がいて、
栄えていたときのように、
無人の駅があったときのように、
ここに降り立つ人はいない。
電車が停まらないのだから、
降りて見る術もない。
その無人の駅に立っていた柿の木に、
とりついていた木守柿が、
今こそ、その時が来たというように、
木守柿となって、ぶら下がっている。
鈍い光を放つ裸電球のように、
古鐘のように、最後の約束のように、
そのしるしを留める、
いのちのようにーー




秋の運動会

2018-10-30 23:03:27 | 超短編



秋の運動会

 路地に立つと、秋の運動会の賑わいが漏れてくる。実際は漏れるなどというものじゃなく、血気盛んに吐き出されてくるというべきかもしれない。中心街とは違って大きな建物のない民家の立て込む狭い空間を押し開くようにして、どんどん溢れ出てくる。
 その中に、
走れ、走れ、グズグズしてねえで走れ!
 という声を聞いた。自分が呼ばれたとは思わないが、どうも込められていた気がしてならない。これまでも何度も騙されているのである。今はたとえ自分の名が呼ばれていたからといって、おめおめと出て行ってはならないことを、深く認識しているのである。なぜかといって、彼はもう小学生ではなく、その上の中学を飛び越えて、高校生になっているからだった。高校生といっても名ばかりで、一度も通ってはいない。その高等学校が、ここからはずっと離れたところにあるのは救いだった。そのことはなんといっても助かる。それでもたまーに、高校の制服を着たものに出会うと、心臓にぎくりと衝撃が走る。つい一週間前にも、彼はとんだヘマを犯してしまった。前からやってくる高校の不良グループとすれ違ってしまって、
「おい、モクねえか「
 と声をかけられたのだ。
彼はその時、持っていないことを罪悪のように感じて、
「無いっす、すみません」
と答えてしまった。
「おっ、俺のドスが効きすぎたみたいだな。誰かネエッス、スンマセン、って即答したか?」
 ボス格の若者は、タケルが答えたことを知っていて、タケルに顔を振り向けると、
「何も通行人のあんたに、モクをせびったりしねえよ。心配すんな」
そう言って仲間と一緒に笑い飛ばしたのだ。タケルは全力疾走して、その場を離れたが、そのボス格の男の声と、つづいて沸き起こった周囲のざわめきが、耳の奥にくっきり残っていた。
 自分が走るのは、その時以来だなと思い、今の叫び声は、もっと遥かに遠いところからの勘違いのようなものなのだと、走る足を止めようとした。ところが、その声がタケルの奥深く住み着いているのも無視できなかった。
 タケルが呼び止められたと勘違いして「ナイッス」と応えてしまったのは、夕方の光景だった、今はまだ明るく、秋の日が盛んに降ってくる。その秋の運動会に持っていく食べ物の準備をしている母親もいるだろう。そのテンポの遅れなんか気にすることはない。タケルの母親なんか、一度としてそんな恵みには預かれなかったのである。今も引き籠りの一人息子を抱えて、スーパーのレジでキーを打ち叩いているだろう。父は母の教育が悪くてタケルを引き籠もりにしたと責めた。タケルは自分がテーマになっている両親の闘いを聞いて育った。その中で彼がはっきり覚えているのは、母から息子を離れるという言葉を聞かなかったことだ。それは今でも不思議でならない。
 母の働くスーパーの前を走り抜けていた。走る彼のペースは落ちていなかった。疲れは感じなかった。
 20分後も彼は同じペースを維持してはしっていた。自分でも思いがけない体力に、マラソン選手が脚を鍛える練習をしている気分になっていた。これまでちょっとしたことにも疲れて、寝てばかりいた自分はどうしたというのだろう。不思議でもあり、自分には喜怒哀楽を感受する感覚が麻痺してしまったのではないかと不安になった。指で腕の一部をつまんで力を入れてみた。感覚がマヒしたように、痛みは全く感じなかった。しかしこの無感覚なのが正常の印なのかもしれないと、思い直した。前から幼い子供を自転車の前部に乗せて、若い母親が走ってきた。
「お兄ちゃんのレースに間に合うかなあ」
と母親が漏らした。その時である。聞かれもしないのに、タケルは自分から声を発したのである。
「やってますよ。走れ走れって叫んでましたから」
四年生の、百メートルレースよ」
母親が聴いてきた。タケルは中身などどうでもよかった。だから、答えになっていなくても平気だった。自分から他人に話しかけたそのことが、そもそもの異変だった。もう一度腕の筋肉をつまんで強く引張てみた。やはり痛みはなかった。
「ええ、僕も走れの声援に励まされて、走り出しましたから」
タケルは声を振り絞ってそういった。けれども母親の自転車は、声が届かないほど遠くなっていた。
 さらに走っていくと、新興住宅地に来ていた。まばらな建物の中から、歌声が響いてきた。学校でもないのに、何だろう。彼の体は、息切れを起こしながら、それが麻痺したようになっていた。だから疲れを全く感じなかった
「主の呼ぶ声がする」
という立て看板が目にとまった。バッハのカンタータが流れていた。そうか、ここは教会なのか。彼はそう呟いてみる。
 この先へ出ようにも、道がついていないのだ。彼は走るのをやめ、秋草の中に座り込んだ。

おわり