NPOな人

NPOの現状や日々の雑感などを徒然なるままにお伝えします。

かながわ県民活動サポートセンターの軌跡(奇跡)!?

2012年10月23日 | NPO
ある方から、「かながわ県民活動サポートセンター開設の経緯を教えて欲しい。
96年4月の開設だが、95年1月の阪神淡路大震災以降に考えたとすれば、あまりにも素早いので、それ以前からの構想や準備があったのだろうか。」というご質問をいただきました。

以下は、私の返信メールです。

かながわ県民センターは、以前は横浜地区行政センターや電算集中施設などが置かれてましたが、行政のリストラの影響でかなりのフロアーに空きが生じている状態が数年間にわたり続いていました。
当時は長洲知事の時代で、ここを県民プラザとして再編する構想がありました。確か、情報プラザ、健康プラザ、学習プラザ、ボランティアプラザで構成されていたと思います。

そうした中、95年4月に阪神・淡路大震災が発生、その年の4月に岡崎知事に県政のバトンタッチが行われました。
岡崎知事は環境省事務次官を退官後に私財を投じて(財)地球人間環境フォーラムを設立された方であり、ボランティア活動や市民活動に対する理解の深さは県職員が足元に及ぶところではありませんでした。

7月のある日、岡崎知事から突然、「県民プラザの全フロアーを市民活動の支援施設にするように」との指示がありました。この指示があったのは、従来から温めてきた県民プラザ構想を記者発表する3日前だったと思います。この3日間で、県議会などの根回しなどを全てやり直したのですから当時の県幹部は大変だったでしょうね。

・3日後に、県民活動サポートセンターの設置について議会に説明
・すぐさま、新しい施設の図面を作成
・9月の県議会で補正予算を通して、即刻改修工事に着手
・翌年2月の議会で設置条例の制定
・4月オープンというプロセスですから、あまりにも素早いというのはご指摘のとおりです。

それができたのは、
①県議会がオール与党だったこと
②ボランティア元年と言われるほどボランティア活動に対する社会の認識が高まっていたこと
③一等地の行政施設に大きな空きスペースがあったこと
④ボランティア活動や市民活動に対して理解ある知事が誕生したこと
⑤当時担当した県職員がNIRAの調査などにも関係しており全国区の人脈を有していたこと
などの奇跡的な幸運が重なった結果だと考えます。

私は、4月1日の人事異動で初めてあの施設に行ったのですが、何もない状態で唖然としました。開所式は4月20日、それまでは9階のフロアーは一切使えずに1階にある喫茶店の前に臨時のテーブルを置いて会議室の予約の受け付けをするような始末でした。
そんな状態ですから、開設準備といってもハード面の整備で手一杯、ソフト面は何一つ決まっていませんでした。ロッカーやレターケースは置いてはありましたが、どうやって使ってもらうのか誰も分かりません。決まっていたのは、年末年始を除いて年中無休、朝9時から夜10時までオープンということだけでした。

市民活動団体の中には、こうした施設を作るのに市民に何も相談がなかったことはけしからんという声が渦巻いていました。
私は苦肉の策として、「開設準備段階で皆さんに相談しなかったことは申し訳ありませんでした」「その代わり、この施設の使い方は利用者の皆さんと一緒に考えていきます」「真っ白なキャンバスに一緒に絵を描いてください」と呼びかけました。

不幸中の幸いというか、従来のように行政が青写真を描いて市民がそれに乗せられるということではなく、利用者にとってはここは自分たちの施設なんだという意識が強く芽生えたのではないかと思います。利用者が知り合いを連れてきては、自分でフロアーを案内して「ここって凄いだろ」と自慢するような光景が何度かありました。なにしろ、利用の手引きが出来たのはオープンしてから1年半後ですから・・・

開設数年間は、1年間の視察が100回を超えていましたが、どんなにお偉いさんの視察でも、電話を取ったものが案内まで責任を持ってやるというのがルールでした。

思い出すままに書いてみました。当時のスタッフは一匹オオカミの寄せ集めで梁山泊のような状態でしたからできたのですが、彼らには今でも感謝をしています。

コメント
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