無心

日記

雑司ヶ谷霊園

2011-09-17 17:33:24 | 日記
荻野吟子・男性医師に下半身を晒して診察される屈辱的な体験から、女医となって同じ羞恥に苦しむ女性たちを救いたいという決意により、
女医を志す.お茶の水女子大学の前身の一期生として入学.首席で卒業.医師の前・後期試験を受験し合格。同年5月湯島に診療所
「産婦人科荻野医院」を開業.34歳にして、近代日本初の公許女医となる。女医を志して15年が経過していた。
本所区小梅町に医院を開業し晩年を送る。1913年 肋膜炎にかかり、ついで脳動脈硬化により逝去した。62歳。


作家の佐藤紅緑の長男として生まれる。サトウハチロー、小説家・詩人・作家・1953年童謡集「叱られ坊主」を出版し、
翌年これにより第4回芸術選奨文部大臣賞を受賞。以後は童謡の詩作に専念し、1955年「ちいさい秋みつけた」を作詞、
1962年レコード大賞童謡賞を受賞。1963年NHK放送文化賞受賞。1966年紫綬褒章受章。勲三等瑞宝章を受章した1973年に心臓発作により死去


誠実に愛し、尽くした。泉鏡花・10才で失った母の鈴を生涯追慕し、師の尾崎紅葉を神格化するほどに仕えた。
芸者(すず)との結婚を紅葉に反対されたいきさつが小説「婦系図」に、新派の舞台で多くの人の泪を誘った


小泉八雲・父はアイルランド人、母はギリシャ人。アメリカで新聞記者などをしたあと来日して帰化、東大にて哲学の講師、
妻 節子との間に三男一女、東京帝国大学退職(後任は夏目漱石) 1904年3月早稲田大学の講師を勤め、9月26日に狭心症により
東京の自宅にて死去、満54歳没。松江時代に居住していた住居は国の史跡に指定される(ラフカディオ・ハーン、ギリシャ生れ)


羽仁もと子(理想を教育・出版で)キリスト教徒として、西池袋に新しい教育を目指して自由学園を創立。
当時の校舎、明日館(みょうにちかん)はフランス人の設計で国の重要文化財。雑誌「婦人の友」を創刊。
彼女の学んだ「明治女学校」には大塚楠緒子も通い、女医第一号の荻野吟子はその学校の校医。





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