上述してきました通り、鴻上慶次郎博士はスクワレンを筋肉注射する方法などで、結核他の諸病の治験治療を行われ、今次大戦開戦の少し前の時点で良好な成績を上げられました。
ところが間も無く我が国は戦争に突入し、戦争も末期に至ると東京は何度も繰り返し空襲に見舞われるようになりました。
当時、鴻上博士は四谷に開院されてそこに住まわれておられたのですが、運悪く空襲によって博士の医院兼お住まいは全焼されてしまい、貴重な研究データもその際ほとんど焼失してしまわれたのだそうです。
博士は、スクワレンが結核の治療薬として有効であることを確認され、その抗結核薬としての販売までをも考えられていたようです。
しかし、この空襲による長年にわたる膨大な研究データの焼失には非常なショックを受けられたようです。そして更には、戦後間もなくの抗生物質の出現ということが起こりました。そして、抗生物質が結核に対して優れた即効的な治癒効果を持つことが判り、このものが一躍脚光を浴びることなったのです。
したがって、このような事情から、スクワレンが結核治療薬として日の目を見ることは叶わなかったという歴史があるのです。
ところが間も無く我が国は戦争に突入し、戦争も末期に至ると東京は何度も繰り返し空襲に見舞われるようになりました。
当時、鴻上博士は四谷に開院されてそこに住まわれておられたのですが、運悪く空襲によって博士の医院兼お住まいは全焼されてしまい、貴重な研究データもその際ほとんど焼失してしまわれたのだそうです。
博士は、スクワレンが結核の治療薬として有効であることを確認され、その抗結核薬としての販売までをも考えられていたようです。
しかし、この空襲による長年にわたる膨大な研究データの焼失には非常なショックを受けられたようです。そして更には、戦後間もなくの抗生物質の出現ということが起こりました。そして、抗生物質が結核に対して優れた即効的な治癒効果を持つことが判り、このものが一躍脚光を浴びることなったのです。
したがって、このような事情から、スクワレンが結核治療薬として日の目を見ることは叶わなかったという歴史があるのです。