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青砥藤綱旧蹟についてNO33(南3)

2018-09-01 08:25:29 | 日記
 「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
「太平記」という書によると、青砥藤綱は、北条時宗、貞時の二代に仕え、引付衆(ひきつけしゅう)の役につらなつた者である。
その藤綱が、ある夜、役所に出かけるときに、あやまって十文の銭を滑川に落としてしまった。そこで藤綱は。五十文ものたい松を買いもとめて、やっとさがし出すことができた。
人々は、まことに小利大損なことをしたものよとあざ笑った。しかし藤綱は、「十文の銭はわずかであるとはいえ、これを失ってしまえば、天下の財産をそこなうことになる。五十文つかったということは、自分には損であっても、世の人々の役にたつばである。」と人々におしえたという。
この逸話は、此のあたりにてあった話であると伝えられている。
 (参考)
 十文の銭を求めて五十文の続松をともす
 表題の逸話を太平記の記事からとりあげることにする。
 ある夜のこと、藤綱は出仕し滑川を渡る折に、銭十文を川中に落としてしまった。わずかの金だからと一旦はそのまま通りすごそうとしたが、思い返し、急いで近くの店へ使いを走らせ、五十文の銭で続松を十把買い求め、遂に十文の銭を見つけ出すことができた。世の人が「小利の大損かな。」と笑ったが、藤綱は眉をひそめて、「さればこそ、御辺達は愚かにて、世の費えをも知らず、民を恵む心なき人なれ、銭十文は只今求めずば、滑川の底に沈みて永く失せぬべし。某が続松を買わせつる五十文の銭は、商人の家に止まって永く失せるべからず。我が損は商人の利なり、彼と我と何の差別がある。彼此の六十の銭、一をも失わず。あに天下の利に非ずや。」と語ったので、藤綱を笑った人々は、舌をまいて感じ入ったという。
 藤綱のとった行為は、今日的な判断からすれば、異論もあるかと思うが、当時の貨幣流通の実情と考え併せ、為政者の公私の弁別に論理を通している説話であることを思うと、鎌倉幕府政治の底流にふれる思いがするであろう。
 藤綱が出仕の途中のできごとというが、この東勝寺橋の奥には、東勝寺があるけれど出仕する役所があったとは考えられない。出仕の役所が執権の邸に近き所とすれば、この位置では。挿話は起こり得ぬことになる。あるいは、東勝寺に赴く用務を出仕と称しているのであるなら、うなずけることでもある。藤綱にかかわる逸話には、多分にできすぎた話として教訓めいた感じがつきまとうが、時代の理想をかいまみることができるのはたしかなことである。などという記述がありましたので、投稿いたします。

(青砥藤綱旧蹟の碑)

(碑のある周辺風景)