「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
鎌倉十の橋の一つである。建保元年(1213年)2月、渋川警部六郎兼守は、将軍家にむほんをくわだてたことの罪によって死罪の刑に処せられることになった。
兼守は、悲しみのあまり和歌十首をよんで、荏柄天神社の社前に献納したのであった。
その翌朝、将軍実朝は、これを伝え聞いて、ひどく心うたれて、兼守の罪をゆるした。兼守は一命を救われた恩に感じ、ここに橋を造って神徳への感謝をあらわしたと伝えられ、そのことからこの橋を「歌の橋」という。
参考
「渋川刑部謀叛の罪」
建保元年(1213年)2月、信濃の住人泉親衡という者が、源頼家の遺子の千手を奉じて、時の執権北条義時を亡き者にしようと謀り、和田義直・同義重(共に和田義盛の子)・同胤長(義盛の甥)もこの企てにくみした。渋川刑部六郎兼守もこのクーデターに参画していたが、事前に発覚して捕らえられ死刑に処せられることになった。兼守は愁歎のあまり、和歌十首を詠み荏柄天神社に奉納したところ、将軍実朝がこれを聞き知り、歌に免じて兼守の罪を許したという。
兼守は思いがけず命を救われ、その感謝としてこの橋をかけて、報恩のまことをあらわした。それ以来この橋は「歌の橋」と呼ばれるようになった。
「鎌倉十橋」
鎌倉には大きな川はないが、交通上の必要に応じて多くの橋がかけられている。その橋の中で、言い伝えを特にもつ橋、交通の要路にあたる橋十あげて、鎌倉十橋と呼んでいる。
「歌の橋」前述、「筋違い橋、「夷堂橋」、「乱橋」、
「逆川橋」、
大町の四つ角から、海の方へ少し向かったところにある。この橋の下を流れる川は、名越方面から南へ向けて流れて来たのに、ここで大きく屈曲して、流れの向きが北に変わる為、一見して水の流れがあたかも逆行するように見えるところから、この川が逆川と呼び、かかっている橋を逆川橋と呼ぶという。
「勝の橋」
扇ケ谷の寿福寺の前にある小さな石橋をいう。寿福寺の隣りにある、英勝寺開山の尼お勝の局がかけた橋であるとこから、この名があるという。「勝の橋」の標識とならんで、むかしの道しるべがあるように、この地点は交通路として大きな役割をもつところであった。今は、道路が舗装されてしまったので、橋の存在もちょっと気づかぬほどに変わってしまった。
「裁許橋」
「勝の橋」のある道を、南へまっすぐに九百メートルほど歩くと渡るのがこの橋である。橋の北八十メートルほどの三又路の角に「間注所旧蹟」の碑がたっている。この間注所で裁許を受けた者の中には、この裁許橋を今生の別れと切ない思いで渡った者もあろう。この橋を渡って、南へ三百メートルと歩かぬうちに、今も昔も変わらぬ繁華な大通りにぶっかる。ここが刑場のあったところで、今六地蔵が六道の巷に迷う亡霊に救いの手をさしのべている。
「琵琶橋」
下馬四つかどの一角にガソリンスタンドがあるが、その南に暗渠となっているところに、橋の面影をたずねることができよう。二十年位前までは、まだ橋の欄干が残り、擬宝珠の柱も見られたのだが、今は影をひそめてしまった。琵琶橋の名は、このあたりを琵琶小路と呼ばれてきたところによるのであろう。
「針磨橋」
この橋は別名「我入道橋」ともいう。この近くに針を磨ることをなりわいとする老姿(もしくは我入道という僧)が住んでいたことから、橋の名がつけられたという。
「十王堂橋」
横須賀線の北鎌倉駅表口を出て、鎌倉街道を右へ少し歩くと、山ノ内川という流れを渡る。その橋が十王堂橋である。十王堂がこの近くにあったためにこの名がつけられた。
詳しくは、2017年10月14日から2017年12月16日に投稿掲載してありますので、ご覧ください。
「杉本観音と杉本城」
歌の橋からさらに東へ坂をのぼりつめ、下り坂にかかった左手の石段の上に杉本寺がある。鎌倉にある古寺のうちで最も古く創建され、坂東観音霊場三十三札所の第一番になっている。寺伝では天平年間行基の開基というが、もちろん、頼朝が鎌倉入りをしたときにはあったので、頼朝は深く帰依して再建にも寄進をしている。
また、この観音の霊験をたたえての話であろうが、この寺の前を通るときは、かならず馬を下りて行かねばならぬ。下馬せずに行きすぎる者は落馬すると伝えられ、下馬観音の異名もある。
寺の裏山は、杉本城があったところで、三浦一族の出城として、杉本義宗がこの城をかためていた。三浦半島に大きな力をもっていた三浦氏が、半島の入り口にもあたるこの地に城を築き、三浦一族防衛の第一のとりでの役をはたしていた。などという記述がありましたので投稿いたします。
(詩の橋の碑です)
(二階堂川にかかる詩の橋)
(詩の橋の標柱)
鎌倉十の橋の一つである。建保元年(1213年)2月、渋川警部六郎兼守は、将軍家にむほんをくわだてたことの罪によって死罪の刑に処せられることになった。
兼守は、悲しみのあまり和歌十首をよんで、荏柄天神社の社前に献納したのであった。
その翌朝、将軍実朝は、これを伝え聞いて、ひどく心うたれて、兼守の罪をゆるした。兼守は一命を救われた恩に感じ、ここに橋を造って神徳への感謝をあらわしたと伝えられ、そのことからこの橋を「歌の橋」という。
参考
「渋川刑部謀叛の罪」
建保元年(1213年)2月、信濃の住人泉親衡という者が、源頼家の遺子の千手を奉じて、時の執権北条義時を亡き者にしようと謀り、和田義直・同義重(共に和田義盛の子)・同胤長(義盛の甥)もこの企てにくみした。渋川刑部六郎兼守もこのクーデターに参画していたが、事前に発覚して捕らえられ死刑に処せられることになった。兼守は愁歎のあまり、和歌十首を詠み荏柄天神社に奉納したところ、将軍実朝がこれを聞き知り、歌に免じて兼守の罪を許したという。
兼守は思いがけず命を救われ、その感謝としてこの橋をかけて、報恩のまことをあらわした。それ以来この橋は「歌の橋」と呼ばれるようになった。
「鎌倉十橋」
鎌倉には大きな川はないが、交通上の必要に応じて多くの橋がかけられている。その橋の中で、言い伝えを特にもつ橋、交通の要路にあたる橋十あげて、鎌倉十橋と呼んでいる。
「歌の橋」前述、「筋違い橋、「夷堂橋」、「乱橋」、
「逆川橋」、
大町の四つ角から、海の方へ少し向かったところにある。この橋の下を流れる川は、名越方面から南へ向けて流れて来たのに、ここで大きく屈曲して、流れの向きが北に変わる為、一見して水の流れがあたかも逆行するように見えるところから、この川が逆川と呼び、かかっている橋を逆川橋と呼ぶという。
「勝の橋」
扇ケ谷の寿福寺の前にある小さな石橋をいう。寿福寺の隣りにある、英勝寺開山の尼お勝の局がかけた橋であるとこから、この名があるという。「勝の橋」の標識とならんで、むかしの道しるべがあるように、この地点は交通路として大きな役割をもつところであった。今は、道路が舗装されてしまったので、橋の存在もちょっと気づかぬほどに変わってしまった。
「裁許橋」
「勝の橋」のある道を、南へまっすぐに九百メートルほど歩くと渡るのがこの橋である。橋の北八十メートルほどの三又路の角に「間注所旧蹟」の碑がたっている。この間注所で裁許を受けた者の中には、この裁許橋を今生の別れと切ない思いで渡った者もあろう。この橋を渡って、南へ三百メートルと歩かぬうちに、今も昔も変わらぬ繁華な大通りにぶっかる。ここが刑場のあったところで、今六地蔵が六道の巷に迷う亡霊に救いの手をさしのべている。
「琵琶橋」
下馬四つかどの一角にガソリンスタンドがあるが、その南に暗渠となっているところに、橋の面影をたずねることができよう。二十年位前までは、まだ橋の欄干が残り、擬宝珠の柱も見られたのだが、今は影をひそめてしまった。琵琶橋の名は、このあたりを琵琶小路と呼ばれてきたところによるのであろう。
「針磨橋」
この橋は別名「我入道橋」ともいう。この近くに針を磨ることをなりわいとする老姿(もしくは我入道という僧)が住んでいたことから、橋の名がつけられたという。
「十王堂橋」
横須賀線の北鎌倉駅表口を出て、鎌倉街道を右へ少し歩くと、山ノ内川という流れを渡る。その橋が十王堂橋である。十王堂がこの近くにあったためにこの名がつけられた。
詳しくは、2017年10月14日から2017年12月16日に投稿掲載してありますので、ご覧ください。
「杉本観音と杉本城」
歌の橋からさらに東へ坂をのぼりつめ、下り坂にかかった左手の石段の上に杉本寺がある。鎌倉にある古寺のうちで最も古く創建され、坂東観音霊場三十三札所の第一番になっている。寺伝では天平年間行基の開基というが、もちろん、頼朝が鎌倉入りをしたときにはあったので、頼朝は深く帰依して再建にも寄進をしている。
また、この観音の霊験をたたえての話であろうが、この寺の前を通るときは、かならず馬を下りて行かねばならぬ。下馬せずに行きすぎる者は落馬すると伝えられ、下馬観音の異名もある。
寺の裏山は、杉本城があったところで、三浦一族の出城として、杉本義宗がこの城をかためていた。三浦半島に大きな力をもっていた三浦氏が、半島の入り口にもあたるこの地に城を築き、三浦一族防衛の第一のとりでの役をはたしていた。などという記述がありましたので投稿いたします。
(詩の橋の碑です)
(二階堂川にかかる詩の橋)
(詩の橋の標柱)