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文覚上人屋敷跡についてNO22

2018-06-16 07:33:06 | 日記
 「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
文覚は俗世間にあったときは遠藤盛遠と言い、もとは京都の上皇の御所の警固役をつとめていたが、十八歳のとき、左衛門尉源渡(みなもとのわたる)の妻である袈裟(けさ)御前に思いをよせていたが、ある夜源渡と誤って袈裟御前を殺してしまった。
 盛遠は大きなあやまちに深く憎い、ついに出家して僧となり文覚と称した。
 文覚の修行はまことに勇猛であって、きびしい寒さ、ひどい暑さの中を草むらにやすんで夜をすごしたり、烈しく落下する滝の中に立って気を失い、死にかけるようなこともたびたびであった。
 養和二年(1182年)4月、頼朝の願いをうけて江の島に弁財天を祀り、ここに37、21日こもって断食して祈願につとめたという。
 此の地は、その文覚の居住のあとである。
 参考
 「文覚」
 平安末から鎌倉初期にかけての僧で、生歿の年はわからない。近衛校尉遠藤時遠の子で、上西門院の北面、院の武者所となった。
 京都神護寺の再興に努力し、後白河法皇に奉加を強要したことから罪せられて、伊豆に流されたが、そこで配流中の源頼朝とふれあう機会ができて、頼朝に挙兵をすすめたり、京都との連絡にもあたったという。
 頼朝の助力で神護寺の再興は果たしたが、その後、東寺の修理を発願したが、再び罪を得て佐渡にながさされ、また鎮西へ流されその地で歿したという。
 頼朝からは信任されて、江の島に弁財天を祀って奥州の藤原氏調伏の祈願を行なったり、材木座にある古義真言宗補陀落寺は頼朝が開基となり、文覚が開山している。
 文覚の荒行は、よく知られている通りで、極楽寺の成就院、前述の補陀落寺、大船の証菩堤寺には、文覚の荒行像と伝えられる木像が蔵されている。などという記述がありましたので投稿いたします。

(文覚上人屋敷跡の碑)

(前方文覚上人屋敷跡)