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勝長寿院旧蹟について NO23

2018-06-26 08:44:11 | 日記
 「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
 勝長寿院は、文治二年(1186年)源頼朝が亡き父の義朝を祀るために建てた院であって、別に南御堂とか大御堂とも言っている。
 此の地を大御堂が谷と言うのは、右のいわれによるのであって、実朝と政子も此の地に葬られたと伝えられているが、二人の墓は、今扇ケ谷の寿福寺にある。
 参考
 「大御堂」
 鎌倉時代からの諸記録によって、南御堂とも大御堂とも呼ばれていたことが明らかであるが、高柳光寿氏は、大御堂はどうも俗称であったらしいと言っている。しかし、南北朝時代以後は、大御堂というのが普通となっていた。
 「勝長寿院」
 勝長寿院は南御堂につけられた名であって、この堂の建立後に弥勒堂、五仏堂、三重塔などが建てられたとあるから、勝長寿院とは寺全体の名ではなかったのである。それがいつか寺全体を称する名となっていったのであって、今日の寺号とはちがうのである。
 頼朝は、父義朝に対する報謝の発願から、大蔵幕府の南東のこの地を相し、元暦元年(1184年)11月26日に地曳をはじめ、翌文治元年4月11日には柱立ての式を行なっている。この日、頼朝が式に臨んだその時、西海よりの飛脚が参り、義経が去る3月24日、長門赤問関の海上に平氏を討滅した旨の報告書一巻を進じた。頼朝はこの一巻を持ち、鶴岳八幡宮に向って坐し、感きわまって一言も発することができなかったと、吾妻鏡は、その劇的な場面を記録している。
 この年の8月30日には、亡父義朝の遺骨が京から鎌倉へと届けられ、頼朝は稲瀬川まで出迎えて、白装束にて義朝の遺骨をうけとり、9月3日に勝長寿院に葬ったのであった。二十年も前に死んだ義朝の頚をどのようにして尋ね出したかについては、多くの説があるが、今ここではそのいちいちをあげることを略す。
 その後、実朝や政子もこの境内に葬ったようであるから、勝長寿院は源氏の菩提所といえるであろう。従って忌日ごとの法会はいうに及ばず、奉納の名のもとに舞楽などを楽しむ遊興も催されたはずである。文治二年(1187年)5月、頼朝の長女大姫が、ここで静の舞を見ているし、正治二年(1200年)6月15日には頼家が一切経会を行ない、舞楽を奉納している。
 このように、源氏の菩提所として鶴岡八幡宮、永福寺とならぶ大きな寺であったので、その境内もおそらく、今の大御堂ケ谷の全地域に及ぶ広さであったと思われ、その寺域に弥勒堂、五仏堂、三重塔、一切経蔵、また南新御堂などがたち並んでいたのであるから、往時の寺のまえの大きさを偲ぶことができよう。
 「寿福寺の墓」
 碑に言う政子と実朝の墓も、確たる史料がなく、おそらくは、供養塔であろうというのが定説となっている。

(勝長寿院跡の碑)