「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
此の地は、願行上人を開山とする、五峯山理智光寺のあったところである。
建武二年(1335年)淵辺伊賀守義博は、足利直義の命令をうけて、護良(もりなが)親王の命をうばったが、亡くなられた親王の無念のこもった顔におそれをなして、その首を近くのやぶの中に置いて逃げ去ってしまった。理智光寺の僧がその首を見出して、近くの山上に葬ったという。
建立場所
参考「理智光寺」
五峰山理智寺が正しい呼び名であって、願行房憲静が開山した。この願行は、生年が不明であるけれど、泉涌寺の俊芿(しゅんじょう)(1166から1227年)の弟子で円満と号した。鎌倉に来て、この理智光寺のほか、大楽寺、安養院なども開山している。
この理智光寺の境内の中に、護良親王の首級を葬ったといわれるが、その地は今の護良親王墓所として、小高い丘の上に伝えられている。
南北朝のころまでは理智光寺といわれていたが、その後、扇ケ谷の浄光明寺が管理する寺となり、さらに江戸時代には、東慶寺の末寺の尼寺となったといわれている。
明治初年の廃仏毀釈の際に廃寺となってしまった。
今覚園寺にある鞘阿弥陀は、理智光寺阿弥陀堂の本尊であったものが移されたのである。
「護良親王」(1308~35年)
後醍醐天皇の息子で、比叡山の僧籍に入り、大塔宮尊円法親王と呼ばれたが、鎌倉幕府を攻め、北条氏を滅ぼす際には、僧籍を出て護良親王を名乗り、建武中興の実現後は征夷大将軍となった。
その後、足利尊氏と互に反目する仲となって、尊氏のために捕えられ、鎌倉に送られる身となってしまった。
鎌倉に下ってからは、尊氏の弟である直義の監視のもとにおかれ「太平記」によれば「二階の谷に土の牢を塗
ってぞ置き進らせける。南の御方と申しける上﨟女房一人よりほかは、着き副い進らする人もなく、月日の光も見えぬ闇室の内に」不自由な日々を送らせられた。
建武二年(1335年)7月、北条氏の残党が高時の遺子時行を擁して鎌倉に攻めて来た(中先代の乱)ときに、直義は、鎌倉を捨てて逃げるにあたり、淵辺義博に命じて護良親王を殺させた。そのときの模様を、太平記は次のように記している。
汝(淵辺義博)は我(護良親王)を失わんとの使にてぞあるらん。心得たりと仰せられて、淵辺が太刀を奮
わんと走りかからせ給いけるを、淵辺持ちたる太刀を取り直し、お膝のあたりをしたたかに打ち奉る。宮は半
年ばかり牢の中に居くぐまらせ給いたりければ、み足も快く立たざりけるにや、お心は、やたけにおぼしめし
けれども、うつぶせに打ち倒され、起きあがらんとし給いしところを、淵辺お胸の上に乗りかかり、腰の刀を
抜いてお首を掻かんとしければ、宮お頚を縮めて、刀のさきをしかとくわえさせ給う。淵辺したたか者なりけ
れば、刀を奮われまいらせじと、引きあいける間、刀のきつ先一寸あまり折れて失せにけり。淵辺その刀を投
げ捨てて、脇差しの刀を抜いて、まず胸もとの辺を二刀(二度)刺す。刺されて宮、少し弱らせ給うていに見
えけるところを、お髪をつかんで引きあげて、すなわちお首を掻き落とす。牢の前に走り出て、明き所にてお
頚を見奉るに、くい切らせ給いたりつる刀のきっ先、まだお口の中に留って、御眼猶お生きたる人の如し。
理智光寺の僧が、このお首を手あつく葬ったのが、今護良親王の墓として伝えられているのである。などという記述がありました。
「覚園寺の鉄不動と理智光寺」
文永年間(1264から1275年)の頃、この寺の開山である願行は、高野山の意教に教えを受けていたが、相模の大山にのぼって修行中に不動明王の霊験を受け、その姿をそのままに鉄造りの不動をこの理智光寺で鋳造したという伝えがある。「試みの不動」といわれているのがそれである。鋳造された鉄不動は大楽寺という寺の本尊とされたが、その大楽寺も廃寺となって、今は覚園寺の愛染堂に安置されているといわれている。などという記述がありましたので投稿いたします。
(理智光寺址の碑)
(「護良親王」(1308~35年)の標柱)
(護良親王墓所)
(鎌倉駅からの道)
此の地は、願行上人を開山とする、五峯山理智光寺のあったところである。
建武二年(1335年)淵辺伊賀守義博は、足利直義の命令をうけて、護良(もりなが)親王の命をうばったが、亡くなられた親王の無念のこもった顔におそれをなして、その首を近くのやぶの中に置いて逃げ去ってしまった。理智光寺の僧がその首を見出して、近くの山上に葬ったという。
建立場所
参考「理智光寺」
五峰山理智寺が正しい呼び名であって、願行房憲静が開山した。この願行は、生年が不明であるけれど、泉涌寺の俊芿(しゅんじょう)(1166から1227年)の弟子で円満と号した。鎌倉に来て、この理智光寺のほか、大楽寺、安養院なども開山している。
この理智光寺の境内の中に、護良親王の首級を葬ったといわれるが、その地は今の護良親王墓所として、小高い丘の上に伝えられている。
南北朝のころまでは理智光寺といわれていたが、その後、扇ケ谷の浄光明寺が管理する寺となり、さらに江戸時代には、東慶寺の末寺の尼寺となったといわれている。
明治初年の廃仏毀釈の際に廃寺となってしまった。
今覚園寺にある鞘阿弥陀は、理智光寺阿弥陀堂の本尊であったものが移されたのである。
「護良親王」(1308~35年)
後醍醐天皇の息子で、比叡山の僧籍に入り、大塔宮尊円法親王と呼ばれたが、鎌倉幕府を攻め、北条氏を滅ぼす際には、僧籍を出て護良親王を名乗り、建武中興の実現後は征夷大将軍となった。
その後、足利尊氏と互に反目する仲となって、尊氏のために捕えられ、鎌倉に送られる身となってしまった。
鎌倉に下ってからは、尊氏の弟である直義の監視のもとにおかれ「太平記」によれば「二階の谷に土の牢を塗
ってぞ置き進らせける。南の御方と申しける上﨟女房一人よりほかは、着き副い進らする人もなく、月日の光も見えぬ闇室の内に」不自由な日々を送らせられた。
建武二年(1335年)7月、北条氏の残党が高時の遺子時行を擁して鎌倉に攻めて来た(中先代の乱)ときに、直義は、鎌倉を捨てて逃げるにあたり、淵辺義博に命じて護良親王を殺させた。そのときの模様を、太平記は次のように記している。
汝(淵辺義博)は我(護良親王)を失わんとの使にてぞあるらん。心得たりと仰せられて、淵辺が太刀を奮
わんと走りかからせ給いけるを、淵辺持ちたる太刀を取り直し、お膝のあたりをしたたかに打ち奉る。宮は半
年ばかり牢の中に居くぐまらせ給いたりければ、み足も快く立たざりけるにや、お心は、やたけにおぼしめし
けれども、うつぶせに打ち倒され、起きあがらんとし給いしところを、淵辺お胸の上に乗りかかり、腰の刀を
抜いてお首を掻かんとしければ、宮お頚を縮めて、刀のさきをしかとくわえさせ給う。淵辺したたか者なりけ
れば、刀を奮われまいらせじと、引きあいける間、刀のきつ先一寸あまり折れて失せにけり。淵辺その刀を投
げ捨てて、脇差しの刀を抜いて、まず胸もとの辺を二刀(二度)刺す。刺されて宮、少し弱らせ給うていに見
えけるところを、お髪をつかんで引きあげて、すなわちお首を掻き落とす。牢の前に走り出て、明き所にてお
頚を見奉るに、くい切らせ給いたりつる刀のきっ先、まだお口の中に留って、御眼猶お生きたる人の如し。
理智光寺の僧が、このお首を手あつく葬ったのが、今護良親王の墓として伝えられているのである。などという記述がありました。
「覚園寺の鉄不動と理智光寺」
文永年間(1264から1275年)の頃、この寺の開山である願行は、高野山の意教に教えを受けていたが、相模の大山にのぼって修行中に不動明王の霊験を受け、その姿をそのままに鉄造りの不動をこの理智光寺で鋳造したという伝えがある。「試みの不動」といわれているのがそれである。鋳造された鉄不動は大楽寺という寺の本尊とされたが、その大楽寺も廃寺となって、今は覚園寺の愛染堂に安置されているといわれている。などという記述がありましたので投稿いたします。
(理智光寺址の碑)
(「護良親王」(1308~35年)の標柱)
(護良親王墓所)
(鎌倉駅からの道)