港の見える丘公園から、外人墓地の方向へと歩いていくと右側に、陣屋坂が見えてきます。「横浜の坂 著者 小寺 篤 発行者 今野繁光」によると、次のような記述がありましたので、投稿いたします。
陣屋坂の由来は、当時、一帯は陣屋町であったが、明治32年7月に廃止された。それでも坂の名だけは残っているのかどうか。とにかく陣屋という名称からは、何らか軍事に関係した施設が、そこにあったとしか考えられないのである。それは誰の陣屋であったか。
「陣屋」という言葉からは、なんか古いものが想像されるので、どこかの武将の陣営などが思われるのだが、徳川時代の本陣か代官などの屋敷がこの辺にあったという記録もないし、話しに聞いたこともない。ましてそれ以前のこのあたりに、軍事上経済上の価値があったことも考えられない。黒船が来航するころより海辺の警備が始まり、安政6年には横浜の警備担当が松平越前守、文久元年には、真田信濃守に変って、増徳院などがその宿舎にあてられたこともあったが、陣地とよばれるのは、日の出町の太田陣屋であった。とするとこれはやはり、元治元年の英仏軍隊の駐屯に関係しているのではないか。
浪人による居留地襲撃の風聞に対して、これを保護するという名目で、フランス軍隊はいまも名にのこるフランス山一帯を、イギリス軍隊は港の見える丘公園のところに陣地を設けてこれを北陣営と称し、いまひとつの南陣営というのを116番、ちょうどゲーテ座跡付近からかけての一帯を領して陣地とし、そこをもっぱら調練の場所にあてた。
その一画に設けられた建物群を人々が赤隊屋敷とよんだのは、イギリス兵のはでな赤い服装に奇異の眼をみはってのことである。これらの駐屯軍は、明治8年2月には交渉の結果引払うことになるのだが、その事実にかかわらせて、明治17年7月正式の町名をつけるにあたって「陣屋町」としたのではないか。しかし、坂の名はその前であったか後であったか、いまのところ調べがついていない。と云うような記述がありましたので、投稿いたします。
幅の広い道を3、4百メイトルほど下って行くと、左に折れて細くなり、ビヤ坂に繋がると云うような坂道でありましたので、追記いたします。
(陣屋坂の標柱)
(左に曲がり道が細くなる)
(ビヤ坂との合流点)
(噴水広場)
(ビヤ坂を上り切ると 港が見える丘公園に巡りあいます。)
陣屋坂の由来は、当時、一帯は陣屋町であったが、明治32年7月に廃止された。それでも坂の名だけは残っているのかどうか。とにかく陣屋という名称からは、何らか軍事に関係した施設が、そこにあったとしか考えられないのである。それは誰の陣屋であったか。
「陣屋」という言葉からは、なんか古いものが想像されるので、どこかの武将の陣営などが思われるのだが、徳川時代の本陣か代官などの屋敷がこの辺にあったという記録もないし、話しに聞いたこともない。ましてそれ以前のこのあたりに、軍事上経済上の価値があったことも考えられない。黒船が来航するころより海辺の警備が始まり、安政6年には横浜の警備担当が松平越前守、文久元年には、真田信濃守に変って、増徳院などがその宿舎にあてられたこともあったが、陣地とよばれるのは、日の出町の太田陣屋であった。とするとこれはやはり、元治元年の英仏軍隊の駐屯に関係しているのではないか。
浪人による居留地襲撃の風聞に対して、これを保護するという名目で、フランス軍隊はいまも名にのこるフランス山一帯を、イギリス軍隊は港の見える丘公園のところに陣地を設けてこれを北陣営と称し、いまひとつの南陣営というのを116番、ちょうどゲーテ座跡付近からかけての一帯を領して陣地とし、そこをもっぱら調練の場所にあてた。
その一画に設けられた建物群を人々が赤隊屋敷とよんだのは、イギリス兵のはでな赤い服装に奇異の眼をみはってのことである。これらの駐屯軍は、明治8年2月には交渉の結果引払うことになるのだが、その事実にかかわらせて、明治17年7月正式の町名をつけるにあたって「陣屋町」としたのではないか。しかし、坂の名はその前であったか後であったか、いまのところ調べがついていない。と云うような記述がありましたので、投稿いたします。
幅の広い道を3、4百メイトルほど下って行くと、左に折れて細くなり、ビヤ坂に繋がると云うような坂道でありましたので、追記いたします。
(陣屋坂の標柱)
(左に曲がり道が細くなる)
(ビヤ坂との合流点)
(噴水広場)
(ビヤ坂を上り切ると 港が見える丘公園に巡りあいます。)