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大丸谷坂について

2016-10-22 09:09:52 | 日記
 JR根岸線の石川町駅の出口を山手側へ出て行くと直ぐ郵便局の前へ入る広い道を突き当たると左へそして右へと云うように行くと、ゆるいカーブを描いている坂道が大丸谷坂である。「横浜の坂 著者 小寺 篤 発行者 今野繁光によると次のような記述がありましたので、投稿いたします。
 この道は殆ど、石川町駅と学校の間を往来する女子学生の占めるところである。その中に挟まって歩いて行くと、さまざまな話に囲まれて楽しめる。学生達もいま時なぜこんなところを歩いているのだといったふうに、こちらを無視してかかるので、話ははばかるところがない。
 大丸谷坂を上って行くと建物がそそり建ち、途中から草に埋もれた石の階段があって、それが旧大丸坂の姿であるのだろう。(現在はイタリア館へとつながっている)
 土方坂への分かれ道のすぐ下に、小さな地蔵堂があり、正面に一体と右横に一体の地蔵尊が祀られていて、今は、この地蔵堂が大丸坂の象徴でもあると思われる。そのことは、鉄柵の隅に建ててある碑文を見ると分かるので、その全文を写してきた。題して「大丸谷震災地蔵尊の由来碑」という。
 1923年(大正12年)9月1日午前11時58分、関東全域に亘って大被害をもたらした関東大震災は、震源地を相模湾の北西部あたりの海底と推測され、北海道から沖縄に至る地域でも人体に感じ、全世界の地震計に記録をとどめ、死者99,331名負傷、負傷者103,733名、行方不明者43、476名の大地震であった。
 当日、この付近一帯は、各所より発生した大火災により一面火の海となり、避難民は高台の安全地帯を求めて大丸谷道路を上山に向って殺到した。その数約300名、然し、下から吹き上げる火焔がものすごく。道路上は、怱ち灼熱地獄と化し、前進をはばまれ止むを得ず右手の崖を草の根につかまりつつ我先にと登り始めたが、後続の避難民は火焔にあふられ、熱さを耐えかね、つつじの灌木の中に身を伏せたりしたが、後方より迫る火勢の猛威には抗しきれず、遂に27名が二度と帰らぬ犠牲者となった。震災50周年にあたり尊き人命を失った方々の霊に対して改めて冥福を捧げるものであります。と云う事柄の記述がありました。
 また、この大丸谷坂を上り切る手前に右へ入る階段を上がって行くと、そこはイタリア館に出ます。更に。イタリア館の前の道をやり過ごし、直ぐ右に入いる急な石段の坂道が小坂です。下りて行くと地蔵坂へと出てまいります。

(郵便局のある道が大丸谷坂)

(大丸谷坂道の中間当たりの左方向へ入る道に地蔵さん)

(被災者の冥福を祈る地蔵さん 左奥が最初の地蔵右がその後地域の人々が祀った地蔵さん)

(最初からの地蔵さん)

(当時の震災被害等碑)

(途中にある大丸谷坂の標識)

(イタリア館前の道標)

(小坂の狭い階段路)