たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

幻でもよかったよ

2019-03-21 17:22:52 | Weblog
 よくネットで話題になる質問の1つ、映画「ドラえもん」で一番のトラウマは何か?と問われたら、俺は、1999年の「ドラえもん のび太の宇宙漂流記」の"眩惑の星"と答える。

 宇宙に漂流することになってしまったドラえもん達一行は、ある星に不時着する。霧ばかりの星なのだが、霧が晴れていくと、そこはなんと地球、いつもの裏山なのだ。それぞれ家族のもとに帰るが、本当は植物性の化け物達がのび太たちを搾取しようとして眩惑を魅せていたのだ。
 のび太は、地球で拾った星のかけらがお尻のポケットに入っており、座った時の痛さで現状の恐ろしさに気が付く。それをドラえもんや他の仲間に伝え、焦って、その星を後にする。

 命からがら帰ってきた宇宙船のなかで、スネ夫が「幻でもよかったよ!もう、こんな宇宙ばっかり、嫌だ!」と言う。
 初めてこの作品を観てから20年経っても、このシーンを最初に観た時のことが忘れられない。この世はすべてが眩惑の可能性があるのではないか?、ってね。

 この作品の面白い教訓は、眩惑かどうかは「痛み」でわかるということ。痛い想いをすることで、それが眩惑かどうか悟ることができる。
 この"眩惑の星"の本当に恐ろしいところは、映画のラストシーンで登場する。本当の地球に着いてからのシーンが、途中まで"眩惑の星"のシーンとまったく同一なのだ。しかし、のび太が先生に会い、テストが0点だったと分かったときに、「よかった」と地球であることを実感する。先生は「よかったとは、なにごとだ!」と怒るが、ドラえもんが「とりあえず、よかったんです」とフォローを入れる。

 そう、現実は、常に「痛い」。

 だから通常、誰も真実を知りたくないし、"考えすぎるな"と諭す。
 だから通常、目の前の幻が幻だと分かっていても、その幻が継続するように仕組んでしまうし、自分を納得させられるような言葉を自分自身に繰り返そうとする。
 だから通常、幻が醒めないための論理を自分のなかで大げさに構築し、その軸を大切に守りながら、急に真実の光を照らそうとする誰かを敵認定して、遠ざけようとする。

 俺は30代なので、あと50年、目の前のあらゆる幻が幻のままで終われば、御の字であろう。
 別に真実を観たいわけじゃない。あと50年ももたないであろう事柄かどうか、幻を作り出してくる元凶から体力を奪うことで見分けるだけだ。
 そう、幻を魅せてくるなかでも、元凶が忍耐力によって運営されて、俺に忍耐力以外の部分での搾取をしようとしている場合、霧を晴らすのは比較的簡単である。眩惑に問い続ければ良いだけだからね。振り返れば、その「搾取」でさえも、逆にこちら側からの幻であることが殆ど。そして、心から謝罪したくなる。

 本当に問題なのは、こちらの天賦の才と圧倒的な忍耐力を養分に、幻を魅せ続けてくるような場合。
 結果を出し続け、期待に応えれば応えるほどに、社会的にも認められていく。一生消えない業の深い称号すら誰かへの"媚び諂い"ゆえであったことに、世界中で誰も気が付いていないほどに、直向きさと純粋さの演技に関して窮めてしまっていたのだとしたら、、もはやそれは現実なのではないかと思うけれど、でも、自分だけは知っている。
 他人は「それでも、それで本当に実力がついているんだから、いいじゃないか」と言う。本当にそうなんだろうか?だって、眩惑ばかりのこの世の中で、手元に能力だけが残ることほど、虚しいことって他にないよ。

 目の前の期待していた眩惑に対して、痛みを感じることで現実に戻れれば、「とりあえず、よかった」となるだろう。
 その「とりあえず」は果たしてどれくらい続いてくれるのだろう?そして、生まれてからずっと眩惑を魅せられてきた事柄に、「とりあえず」は通用しないよね。

 "どちらがどのように眩惑を魅せられていたのか"は、いつだって不正確に認識される。
 奇跡的に成り立っていた眩惑を、才能の枯渇ではなく、痛みそのものが気が付かせてくれた。あの奇跡の眩惑から脱出するために、これまで何度も何度も、誰かを幻で魅了し、誰かを誹り欺き、誰かを利用し、誰かを傷つけた。

 そのことを、いつか許してほしいと願っている。だって、、そうじゃないと、俺は生きてこれなかったのだから。
 だからこそ今は、「幻でもよかったよ!」と声を荒げたいのかもしれない。
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季節外れの七夕パスワード

2019-03-19 22:07:40 | Weblog
 自分が穴に落ちていることに気が付かなかった反動は、長ければ長いほど、傷ついてしまう。
 ずっと、こんな気持ちだったんだろうなと思いながらも、きっと年齢の分だけ、俺のほうがラクだよね。

 掘り続けてしまった年月は、頑なに正しかった部分を残したがる。だって、掘りたくて掘ったのではなく、もともとは掘らされたのだし、掘らないと生きていけなかったのだ。
 これまで、どこ吹く風で軒端に揺れていた無色のイイワケが、急に五色に鮮やかさを放つ。「生きていくためには!」って俺自身のクズさを肯定化しながら、涙が溢れる。そう、、あらゆる嫌悪感のすべては、俺自身がそのやり方を取らざるをえない人生だったことを、決して自覚したくないから。

 深く深く穴を掘ることに慣れてしまうと、穴の中に舞い込む砂の対処に慣れてくる。掘った深さの分だけ自分は絶対に幸せなんだと思い込むことに、何の違和感も無くなっていく。

 これまで、何度も何度も投げかけ続けてしまった誤ったパスワードをスルーされながらも、思考力を限界まで使ったデコーディングだけは明確にヒットさせてくれた。あまりに完備にエンコーディングされてしまったその感情も、当然、誰のせいでもない。そうせざるをえなかったのだ。今ならはっきりわかる。

 深く暗い穴に囲まれていることを自覚した時、この自覚のキッカケを作ってくれた出会いに感謝しながらも、、パラパラと落ちてくる砂や石が、本当の意味で金銀砂子に感じるまでには、おそらくもっと時間がかかると思う。

 『ごめんね』と呟くと「なにが?」と確かに聴こえてきた。
 その無関心の優しさを一番に求めてきたのは、このどうしようもない絶望をどこかで自覚していたから?

 今だけは、このタイミングだけは、逆に、どうかパスワードを解いてほしいと思う。
 お願い。。その価値は、きっとあるはず。
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プロとは何か?

2019-03-11 21:35:13 | Weblog
 “プロとは何か?”と問われたら、あなたは、どのように応えるだろうか?
 “その道のプロ”などと言ったら、通常その仕事で生計を立てていたら、それで成立する。でも、果たしてそんなに甘い定義で良いのだろうか?単純に結果を出し、カネを稼ぎ、収益を上げたり、収益に貢献したりしていたら、それだけでプロなのか?と言われたら、俺は非常に怪しいと思ってしまう。

 なぜなら、それは、一過性かもしれないから。
 泡沫の業績や、何かのズルをした結果としての収益であるならば、それは経済力とは呼べず、結果的にプロとは呼べないのではないか?と思う。そう、ご存知の通り、多くの人を長い時間、誤魔化し続けることはできない。10人以下の極少数の人ならば長い時間、騙せるだろう。数年程度の極短い時間ならば多くの人を騙せるだろう。しかし、多くの人を長い時間、騙し続けることは原理的に不可能だ。プロとして業務や事業を行う以上、確かな実力が要求される瞬間が必ず来る。

 むしろ今はまだ、カネを稼げていなくても、収益を上げていなくても、具体的に貢献できていなくとも、未来についての確かな経済力があるほうが、特にこれからの時代は、生き残りやすいのではないだろうか?
 
 今日はそのような観点からプロの条件を考察してみようと思う。

 まず、プロの絶対的な条件は、自分の仕事について、「原理原則」を掌握していることだ。
 これは当然だと思われるかもしれないが、多くの人が、プロを名乗りながらきちんと意識できていないと俺は思う。なぜなら、この原理原則には、大きな枠組みの原理原則と、小さな枠組みの原理原則があるからだ。

 たとえばプロの理系研究者・学者を名乗るならば、自分の研究テーマ・研究分野についての原理原則に意識を向けていることは当然だ。ツールとして実験装置を動かせることは技術者としての側面として重要だが、それ以上に重要なのは、装置原理について一通り知っており、ある程度掌握していること。そして、それは往々にして物理学に行き着く。
 そう、自身の研究テーマや研究分野の原理原則だけでは留まれない、大きな枠組みとしての原理原則を掌握しなければいけない点はこの辺りにある。サイエンスという大きな枠組みとしての原理原則について、重要な事項は掌握していなければならない(知識として”知っている”レベルではなく、”掌握”していないといけない)。ましてや、俺が以前に掲げた「どの分野であれ、一つでもできなかったら理系じゃないリスト」の5つができないでプロを名乗るなど、笑止千万である。あれは、プロの理系研究者の最低ラインではなく、ただの理系としての最低ラインなのだから(そして、あれがすべてできたとしても理系じゃない可能性も十分にある)。

 実は、理系の各分野における原理原則については、把握すること自体は、とても簡単である。
 プロのうどん職人であるというためには、うどんの原理原則(小さな枠組み)と飲食の原理原則(大きな枠組み)の2つを掌握していなければならないだろう。それをFC展開しようと思うならば、FCの原理原則も掌握している必要がある。こういったことは、理系分野の種々の原理原則よりも、明文化されていない分、自分でやりながら構築しなくちゃいけないのだ。
 経理、各種スポーツ、芸術、伝統芸能、法律、国際関係、、世の中には様々な仕事があるが、どのような仕事のどのような分野にも原理原則が存在するだろう。車一つとっても、塗装からエンジン、エアバックに到るまで、有機化学や力学などの集積だ。もちろん、自分の専門以外についてめちゃくちゃ詳しい必要はないかもしれないが、知っていなくてはいけない、という緊張感は持っていないとプロとは呼べないだろう。

 たとえば他に、自分が経験しているなかで、少し近いものでいうと、営業や接客についての原理原則はどうだろうか?
 俺は、予備校で塾講師をしてた頃は、瞬時に、相手がABCグループの何に属するか?、を考えていた。それは、自分の生徒はもちろん、他の講師、他の生徒(自分の生徒と関係性がある場合)、親、教室長など、全部である。これは俺が仕事でコミュニケーションするなかで行き着いた原理原則である。途中から、これに加えて4タイプも考えていた。たったこれだけ意識するだけで、かなりコミュニケーションが取りやすくなる。もちろん、ただのアルバイトなので、”掌握していた”とまではとても言えないが、こういった原理原則を見出そうとしないならば、プロとは呼べないんじゃないかと思う。

 原理原則の他に重要なのは、「歴史」だ。
 その仕事のプロであるならば、その仕事の歴史について、詳しく知ろうとしていなければいけない。

 たとえば、プロの科学者であるのに、占いに敬意を払わないのは、歴史を勉強不足である。
 現代科学はすべてニュートン力学に通ずる。そのニュートン力学の形成に欠かせないのはケプラーの法則であり、デンマークの偉大な占星術師ティコ・ブラーエの膨大な観測データがなければ発見できなかった。ある意味、我々が科学と呼んでいるものは、占いから出発しているとも言える。
 そして、一神教であるキリスト教の影響も多分にある。科学は再現性を神とした一神教であるが、これはキリスト教の影響だ。もちろん、信仰は個人の自由であるが(俺自身、科学教ですので笑)、プロの科学者ならば宗教には敬意を払うべきだと俺は思う。

 2020年東京オリンピックに関わる人も多いだろう。そういった仕事をプロとして行いたいならば、古代ギリシャで古代オリンピックがどのように出現し、どのようにして衰退していったか?に興味を抱くはずである。そして、現代オリンピックがどのように復活したのか?も。
 プロの数学の高校教員であれば、戦後から今日までの高等学校の数学の範囲について、変革は知っておくべきだと思うし(教員免許しか持っていない俺でもある程度は把握している)、国際関係で仕事をしているならば、世界史に興味を抱くはずである。

 「原理原則」と「歴史」に執着していること。これらが、プロであるための必要条件であると思うのだ。

 あくまでも必要条件なのだが、、こんなことを真面目にやっている社会人など殆どいない。言っていることは正論である気もするが、こんなことに執着していては、周囲から取り残されてしまうんじゃないかと思うだろう。

 実は、誰もプロなんかじゃないのだ。

 そう、残念ながら、多くの人は、原理原則など考えてもいない。ただ、目の前のモノに反応しているだけだ。それは努力ではないし、ましてやプロとしての行いではない。
 そう、残念ながら、多くの人は、歴史のことなど考えてもいない。ただ、現在の需要に最適化しているだけだ。それは努力ではないし、ましてやプロとしての行いではない。

 知ってる?「must」と「should」は、人のやる気をとことん低下させる。この記事には、これらの表現が満載だ。「何かを始めよう」「やる気を出そう」と思った人に対して、この記事は、不利益すら齎らすだろう。
 どう?そうだったでしょ?きちんと読めば読むほど、イライラしたでしょ?

 俺が言いたいことは、「プロであるためには、こうじゃなきゃいけないんだ!!」などという低俗なことでは決してない。
 仕事上においてなんて、プロでなくてもいい。プロ意識なんて、何の役にも立たないし、何の意味もない。

 そんなことよりも、俺自身と、俺の周囲にいてくれる大事な人には、人間としてのプロであって欲しいと願う。
 人間としての原理原則とはなんだろうか?それは、その系をほんのちょっとでもより善くしようとすること、だと俺は思っている。そして、その履歴(歴史)こそが、その人の人間性を描像する。

 どんな系でも問わない。世界全体のうち70億分の1だけ、より善くしようとすれば良いと思うのだ。

 ・・・という、このページの十八番である、論理どんでん返し回でした。笑
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32

2019-03-09 12:38:09 | Weblog
 32歳になりました。
 31歳を終え、個人的に、次の素数がくるのが37歳かよ、、と。

 毎年毎年、あぁまた歳を重ねてしまった、、っと思いつつも、3/9という早生まれ特有の発想で、みんなが32歳になってるので、これでもかなり安心して32歳に入っていけるのよね、と思っていたりします。

 31歳は、本当に色々変化が大きかった1年でした。
 日本で一般就職して、その就職の仕方も今までとは全然違うやり方だったし、、で、いま、いろんな人の協力のおかげで、研究環境が整いつつあるのが、とても嬉しく思います。やっとだけど、実験も始めることができたしね。
 一時期、何のために研究を続けたら良いのか見失っていましたが、今は目の前のできることをやるしかないかなぁと思っていたりします。そのうえで、より根源的なテーマを、もう少し模索していけたらと思っています。やっぱり死にたくないので、人が死なないようになるまでは研究を続けないとね(笑)。

 32歳の1年間をどういう風にしたいかは、まだまだ纏まらないけど、、でも少なくとも言えるのは、どんなに変わっても、どんなにカワラナイのでも、胸を張って誠実に生きていたいと思う。そして、自分がいることで、ほんの少しだけでも系が善い方向になったらいいなぁと願っています。

 また、ここから、すごく楽しくなると思うし、有意義になると思う。
 それを確信できることがすごく嬉しい。
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