たかはしけいのにっき

ミネソタ大の博士研究員が書く日記です。

あの頃の未来

2017-05-30 23:02:09 | Weblog
 そもそもが別れからの出会いであったことから、二人がいずれ気持ちのうえでも離れてしまうことは必然なのかもしれない。
 悲しみっていつかは消えてしまうものなのかなぁ。かつての面影をどうにかどこかに見出し続けようとする自分の惨めさなんかよりも、いずれこの痛みを忘れてしまう自分が悲しい。

 普通になりたかった君と、普通から逸脱したかった俺。あの頃、ベクトルは違えどちょうどいいところで意気投合していた心情は、それぞれの目標が達成されると同時に消えてしまったのだ。
 「何が大切なことなのか?」と寝る間も惜しんで語り合った日々を、終状態の解釈で淀ませてしまうことを必死で押し殺す。事実は解釈次第で、善くも悪くもなる。だってあの頃、俺らで描いた理想は、幻想ではなくホンモノだと信じている。
 でも実際、つまらない常識など潰せると本気で思いながらも、結局二人で行動したことは少なかった気がする。むしろ、あれから、それぞれで自己実現に向かってからのほうが、お互いに、いくつかのつまらない常識を、ほんの少しだけ潰せてきた。

 君を奪っていったものは、その"常識"そのものかもしれないし、あの頃俺らで信じていた何か以外の何かかもしれないし、純粋さの委託かもしれないし、単純な忙殺かもしれない。圧倒的に神聖な場で、誰かの声に気がつきながら身を潜め合った仲間たちが君とともに変わっていく一方で、俺だけは、あの頃のまま変わらずにいる。それを、"上手く行っている"だとか"報われていない"だとか表現したがる君は、もはや俺が話していた君ではなくなってしまったのだろう。
 そんな言葉を心のいちばん奥でから回りさせ続ける一方で、俺が君に話した言葉はどれほど残っているのか?と問いたくなる。「もう、これ以上、教えてあげないっ」と悪戯っぽく言ってみても、きっと「いや、忙しいし」と返されるであろう返答を憂いで、深くついたため息は少しだけ、白く残って消えた。

 この切なさも、新しい信頼関係の中で、新しい集団と新しくものづくりを始めながら、笑い合うことで安心感を得て、払拭されてしまう。
 このままどこまでも日々は続いていくのかなぁ。ホンモノだった思い出だけを胸に、雲のない星空が続く向こう側の明日へ駆け出そう。今の俺らのものづくりを待つ人のために。

 また、いつか、会うことがあれば、あの頃の未来にむけて、俺はいつでも走り出そうと思う。

Suga Shikao x YUI 夜空ノムコウ


 (この曲を、アカペラで色んな場所で沢山歌っていた時期から、もう10年も経つことに驚いている。
 あらゆる人が唄っているこの曲。スガシカオとYUIのコラボの夜空ノムコウも好きだ。おもいっきり唄わない、"何気ない雰囲気"がこの曲にはよく似合う。この曲のサビはハモリを目立たせないようにするのが難しいのだが、YUIは強弱をつけて上ハモをさらりと唄っているし、スガシカオの下ハモ(正確に言うと、上ハモのオクターブ下)も、存在感は薄いのだがしっかりと主旋律を支えている。だから好き。
 10年前、これを歌唱力でおもいっきり歌おうとしてしまっている自分のリードボーカルの音源を聴くと、あの頃に比べれば今はあらゆる価値観が得られたんじゃないかと思う。あの頃の未来に、僕らは立っているのかなぁ)
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新・研究室の選び方 - 学生もポスドクも海外でも『このラボだっ!』と決めるその前に -

2017-05-25 00:35:29 | 自然科学の研究
 私のページで初めて「研究室の選び方 -『このラボだっ!』と決めるその前に-」を書いてから5年弱が過ぎました。
 これまでに5万PV以上は稼いでいるこの文章ですが、5年も経つと、時代の変化や私の経験などから、全面的に変えたくなってきまして、今回、改めて、研究室の選び方について書いてみようと思います。以前のものも参考になるとは思いますので、そのまま残しておきます。是非ご覧ください。

 今回は、理系の、学生とポスドクを対象としたいと思います。さらに、国内外問わず、研究室選びについて成り立つであろうことを書いていこうと思います。

 私自身は、以下のような分野の研究室を選び、研究室を変えてきました。正式に所属した研究室は5つです。

 卒業研究・・・物性理論(量子多体系の理論)
 修士課程・・・生物物理学
 博士課程 ・・・生物有機合成化学
 博士号取得後1(特任研究員)・・・脂質生化学
 博士号取得後2(ポスドク、海外、現在)・・・Protobiology

 物理2つ、化学1つ、生物1つで、現在のところが化学と生物のちょうど間くらいです。それから物理学科的に分けると、理論1つ、実験3つ、修士のところが実験と理論が半々くらいのイメージでした。この他に、共同研究などでは、生き物を使った生物物理の研究室とかなりの時間関わっていました。どの研究室も、今となっては所属して良かった、と心から思っていますが、、実際には本当に色々ありました(現在進行形?笑)。
 実体験としてですが、私以上に幅広い範囲の研究室を(実際にちゃんと所属して)見てきた人を私は知らないので、以下、役に立つ内容があるかと思います。また、2015年の秋から、研究室関連の相談メールも一般に募集していまして、主に大学院生・学部3,4年生の皆様から計150件以上のメールを受け取っております。そのすべてを考慮して以下を書きます。では、前置きが長くなりましたが、スタート。


 1. 流行を追うな!流行は作れ!

 今回、これを書直そうと思った一番の理由は、この一言を絶対に言わなくちゃいけないと思ったから。今の時代、この視点がとても大事です。
 現在、研究社会では、(完全に正しくはないけれど)キャッチーな言葉を使うことで、研究費を獲得したり、NatureやScienceなどのインパクトファクターの高いジャーナルで論文を出版したり、ホームページでアピールしたりすることが横行していて、サイエンスの本質が見失われつつあります。

 そんなキャッチーな言葉が輝かしすぎて、飛びつきたい気持ちはわかりますが、流行にのってはいけません。実際にそのような色が強い研究室に入ってみると、ただ同じ作業をひたすら繰り返させられるだけ、ということはよくあります。先生が(学内や学外で)かなりの有名人で、実情は、その先生の手となり足となる可能性が高いわりに、学生にもポスドクにも人気だったりします。でも、研究室やめたい関連の相談メールでも、必ず一定数あるのが、有名っぽい先生の研究室の方からです。

 あなたが研究者志望なのだとしたら、流行は自ら作ろうとしましょうよ。そこの研究室に行って、そこの研究室のPI(Principal Investigator、研究室のトップ)を超えられる自信がありますか?流行にのって、他人任せにして、ゆくゆくは自分で研究者としてやっていけると思っているのだとしたら、それは少し甘いと思います
 あなたが修士で卒業して就職するのだとしても、大して興味が無いのに流行りの分野を選んでしまうと、有能な(いや、とにかく作業だけはやたらにこなせる)ライバルがめちゃくちゃ多く、研究室へのモチベーションが下がっていってしまい、就職に有利とは言えないかと思います。

 5年すれば、いえ、今の時代、1年でも、流行は変わってしまう可能性が高いものです。
 自分にとって、何が学びになるのか?を考えながら、研究において流行りを追うのはやめましょう。(どうしても超人気の流行の研究室に行きたい場合は、最低限、その分野がどのようにして発生したのか?という歴史を調べてみてくださいね)

 2. その後の可能性が広い研究室を選べ!

 実はこれは1を逆に言っただけ。
 つまり、まだ流行ってはいないけど、これから自分が参入することによって流行らせることができる分野に行け!ということです。そのためにはベースとなる研究スキルを身につける必要がありますので、(特にはじめは)より可能性が広い研究室を選ぶことをおすすめします。

 具体的に言います。
 たとえば、あなたが最初に研究室を選ぶ場合で、実験と理論で迷っているなら、理論研に行くことをおすすめします。理論から実験には行けるけど、実験から理論には(なかなか)行きにくいからです。すでに理論の経験があり、理論研と実験研で迷ったなら、理論研よりも実験研に行きましょう。理論は極論PCがあればできますが、実験は高額な実験装置が無いとできないからです。だって、理論の経験がすでにあるんでしょう??
 さらに、たとえば、卒研か修士で、物理と化学の研究室で迷ったら、物理の研究室に行くことをおすすめします。同様に、化学と生物の研究室で迷ったら、化学の研究室に行くことをおすすめします。これらも、物理→化学→生物は移動として可能ですが、逆は(ほぼ絶対に)不可能だからです。
 はっきり言いますが、要求される思考力レベルが高い順で行くと、素粒子理論>物性理論>素粒子実験>物性実験>>情報科学>>>無機化学>有機合成化学>>生化学>分子生物学です(もちろん、各分野によって多少違いはでてきますが、このイメージはそんなに外してはいないはずです)。思考力さえあれば、あとは"慣れ"の問題ですから、あとから下にいく分には大丈夫ですが、上にいくのは大変です。気をつけてください。

 なるべく、その後の自分にとって、可能性が広い研究室に行きましょう。
 特に研究者志望の方はご注意ください。今後、大学の分野編成は驚くほど急速に変わってしまうことが予想されます。ですから、いきなり最初から「私はある生物種だけしか扱えない」というよりは「私は多体系なら扱える」のほうが良いと思います。

 3. 海外でも、正式所属前に、必ず一度は研究室を訪問しよう!

 百聞は一見にしかず。Seeing is believing。
 日本の文化と西洋の文化は違いますが、この2つは同じことを言っています。そして、これほど善く言った名文句もないでしょう。

 訪問しても研究室選びに失敗したぁというのは、それなりによく聴く話です。ですが、これはマズったなぁという研究室選びをしてしまった人は、かなりの高確率で事前に研究室を訪問していません。コネがあっても、知ってる先生でも、必ず一度は所属前に、その研究室を訪問してください

 私は、海外でも、行く可能性が高い研究室には実際に行くことを強く勧めます。私自身、行く可能性がかなり高い海外研究室に、見学のためだけに行きました(2つも)。海外でも、と書きましたが、逆で、海外だからこそ絶対に事前に一度は訪問しろ!というのが正しい。だって、ただでさえ知らない土地ですよ?絶対に行ったほうが良いです。
 いま所属しているミネソタへは、1週間の滞在で10万円(航空券(アメリカン航空)往復5万円+ホテル5万円)くらい。むこうは「事前にinterviewに来なくても良いですよ、もう採用するから」と言っていましたが、私から「いや、事前に絶対見たいから見せてくれ」と言いました。情報化社会になって、工夫して旅行会社に訊きまくれば、航空券はかなり安くすることができます。さらに、Airbnbを利用すれば宿泊代もかなり抑えられます。現地での移動もUbarを使って安く効率的に動きましょう。自分が1年以上はいる環境を選ぶのにあたって、悪くないコスパだと思います。決してコスパが良くはないですが笑、まぁ半分は旅行だと思って。

 狙っている研究室がかなり遠い場合は、旅費を半分出して貰うのを打診してみるのも良いです。が、実際見てみたら微妙だったけど、半分出してもらったから、ぜったい行かなきゃなぁーとなっちゃうかもなぁと予想するくらいだったら、全額自己負担で行ったほうがいいですよ。まぁ、半分は旅行だと思ってください(2回目笑)。

 4. 若すぎる先生、年寄りすぎる先生に注意しましょう

 これは、どうしても、統計的にとしか言いようがないのですが、若すぎたり、年寄りすぎたりする先生が主宰する研究室からのトラブルをよく聴きます。もちろん、これだけで、その研究室に入るのはやめる!と決めるのはもったいないですが、、若くして研究室をもたれている理由、定年後も何らかのカタチで研究室をもたれている理由は、単純に「超有能だから」とも言えないのが現状だと思います(当然、そういう人もいますが少数だと思います)。それなりに、理由があることもありますから、よく見極めてください。

 まず、PIの先生がとても若い場合は、実は(研究室のHP上ではあらわに見えていない)上の先生がいて、その先生に対して超従順な振る舞いをしているからこそ若くしてそのポジションにいる、ということも多々あります。その上の先生がいるからこその、その若い先生って感じで、そこの研究室に所属すると、どうしても(天界からの笑)理不尽な命令が多くなります。若いとどうしても「話しやすそう!」と思って選びがちですが、その若い先生は、あなたが「気難しそう」と思って無意識に外したおじさん連中の中で、上手に信頼をとっている曲者の可能性も高いのです。
 そして、定年後の先生の場合は、かなり政治力学的に高位に行き過ぎて、その立場をやめられなくなっている場合があり、全然指導してくれない等のケースがあります。ゆとり以下の世代とは価値観が合わないことを前提に付き合っていく必要があることが多いですから、ここも上手く見極めてください(なかには本当に懐の深い先生もいらっしゃいますが)。

 ですから、その学科、その専攻で、一番若そうな先生と一番年齢がいってる先生の研究室を選ぼうとする場合に関しては、きちんと調べてみることをおすすめします。

 5. 失敗を恐れるな!

 最後に、全部ひっくり返しますが、、あまり選びすぎるな!ということを言っておきます。

 最近の若者は(とか言い出すと、俺もトシなのよねぇ笑)、あまりに「とにかく絶対に失敗したくない!」という気持ちが強すぎる印象があります。まぁそれは、ネット社会で、これだけ多くの情報が溢れていますから、何か間違えると「えー、このサイトみてなかったの?なんで知らなかったの?」となることが多いので、仕方の無いことなのです。
 A店よりもB店のほうがコスパがいいことは、ネットできちんと調べれば確かにわかります。上にも書きましたが、航空券一つとっても、"とにかく安く、でも安全に"は、情報を集めまくれば達成できてしまいます。あなたたちが、(成功したいというよりも)絶対に失敗したくないという気持ちが強いことは、私もよくわかるつもりです。

 しかし、よく考えてみてください。世界中に研究室はどれだけあるでしょう?全世界、大学の数だけで約2万もあります。各大学が20個しか研究室を持っていなかったとしても(そんなに少ないわけがないですが)、40万です。おそらく現実的に、関連する分野や行ける可能性のある研究室だけでも、1000は簡単に超えると思います。1つの研究室に1時間かけるとしたら、1000時間です。1日の実働時間が8時間だとすると333日。研究室選びだけにそれだけ使うのは勿体無くないですか?国内だけに絞っても・・・(あとは自分で考えてみて笑)。それだけの研究室の中から、ベストフィットを探すことは原理的に不可能です。近い将来AIに頼めるかもしれませんが、だったら、いま、このページを読んでないでしょう??
 だから、ある程度のところで納得することもとても大事です。私自身、一時期は、あー失敗したなーと思うことも確かにありました(何度も笑)。でも、今はどの研究室でもそれなりに学びがあって良かったなぁと思えます。

 多くの人から信頼を失いつつあるサイエンスは、極論どこに行っても、オワコンではあります。もう、殆どの人が、サイエンスが発展することで幸せがもたらされる、とは考えていないでしょう。ですから、どんな研究室を選択をしても、あなたが理系に行った時点で失敗をしていると思うような人も沢山いるのです。それでも私たちはサイエンスを楽しもうと思って研究室を選ぶわけですよね?だったら、あまり深刻に悩まなくてもいいじゃないですか。
 どんな所に行っても何かを吸収してやる、という気概が欲しいですね。そして、どうにかその研究室で楽しんでやるって。失敗は必ずいつか成功に変えられることを信じてください。

 コレはおすすめなんですが、、実際に事前に訪問してみて、研究室の帰り道のキャンパス内で、目をつむってみましょう。そこで、近い未来、そこに毎日通う自分の姿が想像できたら、その場所から多くのことを得ることができると思いますよ。実際、私は、(研究室選び以外でも何かや誰かを選ぶ時は)これを必ずやります。


 というわけで、5つ、挙げてみました。いかがでしょうか??
 これから研究室を選ぼうとされる皆様の参考になれば幸いです。

 「研究室の選び方」や、その他研究室での悩みについて、私に直接相談したいと思ってくださる場合は、相談内容を明記の上、こちらにメールしてください(_attoma-ku_を@に変えて送信してください)。基本的にどんな相談もお受け致します。匿名で構いませんが、所属や名前を仰ってくださったほうが、相談にはのりやすいです。相談内容は決して口外しませんのでご安心ください。
soudan.atamanonaka.2.718_attoma-ku_gmail.com

相談メールについて詳しく知りたい場合はこちらをご覧ください。相談を受ける上で俺が守るべきルールを書きました。

スカイプでの相談もはじめました!ネットでは絶対に書けない裏事情を含め、スカイプであれば、無料で真摯に迅速かつ最大限論理的に、あなたの相談にのります!!私がこれまで実際に接してきた研究分野(物理学、化学、生物学、情報など)や見聞きしている領域、内情を知っている研究室についても、できる限り詳しく回答します。ご希望してくださる方はお気軽に上のアドレスまで、あなたの本名をお書きの上、メールしてください。私から相談可能時間とスカイプIDを送ります。皆さんの相談をお待ちしております。
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新たな時代への神器

2017-05-21 02:58:59 | Weblog
 研究の世界では、政治力学的であることと科学的であることを混同する者が後を絶たない。
 この疲弊しきった世界では、個人のなかに上司を神とする信念の割合が大きすぎるわりに、政治家らしい側面よりも研究者である側面を強調したがる故、そのような混同が起きる。科学的であるということは、再現性を軸とした論理構造と、その論理構造を再現性によってさらに精緻にしていくことができるということを信じることである。決して、有名な人や権威がある人や、多くの人から「信用できる」と評されている研究者を信じることではない。この混同を解くことこそが、科学としてのスタートであるし、個人としてのスタートでもある。

 しかしながら、科学的である側面がある一方で政治力学的な側面があり、その両者の考え方が自分のなかで矛盾し続けるのは構わない。構わないどころか、とても良いことかもしれない。人は矛盾する生き物だからである。むしろ、この矛盾の存在と向き合うことをせず、無理矢理な近似を使いながら、二つの考え方がともに解けているのだ!と勘違いするほうが問題である。その短絡的な考え方が、引用数が多い論文やIFの高いジャーナルこそが(科学的に)優れているはずだ!等の勘違いを起こすのである。
 だから、個人の主義主張の中の思想と思想の矛盾についての追及が厳しい社会もまた、あまり良いとは言えないのではないかと思う。それは犠牲者を出すことを前提とした進捗へと繋がっているからだ。

 あらゆる価値観が個人のなかに沢山宿っていて良い。それらを無理矢理に繋げる必要も無いし、純粋さも不純さも、共存できうるのである。ある価値観の側面が、別の価値観を高めることだってある。だから、不純な気持ちで貫こうとした発想が、そのまま最も純粋な心に繋がっていることだってある。
 にもかかわらず、「○○は、どーせこうだから」と、誰かに何かのキャラ付けを無理矢理託すことは、自分たちの持っている何かの感情の総和を、たった一人(たった一つの集団)に押し付ける行為であり、そのガンさえ取り除けば世界はより良くなるという、間違った信念に基づいている。

 本当の意味で純粋さだけを抽出したいなら、それを持ってして、何かをより善くしたいなら、個人個人に立ち返らなければならない。
 誰が不純であるかを考え、その人を排除すれば良いという短絡性は、確実に破滅に向かわせる。それと同じように、誰かを革命家だと決めつけて世の変化を任せたり、誰かは絶対に正義であると決めてしまう短絡性も危険なのだ。

 新たな時代へのカギとなりうる神器は、必ず、矛盾し合ういくつかの価値観が共存した心のなかに存在する。多くの人は、新たな発想とは、たった一つの純粋な価値観を突き詰めた先にあると勘違いして、ピュアな場所ばかりを探そうとしてしまうが。。

 あらゆる価値観を認めようと、そう口で言うのは簡単である。
 重要なのは、自分の中のあらゆる価値観の存在と可能性を認めようとすることなのではないか?と俺には思えるのである。
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過去形ホンモノの意義

2017-05-16 00:11:47 | Weblog
 すれ違いで、何か実質的にめんどくさくなっても、気持ちさえ分かり合えてしまえば、寄り添うことができる。
 逆のほうが遥かに問題で、実質的に型にははまるけど、気持ちが何も分かり合えていないと、最終的に溜めてしまったリスクが突然暴発することがある。

 パラメータやステータスがピタっと合致することを善しとすることがあまりにも多い世の中、気持ちの豊かさと共鳴性が失われつつある。誰に褒められたいのか?誰に一番好かれたいのか?誰を好きで、誰が嫌いで、どんなことをくだらないと思っていて、どんなことを大事に思っているのか?この観点を、マジョリティに流されないようにするために、私たちは真面目に勉強をしてきたはずなのに、結局、お勉強界のマジョリティに従ってしまうのだとしたら本末転倒なのに、それに陥る人があまりにも多い。だから、「再現性」ではなく「論文」や「先生」を神にしたがったりして。
 「たとえ世界を敵に回しても」という極限状態をいきなり想像しなくても良いとは思うけど、「どんな人だったら、わざわざ世界を敵に回さなくても、一緒にやっていけるだろうか?」ということを大前提にしてしまっているような態度だったら、ホンモノなんて掴めるはずがないじゃないか。

 周囲の考えや、それを考慮しているであろう相手の判断もすべて引き算して、本当の気持ちだけを抽出しようとしたときに、その抽出法が確かであると賭けられるかどうか。そこにどれだけの時間を費やせるかどうか。
 何が必要で、何が不要で、何が無難で、何が危険が高いか?をまず考えるのではなく、どんな気持ちを持っている人(たち)と一緒にいるべきかどうか?という観点で集団を選んだとき、初めて集団から本当の意味での実力を与えられるのである。よく「東大では優秀な友人が得られる。これこそが一生の宝だ」という人がいるが、これはとても虚しい発想である。(それが後天的解釈だったとしても)必要不必要で友人を選んだり、必要不必要で自分の得るべき知識を選んだり、そのために無理してそこにアジャストしても、すべては空虚なだけ。そんな簡単なこと、小学校で気がつかなかった?

 でも、たとえちゃんと気持ちで選んでもね、、結果的に一過性のホンモノにしかならないことはよくあること。
 でも、、、過去形でも、ホンモノだったって、気持ちを貫いて形成した思い出は虚しさにはならない。

 相手が変わってしまっても、最後にその人から貰った信念を、自分一人で貫くことが可能だから。
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より善くする空間と時間を決めてみてね

2017-05-11 00:17:34 | Weblog
 わかりやすい論理のせいで本質が損なわれていることの殆どが、最初から物差し(価値基準)をおおざっぱに決めてしまうことが起源になっている。
 何かが起きる原因は必ず何か一つの働きがあるからだと決めてしまったり、どーせ男なんて、どーせ女なんて、と思い切って種族で決めつけてしまったり、そこに存在しうるレアなケースに着眼することを避けるどころか、時間依存性まで取っ払ってしまい、とりあえずこうに違いないという心情から"わかりやすい論理"や"わかりやすい説明"が成されていき、それらが人々を苦しめていったりする。

 「ブレイクするっていうのはバカに見つかること」というのはよく言ったもんで、バカには敵味方などのわかりやすい対立構造以外には殆ど分からない。
 だから、バカほど、何vs何なのか?と問うし、結局どれを覚えたら良いのか?と訊くのである。バカほど個性が無い。「バカの一つ覚え」というのもよく言ったもんで、この「バカの一つ覚え」に上手くハマるのがブレイクする秘訣だということだろう。
 例えば「量子論のただ一つの結論は何か?」と学習の最初からそれを探すことに決めてしまい、(例えばその一つとして)[x, p]=i*(h/2π)に行き着き、この公式とその意味を暗記しても、量子論を理解したことにはならないだろう。しかしながら、物理学科以外の人にとっては、これくらいで十二分に量子論のことを知っていると勘違いされてしまうことも事実である。

 (自分にとって)わかりやすい論理構造だけでどうにかそれを理解しようとしてしまうことと、(あらゆる)自然現象を理解するために必要な最低限の論理を抽出していくこととは、まったくの別である。前者には学問を利用して承認欲求を満たそうとする心が垣間見えており、後者は誰に認められなくとも真摯に真実を追究していくことを誓っている態度がベースになっている。(そう、この承認欲求によるドライビングフォースが、枚挙主義の原点になりうるのである)
 自分が(いま現在)分かるところだけをとにかく蓄積していく作業を研究だと決めてしまっているエセ研究者は案外多い。研究には(自分にとっての)成長が必ず含まれるはずであり、それを含まない作業を研究と呼んで承認欲求を満たしているようではいけないはずなのだが。

 さらに、決めてしまうというのは、人の主義にまで影響を及ぼす。集団全体としての質や量の最大化を目指すと決めてしまえば功利主義になるし、個人の自由を最大化するように努めることを大前提に決めてしまえばリバタリアニズムになる。
 これらは、須くわかりやすく、何も複雑なことは無い。しかしながら、我々は、この二つの間で右往左往するようで良いのだろうか。個人が社会人としての無難さをアピールするときには功利主義的に振る舞い、集団同士としては自由競争をやたらに主張し始める。この構造が向かう先は、全体の空気こそが至上であるような最悪の状態へとシフトしつつあるような気がするのである。

 こう唱えると、コミュニタリアニズムが、最初から物差しを決めているわけではない点で、より進んだ考え方のように思える。自らの共同体の歴史や文化を重視し、集団として何がより善いか?どうしたら美徳的であるか?ということに注力することは、2つの相反する考え方からの脱出を促す。
 しかしながら、人の主義や価値観というのは曖昧ゆえに簡素化したいのに、コミュニタリアニズムでは道徳的義務に基準が無いことが最大の問題点として挙げられる。つまり一個人として一票を投じるときの指針にはなるが、全体としてどのような考えが最適であるかというマクロからの要請に対しては、非常に確率的な議論に戻ってしまうことが、俺たちに何も指針を与えてくれないのだ。

 "だとしたら、その状況その状況に応じて、各個人で「何が善か?」と考え続けて、その考えを認め合うことが大事なのだ"というような、バカのためのわかりやすい帰結は、(さっきから否定しているように)俺は大嫌いである。
 それは結局のところ、すべてのロジックが本来は確率論的で原理的に知りえないことであり、あとは民主主義に委ねます、と言っているに等しく、何もコメントしていないのと同じである。

 最初から何かの物差しを使うことを決めてはいけない、というのはおそらくそんなに間違っていないだろうと思う。
 これを前提にするなら、どの程度の共同体(人類全体か、日本か、所属している大学か、研究室か)における善について、どの程度の長さの時間について決めてしまっていいのか?という問題になる。それは、賢い別、経験値が大きい別に、決定できる範囲は異なるはずである。

 つまりは、各々が、各々の能力に応じて、考慮すべき共同体のレンジとその共同体の考慮すべき歴史のレンジを認識し、その時間と空間において、より善きを目指していけば、かなり正解に近いと俺は思う。
 よーするに、"わかりやすく"端的に言ってしまえば、「バカなくせに全世界を救おうとするな」「(立場などではなく、能力として)身の丈にあった範囲でより善くせよ」ということなのかもしれない。

 俺は、自分の能力的に、自分を支持してくれている人くらいをより良くするのが精一杯で、それにもグラデーションがつく程度の能力しかない。
 そして、俺が最もより善くしたい個人(たち)とその歴史のレンジを考慮すると、この業界を10年スパンくらいでより良くするしか術がないのである。だからこそ、俺には、いや俺らには、それなりに賢くなり経験値を高める義務があるのだと思う。

 さて、あなたが、より善くできると宣言できる、共同体(空間)と歴史(時間)は、どのあたりのレンジですか?
 物差しを最初から決めてしまうのではなく、空間と時間を最初から決めてしまうことで、少しはマシになるのではないだろうか。もちろん、途中でレンジを変える覚悟も持っておいてね。
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信用されないことも一興

2017-05-06 02:11:59 | Weblog
 相手の善意・正当性の存在を認める瞬間が、イコール信用の出現なのだとしたら、俺たちはどこでそれを判別しているのだろう?

 どんなに学歴が高くて、どんなに立場が上の人でも、自分の意見の正当性について最初から認めてもらえていないと惨めな気持ちになる。圧倒的に自分とは立場が違うのだとわかりやすい言葉で明示しあっていたとしても、相手が「やはり君では信用できない」と思っているであろう言動を自分にとってくると、通常その人と何かを一緒にやりたいとは思わないだろう。
 実は、最初から信用ならないヤツだと決めつけてくる人の多くが、単純に自分に自信が無いだけなのだが、それに気がつく前にそんな人から離れてしまうことが賢明であると考える人が多いようである。自信がないから立場や経歴にこだわりながら、自分にとって信用のある情報をくれる人を選びたがる。だから、正確に言えば、信用できないのではなくて、自分のレゾンデートルを守るために単純に認めたくないだけなのだ。

 人は、信用してくれているなぁと感じることで、本来の能力を存分に発揮することが出来る性質を持っていると俺は思う。
 だから、誰かを育てないなら、管理するのでもなく放任するのでもなく、とにもかくにも、まずは思い切って信じてしまうことが大事なのだ。

 たとえば、少ない予算の中で被雇用者にお金をきちんと支払ってしまうと、調子にのられるリスクは確かにあるかもしれない。しかし、お金を渡していないからこそ、パフォーマンスを発揮できていないのだという視点がトップにあまりに足りないことは多い。むしろ、これだけもらっているのだからしっかりやらなくちゃいけないよなぁ、というのが大事なのである。
 そう、善意の創発が必然的であることを前提とするときに、その状態そのものを「信用」と呼ぶのである。

 それは100%の混じりっけのない「善意」じゃないかもしれない。20%かもしれないし60%かもしれない。でも、そこに善意が必ず出てくるという期待を込めながら相手に行動を提出していくことが重要で、どーせ善意なんて現れないんだから(と1or0でモノゴトを考えて)最低限の「対応」でいいや、とやっていると、有能な人間からその場を離れていくのである。
 つまり、信用の出現は、善意・正当性の存在を認める瞬間ではなく、それらが創発する確率がゼロでないことを予測したときである。だから、「確信」である。

 だとしたら、信用のもう一つ上のレベルである信頼関係を獲得したいのだったら、自分が社会的に成功していない時のほうが良い。
 ホンモノの愛や本当に信頼できる関係性を得たいなら無職であるときに限るし、最低でも学生時代に限る。いま、それなりに無難な言葉を得てしまって、俺の立場・経歴・表面上の言葉に引き寄せられて、俺の周囲に来る人が信頼できるのかできないのかわかりにくくて仕方ない。むしろ、あー、こいつどーせ無能だから、ダメだから、といって離れていく人のほうが、こちらが判定しなくて良い分ラクなのだ。

 何も言葉を持っていない状態だって、俺の思考力目当てで近寄ってくる不届き者がいるくらいなもんで、それを選り分けるのもダルいというのに。
 あぁ、ないものねだり。っていうか、心の豊かさを容易に得られて、生死の問題に常に直面できるって意味では、社会的に上手くいかないほうがいいのかもしれんなぁ。

 ・・・と思うと、信用されないことも、それはまたそれで一興。
 何をしていても、どんな選択をしても、人生に失敗は無いのだなぁと痛感するのである。
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冷めさせないで

2017-05-02 00:06:55 | Weblog
 人にはそれぞれ与えられた課題がある。
 それらは絶対に個々人で解くことができるものだと思うが、あまりに自分の課題を外注するケースが多くなってしまっているのが現代社会の難しいところの根本原因である。

 自分固有の課題に注力せずに、他人や権威的な集団に帰属することで、間接的な達成を目指そうとしてしまうのだ。これはかなり間違っている。
 自分の課題は、決して「俺の言うことがきけないなら出て行け」という空気を出し続ける環境では達成されない。ここにアジャストすることで、後輩や子供や生徒などに自分の課題を託すことは、あまりにも身勝手すぎるのだ。
 もっと酷いケースでは、自分の怠惰さや抱えている問題や心の闇を、自分が所属している集団そのものに外注してしまうことすらある。自分のダメさを研究室や会社や社会のダメさに重ね合わせることで肯定化しようとする「外注」には進歩がない。

 自らの、良い部分も悪い部分も、純粋な部分も不純な部分もすべて直視・対処しながら、自らに与えられた課題にきちんと自分で向き合わないと、「従うからカネが手に入る」という、欲望に支配された「見せかけの自由」から脱することは決して出来ない。それに対して、「社会人として〜」「大人として〜」と誤魔化していても仕方ないだろう。社会人や大人とは、自分の純粋さを(将来の)子供に外注することで、とにかく上司に従い続けながら自分自身は不純さだけを享受することではなく、ありとあらゆる摂動に対しての耐性があり、社会の流行に合わせなくても責任をもって自分の考えを実行できる人のことである。

 手っ取り早く言ってしまえば、神様はあなたが(原理的に)解けない課題を与えない。これは(俺が目に見えないものを信じているわけではなく)、課題だと認識できることについては、必ず解きうるということである。(高校までの)数学では、問題文を読んで図が描けた時点で8割は解けていると言われることがある。それと同じで、人生についての課題も認識できた時点で大きな一歩になっていることは間違いないと思うのである。

 しかしながら、100人に1人、いや10000人に1人くらいの確率で、その個人では圧倒的に解けない課題を与えられてしまうこともある。
 こういう場合はいかにしたらいいのか?

 圧倒的な課題を目の前にすると、やる気をなくしがちになってしまう。ここでやる気をなくしてしまうようでは課題は絶対に解けないままだが、それも仕方ないことだろう。何せかなりのレアケースなのだから。
 だが、課題が圧倒的であることを大義名分にすることで、その課題の前にひれ伏し続けるにも限度があると、俺は思うのだ。あまりに何年もだと、課題そのものに、自分の大きな課題の大変さを外注し続けるというオートキャタリシスになってしまうからだ。

 もし、これが現状の最も正解に近い解釈だと証明されてしまうのだとすれば、俺は一気に冷めるだろう。
 だが、俺はそうじゃないと信じている。貴女の単純で純粋な怪物への優しさが発現されているからだ、という解釈こそが、最も正解に近いことを、俺は信じている。

 まぁどちらにしても、証明の日は、すぐそこまで迫ってきているのだけど。

 ・・・と、こう宣言すると、まるで冷めうる解釈が真実なように仕組んで演技して、俺をそのめちゃくちゃ大きな課題から遠ざけようとする、俺への見くびりが含まれた優しさが、俺にはたまらなく心地よいことを、いつかはきちんと伝えなくちゃいけないだろうと思う。
 なぜなら、その課題は、俺の課題でもあるような気がしてならないからだ。
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