たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

その音色を惜しげもなく

2022-01-24 01:30:10 | Weblog
 まだ、革新的な論理体系の殆どは多くの大人に共有されているわけではないことを知らなかった頃、、権威と実力は同じものだと無邪気に信じられた幼くも生意気だった頃、、俺は無謀な挑戦を掲げ、情熱で報われる孤独に快感を覚え、日々「これを発見した人はすごい」と心から思っていた。
 そんな「すごい論理体系」を、いまだ共有されていない多くの大人たちに伝達する機会が最近多い。彼ら彼女らだって、チャンスがなかっただけなのだ、と本当の意味で実感し始めている。

 論理体系そのものが語りかけてくる音色にきちんと耳を傾けなければ、その崇高さを伝えられない。耳をよく澄ませて、あらゆる角度から論理と事実と要請で奏でる音色を、身体いっぱいに浴びる。それをそのまま、俺が代わりに歌い上げる。聴講者に、まるで自分が歌っているかのように錯覚させ、とてもよくわかっている気分にさせる。その気分が持続するうちに適切な題材の課題を設けて、まず音を聴けるようにする。
 ほら、こんな音がするよね?ということを伝えると、そのリアクションが当時の自分が抱いた気持ちと近いと、本当にちょっと泣きそうになる。まるで、当時少ない頻度で聴いていた曲を久しぶりに聞いた時のように、その論理から下りてくる価値観がリフレインされることで、本当の意味で心打たれてしまうからだ。

 そして、きっと、彼ら彼女らのうちの何人かは、俺と同じように逃げ場のない絶望に取り込まれることになる。
 「こんなに大変なのに、こんなに報われていないんだね」という事実を目の当たりにしたとき、初めて人は本当の意味で聡明になれるのかもしれないよね。

 世の中には、その音色に合わせて踊ることを生業にしている人もいるわけで、そういった人もグッドリスナーでなければ、良い応用はなされないだろう。基礎が大事だとよく言われることであるが、結局のところ、何を受け取るかに終始すると言っても過言ではなく、受け取った事柄をそのまま出力すれば、それで十分にオリジナリティーのある仕事になるものなのだ。
 そして、それらすべてをたった一つの価値観である資本に帰着し、自分がすべて掌握した気になる人もいる。そこに最適化させて、本質など何も分かろうとしないままに、種々の役割分担としての切り分け方で自他を納得させ、右往左往する人もいる。そういった人たちを「文系」と括り、先に進めば進むほど殆どの彼ら彼女らに対して残念な気持ちを抱くようになってから、もう17年も経つのですね。

 このような生き方のきっかけを与えてしまった師に、その責任を取ってほしいと、何度思ったかわからない。けれど、その数百倍くらいの頻度と強さで、伝え切れないほどの感謝を抱えている。「物理学や数学に比べれば、権威や肩書きなどというのは、ゴミのようなものだ」と心から思えるというのは、どれだけ幸福なことであり、同時にどれだけの影響力を手にしてしまうか。

 当然だが、ある日出会えてしまえば、それですべてが変わってしまうというものではない。
 自分の意志の中から、それらの価値観を自分で追体験するために、なるべく聴こえたサウンドを積極的に発声するように訓練しなければ、幸福と影響力を同時に掌握することはできないだろう。だから、自分で計算を繰り返したり、論理を再構成してみることはもちろんのこと、それ以外の領域でそれらの論理体系で得られた知見を適応してみようとする気概がなければいけない。

 だからこそ、俺は先生と同じように、惜しげもなく、自分が聴こえている音を伝えることができるのだと思います。
 そんなことがわかっている今だからこそ、あの頃の自分に「そんな程度じゃ無謀では無いぞ。・・・どちらもね」と、そっと告げてみる。
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