たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

(遅くなりましたが)近況報告180824

2018-08-24 23:31:36 | Weblog
 さて、久々に、私個人のことを話しますが、実は今年の5月から某企業に研究職で勤めています。
 流石に一般企業だと、組織として、他の勤めている人に迷惑がかかると申し訳ないので、ネットで企業名は明かせませんが、まぁ、これからもよろしくです。

 企業内で、(少なくとも)現在、かなり自由にやらせてもらえているにも拘らず終身雇用、という、アカデミックから考えると信じられないくらいラクな状態ですが、この現状に甘んじないように、長いスパンで確実な成果を上げたいと思います。
 アカデミックの方は、企業に行くと、「今までの研究テーマがー」みたいなことを思うと思いますが、私の場合は、内容としてはけっこう似てる感じになっちゃっています(それが良いのか悪いのか微妙だけど)。もちろん、「企業は利益を上げるところなのでー」というのはあるにはあるんですが、思ったよりは遥かにユルいかもなぁという印象です。

 今のところ、非常に居心地が良く、個人じゃなくてチームで研究開発をしている、というようなことがあったりして、それなりに慣れないことも多いですが、私なりに吸収できるところをすでにじゃんじゃん吸収させてもらっています。チームプレイだから、ギクシャクしていないなぁとは思うのよね、大学の研究室に比べて。
 ただ、ここにいる限りはどんなことを成し遂げても自分の業績ではないと思っているので、自分の提供できる技術や価値観や知識は惜しみなく出す代わりに、「みんなから学ぶべきところは、とことん学んでしまう」ということを冷酷に徹底していくつもりではいます。

 すいません、このタイミング、というのは、あんまり意味はないんですが、今日学会に行って、割と就職してることを言ってなかった知り合いにも何名か会って、現状を話してしまったので、試用期間も過ぎたし、まぁ、もういっかなぁ、というのだけです。
 いつまでも言わなくてもいいかーと思っていたりもしたのですが、結構すごい心配してくれる人とかもいて、、すいません、ご心配、有り難う御座います。これからも応援してね。

 というわけで、これからは、コンプライアンスを意識しながらネット発信していきますが(これでも5月から気を遣ってはいるんだけど)、お伝えできるところはお伝えしていきますので、私の人生実況中継、楽しんでくれると幸いです。
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「人格の否定」と「意見の否定」は本当に違うの?

2018-08-24 00:28:27 | Weblog
 大学院以降、よく耳にするセリフの1つとして、「人格の否定と意見の否定は違います。意見の否定を人格の否定だと受け取らずに、また、人格の否定ではなく、意見の否定をするようにしましょう」というのがある。
 一見、非常に尤もらしいセリフではあるのだが、俺にはどこか違和感がある。その違和感の居所を探ってみようと思う。

 まず、最初に思うのは、このセリフを口に出すことによって、日常的に積極的に他者の「人格の否定」をすることで(ようやく普段)正常な状態を保っている可哀想な人たちの人格を、否定していること。
 この可哀想な人たちは、他者の人格否定をせずにはいられず、そのスタイルを奪われてしまっては鬱憤が溜まりすぎて、もしかしたら死んでしまうかもしれないのに、そういう人に対して、ましてや「自分とは合わない意見を言う人を、積極的に人格否定するのはどうかと思う。自分はそういう人とは相容れたくない」というような意見を平気で述べるのは、人格を否定している人とまったく原理がカワラナイのに、まるで自分のほうが考え方が上だと言わんばかりであろうとする点でタチが悪い。
 すなわち、他者への攻撃(自己防衛も含む)を目的として、「人格の否定」と「意見の否定」は違う、と言っている以上は、それはどっちが先にやったか?という問題なだけであって、「意見の否定」の顔をした(より巧妙な)「人格の否定」なのだから、この主張は、そもそも論理破綻を起こしているように思う。
 (*ちなみに、非常にどうでもイイことなので、ここは特に読みたい人だけ読めば良いですが、『人格の否定をしている人の人格を否定している人の人格を否定していないか?』という反論があるかもしれないんですが、彼らが用意した意見と人格の違いによって、この反論は覆されます。『・・・』に書いた最後の「人格」は間違いであり、ここは私は「意見」のつもりです。もう少し詳しく言えば、「人格の否定をしている人」というのは、もはや生き方としてのスタイルに近い性質を表現しているので、その性質を否定することは「人格」に含まれるのが適切だと考えていますが、「人格の否定をしている人」を否定するような言葉は、単なる意見の扱いが適切だと考えていますので、これを否定することは意見の否定をしているに過ぎないと思います。ただし、あくまで、「意見の否定と人格の否定は圧倒的に違う!」と思っている人が準備している定義内での話であるので、後を読めばわかりますが、私はこれすらも、人格の否定の一部になってしまう可能性があるかとは思っていますが、、少なくとも「じゃあ、人格の否定をしている人の人格を否定している人の人格を否定している人の人格を・・・(以下、n回繰り返す)」みたいにはならないと思います。そのようにモデルをデザインしてみても(別に)良いですが、回を重ねるごとに飛躍的に、「人格」の意味が「意見」の意味に転移していくと考えています。すいません、長い注ですね。以上で、想定されるくだならない反論に対するディフェンスを終えて、本題に戻ります)

 じゃあ、単に「人格の否定」と「意見の否定」は違う、という言葉を、誰かへの攻撃を意図せずに発するぶんには、正しいのか?
 いや、それも正しくないと俺は思っている。なぜなら、「意見の否定」は簡単に「人格の否定」を誘発する材料であり、人格とは個人が所有する多くのあらゆる意見の総和であるからだ。

 具体的な例を出そう。これは俺の夢に出てきた話でつまりは架空の話なのだが、、俺がまだ大学院の修士課程1年生で研究室に入ったばかりの頃、研究室ゼミで学年が1つ上の先輩の出したデータと説明に対して、疑問を投げかけた。これは、否定の意図を含んだ疑問ではあったが、ほぼ確実に「意見の否定」の範囲内であったと思う。そして、俺の疑問に対してまともに応えられなかったその先輩は、教授から次のように「人格の否定」をされてしまうことになる。
 「いま、たかはし君が指摘したように、ここの説明の仕方はまったくおかしい。君の説明のやり方は、まるで幕の内弁当のようですよ。(幕の内弁当に関する説明を10分以上入れた後に)つまり、幕の内弁当のように一貫性がない。すべてが点々としている。それでも高級な幕の内弁当なら良いのかもしれませんが、とてもそうではありません」
 俺はゼミが終わった後に、すぐ、教授室に一人で向かった。それは、その先輩のためではなく、単に自分が蒔いた種であるからだ。
 「先生、いくらなんでも、あの言い方はないです。研究室の雰囲気を悪くします。あれじゃあ、殆ど人を馬鹿にしているのと同じです」
 そう言うと、先生は、「考え過ぎだ」と言う。そして、「よくね、この研究は大工のような仕事だ、という言い方がある」という説明を滔々と俺にし始めた(30分以上も)。
 この例だと教授は、「人格の否定」ではなく、あくまで、説明の仕方の「指導」をしているだけ、と思う人もいるだろう。だが、これが「指導」だと言う意見は完全に間違っている。「指導」というのは、相手にとっての分かりやすい言葉でなければならず、「幕の内弁当」がそうなっているとは到底考えられないからだ。この教授が「幕の内弁当」を出したのは、分かりやすさの例ではなく、ただ単にそれを話したかったというカラオケ状態(=歌っている人だけが気持ちいい≒喋っている人だけが気持ちいい)なだけ。自分がカラオケをするために、幕の内弁当を使って、プレゼンのやり方を否定することは、他人の人格を否定することだと俺は思う。なので、単に「君は完全にダメだ」とか「君は馬鹿なんだから」という、誰でもわかるような人格の全否定だけが「人格の否定」ではなく、このような曖昧な表現も含め「人格の否定」だと俺は思っている。(そして、何よりも、命をかけてリーズナブルな幕の内弁当を作っている人の人格も否定しています!)
 だが、その「人格の否定」を誘発しているのは、俺自身。俺が意見の否定を含んだ疑問を呈さなければ、、ひょっとすると、もっと上手に意見の否定を行っていれば、人格の否定が起きることはなかったでしょう。

 かなり長くなってしまったが、俺が言いたいのは、「意見の否定」は「人格の一部の否定」でありうること。そして、そうでなかったとしても、「意見の否定」は容易に(明確な)「人格の否定」を誘発する危険性があるということだ。

 こうなってしまうと、何も言えない、と思うのが普通だろうと思う。
 だからこそ、渦中にいたくない、余計なことは公言したくない、という人は世の中にめちゃくちゃ多い。

 それはネガティブではあるが、非常に賢い選択ではあると思う。だって、何気なく「カレーは嫌いだ」と公に対して言ってしまえば、巡り巡って、誰かにとっての「人格の否定」に簡単になりうる。
 ここに、最大多数の最大幸福として、功利主義が適応されるべきだと考える意見もあるだろう。つまりは、平均値(もしくは立場のある人たち)に合わせた発言なら肯定化されるはず、という意見だ。この意見は、弱者救済の観点から、まったくもっておかしい(←「はい!意見の否定、すなわち人格否定!!」って言わないでね。許して笑)。弱者ならば人格は否定されるべきだ、というのは明らかに道徳に反するだろう。
 ここに、自由を最大化する目的として、自由主義が適応されるべきだと考える意見もあるだろう。つまりは、「カレーは嫌いだ」と公言する自由を守ろう、ということだ。しかし、これも、あらゆる自由同士がインタラクションすることを加味すれば、功利主義での結論と同じで、弱者に加えて少数派をも平気で切り捨てていることになるのは明らかだろう。
 社会がこのような価値観としてユニバーサル化されつつあるからこそ、少数派な事象に価値を見出し続けるためには、強くあり続けなければならない。強くなくてもサッカーや音楽が好きなことは社会から承認どころか簡単に肯定化されるが、マイナーで他者から一般に卑下されることを大好きな場合、強くあり続けないと承認さえまともに得られない。ここに不平等性が発生しているにも関わらず、功利主義も自由主義も簡単にこの不平等を無視してしまう。

 だから、たいていの人は、実際に、「関わらない」「喋らない」というズルい選択を賢い選択だと読み替える。でも、自分の意見を言わずにはいられない彼ら彼女らは、誰か目立つ人に「ささやく」という手段にでる。なんとも弱く、なんとも小悪党である。
 弱いは弱いのだが、このような平凡な弱者や「他者の人格を平気で否定するような人」や「人格を否定する人の人格を否定して、自分のほうが賢いと勘違いしている人」も、積極的に受け入れていくような集団形成が望ましいのは間違いないと俺は思う。これが、共同体主義を主軸に価値観を構成する趣味がある俺の、理想的な集団である。

 超純水では魚は住めない。非協力者を排除し、互恵性を理解している者だけの集団形成は、実は非常にフラジャイル。
 進化しきった集団とは、あらゆる主義主張を、矛盾を恐れずに、受け入れ続けることこそが重要だと悟っている集団、かつ、時に理想からの要請として必要な場合に、堂々と自分の意見を素直に主張できるような集団なのではないだろうか、と俺は思う。
 
 よーするに、他者に対して何らかのセレクションをかけようとする時点で、「意見の否定」は「人格の否定」と殆ど変わらないだろう。逆に言えば、不寛容さを排除し、すべての人に対してより良くしようと心がけているのであれば、「意見の否定」を行うよりも前に「助ける」から、そんな暇はないのじゃないだろうか、と最近思っているのである。
コメント (9)
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「研究のモチベーションが保てません」-相談メールの実際の例-

2018-08-14 22:19:03 | 自然科学の研究
 このブログで募集してます、相談メールで、実際の例を紹介しようと思います。以下は相談者の方のご厚意で公開したものですので、現在のところ、特に希望されない場合は公開などは一切しない方針です。
 相談メールのルールなどについては「相談メールの目標とルール」をご覧ください。


相談文
 (プライバシー保護のため、少しだけ文面を変えています)

 こんにちは。
 ここ数ヶ月、研究について悩んでいまして、相談に乗っていただきたく、メールしました。
 正直になるべく全部書きます。今のところこの話は誰にも話していません。また、僕の精神状態については全く問題ありません。

[背景]

 回答の際に参考になるかもしれませんので、少し私の経歴を書いておきます。私は某大学の農学部を出て、同じ研究室で修士をとりました。修士では今とほぼ同じテーマで研究をしていて、博士からは共同研究先の他大の研究室に移ることにしました。少し目新しいテーマだったからか、学振DC1に採用されました。
 博士に進学して、1年目は失敗しました。僕のテーマは野外で行うもので、ある生命現象の季節変化にフォーカスをあてたものです。元々計画がずさんだったうえに天候不順でろくにデータがとれませんでした。1年目の冬からは教授が提案してくれた室内での実験を始めました。セッティングさえすれば学部生でも出来る実験です。それでも実験の設定に苦労して、このあいだ、ようやく結果がでました(大方予測どおりですが、特に嬉しくもありませんでした)。問題は、この実験とは別に計画していた野外実験に今年もまた失敗してしまったことです。室内実験との両立がうまくとれず、さらに機械のトラブルなどもあっての失敗です。結局教員に言われた実験でしか結果がでていないというのが現状です。

[やめたい理由]

・テーマに価値を感じない
 正直、今やっているテーマが面白く思わなくなりました。価値が感じられないんです。修士のころは、研究テーマにそれなりに価値を見出して、さらに身につけるべきスキル(プログラミングなど)を習得ながら目の前にある問題を必死で解決しようとしてきました。そのため一日のうちかなりの時間を研究室で過ごしていました。しかし、博士になって、一通りのことができるようになり少々ゆとりをもって研究をするようになってから、だんだん周りが見えるようになってきて、自分の研究テーマがどういう性質のものなのかが、恥ずかしい話、D1の後半あたりになってようやく理解できるようになりました。
 僕の研究テーマは、生命系の中でも応用よりのテーマです。うまくいけば農業などの役にはたつかもしれませんが、科学としては本質的とは決していえない。科学というなら、現象のメカニズムを解明するべきだ、そう思うようになりました。僕が今やっているのは、すでにある現象を利用するだけのことですから、サイエンスとしての価値があるのかというとかなり怪しいと思います。こんな簡単なことに気づくまでに何年もかかってしまったことが、とても悔しいです。自分で何も考えずにやってきた証拠です。
 今のところ、上に書いた実験で結果は出ているので、それで論文を書いて、これから計画を立て直して頑張れば、それで博士は取れるかもしれません。その過程で、何かしら得るものはあるでしょう。でも、上のようなことを思ってしまった状態で、最後まで頑張れるか、自信はあまりないです。
 僕は修士まで、研究で結果を出せば何者かになれるかもしれない、そう考えてきました。それまで、本当に不器用で、特に取り柄もなかった自分に、研究という、意義のある・頑張れる・打ち込める対象ができた。それがとても嬉しかったんです。でも、今はなんだかその頃とは変わってしまいました。できれば研究室にいきたくない、と思うところまで来てしまいました。この状態は少しつらいですが、あの修士のころの状態のまま突っ走っていた場合を考えると今のほうが幸せなのかな、とも思います。

[やめたい理由の奥にあるもの]

・単なる失敗からの逃避
 「サイエンスとは〜なんて高尚な言葉を隠れ蓑にして実は研究から逃げたいだけなんじゃないの?」と、自分に対して思ってしまいます。研究なんてうまくいかないことだらけなのですから、そんなことでやめたいと思うような弱さは克服しなければいけないと思います。「仮に、研究が万事うまくいっていた場合、研究室をやめたいなんて言ってないんじゃない?」と言われてしまうと完全には否定できないのも事実です。それまでのもやもやを抱えながら博士を取るかもしれません。「うまくいかない」と「やめたい」が同時に起こっているため、両者に因果関係があるのかないのか、わからないんです。

・指導教員からの逃げ
 指導教員は普通にいい人だと思います。何かを強要されたことは一度もないですし、こちらから行けば必ず自分の手を止めて話を聞いてくれて、アドバイスをくれます。ただ、指導教員からは、少し噛み合わないというか、なんだか見透かされているような感覚を感じてしまいます。ちょっと、話しかけづらいです(そのためなんとか自分だけで無理やり解決しようとしてきました。それも良くなかったのかもしれません)。

 僕は単に失敗から、研究から逃げているだけなのでしょうか。たかはしさんがこのメールを読んでどう思われたか、聞かせていただけませんか。

[辞めたあとどうすんの問題]

 今の研究室をやめて、テーマを替えて別の研究室に移ることも考えましたが、今のところ特にしたいことはないです。上のような調子(「テーマに価値を感じない」の最終段階)ですから、研究そのものが僕はあまり好きではないのかもしれません。今後どうするかは、やめることを決めてからゆっくり考えようかなあと思っています。甘いでしょうか?
近々、企業の説明会のようなものが大学で開かれるらしいので、それには参加するつもりです。現在、起こしている行動といえばこれくらいしかありません。


回答文

 ご相談有り難う御座います。
 たかはしけいです。

 メールを読ませていただいて一番に感じたのは、貴方は「研究者としての強い理想」をお持ちなのだなということです。
 貴方のメールには、自身の研究テーマについて「科学として本質的とは決していえない」と書いてあり、そのすぐ次に「サイエンスとしての価値があるのかというとかなり怪しい」と書いていますね。よほど、今の研究があなたの理想とはかけ離れているんだと、思っていらっしゃることがわかります。

 さて、貴方が考える、本質的な、価値ある研究とは、どのようなものでしょうか?

 あくまで、私の考えですが、「価値ある研究は、原理的に行えない」と思っています。これでは意味が分かりませんね。説明します。
 まず、確実に「価値あるテーマ」と認識して行っている研究行為には、意味がありません。価値があるかどうかわからないことについて、価値があるかどうか確かめようとする行為を「研究」と呼ぶのですから。もし最初から「これは価値あるテーマだ」とわかっているなら、それは研究とは呼べないでしょう。なので、研究を行うためには、論理性や情報収集以上に、「これでやってやるぜ!」と思い込める勇気が必要です。
 そして、勇気と論理性と情報収集と日々の実験や考究の結果、幸運にも、自分のテーマが価値あるテーマだとわかった、としましょう。だとすると、その研究は、その時点で死に絶えます。だって、価値があるってわかってしまったのですから。その価値が明らかになった時点で、すべてのアカデミックっぽい行為は、研究から「ただの作業」に移行します。あとは、他の人達に「これは価値あるよー」って伝えるだけになりますからね(それは即ち作業です)。
 この繰り返しを行うことは「本質的な研究活動」だと思いますが、、「価値ある研究」というもの自体は原理的には存在しえないのではないでしょうか。

 お気づきの通り、研究は「賭け」です。残念ながら、誰もが永遠に勝つことはありません。なぜなら、「飽くなき探究」を繰り返し続ける必要があるからです。勝つことがないことが決まっている賭けに、どれくらい本気になれるか?というのが大事だと思います。
 勝つことはありませんが、「負けない」ようにすることはできます。「負けない」ためには、まず、どんなことがあっても、研究をやめないことです。

 なので、今のテーマが、大した価値がないとわかったのは、立派な結果だと私は思います。それは、誰からも称讃を浴びないのだとしても、「やれるだけのことはやったのだ」と自分自身に対して胸を張っていい結果なのです。たしかに、一つひとつの行為は誰でもできるかもしれませんが、その価値観に気がつけるかどうかということについては、必ずしも誰にでもできるわけではないのではないでしょうか。

 それから、先生に手助けをしてもらったことを恥じる必要はまったくありませんよ。自然科学分野の研究者にとっての敵は、先生でもなければ、競合分野でもなければ、同期の院生や、先輩でも後輩でもなく、当然ネットで厳しい理想を掲げる誰か(私もその一人かもしれませんが笑)でもなく、自然現象そのものなのですから。圧倒的な自然現象に比べれば、自分に敵意を向けている人だって味方です。ましてや、指導教員は貴方の圧倒的な味方です。そこをお忘れなく。

 というわけで、モチベーションをその部分に持てないでしょうか?つまり、私にはどうしても、今度は貴方ができる限り頑張って、味方である先生にトクをさせてあげて欲しいなぁ、と思ってしまうのです。
 現代社会、「普通にいい人」というのは、ものすごく少ないです。アカデミックなら尚更にレアです。「普通にいい人と関係性がある」ってことは貴方の貴重な財産ですから、その関係性を持ってくれている指導教員の先生に対して、ガッカリするような気持ちにさせたり、悲しい想いをさせてはいけませんよ。今のところ、先生は、自分自身で研究の価値を考えようとしている有能な院生に対して、期待しているはずですから。そして、私は貴方に、「有能」であることよりも、まずは、「優」しさが「秀」でている状態である「優秀」であることを、期待します。どんなにプログラミングができても、どんなにあらゆる実験ができても、どんなに計算ができて、どんなに記憶力が豊かでも、優しくなかったら意味がないですから。
 だから、まずは、「普通にいい人」である指導教員の先生がおそらく欲しているであろうことを、行ってあげること。即ち、今のテーマを(大した価値がないのだとしても)しっかりと原著論文にまとめて、カタチにすること。そして、できれば、新しいテーマを持ってきて、「今度は、俺がお前に、トクさせてやるんだ」と思えるくらいにまで、実力を高めたら良いんじゃないかと思います。

 最低でも原著論文に書いてまとめてからでも、次の行き先を考えるのは遅くないのではないかと思います。もちろん、先生のために研究室に残れ!、なんてことを言うつもりはありません。学生はお金を払っているわけで、その対価として先生は普通のことをしているだけなのですから。
 でも、次何をするにしても、「情」がある人が必ずいつかは成功するでしょう。その「情」を何に対して向けるかが重要だと、私は思うのです。その点をぜひ考えてみてください。

 少しでも参考になれば幸いです。
 また、いつでも連絡してください。では。

*********************************************

 【コメント】
 「自分がやってきたことに価値がないと悟り始め、自分自身に対しての自信を見失っているとき、どのように自分を納得させますか?」
 今回、私が相談者の方のメールから読み取ったのは、この部分です。そして、やめたくないんだ、という気持ちも伝わってきました。この質問にどのようにメールを送るか?というのがポイントだと思いました。

 昨今、インターネットが発達してしまったせいで、あらゆる分野やあらゆる業種などで、「どこまでが本当で、どこまでが強がりなのか」が見えづらくなっています。若い世代にとっては特にそうなんじゃないかと思います。
 研究界隈で言えば、たとえばネット上では「自分自身でテーマを決めなくちゃいけない」「そうでなければ、研究者として、博士号としての価値はない」と言われることが多いですが、私の実際の所感では、多くの人が「与えられたテーマのなかで、自分で少しだけ内容をずらす」ということを「テーマを自分で設定する」と言っているように感じています(実験・理論、分野に関わらず)。本当にゼロからテーマを設定し、自分がやりたいことを追及するのであれば、いくつかの研究室を縦横無尽に動かなければ到底不可能ですが、そのようなある意味「政治力学に反するような行為」を正当化するコメントは、インターネット上にそう多くはありません。

 にも拘らず、ネットで目立つタイプの研究者の方や大学院生の方は、「俺はこうやって、単身で、研究を進めてきた!業績も出してきた!」と表面的には嘘ではない強がりを語ります。私もその一人かもしれません。そして、そのせいで、自信を喪失してしまう真面目な(若い)人もいるわけです。
 確かに理想を言えば、研究者として、その卵である博士課程の学生として、「自分できちんとテーマ設定を行い、それを進捗させるだけの孤独」に耐えなくちゃいけないのかもしれません。でも、そのような厳しい正論ばかりが、アカデミックの社会をより良くするわけではないことにも、そろそろ注意をむけなければならないと、私は思っております。

 その一つの答えとして、私が今回挙げたのは、簡単に言えば「仲良くすることが重要なんじゃないか」ということ。「仲良くしたい」なんて甘いこと言ってたら、確かに、博士号には値しないのかもしれません。でも、それでも、他者から甘っちょろいと言われても、私はそのほうが、重要で精緻な真実を自然界から抽出できる可能性が高いんじゃないかと思っています。そして、私たちは、承認なんかよりも、自然現象を掌握したいという気持ちのほうが強いはずだからこそ、アカデミアに所属してきたはずです。

 「敵は、自然現象のはずだ」
 私が修士課程の学生のときに、声を荒げてそのように指導教員に言った時、私はきっと、彼らともっと単純に、ただ仲良くしたかったのだと思います。そんなことを想っていた甘っちょろすぎた自分が、この相談によって、少しだけ救われた気がします。
 相談してきてくれて、本当にありがとう。相談者さまに、あの頃の私に代わって、心からお礼を申し上げます。
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