傷ついてしまうのは、期待してしまうから。
このことに気がついたら、対策は大きく2つに分かれる。まず思いつくのは、「とにかく誰にも何にも期待しない」ということ。引きこもって、できるだけ他者と関わらないように生きて、周囲との接触面積を限界まで小さくすることの努力を怠らないことだ。
でも、できるだけ他者と関わらないように生きられる人って、結局幸せなんじゃないかと思う。だって、「引きこもれるだけの環境」が長く続くことが保障されているから。多くの場合、その保障を背負ってくれるのは家族。そうじゃない人は、別の方法を取るしかなくなる。
それは、他者との接触面積をあえて大きくして、私のことをアクティブな人だと周囲に思わせながら、自分自身の抑えきれない期待をあらゆる箇所に分散させてしまう方法だ。
そうすると、確かに他者からの期待を不自然なカタチで受けてしまう確率も高いけれど、愛想笑いと忙殺のバリアで、上手く回避する術を自然と身に付けてもいける。
期待は、期待で相殺させてしまえ。それが、私の傷つかないための定石なのだ。
この手法の最大のデメリットは、自分でさえも、気がついていなかった「本当の期待」が崩れ去ったとき、予想外のパンチを食らってしまうということ。分散したつもりの期待が、分散しきれず本当はそこに堆積していた場合、崩れ去ってはじめて、"私は本当はココに期待していた"ということに気がつく。
泣きそうになりながらも、周囲はそれに気がつかず、「でも、貴女は他のこともあるから、大丈夫でしょ?」という顔をしている。もはや、そうじゃない!、と叫べない状態に自分自身を追い込んでいる私には、誰も気がついてくれないのだ。
私は、そんなとき、とことんダメになってしまうやり方を、知っているわけではない。そんな状態の時ですらも、誰かからの期待を体現しようと、どこか、清く正しく美しく、のやり方になってしまっている自分自身に絶望したりして。ダメなときにちゃんとダメになれるのも能力なのに、その方法を、誰も私には教えてくれなかった。不公平だよ、って思うけど、そんな私を羨ましがる誰かもいるのだろう。
完全なパターン形成から崩れかけたところに美しさがあるのだとすれば、それを維持できないギリギリの最後に、分裂したり継承したりすることが生命の本質を感じさせる。
だから、この不公平さも、きっとどこかに複製されていくのだろうけど、誰もこんな想いをしてほしくないから、あまり気持ちを分かってもらいたくないのだ。完全に分かられたら、誰かにパスされてしまうから。
そして、そんな不公平さを、どうにか超えられないだろうかと、他者に期待し始めてしまっている自分を感じる。
その期待を、また一生懸命に分散させながら、深く考えてしまう時間を消し去るように、くだらない誰かの冗談に愛想笑いしてみる。・・・でも、カラ元気も元気のうちでしょ?きっと、引きこもってるよりも、本当に笑えることも、多いよ??
このことに気がついたら、対策は大きく2つに分かれる。まず思いつくのは、「とにかく誰にも何にも期待しない」ということ。引きこもって、できるだけ他者と関わらないように生きて、周囲との接触面積を限界まで小さくすることの努力を怠らないことだ。
でも、できるだけ他者と関わらないように生きられる人って、結局幸せなんじゃないかと思う。だって、「引きこもれるだけの環境」が長く続くことが保障されているから。多くの場合、その保障を背負ってくれるのは家族。そうじゃない人は、別の方法を取るしかなくなる。
それは、他者との接触面積をあえて大きくして、私のことをアクティブな人だと周囲に思わせながら、自分自身の抑えきれない期待をあらゆる箇所に分散させてしまう方法だ。
そうすると、確かに他者からの期待を不自然なカタチで受けてしまう確率も高いけれど、愛想笑いと忙殺のバリアで、上手く回避する術を自然と身に付けてもいける。
期待は、期待で相殺させてしまえ。それが、私の傷つかないための定石なのだ。
この手法の最大のデメリットは、自分でさえも、気がついていなかった「本当の期待」が崩れ去ったとき、予想外のパンチを食らってしまうということ。分散したつもりの期待が、分散しきれず本当はそこに堆積していた場合、崩れ去ってはじめて、"私は本当はココに期待していた"ということに気がつく。
泣きそうになりながらも、周囲はそれに気がつかず、「でも、貴女は他のこともあるから、大丈夫でしょ?」という顔をしている。もはや、そうじゃない!、と叫べない状態に自分自身を追い込んでいる私には、誰も気がついてくれないのだ。
私は、そんなとき、とことんダメになってしまうやり方を、知っているわけではない。そんな状態の時ですらも、誰かからの期待を体現しようと、どこか、清く正しく美しく、のやり方になってしまっている自分自身に絶望したりして。ダメなときにちゃんとダメになれるのも能力なのに、その方法を、誰も私には教えてくれなかった。不公平だよ、って思うけど、そんな私を羨ましがる誰かもいるのだろう。
完全なパターン形成から崩れかけたところに美しさがあるのだとすれば、それを維持できないギリギリの最後に、分裂したり継承したりすることが生命の本質を感じさせる。
だから、この不公平さも、きっとどこかに複製されていくのだろうけど、誰もこんな想いをしてほしくないから、あまり気持ちを分かってもらいたくないのだ。完全に分かられたら、誰かにパスされてしまうから。
そして、そんな不公平さを、どうにか超えられないだろうかと、他者に期待し始めてしまっている自分を感じる。
その期待を、また一生懸命に分散させながら、深く考えてしまう時間を消し去るように、くだらない誰かの冗談に愛想笑いしてみる。・・・でも、カラ元気も元気のうちでしょ?きっと、引きこもってるよりも、本当に笑えることも、多いよ??