たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

物理学で退屈しないためには

2023-06-28 01:13:28 | Weblog
 俺らは死ぬまでの暇つぶしをどのように過ごすかに常に頭を悩ませている。
 大抵の人は、仲間とくっちゃべって、その中のありふれた愛情や関係性をホンモノだと名前をつけて、本当は直面すべき「いずれは死んでしまう」という現実から目を逸らす。

 誰だって自分の人生が退屈だとは思いたくない。だから、必要以上に表面的な感謝を振りまいてみたり、権威や金に最適化して有意義だと思い込んでみたり、死ぬかもしれないのに海底に行ってみたりバンジージャンプをしてみたり、、大抵はそんなことをするのだろう。
 さらに、そこにランキングやヒエラルキーを定義して、どっちが上でどっちが下か、マウントをとったりとられたりするわけで、そういうことをしていれば、他者から自分がまさか暇だとは認識されないからだ。

 だが自分の人生が退屈かどうかは、他でもない自分自身が一番わかることだ。他人から暇と思われなかったとしても、どんなにカレンダーに予定を埋めて忙しくしていたとしても、どんなに自分に「俺は充実しているんだ!」と呪いをかけてまくったとしても、退屈であるかどうかは自分だけで判断される。そして、大抵の人は、退屈に陥っているのだと思う。

 「そうではない。自分にはこれが!」と思っている人の中には、物理学を日々繰り返し鍛錬している人もいるだろう。
 かつてパスカルは気晴らしから抜け出すための唯一の方法は「信仰」だと考えていたらしい。一神教であるキリスト教における信仰する対象を、イエスキリストから再現性に置換した自然科学の基礎である物理学は、現代社会で信仰するなら一番の宗教かもしれないね。
 それは正解に近いのかもしれないが、、大抵の物理学徒は、他者と本当の信頼関係を構築することからの単なる拒絶として物理学を志しているという現実も、俺はよく知ってしまっている。

 その例というわけではないが、とても示唆的だった事例をTwitterで見かけて、、大学レベルの物理学を鍛錬している中学生が、素粒子理論を専攻している大学院生に学習の仕方で批判を受けたために、「もう物理学へのモチベーションを失ったしまった」と言っていたのを見かけた。なんだかとても切なくなってしまって、、彼に必要なのは物理学の理解や計算力よりも、もっと単純でありふれたものなのではないかと思ってしまった。
 ありふれた関係性なんてもんにしがみ付いても仕方ないと思う一方で、それらの経験が不足しているために、物理学などの自然科学のコミュニティーにそれらを求めるのであれば、物理を学ぶまでに得なければいけない鍛錬が足りていないのかもしれないよなぁってね。

 物理学を理解する上で、計算を追っているだけではダメ。定性的な理解を繰り返していてもダメ。
 定量的な理解も定性的な理解もしながら、自分なりに噛み砕いて、きっちり吸収していかなくちゃいけない。これは物理学が顕著ってだけで、物理学以外でも、本来は同じだろうと思う。「概要は理解した」と言って何もわかっておらず、ただ用語を知っているだけで満足している人で世の中溢れかえっているが、この人は!と思う人は、物理学の知見がなくても、本当の意味で理解するために重要なことをよく理解している。
 おそらく、この程度のことは上記した中学生も分かっていただろう。

 しかし、たった一人にほんの少し批判されただけで「もう物理をどうしてやっていったら良いのか。。」と思ってしまうのであれば、それは物理学にとっかかる前に得るべき「何か」を得ていないのではないか、と疑わざるを得ない。そして、それは、大人である我々も例外ではなく、自分ごととして、よくよく考えなければいけないことなのではないだろうか。

 たしかに、「いずれは死んでしまう」という現実から目を逸らさずに本質的に生きていきたいのであれば、物理学くらいは軽く理解する気概を見せて欲しいものだ。
 コミュニケーションという名の「馴れ合い」ばかりを重視して、忙しいフリに一生懸命になっているバカどもがくだらないマウンティングをかましてきて、実際に何かの実益を損ねたりすれば、ある一時期、物理学などに助けを求めたくなる気持ちはよくわかる。
 けれど、当たり前のことを人並みに経験することで、ありふれていたとしても、愛情と信頼関係の存在を信じられる程度には、それらを自分の生きる上での土台としていたほうが、逆に人生に退屈しなくて済むのではないだろうか。
 俺自身が中学のときに、学校の勉強なんてうざいとしか思わず、直列やら並列やらの計算なんかめんどくさいとしか思わず、ましてやその先の物理学なんて興味も持たずに、ただただ友達と夜遅くまで話しまくって、誰が好きだとか嫌いだとか、あの先生むかつくだとか、そういうありふれたくだらないことをしていたことが、今、物理学を使ってバイオロジーの分野に身を置かせてもらって研究し、日々、多くの人に現代物理学を分かってもらうためにはどうしたら良いかを考える上で、非常に役に立っているなぁと個人的には思う。

 別に俺が良い状態というわけではないと思うし、俺が当たり前のことで欠落している部分はたくさんあるのだけど、、何事もベースをしっかり保っていなければ、少なくとも保とうとしなければ、崩れ去るのは早いのではないか。と勉強させてもらっているよなぁということは、ここに書いておこうと思う。

 そして、俺は、家族や友達と何か共通のことで楽しむことを通じて得られる信頼関係を信じていながらも、暇でない証明に権威や金を得るような態度にはできる限り関わらないようにして、再現性を神とする自然科学という信仰を淡々と進めていきたいと思っている。
 最近すごく思うのは、この信仰には、必ずしも友達は必要ではないということだ。仲間は必要だけどね。それが(自分の判断として)退屈しないコツだと思うけど、それもきっと(他者から見れば単なる)暇つぶしには違いない。
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