たかはしけいのにっき

ミネソタ大の博士研究員が書く日記です。

貴方の策略

2017-10-30 02:46:33 | Weblog
 自分で、好きなものを選んだはずなのに、どうして、その好きなモノで苦しめられることが多いんだろう?
 思わず、『何かの打算を孕んでいるからだよ』と、貴方のあざ笑うかのような声が聴こえてくる。そんなことない!本当に好きで選んだの!!っと言い返してみても、『だったら、なんで、今もそんなに苦しそうなの?』と意地悪な声で返してくる。

 他人よりも時間が経ってしまうなら、それ以上の成果を出さなくちゃいけない。そうじゃないと、平均値に追いつかないから。
 でも、ある時点からそんな風には思えなくなっちゃって、とにかく制限時間を気にした結果、平均的な成果にしかならなくて、、でも、やっと結果が出たことに素直に喜んでいる自分も存在している。そんな短絡的な自分に自己嫌悪しながら、これじゃダメだったのにって反省する真面目な自分が追いかけてくる。

 そのすべてを見抜いたように、あえてカラ元気を与えようとするのは、やっぱり、私をどうにか傷つけようとしているわけ?
 それとも、時間に対する成果なんて、きっと計算できていないだろう、っとでも思っているの?

 『違うよ。どう声をかければいいか、本当にわからないんだ。だから、つい、いつも、リスクが無さそうな自分を、提出しちゃう』

 ほら、そうやって、難問を抱えていることを自覚させようとしてくるから、余計に本能的に遠ざけたくなる。最終的に露にされなければ、いつだって違う解釈に逃げ込めるんだから。
 なんでもかんでも本当のことを言えば良いってもんじゃないし、なんでもかんでも事実を突きつけて、本質から逃げられないようにすれば良いってもんじゃない。ファジーなままの、白黒つけないグレーゾーンが大事なことだってあるのに。

 『でも、他人には、白黒はっきりつけさせたがるでしょ?』

 いちいち言い返してくるな!、とまんまと本気になってしまっている自分に気がつくと、、一連の不安を別の問題で昇華させようとする策略に、いつの間にかひっかかってる自分に気がつく。
 実際、どこまで読んでいるのか知らないけど。
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オーダーメイド自分

2017-10-22 04:21:17 | Weblog
 イイ想い出も悪い思い出も、それが起きた場所と共に記憶しようとするのが人間だ。
 もともと狩猟民である俺たち人間は、ものごとを場所で記憶しようとする性質がある。それが起きた場所に実際に帰ってみると、起きたことや自分の過去の気持ちがものすごく鮮明に思い出せるのは、そのせいだ。だから、どんな記憶も場所と共に存在している。

 だからこそ、多くの人は、今この場所が悲しい記憶でいっぱいにならないように、あとでここに帰ってきたときに切なくて苦しくならないように、誤魔化してでも、どうにか笑顔を造ろうとする。そして、その笑顔が他者と相互作用し合って、本当の笑顔を創ることになっていく。
 どんな類いの言動や所作も、演技からは逃れられない。必ず演技の要素が入るし、それには当然お手本が存在しているのだ。お手本は、テレビにでてる人だったり、最近はYouTuberだったりするのかもしれないし、自分が憧れているアニメや漫画のキャラクターの誰かかもしれない。「それっぽい」シーンに収束することを期待しながら、「それっぽい」反応をしてみて、「それっぽい」キャラを演じてみる。

 だから、昔の場所に帰ってみて、確かに自分自身の身体が経験したはずの「あの頃」を振り返ってみたときに、「自分ではない」誰かの心情として認識しやすくなってしまうのだ。
 「あの頃、笑っていたのは、確かに私のはずなのに、、本当に私なの?」ってね。

 俺は、ここで、『だから、演技なんてせずに、自分らしく生きていこうぜ!』などと、単純なバカを演じるつもりはない。
 だって、誰の、どんな行為も、どんな所作も、必然的に演技からは乖離できないのだから。

 ここで重要なのは、むしろ、「何をお手本とするか?」である。何を教科書とし、何をもって教科書通りであると定義するか。

 確かに型は決まっているかもしれない。確かに何をしたとしても、誰かのパクリをしているだけで、どう頑張ってもオリジナリティーや独創性を完全な自分の起源として創出することはできないのかもしれない。それは、2つ以上のお手本を組み合わせたからといってイイワケできるものではないし、お手本の隙間を埋めるだけでは不十分だとも思う。

 しかし、「これをお手本とするんだ!」と決定できるのは、自分自身だけである。
 そして、恥ずかしそうに「実は、これをお手本としてるんだ」と、大切な誰かに宣言することもできる。

 俺は、時に、ノリがいいヤツを演じる。時に、お勉強のこと以外何もできない引きこもりを演じることもあるだろう。
 時に眠たいだけの自分を全面に出し、時に本当に思ってることを何でも言うことで信頼関係を得れると信じているキャラを演じ、時にあえて先輩風をふかせながら冷静なアドバイスをするキャラを演じ、時にとても落ち込んでいる姿を魅せて、そして時に、純粋で元気でバカな後輩を演じる。

 どの状態でも(どうしても少なからず)演技をしているけれど、俺が、この相手に、この今の瞬間は、このキャラを提供したい、と思っていることは、俺自身が決めている。それを認識し続けている自分を、信頼関係の中で演じ続けている限り、自分を見失わないはずだ。

 だからこそ、信頼関係のあると信じている人とは、ちゃんと会いたくなる。だって、人は場所と共に記憶するから。
 でも、場所に依存しなくても、信頼関係がいつまでも成り立つはずだと信じていたい自分も存在している。ねぇ、どんな類いの俺を選んだとしても、きっと収束地はカワラナイ、、大丈夫なはずだよね?ってね。
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「君は何がしたいのか?」って言うな!

2017-10-09 02:41:34 | Weblog
 若者に対して「何がしたいのか?」と問われることが多い今の世は、理想の押しつけの完成形なのかもしれない。
 本質的には選択肢の殆どない窮屈な世の中であるにも拘らず、希望についての大義名分だけは持たせておいて、それを窮屈さに服従する理由付けにしている。後から厭になっても、「君が望んだことだろう?」と。

 そもそも俺は、基本的に、(自分の世代も含め)若い世代の子が、「自分は○○がしたいんだ!」という風に得意げに語る姿は好きではない。漠然とした抽象的な目的意識があるのはとても良いことだが、例えば高校生や高校生上がりの子が、この研究がしたいんだ!、なんて具体的なことを言い出したら、「本当にそれで良いのだろうか?」と問いつめてしまいたくなる。
 世の中には楽しいことに溢れている。ネット上には一生涯では見切れないほどの楽しい動画が格安で溢れ、Twitter1つとっても新しいアイディアからくだらない冗談まで厭きさせない。若ければ、交友関係は死活問題であるだろうし、恋愛関係もあり、勉学だけでなく(気持ちの上では)並行してスポーツや音楽や芸術をガチでやっていることもあるだろう。
 これだけの情報量の中で、アカデミックな研究分野をどれくらいの時間をかけて精査したのだろうか?あまり時間をかけていない(せいぜい総時間で1週間以内)にも拘らず、自分がやりたいことを正しく判定できていることは当然視し、(本来はグラグラの)その「やりたいこと」に向けて(あらゆる行動を努力として解釈しながら)注力してしまうような、賢さの欠如に自分自身で気がついていないことを、おせっかいなことに気がつかせてあげたくなってしまうからだ。

 ある時点で自分が決めたから、好き。
 それ(この分野、受験勉強、彼、彼女etc)に費やしてきてしまった時間を、無意味だと認めたくありません。

 ただこれだけなんじゃないの??
 ただこれだけのことだと矮小化できずにイイワケと大義名分造りばっかり上手になってるくらいなら、「自分には何がしたいのか、よくわかりません」と言っているほうが、よほど聡明だし、よほど正直だし、よほど可愛げがある。

 そして、「私にはやりたいことなんてないから、社会人として、貴社(この研究室)の価値観にすべて従います!」と正直に宣言して就職活動や研究してしまうほうが、手っ取り早いし、賢いと思うのだが、、これまで自分の子供に理想を押し付けてきてしまった「おじさん」たち世代と、その「おじさん」を影で牛耳ってきた「お母さん」たち世代は、それを赦してくれるはずが無い。
 「君たちにどれだけすでに投資したと思っているのだ?やりたいこともないのか??」と自分の子供と志願者を重ねながら、しかし社会人としての若き日の自分の姿とも重ねてしまうから、あなたとあなたの所属組織にとっての「良い人材」がなかなか見つからない。会社にとって、もしくは研究社会にとって、「現実的な」良い人材を見つけるのは簡単だし、あなたにとっての「理想的な」良い人材を見つけるのも簡単だ。評価者の理想と現実が、ここ30-40年くらいの長い分業化により、乖離しすぎているために、原理的に見つからないだけなのだ。
 若者が使えなくなったのではない。むしろ、若い世代になればなるほど有能な人材は増えている。選出する側の人間の価値観が時空間的に分裂しており、自身の要求が無矛盾に解けていないことが問題なのだ。

 そう、なるべく分業を辞め、分野という考え方そのものを除外し、理想を誰かに押し付けずに自分が達成しようとし、かつ現実的な側面から目を背けてはいけないのだ。これができない限り、日本社会における残酷な「生贄文化」は終わらないだろう。
 つまりこの先も、なかなか、希死念慮と自殺者は後をたたないだろう。きちんと発表されているだけで国内の年間自殺者数が3万人を超え、一説には10万人はいると言われていおり、さらに未遂に関しては、その10倍はいるといわれている、この腐った日本社会は、この先もカワラナイ。

 だからまずは、「ストーリーを創りたがる」、そのくだらない考え方を排除しようぜ。
 「やりたいことを主体的にやって、現実ではこう難しくって、でも、こんな仲間がいてくれたおかげで、なんとか自己実現しました。で、これからは〜」・・・という、こういうくだらないストーリーのテンプレートを有難がってる限り、あなたは進捗しないし、新しい物事も生み出せないし、当然ながら幸せにも到達しないだろう。

 平衡状態だって複雑で、ストーリー化するには無理があるケースだって多い。
 ましてや、非平衡の生命現象の、しかも多細胞系の、ほ乳動物の、もっとも知的なヒトとヒト同士との相互作用を時系列で表象しようとしたときに、何かの「わかりやすい」ストーリーで解釈できるような人生を本当に歩んでるんだとしたら、これから歩もうとするなら、なんてくだらない人生なのだろう。なんて(自分自身を)誤魔化した人生なのだろう。そして、なんてもったいない生き方なのだろうと思う。

 好きに生きるためには、集団に無理してアジャストしないこと。一人でも大丈夫な時間を増やすこと。
 もしかしたら、引きこもっているような人ほど、現代の生き方として、正しいのかもしれない。

 しかし、結論がエピクロスと同じ「隠れて生きよ」とは、、やはり今の社会は不穏なのかもしれないなぁ笑。
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理想のひな型

2017-10-05 01:21:50 | Weblog
 自分のなかで理想を構築していくことと、理想のひな型が自分の頭のなかに居座っていることとは、明らかに違う。
 世界中に散らばる沢山の名文句や理想的な名シーンをいちいち自分の心と体験の中に飲み込みながら理解して、自分固有の理想を構築し続けていなくては、幸せには到達しない。理想のひな型を丸呑みして、それと異なる現実を排除していくやり方では、むしろ不幸を生んでしまう。

 理想のひな型を妄信してしまうと、理想が妄想化されてしまう。理想とは、現実に根付いた、期待している未来なのだが、自分の未来そのものを誰かが造ったひな型に身を任せてしまう、そのちょっとした怠惰さこそが、破滅を生みやすくする。いつしか、目を閉じながら、「これが幸せなんだ」と自分に言い聞かせるような生活を強いられるようになってしまうだろう。
 理想のひな型のなかの人物を演じれば演じるほど、はじめは確かに客観性のある一歩下がった系の見方ができて楽しめていたはずなのに、どんどん抽象化されない一個人としての遣る瀬無さが蓄積する。

 こんな痴話喧嘩をしてみたい、って理想のひな型なのか、本当に心から怒っているのか、そのちょうどオンラインに立っている瞬間、左側に現実を見据え、右側に自分の理想を構築していこう。
 だって、演技でケンカしているのか一線を超えて演技じゃなくなっちゃったのか、わからなくなったときの切なさの行き場を、相手が偶然に同じひな型を持っていることこそが運命だと悪戯に名前をつけてしまうような拠り所に託してしまうと、お互いの行き違いが現実となって直面した瞬間に、誰とも分かち合うことができなくなっちゃうから。だから、ほら、また一人で、電車を待ちながら、泣きそうになってきちゃうでしょ?

 でも、だからといって、完璧に努力だけで決定づけられる幸せに魅力を感じないのも、それはそれで事実。
 ある程度の割合で偶然性に運命と名前をつけてみても良いけれど、、それは、あくまで、必然性をベースとした上でのおまけ。ただ、そこに、ベースとしていたひな型の1つが共通であることに、ときめきを感じるくらいの余裕はあってもいいかもしれないよね。

 誰かにとって瞬間的に嫌がるかもしれない問いを投げかけることで、何かの議論を提供した瞬間に、いつも俺が感じるのは、この人たちには、アツくなれるだけの権利がある幸せがあるのだなぁ、ということ。(俺がしかけるような)現実世界のくだらない争いには、常に、参加権を持っている人と、蚊帳の外を強いられている人とに分かれる。そして、参加している人は、自分(の習慣こそ)が正義であることを、問いを発した(俺などの)本人に対して、異常だと宣言することでねじ伏せようとすることに躍起になるばかりで、その議論そのものに原理的に参加できないでいる人のことなど、気にも留めていなかったりする。
 世界を敵にまわしても、、を日常的に実戦できる技術が確立されている現代、自分の理想を試すには絶好なのだ。

 だけど、しょせん俺は勝てるゲームしか仕掛けないことを、きっと見抜かれているだろうと思う。
 それは、、貴女が、混じりけの無いくらいに純粋で、理想のひな型を大事な想い出として胸にしまい込んでしまい、否定しようがない幼さに囚われ続けていて、俺がそんな姿に囚われ続けているから。

 不純になる権利もあれば、これまでの理想のひな型を捨ててしまう権利もあるし、ひな型をベースに自分固有の理想を構築する権利もある。
 もちろん、これまでのように、理想(のひな型)じゃないからって、時を止め続ける権利もあるんだぜ。

 何をしていても、原理的に失敗しないのだから、好きに生きれば良いさ。俺は、俺が創った理想のひな型を、ただ提案しているだけなのだから。
 ただし、できるだけ、本トの笑顔でいてほしい。それだけは、押し付けていたいな、と思う。
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