事実を掌握するための方法やスタイルを語りあうことで意見を戦い合わせているときに、「これは僕の方針だから、それに合わないのなら」などと相手と決別することを脅し文句に、権威によって意見を押さえつけようとする人間は、常に負け続けている。なぜなら、論議の負けを認めないぞ!俺は偉いんだから!と高らかに宣言しても、自然現象は残酷で、だからといって別に真実を掴むことはできないし、成功することすら絶対にできないからだ。
どんな状況でどんな立場であれ、真実を発言しようとし、そこに向けて正しい方法をとっている者が最善であり、それ以上でもそれ以下でもそれ以外でもない。これはどのようなフィールドでも同じだと思う。
そもそも、人生をあったかいホンモノの信頼関係のなかで常に楽しみ、それがずっと続くように生きていきたいならば、人生はギャンブルである、という認識を強く自分に言い聞かせることである。こう信じ切ってしまうことで、ギャンブルじゃない部分に関して、本気で習得してしまおうという気になってくるものだ。
あなたが、どんなに難しいと思っていることでも、理解すらできないことなど、それほど多くはない。どんなに難解な数学書でも、どんなに難解な哲学書でも。能力や実力が足りないから今の自分では習得できないと思っている事柄の99パーセントは、ただ単純に、めんどくせーからやりたくねーし!、と決めつけているだけである。
そして、人類が確実に理解できうる、形式化された論理展開に沢山ふれて、自分の考え方と思考力を着実にしていくことで、徐々に能力と実力を向上させていき、いずれ未開の問題にアプローチする。。
いや、、思考が精緻化されていない段階で、無謀にも絶対解けるわけもない問題を考えてみることにこそ、もしかしたら、手っ取り早い思考力向上が含まれているのかもしれないね。いつまでもシュートを打たないで精緻化されたパス回しを目指すことよりも、とりあえず枠にシュートしてしまう気持ちを持つことのほうが、俺は重要なんじゃないかと思っている。
たとえば、俺は初めて
1時から2時のあいだで、時計の短針と長針が重なる時刻は何時何分か?
という中学入試の基本問題を読んだ時、すぐさま『太陽系のすべての惑星が一列に並ぶことは何年周期か?』という無謀な戯論をしたくなった。
大学で物理を学んで、三体以上の問題は可積分でないことを知り、厳密には原理的に解けないことを知ったが(それに惑星の公転は円ではなく楕円だ)、その想像をしたことは俺にとっておそらくプラスだった。ちなみに、単純に公転周期から計算して良いのなら、最小公倍数を考えれば良いので、ただ単純に惑星全部の公転周期を掛け算すればいいだけ(だと思うん)だけどね。
無謀で壮大な問題に対して、まだ精緻化されていないから、まだコントローラブルじゃないから、まだ系の要素をすべて分けられていないから、とか言い訳していないで、とにかく今すぐにでもできることをやってしまいながら、技能を身につけ、あらゆる政治に恐怖を持たないで、真実をただしゃにむに追い求めていく、というスタイルで良いんじゃないだろうか?と最近特に想う。それってとても楽しいことだし。
いずれ、土星最大の衛星でフランクリン・ルーズベルトから、まったくどうでもいい、全然大したことのない人類の最終目標を告げられるんだとしても、、それまでの間、誰かに利用され続けるのだとしても、とにかく、その中で無理矢理にでもより良く楽しもうとすれば、それこそが至上なんじゃないだろうか?と俺は思うのだ。
どんな状況でどんな立場であれ、真実を発言しようとし、そこに向けて正しい方法をとっている者が最善であり、それ以上でもそれ以下でもそれ以外でもない。これはどのようなフィールドでも同じだと思う。
そもそも、人生をあったかいホンモノの信頼関係のなかで常に楽しみ、それがずっと続くように生きていきたいならば、人生はギャンブルである、という認識を強く自分に言い聞かせることである。こう信じ切ってしまうことで、ギャンブルじゃない部分に関して、本気で習得してしまおうという気になってくるものだ。
あなたが、どんなに難しいと思っていることでも、理解すらできないことなど、それほど多くはない。どんなに難解な数学書でも、どんなに難解な哲学書でも。能力や実力が足りないから今の自分では習得できないと思っている事柄の99パーセントは、ただ単純に、めんどくせーからやりたくねーし!、と決めつけているだけである。
そして、人類が確実に理解できうる、形式化された論理展開に沢山ふれて、自分の考え方と思考力を着実にしていくことで、徐々に能力と実力を向上させていき、いずれ未開の問題にアプローチする。。
いや、、思考が精緻化されていない段階で、無謀にも絶対解けるわけもない問題を考えてみることにこそ、もしかしたら、手っ取り早い思考力向上が含まれているのかもしれないね。いつまでもシュートを打たないで精緻化されたパス回しを目指すことよりも、とりあえず枠にシュートしてしまう気持ちを持つことのほうが、俺は重要なんじゃないかと思っている。
たとえば、俺は初めて
1時から2時のあいだで、時計の短針と長針が重なる時刻は何時何分か?
という中学入試の基本問題を読んだ時、すぐさま『太陽系のすべての惑星が一列に並ぶことは何年周期か?』という無謀な戯論をしたくなった。
大学で物理を学んで、三体以上の問題は可積分でないことを知り、厳密には原理的に解けないことを知ったが(それに惑星の公転は円ではなく楕円だ)、その想像をしたことは俺にとっておそらくプラスだった。ちなみに、単純に公転周期から計算して良いのなら、最小公倍数を考えれば良いので、ただ単純に惑星全部の公転周期を掛け算すればいいだけ(だと思うん)だけどね。
無謀で壮大な問題に対して、まだ精緻化されていないから、まだコントローラブルじゃないから、まだ系の要素をすべて分けられていないから、とか言い訳していないで、とにかく今すぐにでもできることをやってしまいながら、技能を身につけ、あらゆる政治に恐怖を持たないで、真実をただしゃにむに追い求めていく、というスタイルで良いんじゃないだろうか?と最近特に想う。それってとても楽しいことだし。
いずれ、土星最大の衛星でフランクリン・ルーズベルトから、まったくどうでもいい、全然大したことのない人類の最終目標を告げられるんだとしても、、それまでの間、誰かに利用され続けるのだとしても、とにかく、その中で無理矢理にでもより良く楽しもうとすれば、それこそが至上なんじゃないだろうか?と俺は思うのだ。