たかはしけいのにっき

ミネソタ大の博士研究員が書く日記です。

自信の無さを押し付けるスパイラル

2017-01-30 02:42:00 | Weblog
 ある価値観について、多数派からの迫害に合わないためにと絶対視していることに、意外とみんな気がついていないことが多い。

 「それは当たり前でしょ?」と疑いなく多くの人に受け入れられているようなある価値観を押し付ける人たちに、「もう少しきちんと議論してみよう」などと言えば、すぐに"その当たり前"の否定派だと認識され、敵認定されるだろう。あくまで議論してみようと推進しただけなのに、どっち派だとかあっち派だとか、無益な決めつけに付き合わされる。
 価値観の強要は暴力に等しい。その価値観の是非について議論することすら許されないならば、少なくとも自由度的には悪い状況のように俺には思える。

 あることは絶対に良いことだということも(ほとんど)ありえないし、あることは絶対に悪いことだということも(ほとんど)ありえない。特に、ある人が絶対に良い人だということは絶対にありえないし、ある人は絶対に悪い人だということもありえない。あくまでも状態として存在するだけだし、気持ちは言葉で一つに収束させられるものではなく、雲のようにふわふわと密度を持つものだからだ。しかも時間変化する。

 この考慮の無さが蔓延しまくっていると、本当にツラい。だから、基本的にそういう場には行きたくないのだ。
 だって、結婚式で「この二人の結婚は本当に価値あるものだろうか?」などと語りだしたら、ドンビクでしょ?葬式で「彼(女)の人生にはどれほど意味があっただろうか?」と言おうものなら追い出される。その議論をする場ではないからだ。
 無条件で、価値のある行為だと承認しなければならない。無条件で、人生には価値があったと認めなければならないのだ。そこに議論をするための余地は一切含まれず、無条件に受け入れさせられる。

 (ある程度)基本中枢としてこう思っている俺ですら、厳格な場においての非常識な行為に対して寛大な態度ではない(むしろ他者よりも厳しいくらいだろう)。それは、茶番やキレイゴトからのホンモノの創発を孤独に願っているからである。
 まったく別の視点から観てみると、その意義に気づかされるだろうと思う。キレイゴトが掲げる目的は確かにくだらないこともあるかもしれないが、それだけではないはずだ。気持ちに限らず、行為の主目的さえも、雲のようにふわふわと密度を持つものだからだ。それを我々はよく分かっている。だから、"親の顔"と呼んでみたり、"子供の顔"と呼んでみたりするのである。

 しかしながら、もう少しくらいは、価値についての議論の時間を設けたいものである。現代社会はあまりにも忙しすぎる。
 そして、周囲への説明責任が大きすぎるのである。職場を選ぶのにも、彼(女)を選ぶのにも、なんやったらTwitterのフォロワー一人に対してでも、常に「周囲からどう思われるか?」を気にしなければならない。だから、本当の自分の理想を語るのではなく、自然と他者から認められるであろうファクターを正確に理解しておく必要があり、それを自分の理想に追加することになる。本当は、楽しく自己実現していけさえすればいいはずなのに、そこに社会的要素を追加したがるのである。いや、実はそんな生易しいものではない。多くの他者から称讃されるであろう価値観を中心に置きながら、そこに自分の気持ちを追加できる場合は追加してみる、というような人がほとんどなのではないだろうか?

 なぜ?って、そりゃ、みんな、自信がないから。だから、自分の人生なのに、自分の価値観よりも、社会的にわかりやすい価値観を優先させてしまうのである。

 そういう人たちが子供(学生)を育てれば、彼ら彼女らをそこにアジャストさせるようになる。
 このスパイラルの加速を感じて不安になることもあるけれど、、俺は自分の価値観や判断力の構築のさせ方に絶対的な自信があるから、きっとどうにかできるはず、っと思い込んでいる。
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"言葉への冒涜"が齎す集団の崩壊

2017-01-27 01:47:25 | Weblog
 どんなことでも、言葉の選び方ひとつで、印象が変わってしまう。

 印象が変わるということは、言葉の選び方ひとつで、評価が変わってしまうということだ。
 たとえ小さいことでも言葉を大きく選べば大きいと思ってくれる人が多数派になってくれる可能性が高くなるし、大きなことでも大したこと無いように話せばナメてくる人が多くなるのも事実だろう。実際どうか?、本質的にどうか?ということよりも、多くの人は自分の固定観念を相手の印象に当てはめることで評価する。よーするに、ズレをさらにズラされる。着痩せしたり、着太りしたり、そこに、こんな服着ている人はどーせこんなんだろ?、というのが入る、という感じである。

 "だから、なるべくなら、言葉の使い方を沢山マスターしたほうが良い"と思うのが普通だろう。これはその通りだ。
 しかし、俺は、言葉は便利なものなんかじゃなく、言葉ほど虚しいものはないんじゃないかと思う。

 ただの暗記を「これは"原理"っていうんだよ」と言ってみたり、ただの規律管理を「"安全"管理として」と表現してみたり、ただの蚊帳の外を「僕は"平和"主義です」と言ってみたり、好きでもないのに「"愛"してる」と言ってみたり、言葉への冒涜を繰り返したしっぺ返しは大きい。
 誤魔化すのに使った言葉が本質的な側面を表しているほど、「本質は捉えられているはずなんだ!」と勘違いしやすくなってしまい、その本質が失われてしまうから、系の崩壊を招く。これらの例であれば、順に、原理が不明瞭なままの曖昧な学習(というか作業)になるし、安全が確保されずめちゃくちゃ危険な管理体制になるし、平和ではなく戦乱が生じやすくなるし、愛がないことが日常になってしまうだろう。

 確かに、その瞬間は誤魔化した方が凌げるかもしれない。ラクかもしれない。しかし、誤魔化せば誤魔化すほど、虚しくなる。そのしっぺ返しを被るのは、意外と近い未来なのだ。
 言葉を正確に使う、というのは、本当に難しいことだ。他人からより良く見えるように、嘘にならない範囲で最高の評価を得やすいような言葉をチョイスしていると、結局のところ、より大きな集団からの信頼は勝ち取れない。
 理系の研究の世界がこの性質をモロに持っている。研究者界隈でやってるぶんには、(少なくとも)短期的に(下手すると長期的にも)困らないかもしれないが、現在においても世間からの大学(という場所そのもの)の評価がどんどん下がっていることに、大学にいる人間はまったく気がついていないという、視点の低さが顕著になりつつある。現在の若い世代が教授になる頃には、大学はどうなってるだろうか?きちんと考えるべきだ。

 多くの人は勘違いしているが、集団の崩壊というのは"本音"によって齎されるものではない。
 長年の"誤魔化し"の蓄積、特に"言葉への冒涜"の蓄積によって崩壊するのである。

 そして、それらをどうにか立て直すときに必要なのは、本音を臆せずズバズバ言うことができ、なるべく正確に言葉を使いながら本質を見極めていく実力のある人間なのだ。
 つまり、私だ!(っと、たまには冗談で終わっておこうかな、もう眠いし笑)
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優等生気取りと怠惰系開き直りタイプ

2017-01-24 01:48:11 | Weblog
 "なるべく失敗しないで最短コースで人生を歩みたい。そのためなら一時的にでもどんな価値観にも心を染めよう"
 こう思っている限り、どんな自己実現もできないだろうと思う。

 俺が何かの考え方やメソッドを話したり提供したときに、そこに個人で構築した価値観を何も入れ込まないままに、"ぜひ失敗しないための方法を教えてください"という優等生風を吹かすヤツも、"こんな環境だから自分が怠惰なのは仕方ないですよね?"と開き直るヤツも、俺は等しく呆れてしまう。

 優等生気取り君は、"自分だけにお得な情報を"と考えているところが、おこがましいのである。俺が、自分の価値観のもと、全力でぶつかった経験を、単にコスパの良い材料としか思っていない。
 へーこらしていると見せかけて、いずれ本性を現す。俺のことを、「もっと正統派に努力すればスゴいのに」などと勝手に評価をし始めるから、悲しくなってしまうことが多い。「ブログや、感情など、余計なことに思考を使っている時間を、すべて実験や研究にまわしたら、スゴいヤツなのに」と思っているような、こういうバカに飽き飽きしている。俺が、あなた方の方法では絶対得ることができない"考える能力"を維持できているのは、こっち側のおかげでもあることを何もわかっていない無能力さを、俺は擁護してあげられないからだ。
 このタイプは、俺を一時期かってくれたとしても、表層的な俺の能力だけをかってくれている点で、こちらが虚しくなってしまうのが常である。

 一方、怠惰系開き直りタイプには、"自分が怠惰で居続けるためのロジック"として、俺の経験を勝手に追体験することで、先回りして分かった気になっているから、同様の残念さを感じる。
 全力でやってみて、ぶつかってみて、どうだったか?というような経験もしていないで、勝手に「何やっても同じですよね?だから努力なんてしないほうがいいですよね?」というように、俺と自分を同一視してくることが、え?って思うのである。この辺りが、多くの理論研出身者が(実験という圧倒的な現実をきちんと自分の目で観てみようとしないから)ダメだなぁと思うのと同じことなんだけど、何かの同じ帰結に(思えていることに)辿り着いているからといって、同じ部類のヤツだと勝手に分類しないで欲しい。自分の価値観のなかで、実際にぶつかってから同じ理詰めを得ているならまだしも、、俺の話を、自分が怠惰であることの正当性の証明に使わないでね、っと思ってしまう。
 こっちのタイプは、たいてい、俺がやや成功しはじめると、(俺だけが)ラッキーでイイなぁ、と思い込もうとする点で、こちらが虚しくなってしまうのが常である。

 この二つのタイプの"勘違い君"たちは対立的な構造になりがちである。どちらにも正しいところがあり、どちらにも悪いところがあるのだが、両者ともに、自分こそが正統的だと思っている。それ自体は間違っている。共通して言えるのは、「自分が構築した価値観を基準に生きていない」ということである。
 だから、かなり不条理なことでもその先のより良きを妄信し、いくらかの偽りを認識してもとにかく何かを成立させようと没頭することで、真実を観ないことが習慣化してしまう。
 だから、少しでも不条理な香りを感じたら全面的に逃げ、いくらかの善意がチラ見えしても何かの枠組みから逃げ続けることで、真実を観ないことが習慣化してしまう。

 まず、ベースをきちんとゆっくり考えてみること。その上で、チャレンジしてみること。それらを繰り返して、自分の価値観を更新し続けていくこと。
 そのような当たり前のこともしていないから、自分の経験が枚挙的になり、経験した意義がいちいち失われていくのである。自分が持っている哲学をベースにしながら行動原理を決め、いくらかのチャレンジをしながら、自分の哲学を更新していけば、勝手に頭は良くなるし、成立するし、多くの人から信頼を得られる。
 そっちのほうが早いし楽しいと思わないのかい?それとも、とにかく今、泡沫の業績か、実の無い論理に、しがみつきたいのかな?
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幸せとは何か? -思考力向上の行き着く先-

2017-01-20 01:48:23 | Weblog
 "幸せとは安定することだ"と定義してしまうと、同じやり方で枚挙的に繰り返し探究し、時間と予算をかけることこそが研究と奉仕の唯一の方法に思えてしまうだろう。
 人間は生命現象であるから、安定に幸せの行き着く先を持ってくると"死合わせ"である。それを誤魔化すために、満足しない現状を、非現実的な空想や信仰で埋めようとしてしまうのだ。たとえば、私はこのアイドルに熱中している時は辛いことだって忘れられる、と現実を観ないことを前提にしたホンモノを望むようになる。

 俺は何も、その信仰を全否定しようというのではない。いや、一部でも否定をするつもりはない。
 ただ、幸せの捉え方を、少しだけでも捉え直した方がよいと思うのだ。じゃぁ、幸せって、どう定義されるの?そもそもそんな主観的な感情・状態認識を定義できるの?他人の勝手じゃない?と、貴女は思うだろう。あせらない、あせらない。まずは逆から考えてみよう。

 幸せはやたらにイメージがつかないが、不幸せは簡単に共通のイメージを作ることができる。不幸せとは、平均的な不条理よりも、自分だけが、より多くの(または/かつ)より大きな不条理を享受していると感じることだ。こう決めつけてしまえば、世の中のほとんどの人は、なんらかのカタチで絶対に不幸ではある。
 いや、あの人よりも絶対に私は不幸せで、それは私の努力ではどうにもならない仕方ないことだ、と思うことはそりゃあるだろう。そこなのだ。仕方ないのだとしたら何故納得できないのか?往々にして、思考力を持ってして、その個人的な偏差を時間依存的に考え尽くしたときに、本来の偏差よりも多くの偏差を背負ってしまう状態こそが、不幸せ(もしくは絶望)なのだ。もちろん、あらゆる初期条件や環境依存性によっての偏差はあるだろう。しかし、それらは、初めから仕方ないと認識できているなら、納得できるはず。だとしたら、それらを考慮したとしても、私にだけ不条理が降り掛かっている、ということを未来を想像したときに自己認識したときに、ヒトは不幸せだと思ってしまうのだと思う。

 これは、相談を受ける時の限界の原理に近い。本来的に−10の不幸を背負っている人が、今後自らに降り掛かるであろうリスクに思考力を使いまくりすぎた場合、−100の"みかけの不幸"を背負ってしまう場合が多々ある。相談を受ける人ができることは、−100を0に戻すことではなく、こちらが持っている思考力を限界まで使って、本来の−10まで戻すことだけである。この−10は初期状態で本来的に決まっている物理現象であり、原罪であるのだから。
 (ちなみに、飲んで騒いで忘れるとか、趣味だけをしまくるとか、アイドルをおっかけまくるとか、そういうことをしまくっていれば、一時的にはプラスに行くこともあるだろう。でも、それは、多くの場合で、ちょっと先の未来で、もっとマイナスにふりきってしまうことにしかならないと思う)

 俺は、結局のところ、幸せとは、この時間差としての"距離"なのではないだろうかと思う。よーするに、+10や+100なんて幻想で、絶対的にそうなってしまっても、ただの当たり前になって、みかけ0になってしまうのだ。
 −100から−10に戻ったら、幸せ度90ポイントゲット。−10から20になっても、幸せ度30ポイントゲットにしかならない。この蓄積こそ、幸せが当たり前のものにならないコツなのだ。
 "みかけ"は"みかけ"なのだが、"みかけ"によって、幸福度も不幸せ度も定まってしまう。もちろん、思考力の方向性の間違いに依るものだけではなく、実際に実力や財力を高めて幸せに近づけることもあるかもしれない。しかしながら、能力や所得を増やしたとしても必ずしも幸福度を感じられないところからすると、方向性は一番に重視しなくてはいけないだろうと思う。そして、正しい方向性を知るためには、視点を高くする必要がある。

 そう、思考力向上の意義とは、本来の不幸よりも不幸を抱え込みすぎてしまっている人に対して、その荷物を本当の意味でおろさせ、正しい新たな道や方向性を掲示するために存在しているのだ。

 貴女のためなら、俺は、どんな木にも登ろう。必要な木に登るための思考力が足りなければ、その木に登るための思考力をつけようではないか。さらに必要ならば、ずっとリンゴの木(と月)を見つめ、運動方程式を発見し、宇宙船を発明して、地球を宇宙から見下ろしてやろうではないか。

 ってなれば、幸せなんじゃないかと俺は思う。
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同じものをじっと観つめることの意義

2017-01-19 01:20:53 | Weblog
 思考力を高める目的が、視点を高くしてあらゆる情景を俯瞰することで周囲を先導するためだとしたら、それに多くの時間を費やすような人生は私には虚しく感じる。

 確かに、思考力があれば、どんな木にも登ることができるかもしれない。どんな頂きがあっても、そこまで行って、座りこんで、そこから見える景色を楽しむことができるだろう。
 だけどそれは、小さい事柄の中にとても楽しいことが存在するかもしれない可能性を忘れてしまっている。ずっと同じものを観ていなければ気がつかないことは案外多いのだ。そう、、学部の物理学を理解していれば、化学や生物学、そして世界史なども、きっと簡単に理解できてしまうのだろう。それは認める。重要なところだけを把握するのには困らないのかもね。でも、それで他の分野もマスターするのは余裕だと決めつけて、そこに興味を失ってしまうのは、いささか勿体無いんじゃない?
 だって、それって、小説の冒頭だけを読んで、すべてがわかった気になっているのと、何が違うの?別に10年くらい同じものをじっと観ていることの意義は、あるんじゃない??

 当たり前だと思っている事柄のなかに価値観の限界がある。
 この言葉は、格言として、常に心に刻むべきなのかもしれない。

 たとえ全体が間違った方向に進んでしまうのだとしても、そこで得られることって、絶対にあると思うの。それに対して、視点の高い人間が勝手に俯瞰した結果としての価値観を、"そんな無駄なことをして"って押し付けてしまうのは、果たして本当に聡明なのかしら?
 そもそも、思考力が高ければ高所に行けるからそこから見下ろすことで正しい価値観を生むことができるはず、なんて少年ジャンプの価値観で小学生男子の発想。莫迦と煙は高いところが好き、ってね。どんなに思考力を高めても、幸せになれなかったら意味が無いし、、だいいち、高いところから情景を見下ろすという目的だけに立ったとしても、それは滑稽。だって、ずっとリンゴの木(と月)を観ていなかったら、運動方程式は発見できない。運動方程式を知らなかったら、宇宙から地球を見下ろすことはできないんだから。

 そもそも、思考力を高めるという行為も、自己目的化された行為なのだ。理由は無い。
 日々研究。日々勉強。いつまでも満足しないで、あくなき探究を続けるのって、楽しい!

 でも、、満足しないことを"これでいいんだ"って後天的に理解してるから、いつまでも幸せになれないのかも。
 そして、多くの研究者も、幸せにはなりにくいのかもしれないね。
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視野を広げるのではなく視点を高くせよ!

2017-01-18 03:13:49 | Weblog
 自分が当たり前だと思っていることの中に、自分の能力が上がらない原因が含まれていることはよくあることだ。
 何を前提としているのかは常に把握しておきたいし、ある前提を当然視することでの思考力向上を目指すことが周囲から観たときに(キャラづけしやすいから)無難ではあるのだけど、1年もしないで頭打ちになって、元気な実力主義者だったのが権威主義者になる過程を厭きるほど観てきている俺としては、もっともっと、視点を高くしていく必要があるかと思う。

 こういう話をしたときに、多くの人は、単純に視野を広くしてしまいがちだ。ただ単純に山道を歩き回るのではなく、自分の思考力で登れる限界の高さの木に登り、そこからの風景を掌握することが重要なのである。
 また、自分にとって"役に立つ"であろうと思える木に登ってしまいたくなることもよくある。そうではなく、とにかく、なるべく高い木に登ろうとすること。これが視点を高くするという行為なのだ。
 何のために思考力を高くするのかを決して忘れてはいけない。小さく狭い分野のなかでどうにか生き残るため、などというくだらない理由のために思考力を向上させるのであれば、何もしないほうがマシである。思考力を向上させる理由は、紛れも無く、高い視点を持つためだ。そして、なるべく正しく世界のメカニズムを理解し、皆を正しく先導していくためである。

 逆に言えば、思考力さえ高くしてしまえば、限られた状況の中でも、あらゆる木に登り見下ろすことができる。これは大きなメリットだ。
 俺は去年から重点的に世界史をばーっとおさらい(いや、初学に近いが笑)しているが、、学習していてかなり思うけど、学部レベルの物理学を一通りきちんと学んでいるからこそ、着目すべきポイントがめちゃくちゃ早く正確に捉えられていると自分では思う(自分で言うのもなんだけど)。物理さえ学んでいれば、最低限として、化学なんて1年で、生物学なんて3ヵ月でマスターできてしまうが、それは文系の分野にも応用できるに決まっている。
 そういう意味では、物理(か数学)をある程度(統計力学くらい?)のレベルまで先にきちんと学んでしまって、そのあとにやりたい分野の学習をするのがおすすめではある。というか、(一番調子にのってるときのモードの俺の意見としては)物理もちゃんと勉強しないで、いきなり世界史なんか勉強して何か意味があるのか?、と言いたくなるくらいである。

 価値というのは、高所から多角的に見下ろしているからこそ正しく判定できる。ただの資本主義ではすべてを語れるはずが無いし、需要と供給の関係だけでも語れるはずがないし、低い視点にいる人からすれば、思考力の伴った高い視点からのジャッジは"多角的"ではなく"他角的"にしか見えないだろう。なぜなら、モノゴトを三次元的に捉えられていないから。
 だから、思考力と言う名の筋力のある、高所から観えている人間の指示に従おう、とするのが理にかなっている。

 そう、本来は、この圧倒的な思考力の絶対量を伴う視点の高さこそがイコール権威だったのだが、、過渡期の現在、これが疲弊している。思考力の無い低所から見上げている多くの人間が、木に登れる側の人間たちが自分たちにとって都合の良い道筋しか示してこないことを見抜き始めているからである。

 だとしたら、、普段からこのページを読み切れるほどの思考力がある聡明な読者諸君なら、すべきことは、俺が言わなくても、わかるよね?
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鬱っぽい人へのアドバイス例

2017-01-15 04:42:06 | Weblog
 鬱っぽくて、ひきこもりそうな人、ひきこもりがちな人にアドバイスすることは、まぁまぁ多い。古くは小学生の時から、最近は相談メールでもそういう人がでてくる。
 そんな人たちに対して、俺がよくしているアドバイスの例(のなかで普遍的なこと)を書き出そうと思う。

 今日の内容は(特に)、これが完全に正しいと思ってるわけではないし、それなりに効果はあると思っているけれど、その人の人生を最後まで全部観てるわけじゃないので、ただ単純に俺はこういう風にしています、ということです、というのをご理解ください。
 基本方針と応用例を語ります。その前に、基本方針の基本格言を紹介しておきます。俺が頭の中枢に置いている一番の格言は、「自殺させないこと」。これだけを最低ラインにおいています。

 というわけで、スタート。


 基本方針1. 正規ルートに戻さない

 これは基本中の基本なんですが、学校にすぐに戻れるようにするためのアドバイスとか、すぐどこかにとにかく就職しようとするためのアドバイスとか、俺は一切しません。世間的に正しいと思われてる道に無理に戻さない、というレベルではなく、"無理に"を抜いて、世間的に正しいと思われている道に戻らなくても全然大丈夫だというロジックを語るのが基本。これを俺一人がやっても、どーせ、ひきこもってたり鬱っぽくなってる人の周囲は皆、すぐに正規ルートに戻そうとするから、まぁ俺くらいは良いかなぁ、みたいな。
 だいたいね、多くの人は、無理に正規ルートに戻しすぎなのよ。だから、またすぐやめる。心が疲れる。通常、鬱の人には「頑張れ」と言ってはいけないとか言いますが、俺は「頑張れ」ということは言います。ただし、正規ルートに戻るように頑張れ、とは言いません。そんなん、無駄ですから。

 基本方針2. とことん鬱になってみることを推奨する

 そもそも任意の人生には、鬱になったり、ひきこもったりする時期が、必要なのです。もちろん、人によって、1年で済んだり、1ヵ月で済んだり、1日で済む人もいますし、逆に10年や20年くらいはひきこもらないといけない人もいる。ですが、鬱期間が充実していないと、本当に薄っぺらい無難人間になりますから、それよりは、きちんと鬱っぽくなって、きちんとひきこもることが必要だと俺は考えています。
 その上で、中途半端はよろしくない。診断書がどーのこーのとかって提出して、社会的安定を認めてもらうとか、そういうのが意外と重荷になります。もちろん、いくら鬱になる期間が必要だってわかってても、生活していかないといけないですから、そういうのが必要なことは絶対にあるでしょう。でも、そこに頑張る要素を持ってくるとツラい。だから、正規ルートに対することはなるべく最低限にしてテキトーにして、内に内にこもっていく時間をいかにして多く取っていくか?という視点を持つことが大事になると思っています。

 基本方針3. 正規ルートで正常に生きている人こそが異常だと決めつける

 鬱は賢いのか?バカなのか?という議論がありますが、俺は賢いと決めつけて接することにしています。その上で、正常風味全開の無難な人たちは、鈍感なんだと決めつけます。
 なので、精神状態ヤバい状態の人には、難しい議論について来れるだろうと思って接します。で、経験上、かなり複雑なことを精緻に言っても、理解してくれる度合いが高いのが、精神状態ヤバい状態の人たちです。まぁ、けっこう残念なのは、こういう状態だった人が正常になってしまうと、一気に思考力のレベルが下がってる(ように俺には思える)ことなんだけどね笑

 応用例A. 「でも、どーせ死んじゃうし」を軸に議論してみる

 多くの普通の人は、「自分もいつかは死んでしまう」という圧倒的な事実をいかに誤魔化して生きられるかの競争をしているようなもんです。だから、せっかく鬱っぽくなっているのですから、とことん「どーせ死んでしまうのになぁ」ということを考えてみましょう、とアドバイスをします。
 どーせ死ぬんだから、だったら何をすべきか?どーせ死ぬんだから、とりあえず地球全体を観てみるかと思って、海外旅行にでも行ってみるかと思えれば、かなりラクなほうです。どーせ死ぬんだったら、今死んでも同じじゃん??!いやいや、圧倒的に長い時間、生まれる前の時間は、ずっとずーっと死んでたんだぜ?今が特異的なんだから、だったら、もう少しこの世界を楽しんでみたらいいんじゃないかなぁ?どーせいつでも死ねるんだから。でも今がめちゃくちゃツラいから、今一瞬でもラクになるために、死にたい?いやいやいや、だったら、そのツラいことからとりあえず全力で逃げてみちゃえばいいじゃん。死ぬ、まで考えられたんだから、余裕でしょ?何にもなくなっちゃうのはそこまで怖くないかもしれないけど、実際死ぬまでは長くて痛くてツラいぞ?だったら、最終ラインからの手前に無鉄砲になることが正解だと思えない??
 ・・・というようなことを、議論します。俺が論理性を鍛えられるというメリットもあるし笑、実際学ぶことが多いですから、俺はこの議題をとりあえずふってみることは多いです。

 応用例B. 哲学に頼ってみよう

 まぁ、鬱っぽい学問の代表と言ったら「哲学」ですよね?
 過去の哲学者はどのように考えていたのか考えることは結構有用です。最近オススメしているのは中島義道先生の本。中島先生本人が言ってましたが、「精神科医の知り合いがいるんですが、彼が言うには、精神病患者が私の本を読むと、完治することが多い、って笑」ということですから、効果は見込まれます。
 古典的な人だったら、キルケゴールの「死に至る病」とかカントの「純粋理性批判」とかは、おすすめ。別に原文なんて読まなくても良いですから、解説を読んでみよう。と奨めます。
 あとはねぇ、本屋に行って全棚まわってみよう、とかね。コレは俺は普段からやってるんですが、、本屋行くと、行かない棚がないから長いのよね笑。へーきで2時間以上いたりとかしちゃう。で、気になった本はとりあえず全部手に取ってみる。本当に鬱度合いが高くて、かつ生活に困ってないなら、全部ぜーんぶ読んでみたら?そんなんしてれば、30年くらい経ってるよ、きっと。こういう人生もかなり有意義だと俺は思います。
 本は人類の財産の蓄積です。たいていのことは、すでに全部書いてありますから、あなたの悩みも解決するはずです。ご安心ください。

 応用例C. 無駄なことを一生懸命頑張ってみる

 小学校の頃、消しゴムのカスでごにょごにょしてるヤツっていたでしょ?まぁ、あんなイメージね笑。で、これを徹底的にやります。別に一つに決めなくても良いんですが、とにかく無駄なこと、成功する確率が極端に低いことをやってみましょう。
 例えば、少し元気があるなら、憧れてはいるけど現在なーんにも募集は出していない企業に、履歴書送ってみるとかね。アカデミックの世界だったら、世界のなかで本当の本気で最もスゴいと思った教授に"あなたのラボで研究したい"とかってメールを書いてみるとかね。とにかく、社会的に観れば、まったくの無駄な努力、ということに一生懸命になってみるのはいいことです。失敗しても大丈夫。失敗するってわかってたでしょ?公募だしてない企業に応募して落ちて、落ち込むか?当たり前やん。でも一生懸命やってみましょう。自分の"憧れ"を磨けます。直観が冴えてれば、結構な確率で、返信だけは来ますから、それだけでちょっと元気になりますよ。かといって返信が来なくても、どーせ最初から無駄なんだから、落ち込まない。
 もっと、どーでもいいことでもいいです。剣玉を本気でやってみるとか、ミニゲームに打ち込んでみるとか。結果が絶対にどーでもいい、でも自分が一生懸命になれることを探して、時間の許す限り、それをとことんやってみましょう。

 応用例D. 明晰夢くらいはみられるようになってみる

 (まぁCと似てますが)ひきこもってたりして、世間の人よりもせっかく沢山寝てるんですから、明晰夢くらいはみられるようになりましょう。明晰夢というのは、"コレは夢だ"と認識しながらみる夢のことです。
 やり方とかはネットを探せばいくらでも出てきます。絶対に明晰夢がみれる!というようにするのは難しいですが、確率を高めることは努力でできますから、トライしてみてね。これが出来ちゃった人は、幽体離脱も同じようにできるみたいですから(これは俺はできたことないけど)、やってみたら良いと思います。
 ・・・という、怪しい方向に持っていくつもりは無いんですが笑、、ただ、メディテーション(何も考えないことに集中する)というのは、結果的に思考力向上に役に立ちますから、どーせ死ぬとか死なないとか考えたりして、しかも他の雑多なこともいっぱい考えたりしてるんですから、たまには休憩に対して一生懸命になるのは良いと思うんだよね。結構、難しいし。

 応用例E. 自分よりも精神状態がヤバい人を探して、その人を助けようとしてみる

 登山でツラい時に、どーすべきか?それは、他人の荷物を持つことです。地震や災害などの緊急事態に冷静に対応するためには、どーすべきか?それは、キャー!キャー!って叫んでる人に「大丈夫だよ」と声をかけることです。
 精神状態がヤバい人は、今の時代、沢山います。助けることは助けられること、助けられることは助けることです。身の回りで、自分よりももっと精神状態がヤバくて、ひきこもってて、鬱っぽい人を探して、インタビューして、助けてあげましょう。すると、何故か、自分が(自分のなかの)正常に戻っていくはずです。


 というわけで、挙げてみましたが、、一般には、共感されないだろうなぁ笑。
 でも、結果的に、これで今のところ上手く行ってるように思える。まぁー、もちろん、これで精緻じゃないこともあると思うし、ダメなところもあると思うんだけど、とりあえずは、こんなもんかなぁと。
 俺個人が、もっともっと更新しないといけないのよね。せいぜい頑張ります。

 んなわけで、最近は相談メールを募集しています。

お悩み・お便りなどについて、私に直接相談したいと思ってくださる場合は、相談内容を明記の上、こちらにメールしてください(_attoma-ku_を@に変えて送信してください)。基本的にどんな相談もお受け致します。匿名で構いませんが、所属や名前を仰ってくださったほうが、相談にはのりやすいです。相談内容は決して口外しませんのでご安心ください。
soudan.atamanonaka.2.718_attoma-ku_gmail.com


相談メールについて詳しく知りたい場合はこちらをご覧ください。相談を受ける上で俺が守るべきルールを書きました。

 是非、よろしくね。
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不安期と優越期と雑務期に囚われない生き方

2017-01-12 01:52:31 | Weblog
 これまである種の憧れだった言葉を伴う仕事を任されると、はじめ不安になる。
 最初の憧れが強ければ強いほど、一般認知度が高ければ高いほど、自分にこんなことが務まるのだろうか?と悩むことになる。分不相応なんじゃないだろうか?と。

 何事も慎重に扱うようになるし、なんでもかんでもきちんとするようになる。この期間が長ければ長いほど成長しやすく、能力も上がりやすい。
 だが、しばらくすると慣れてきて、優越感を覚えるようになる。始めてから今まで、少なくとも特に何も問題を起こしておらず、それなりに成り立ってきたことそのものに対して、安心を覚えるだけでは済まず、優越感を抱くようになる。自分は今まさに、この誰もが羨む業務を遂行するに値するだけの立場を得られ、我こそがきちんと判断してやる、きちんと仕事してやる、とね。

 不安期、優越期、この2つはそれなりに憧れとの相関がある。初めの憧れが大きければ大きいほど、不安の度合いと時間の面積値は大きくなり、優越感を抱く度合いと時間の面積値も大きくなる。さらに、不安期の不安の値があまりに大きく、しかも期間が長いと、優越期間は最初の憧れによる寄与だけではなくなり、これまでの不安も手伝って、もっともっと傲慢に、しかも長くなるのである。

 だが、この2つの期間は有限であることを忘れてはならない。この2つを超えると、ただの雑務期になるのである。
 この雑務期は、以前の2つの期間に比べると、ものすごく長く、なだらかな下り坂である。不安期と優越期は、短いと1日、かなり長くても1年だが、雑務期は下手をすると、20年30年、簡単に経過してしまうだろう。
 この雑務期に入ることを、"大人"と定義する、(無能だと言わざるを得ない)人もいるくらいである。まぁそれはマジョリティではなく、多くの人は社会人教に入ることを大人だと定義するんだけどさ(cf. 社会人教と今後の世界)。

 "慣れる"ということと"能力を高めるorランクアップする"ということは、明確に違う。この違いを理解できないと、人生は一気に空虚なものに真っ逆さま。いつまでもハッピーエンディングを迎えられないだろう。
 ここが分からないと、どうしても"成り立つ"ということを最優先してしまい、妄想のなかに捕われていってしまい、理想を語る者に対して、"理想じゃなくて、現実を観ろよ"と、二重に間違ってることを宣言してしまう無様さを露呈してしまうだろう。カタチだけつぎはぎに作ったモデルに、ホンモノを妄想することで、現実を直視することが困難になってしまうのだ。

 不安期と優越期を超えたら、すぐに新しいことをし始めるのがベスト。だって、後は繰り返しなんだから。そこに成長はないんだから。

 っというわけで、この慢性的なやる気の無さは、こういうところに依存している。結局、今後どんなに有り難い言葉を頂いても、気持ちをもって一生懸命にぶつかっていけば、どーせこういう結末になるだろうということが簡単に予測できる世界を、飛び立たなくちゃいけない。飛び立った先が宇宙だったとしても笑。
 ホンモノの愛と逆の理詰め。時間を無限大に飛ばしたときに、絶対にお互いにムカついてしまうことが確定している場合、時間の進ませ方として、なるべく早い時点で相手が望むくだらない帰結を出してしまうことで、結果的に表面化させないか?が重要になるわけだが、いくら短い時間とはいえ、そんな雑務を繰り返していても仕方ないだろう?

 でも、原理的に無理ゲーじゃね?
 フィクションを信じることが幸せに生きるコツなのだとしたら、全部が幻想だとわかっちゃった瞬間に、何にも憧れないわけで、何も心配はないわけで、何に対しても優越感を得ないわけで、かといって雑務も最小限になる。

 さて、だとしたら、好きにだらだら色々やってみるのが正解になるわけで、かといって突き詰めたくなるときはとことん突き詰めるし、ある瞬間いきなり本気になるけど、どーせ死んじゃうしね?って、最終ラインで明確に醒めてる。
 うーん、なかなか良い人生だなぁ、と我ながら思います笑。
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たかはしけいのモード

2017-01-08 05:41:02 | Weblog
 単離されたタンパク質よりも、沢山の種類のタンパク質が細胞と同じように共存している細胞質(セルフリー)のほうが、保ちが良い。何事もそうだが、単一成分よりも、多成分のほうが、ディフェンスしやすいのは当たり前である。

 んなわけで、この混乱期を生き抜く為には、多重人格性を自分のなかに沢山持っていた方が良いのだと思います(飛躍がありすぎる?笑)。
 俺は昔から、いくつかモードがある気がするので、今日はそれを無理矢理にまとめてみようかと思います。以下に書くようにめちゃくちゃハッキリと切り替えているわけでは全然ないけど、あえて書くならこんなかなぁというのを書いてみようと思います。

 モード1. 生真面目キャラ

 演じようとスイッチを入れるとコレになる可能性が極めて高いかなぁ。たぶんね、これ、アカデミック業界ではほとんど使ったことないですが、、それ以外だとやたらにコレが多いです。
 口数を少なくして、感情とノリを消して、礼儀正しく知識や見解だけを喋るモード。このモードのときは、確実に明らかな知識だけを喋るようにして、自分で考えたことやあまりに確実性が低い事柄や、あやふやな知識は喋らないようにするのがポイントです。
 っで、あまりにもこのキャラを演じて、誰かがAグループ性(ノリの良さ)で押し通そうとしてきたら、ほんのちょこっとだけ「じゃねーよ」「わかんねーけど」と、「ねー」をちっちゃい声で使うのが効果的です笑。年上の人には、「っすか」「っすけど」と「っす」が効果的。ただこれらの言葉を使いすぎるとこのモードから出てしまうので、ほんのちょっとだけ、というのが良いと思います。

 モード2. 元気で有能な若者キャラ

 相手が年上ばかりで、アカデミック系だとこれがラク。
 元気と若者感はジャンプっぽさを出しとけばOK。つまり、「友情、努力、勝利」の価値観をベースにしておく。
 「有能」と書いたけど、必ずしも本当に「有能だ」と思われなくても構いません。「有能だと思われたいんだなぁ」と思わせることができればOK。つまり、みんなとは違う世界観・直向きさを持っていることを示せれば合格点。これに付き合ってくれる大人はめちゃくちゃ優しいですから、それなりに言うことを聞いてみようかな、とか指標にすることができます。
 これはね、やるんだったら、やりすぎてイタイくらいがちょうどいいです。相手は年上ですから、ちょっとイタイと思われるくらいがちょうどいいっすよ。っで、相手がどうでるか?を確認するのが良いと思います。そんなときのためのモードです。

 モード3. ジョーカー

 これを俺の本性だと思ってる人は結構多いのですが、うーん、そうでもありません。あくまでキャラの一つです。
 価値観のベースは「今と未来が同時に楽しければいいじゃん」です。ベースの表情が薄ら笑い。で、どちらかというと、功利主義的に楽しければいいじゃん、って感じなので、俺から無能認定された人は容赦なく叩かれることになります笑。
 なので、、というわけじゃないけど、最も思考力を使うモードということになります。自分で考えたこともあやふやな知識も披露するし、他のモードに比べると早口になります。そして、全体として丁寧な言い回しになります。言ってることが一番過激になるので、言い回しそのものにはめちゃくちゃ気を使います。
 研究の話や何かの計画についてガチで話すときなどは、これが適しています。

 モード4. バカな先生キャラ

 先生してるとき、後輩が沢山いるときはこのモードです。たいていの人にとって、俺は圧倒的に能力があるので笑、"バカな"をめっちゃ意識しないと、年下の人は誰も近寄らなくなってしまいます。
 「今ある欲望を満たすのが至上」という価値観をベースにします。特に予備校とかで教えてるときは、東大院生の先生ってどんなん?って思われてますから、常に「眠い」とか言ってるくらいで、マジでちょうどいいです。「ごめん、ぶっちゃけ、マジで眠い」と言って、「ちょっと先生しっかりしてくださいよー笑」と言わせた後に、それなりの実力を見せるのがポイントです。
 こんなにてきとーなリラックスヤローのくせに、やっぱり(or意外と)侮れないな、と思わせたら勝ちです。これによって、後輩や生徒の本当の実力を目の前に引き出させることができます。

 モード5. 帰国子女気取り

 これはここ2年くらいで最近追加したモードです。帰国子女でもなんでも無いのに、海外かぶれ感を出すモードです。
 「なんでも思ったことはきちんと主張したほーが良い」ということを価値観のベースにします。なので、ゼミや研究会などで、誰か他の人が喋っていたとしても、1分以上は手を挙げるくらいのオフェンス性が必須になります(まだキツいが笑)。喋ってるときも身振り手振りを多くします(まともに英語で喋れないくせに笑)。
 これはどういうときに有効かと言ったら、クズをあぶり出すとき。こういう行為を観て、手を挙げもせずに勝手に喋りだしたり、とにかく(俺でも他の誰かでも)他人の言葉尻をとってでも成り上がりたいと思う人は、まぁクズだと確定して問題ないので、付き合わないようにする、という全体攻撃感を出したい時は、これが便利です。

 とまぁ、5個くらい紹介してみたんだけど、、いや、意外と、ここでは紹介できないモードが、いくつか思い出されたわ。。それは、ご想像にお任せします。笑
 さて、皆さんは、どんなモードをお持ちでしょうか?これからの時代、モードは沢山持っておくに越したことはねーぜ?
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フィクション性の高いリアルな言葉

2017-01-07 04:32:21 | Weblog
 100万アクセス達成!本当に皆さん、有り難う御座います。

 これまで沢山文章を書いてきて、沢山の人に読まれて、本当に嬉しい限りです。開設当初から読んでくださっている方も、最近読むようになった方も、本当に有り難う御座います。それから、YouTubeチャンネルでの協力・コラボしてくれた方や、影でこのページを支えてくださってる方も、最近はいらっしゃいます。そんな協力者の方々にも、御礼申し上げます。また、一緒になんかやろう!

 いやー、もともと俺、本当に文章書くの嫌いで、マジでこんなに日課のように書ける日が来るとは、このページを始める前は思ってもみませんでした。もーね、最近は、書きたいことがめちゃくちゃ多くて、実際に書くのが追いついていなくて、どうやって具現化しよう?って状態なんですが、そんなんもこれだけ長く続けていないと思えないことかなぁとも思います。
 しかもここ最近は、研究関連の人たちが中心にこのページを観てくれていますので(いや、、たぶん笑)、そんな現状も有り難いと思っています。

 まぁ、アクセス数なんて、まったくアテにならない数字ではありますが、もともと俺は言葉や数字に騙されるタイプの人間なので、素直に嬉しく思っておりますよ、ほんと。

 これからも、どうぞ、よろしくお願いします。っと、言うわけで、、、今日の文章は以下からスタートです笑


 何事も目標を立てた方が通り道がすっきりして、そこに辿り着くための最短ルートを通りやすくなる。そして、その目標のさらに先に自分なりのフィクションを描いてしまうことで自分を奮い立たせると、より効果的なのだ。

 この世には、多くの人たちが形成するフィクションの総和として君臨する言葉がいくつかある。手にすればそれだけで周囲の人間の殆どが態度を変えるような言葉だ。
 そんな言葉を所有して、普段普通に生活していると、別に大したことは無いと思い込んでしまうが、多くの人にとってのフィクションをリアルに得ていることは、世界を一変させるほどの大きなことなのだ。

 驚異的なフィクション性をリアリティのある言葉として得ることができてしまった"限られた人間"は、その世界でのガチの実力を高める他に道はない。たいていの"限られた人間"は、大衆に対してそのフィクションから目を醒まさせないように薄っぺらい壁を作ってしまうが、その短絡的な優しさはむしろ不幸を助長すると思う。そうではなく、その言葉を得るに値するだけの圧倒的な実力を見せなければ、自分にとって大切な誰かの成長の機会を逃してしまうじゃないか。
 だから、そんな言葉を一度得てしまった限り、実力を向上させないで成り上がろうとすることは、はっきりと罪だ。

 得た言葉を利用して何をしようか?と考えるのではなく、もっともっと、その言葉を彷彿とする集団をより良くするためには自分には何ができるか?と考えなくてはいけない。
 確かに、世界の流れは、「とりあえず自分だけ良ければそれで良い」であることは間違いない。だが、それは、長い目で見たときに長続きしないし、どんな状勢であれクズだし、そういう人たちの自分勝手さによって、大衆のフィクション性は現実のそれとどんどん乖離していき、ついには輝きを失うだろう。自分一人くらい?いつまでそうやって責任逃れをするつもりだい?

 だけども、そうやって価値観が変わっていくのはいいことなのかもしれない。正しい流れなのかもしれない、とも思う。
 混乱期には、実力が必要になる。"限られた人間"としての権威によって自分の妄想に気がつけていない状態が長く続くよりも、とっておきの言葉を得られないで、間違ったフィクションを見続けている方が、どう考えても実力はつく。

 ならば、、俺は、どんなに落ちぶれても、一生つきまとってしまう、この言葉とどう付き合っていけば良いか?
 ここをきちんと考えることが、今後の課題になってくるだろうと思う。ただし、間違っても、くだらない自分の虚栄心を守るために何かを誤魔化そうとしたり、短絡的な自分の利益のために使おうとは思ってはいけないことは、すでにわかっている。

 そう、問題は、一対多ではなくて、サシだ。
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自信が無いことの弊害について

2017-01-05 03:42:26 | Weblog
 20代に入ってから、自分に自信が無い人がやたらに周囲に増えたなぁと思う。その20代もあと数ヶ月なのですが、30代に入るともっともっと自信の無い人が増えるのだろうかと、今から不安ではある。
 俺が普段よく目にしている研究界隈の人たちについてだと、俺と同等かそれ以上に自信があるだろうなぁとすぐに思い浮かぶのは、たった一人。え?そう?って思うかもしれないけど、、普通、自信があったら、ちょっと論文が出なかったり、学振が取れなかったり、いま職がなくても、そこまで悩まないですよ。いや、それ自体で実質的に困ったり、あーぁって落ち込んだりするということはあるかもしれないけど、"死にたい"とかそこまで思わないです、自信があったら。(別に悩むことが悪いわけじゃないんだけどね)

 わかりやすさを犠牲にして、もう少しだけ正確に言おうとすると、みんな自信は無いんだけど、プライドはめちゃくちゃ高い。自信とプライドは似てるようでまったく違う言葉でして、自信というのは未来に対しての自分の期待ですが、プライドは自分の履歴から(他人に)期待される(と思っている)最低限の達成すべき目標のレベルの程度です。
 極端な逆のケースとして、自信満々なプライドゼロなヤツってのも、これまでスポーツ経験一切ないのに30過ぎてからでも俺はメジャーリーガーになれる、とか言ってるようなヤツのことですから結構面倒くさいのですが、俺個人としては、それでも、自信がまったく無くてプライドがめちゃくちゃ高い人よりはマシ、っと思っています。

 プライドがめちゃくちゃ強大になってしまうと、そのプライドからの自己評価として自分が無能に思えて仕方ない、ってなっちゃうんですね。で、これって、本当にめんどくせーのよ。
 だって、こっちがどんなに承認してあげても、"自分程度を褒めてくれるなんて、あの人は大したことないんだな。無能なんだな。あぁ、あんな人から褒められてもなぁ"ってなっちゃうでしょ?これ、恋愛もまったく同じで、"自分なんかを好きになるなんて、あの人ってダメなんだな"って思ってたら、何事も上手くいくわきゃないじゃない?

 で、この、プライドが高くて自信が無い人が行き着く先というのは、めちゃくちゃ"わかりやすい"価値基準に寄り添うことになっちゃうんだよね。
 だから、アカデミックだったら、何かあるとすぐ、CNSとかノーベル賞とか言い出すわけ。だから、恋愛だったら、若くて美人とか、年収とか言い出すわけ。相手があるものだと本当に厄介で、相手も同じように"わかりやすい"価値基準を持っていると思い込んじゃうほど自信がないから、また上手くいかない。

 まず、大事なのは、自分がすでに持っている言葉は、ズルをして得たものなのか、実力で得たものなのかを、きちんと考察すること。具体的に言えば、コネでその立場にいるのに、自分のくだらないプライドを満足させるためだけに、さらにそれ以上のポストを得ようとしたりして、悩まないこと。今の自分のその状態を、本気でラッキーと思え、今後については同じラッキーやズルを期待するな、ということです。ここが、ファーストステップ。
 その次に大事なのは、確実に自分が意味があると思えることを追及して、それをコツコツと積み上げていくこと。だからねぇ、たぶん、アカデミックの人たちの例で言うと、よほどのバカじゃない限り、ほとんど全員、直観的にわかっちゃってるのが問題なんだよね、論文書いても全然意味が無いってことを。もうどーせわかっちゃってるんだからさ、この生産性の無さに目をつぶってはいけませんよ。いや、だからって、論文書くなよお前らって言ってるわけじゃなくて、てきとーにやるくらいで良いのよ、ホント。くだらないことに力入れてやらない。意味があると思えること(まずはそれを見つけよ)に対して、着実にしっかりと繰り返すこと。

 現代社会、少なくとも日本は、自信とプライドと実力のうち、プライドにばっかり偏りすぎちゃってる。この3つがバランスがとれている状態が一番自然なんだけど、もう生まれてからずっと(つまり"戦後ずっと"くらいだと思う)、(みんなも自分も)プライドが高いのが当たり前になっちゃってるから、その異常さに気がついていないというか。
 で、この無理があらゆるところに出てきています。少子化もそうだし、研究不正もそうだし、ブラック企業とかブラックバイトもそうだし、自殺率の高さにも影響してるし、待機児童問題とかもそうです。
 プライドが高すぎることを受け入れることが当たり前になってるから、大学院以上のレベルで(それも融合分野で)、多くの人間が高校レベルの数学や理科が理解できてなかったとしても、その理解を補強するようなゼミが開かれたりはしないわけでしょ?それじゃぁさ、、滑稽じゃん。

 まぁ確かに、いきなりここまでだと拒否反応があるのは仕方ないと思うから、その膨れあがりすぎたプライドを、せめて少しくらいだけでも減らして、自信をつけられるようにしたほうが、日々楽しいと思います。

 というわけで、、どう?今日はわかりやすかったでしょ?笑
 (わかりやすいぶん、正確さを欠いているわけでして、あまり言いたいことがきちんと言えてない感が俺にはあるのですけども)
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"はっきりさせたくないんだもん"の正当化

2017-01-04 04:50:36 | Weblog
 きちんと考察してみたときに、意外と悲しい物語を奏でていることはよくあることだ。
 表情や言葉、ちょっとした仕草などを掘り下げてみて、それらをself-consistentに解いたときに、その一挙手一投足に切なさを感じてしまったなら、何かできることをしなくちゃいけない気がするけれど、自分の考察が甘いことを理由にして逃げてしまうのが常だ。

 自分で選ばなければ、少なくとも自分自身が傷つくことは絶対にない。この自分の感情の中だけで行われる自己完結的な気がつかないフリは、見て観ぬフリ以前の自分の解釈の問題であるから罪の意識すら芽生えないのだが、端的に言ってしまえばズルいのだ。
 さらに、その対象が、複数同時で一過性の中に時間依存性の無さを膨らませてしまえる才を有しているならば、なおのこと、はっきりとアプローチしないことの大義名分としては十分。だって多くの場合、純粋であるがゆえにキモいと思うのじゃなくって、自然な不純さを包み隠しながら純粋であると押し通そうとすることにキモいと感じるのだから、その精神構造は、"解釈性"と"気持ち"の違いはあれど、確率的に可能性の高いほうをとっていく戦略という意味では同じズルじゃないか、と。

 そんな過去の、自分で選択しなかった選択について思い出しながら、何故かごめんと繰り返す自分自身を感じるときに、今できることは何だろう?と追いかけてくる。正解を知るときには、たいていの場合、すでに独立な事象となってしまっている。あぁー、あの悲しい物語は、本当に鳴っていた音色なのだと気がつく頃には、完全に他人になっている。小さな気持ちを無理に大きく拡張しようとすることが欺瞞的であるように、小さな気持ちの起源を完全に無視してしまうことも欺瞞的であるのだが、、この点については、なかなかに誰も得意にはなれない。

 比較的待ちの時間が長くなる性分に、回転数を高めていく環境を与えてしまえば、当然のように口数は減って情報量は下がる。だからといって、回転数の高さが、必ずしも精度の高い情報でないことは、もう十分に理解しているのだろう?
 自分の世界と相手の世界には、明確な反応の激しさにおける違いがあって、その領域を飛び越える瞬間の悲しさを同じ類いの瞳で訴えかけられる。

 もしかしたら、小さな気持ちを矮小化することで完全に消し去ろうとする気持ちは、ロジックからフィードバックしたときに、それなりに正解で、それなりに自然なことなのかもしれない。

 やっぱり、論理性って本当に無駄なモノだなぁと思う。
 感情空間で図示されるカタチとまったく同じ言動をとれたら良いのにね。
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決めつけないで 7

2017-01-03 03:23:40 | Weblog
 与えられた情報から確実に正しいことだけを認識することはかなり賢い人でもなかなかに困難なことである。

 「○○先生って無能でしょ」と大きな声で言っている人は反権力主義だと認識したり、「文系って体系的な学習しているの?」と言ってる人は文系学部廃止推進派だと認識したり、「男ってみんなバカでぶりっ子な女に引っかかるんでしょ?」と言えば男をバカにするタイプの女だと認識する。
 ○○先生だけが無能だと想っただけであらゆる権力には従っていた方が無難だと思っているかもしれないし、文系がどんな学習の仕方をしているのか単純に疑問に思っただけかもしれないし、男全員バカでぶりっ子な女に引っかかることが真だとしても男全体を尊重している可能性は十分にある。

 言葉は、あらゆる感情の軸で表現されているスカラー場をたった一点に収束させてしまう。それを観測側がすでに持っているモデルの一つに落とし込んで理解しようとしては絶対にダメだ。しかも、たった一言で。
 その人が何を思っているかは複雑怪奇であり、それを正確に掌握することは不可能に近いかもしれないが、せめて、言葉から得られる情報を過不足無くそのままデータとしてとっておくという観点は重要になってくる。これは結果と考察の違いであり、考察を頭に入れておくだけでなく、結果だけの生データもきちんと脳内にとっておくということが重要になってくるのだ。

 その上で、所詮、多くの人は、解釈しか頭に残さないということも考慮しながら言動したほうが良いだろう。多くの人は、自分の敵か味方か、という観点しか持っていないのだ。無用な争いを避けていくためには、あまり誤解の無い言葉を選んだ方が無難ではある。

 だが、集団に対しての「いない人」を演じてあげるのも、パフォーマーとしては重要な観点にはなってくる。それは、圧倒的にどうでもいい他人に対してのサービスであって、この観点をもった、悪役をあえて買って出てくれている優しい人が、この世にそれなりに沢山いる。そういう人でも安心して心を許せる人や状況が欲しいもので、この場合に、ありふれた定言命法である「決めつけないで」が反芻される。

 もう一つ、混乱することを言うと、ここまでは全部staticなことを言ってるんだけど、本当は人は成長する。
 だから、もっともっともっと、「決めつけないで!」と言わなくてはいけないのかもしれないね。
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琥珀の弓張月

2017-01-02 04:56:35 | Weblog
 2人の関係性が、少し先の未来から逆算したときに、世間的に尤も体の良い理想に即した承認欲求を満たすことについて器用になるために選出された関係性なのだとしたら、なんてくだらない関係性なんだと言わざるを得ない。

 でも現実的に?いや、むしろ現実的に、それは何もわかっていないじゃないか。
 わかっていないから、だからこそ、そこに"わかりやすさ"の指標として最もわかりやすい"金銭的にどうか?"等の価値基準しか持たないことで、妄想の世界に入っていこうとしてしまうのだろう?

 大切なのは、時間を無限に飛ばしたときに、自分たちの気持ちにとっての理想的な関係性として成立する可能性をどのくらいまで感じられるか?である。
 物理現象と違って、想像と理想は時空を超えることができる。春夏秋冬を何度も過ぎ去り、どちらかが先に死んでしまって、どちらかがどんどん年老いてしまったとしても、それでも永遠の時に何かを感じ取れるのであれば、その関係性が原理的にすぐには成り立たちえないからといって、諦めてはいけない。

 でも、それでも、本当に生涯成り立たないかもしれない??想像がつかないからこそ、ありふれた格言に行き着く。「今が何より大切で」
 現在と永遠を同時に想ってしまった、どうしようもない不一致こそが、切なさの起源なのだ。

 ここに飛び込んでいけるのであれば、とにかく成立させることを優先した考え方をするよりも、たとえ結局成立しないことが確定してしまうのだとしても、そう、幸せに思えるだろう。
 これを自分の心の中で決定できた瞬間、生涯忘れることはないでしょう。

カブトムシ aiko
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2017年のオープニング

2017-01-01 07:52:57 | Weblog
 あけましておめでとうございます。
 今年もよろしくお願いします。

 というわけで2017年になりました。皆様は年末年始を楽しまれているでしょうか?
 
 さっき昨年の目標を読んでたんですが、「好きに生きる」とか書いてあって、まぁそれなりに60%くらいは達成したかなぁと思います。目標の60%達成って、結構達成してるからね、ちなみにゆーとくと笑。これは"ガチの能力を高めますよ"という宣言なわけですが、宣言通り、2016年はあらゆる能力はめちゃくちゃ上がった気がします。たぶん受験の時とか物理学科にいた時と同じくらい。
 なんかね、その証拠ですけど、この1年くらいで、ものすごく、何を言われても動じなくなってるんだよね、どんどん笑。いや、動じるべき人に動じること言われりゃ動じるんだけど、どうでもいい人とか匿名の人から何言われても、"しょーがないなぁ"とか"うわぁかわいそう"とは思っても、イライラしないのよね。昨年の初っ端の文章には、批判的なコメント読むの怖い、って書いてあるんだけど、今は全然。
 他にも沢山成長はあったけど、これが割とわかりやすい成長の類いです。

 で、今年は、この得られた能力を用いて、みんなにとっても「わかりやすい」結果を出すように努力します、、とか書いてりゃ、わかりやすくて良いんですけど笑、そうでもないというのが厄介なところ。もう少し能力アップも欲しいし、少しくらいは優等生の価値観尺度の承認欲求も満たしたい気もする。
 っま、たとえば、ガチの能力アップは日本語(圏)でやって、後者のどうでもいい欲望は英語(圏)で満たす、というやり方がある。具体的に言うとすれば、これかなぁ。よーするに、もう少し一般化して言語化すると、多重人格性を増すのが目標ってところかな?不安定時代で一つに絞れない以上、どーせ、遅かれ早かれ、この観点が必要になってくるしね。

 先読み能力もだいぶ上がってきたし、新しいタイプのロジックもいくつか思いついたからこの調子でイイし、(ネットでも現実社会でも)明らかなクズが煽ってくることに対する耐性はかなり高まった。
 だけど、まだまだテンソルは怖いし、知識を知らないときに知らないと大声で言えないときもあるし、人前で喋るのは苦手だし、(論文の書き方とかくだらないのじゃなくて、本当の意味での)文章作成能力も高めたい。能力アップをしつつ、社会性は全然違うところでアピールする、ってのが正しい目標の置き方な気がします。

 というわけで、皆さんは日本人ですから、ここで政治力学感はいっさい無く、俺が書く(あるてーどは)本質的な文章がタダで読めるわけです笑。
 だから、今年も沢山アクセスしてくれると嬉しいです。よろしくね!

 読者の皆様にとって、2017年がより良い一年となりますように。
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