たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

"量子力学でスピリチュアル"的なクズが現れる根源的な理由

2023-02-22 00:16:11 | Weblog
 俺が学部教養レベルから統計力学までをお伝えする”物理会”、昨年の3月から始めたのでもうすぐ1年になる。週2回各1時間ずつ物理会を開いているので結構な頻度だが、すっかり慣れてしまった。

 他人を巻き込んだとしても途中で辞めがちな俺が1年も続いたかぁ、というのが本音なのですが笑、やっと量子力学の第1回目まで来ました。高校数学と高校物理を一通り終えている人を集めて行なってるのですが、いわゆる前期量子論というのをお伝えするまでにここまでかかる。
 超高速でやっておりますが、微分方程式の解き方で9回、ベクトル解析で12回、線形代数は3回、物理数学が6回、力学・解析力学が15回、電磁気学が19回、熱力学が14回(まだ途中)。熱力学は直接に量子論を理解するのに必須ではないので除外すると合計64回。つまり64時間も俺の話を聴かないと、量子力学に導入できない。当然だが視聴者には「絶対に毎回復習してね」と言っており、お気づきのように線形代数は「計算方法は教えたと思うからよく演習しといてね」と投げてしまったので、普通よりも圧倒的に量が少なくてコレである。

 正直、いくら統計力学に必須な部分だけとはいえ、量子論を俺ごときがお伝えするのは、非常に抵抗がある。物理学科だと、素粒子理論か物性でも基礎論に近い研究者が教えるイメージがあるし、卒研しか理論研(低温物理)じゃない俺が、いくら世間から物理学が専門の研究者だと思われていてもソフトマターとか生物物理とか割とチャラい分野の俺が、やっちゃってええのかなぁ?と不安を抱いていたのだが、、インターネットで「量子力学」を検索すると、その不安定さを遥かに凌駕するやべえヤツらが量子力学を騙っているので、だんだんと「いや、さすがにここまで酷くないし」「一応俺、駒場での物性セミナーずっと出てて、たいていの話はフォローできるくらいには理解しているし」「今も勉強を続けているし、自分が理解している範囲の中で最大限に無矛盾なことを伝えれば、とりあえずは良いんじゃないだろうか」と思うようになってしまった。

 この”量子力学で自己実現系の人たち”というか”量子力学でスピリチュアル的な人たち”がこんなにも多いのは、物理学徒としては非常に遺憾だし、侮辱的だと感じるし、馬鹿にされているように感じる。
 だって、こっちが本気できちんとお伝えすると、前提知識だけで64時間も述べなくちゃいけないような内容ですよ?それを「概要だけは誰でも理解できる!」「数式なしでもちゃんと学べる!」「量子力学的にお金はこういう意味でー」とか長くても数十分の動画でやられたら、流石に黙ってはいられなくなってくるのよね。

 確かに、量子力学を学ぶことで、その独特の理論構造を学ぶことで得られた思考力が日常に活かされているんじゃないかな、と思ってしまうことがなくはない。価値観が変わった気がして感銘を受けている気がすることもあるだろう。
 だが、だとするならば余計に、量子力学そのものをきちんと伝えるべきではないだろうか。量子力学そのものをきちんと学んでみて「(俺ではない)君自身はどう思うか?」と興味を持つのが自然ではないだろうか。量子力学で理解したことを勝手にスピリチュアル的な内容に活かせると思ってしまったことを、量子力学という現代科学の結晶にタダノリすることでカネをとっているのは、クズとしか言いようがない。敬意がないし、それを本気で研究している人を馬鹿にしている。

 さらに言うと、「数式なしで理解できる!」というのも、俺は大嫌い。なぜなら、数式があったほうが理解することは絶対に簡単だし、量子論に関してはそれが特に顕著だからだ。積み重ねの大変さを皆主張するが、怠惰な自分に打ち勝って積み重ねさえすれば、誰でも絶対に理解できる。
 これまで生きてきた直観が効かないのが量子力学であるので、「とりあえず計算できる状態になっている」「よくわかってはいないけど量子力学を使える状態にはなっている」という段階を経て、量子力学の内容を本質的に理解していく、という順番を取る方が遥かにラクであると思うからだ(というか殆どの物理学徒はコレでは?)。

 アウトリーチ活動にばかり注力する研究者クズレが「数式なしで」とかテキトウなことを言い出し、その行いがそこそこはチヤホヤされてしまうために、じゃあそれを使ってさらに大衆が求めていそうなことを言って金を儲けてやるという人たちが現れる、というのが、量子論でスピってるクズが現れてくる流れなのではないかと思う。

 二重スリットだけでも不可思議だ。電子が干渉を起こしていないのに干渉縞が現れること、スリットに検出器を置き電子の運動を観測すると干渉縞は消えること。これだけでも、正しく状況を掌握するためには、複素ヒルベルト空間で状態ベクトルを定義したり、量子もつれ(エンタングルメント)の話を理解しないといけない。数学的なセットアップや解析力学や電磁気学のアイディアなしに、それら実験事実を見せつけられれば、ただの魔法である。
 「電子って、まっくろくろすけみたいなもんで、恥ずかしがり屋なんだよ」みたいな解釈にならざるをえない。そういう解釈は子供には良いかもしれないし、冗談の範疇では素直に笑えるが、大人はそれを本気にしてしまってはいけない。

 ここで俺が言いたいことは、大衆からのフィードバックを得ることと、それに最適化することは別だということである。
 大衆から素直な感想を聴くのは大事なことだ。「数式なしで理解したい」「もっと日常生活に絡めて説明をしてほしい」「役に立つことで説明してほしい」
 こういった意見そのものは尊重されるべきである。

 だが、これを読んでいる読者が理系であるのならば、、理系であることに自信とプライドがあるのならば、研究者だろ?その卵だろ?、そんな言葉に最適化してはいけない。上から目線で「まぁ気持ちはわかるけど、それじゃダメなんだよ。ちゃんと俺の話を訊けや」と言えなくちゃいけないのだ。
 こういう当たり前を一人ひとりが忘れてしまったから、現代科学にタダノリして他人を騙して稼ごうとするクズが現れてしまったのではないだろうか。よーするに、反省しろ!!ということだ。

 確かに大衆の要望、(ときとして)すなわち権威ある人間に最適化していれば、カネが得られるかもしれない。そんなことよりも、もっと大事な価値観があるからこそ、君は理系になったんじゃないのか?
 理系を選んだ時の純粋な自分を思い出せよな!
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与えられた課題に疑問を抱かない能力のリスク

2023-02-05 03:43:55 | Weblog
 10年ちょっと前くらいに「鈍感力」というのが話題になっていた。当時はよく分からないなぁと思っていたが、これを「与えられた課題に疑問を抱かない能力」と書き下せば、何を言っているのか非常によくわかる。

 自分の本当の興味関心や、組織にとって本質的に何が必要なのかを考え続けるよりも、この国では、上から降ってくるものをとにかく漫然とこなしていけば良い、という価値観に溢れている。
 真実から目をそらし妄想の世界に入っていくことこそが承認を得られる手段であり、何かの基本的な感情を欠かさなければ、正気を維持することさえ難しい。

 まずもって目上の人を尊敬している素振りだけは絶対に忘れないようにして、日々忙しそうにして、降ってくる課題に対しては一切の疑問を持たずに、それを最重要視して取り組み、目上の人の都合の良い結果を引っ張り出してくることが、勝利への方程式なのだろう。

 では、与えられた課題に対して疑問を抱きまくったら、どのようになるのか。
 非常に簡単である。先に進まないし、何も生み出せなくなる。

 かけ算の九九を覚えなくちゃいけないときに、やたらめったら、その目的と必要性を訊きまくってくる子供がいたら、うざくって仕方ない。教育とは、その課題に取り組む前には思いもよらなかった価値観に気が付くことなのであるから、言われたことをとにかくやってみて、やらされてみて、それから必要性や重要性に気が付いていくことは十分にありえる。
 二次関数をあんなにやらされるのがまさかファンデルワールス力を計算できるようになるところまで使えるとは思いもしないだろうし、大量の文章を理解したり書いたりする上で英文法や国文法はものすごく役に立つのだがそれを中学生で理解するのはなかなかに難しいだろう。

 しかしながら、それは、実力のある者が、実力の発展途上である者に課すからこそ意味があるのであって、実力のない者がどんなに誰かに強要しても、コントロールすることにはならず、ただの疲労困憊に終わることのほうが多いだろう。
 ただ単純に、カネのある者が、政治力学で上の立場であるだけの者が、親が、教師が、上司が、何かの課題を強要したところで、それは誰のためにもならないことのほうが遥かに多いのだ。ここを勘違いしては絶対にいけない。

 決定権だけは譲らないし、お前のほうがすでに実力があるかもしれないが、もっと態度を改めて、もっと謙虚に、そしてもっとコミュニケーション力を高めて、と多くを求めていく。さあ、とにかく特許を書け。論文を書け。何も考えるな。そもそもお前は考えすぎなんだよ。権威に尻尾を振る方向にだけ考えればそれで良いんだ!それだけに最適化すれば良いんだ!素直になるんだ!そして、周囲に感謝しろ!ってね。

 さて、今年もポケモンバトルがそろそろ落ち着き始める頃だろうか。
 代理戦争で傷ついた瑕は、ちょっとやそっとじゃ消えない。この腐った世界のどこかで悲鳴が響いた数だけ、そのレバレッジは大きなものになっていく。

 そのリスクが暴発しそうな様子を観察しながら、爆発させる触媒としてどのように振る舞うべきか、課題を与える。
 人間はね、、興味のあることなら、どこまででも貪欲になれるものなんだよ。

 それを肴に酒を飲める余裕を持つくらいの新世代の人たちと、真に豊かな世の中で、どのように暮らし、苦痛を減らしていけば良いかにのみ、興味があるのだと思う。
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