たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

鏡よ、鏡

2020-02-23 01:20:15 | Weblog
 魔法には常に対価が生じる。
 何も差し出そうとしない祈りは、巡り巡ってどこかでしっぺ返しされてしまうものだ。

 そんなことは頭できちんとわかっているつもりでも、時に人は、すべてを捨ててでも叶えたくなってしまう願いを抱き、「このこと以外は、どうなってもイイ」と呟きながら祈りを捧げてしまう。祈りは自身の胸に一番に響き、瞬時に人生がそのたった一つの目的に最適化されていってしまう。
 気がついた時には、すっかり何もかもが色褪せて見えてくる。一体何を、何のために、ここまでの犠牲を払って、得られたものがたったこれだけなのか、と落胆する頃にはもう遅い。対価が生じる割に、魔法の効果は一時的なのだ。

 たった一時のあんな激情のために、これだけの利得しかないなんて、、あまりにも失ったものが大きすぎはしないか。
 そんなことはないのだ。たった一時でも奇跡は奇跡。絶対にありえない瞬間を味わえただけでも、満足せねばならない。

 人は対価を支払う時、その分の高揚を忘れてしまいがちである。高揚の前借りをしていたくせに、その分ホンモノが薄れてしまったことだけを悲観し、”ツイていない”と肩を落とすような、身勝手な動物が人間なのだ。
 そんな悲観を振り払うように、鏡に問う。

 「鏡よ、鏡」

 きっと俺たちは、みんながみんな魔法を使って、その利得を鏡に問うことで安心感を得ることが日常化してしまっている狭い世界の中で、さらに狭い空間に束縛されて魔法を使うことを完全に禁止されていた。もちろん貴女の方が遥かに長かったけど、それがその先にずっと影響を及ぼしているという意味では、認めてくれないだろうけれど、俺も殆ど同じだと思う。
 それ自体は、意外と正しい教えであることが、きっと今ならわかると思う。けど、ズルをしないことの対価をすべて一個人に押し付けるような、悲しい原罪を俺は決して許さない。許してはいけないと思う。

 貴女がかつて聴いていた、創作者が奏でる音楽を同じように聴きながら、そんな呪縛がどうか浄化していくようにと、青空に祈ってみる。
 その祈りは、俺の何かを差し出すものではないが、この魔法に対価は何も発生しえない。だって、未来に向けた祈りではなく、過去に向けた祈りなのだから。
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誰も悪くない

2020-02-11 05:38:00 | Weblog
 どんなにダメな選択をとってしまっても、どんなに誰かを不条理に傷つけるようなクズ行為をしてしまっても、そんなことをしたいと思ってする人はいない。
 あらゆる環境から強制的に自分に負荷させられている、何か自分以外の要因であることが殆どである。

 与えられた環境ごとに倫理観は変わる。ある世界ではその行為は最低だと考えられていたとしても、まったく別の世界では同じその行為が「賢いやり方だ」と称賛されることすらある。
 例えば、サッカーで、もともとの日本の空気感でマリーシアを行いまくったら、「正々堂々としていない」と断罪されることだろう。しかし、世界で戦う上では必要な価値観になってくる。こういったことは、日本と海外などの大きな話だけでなく、小さい世界でも容易に観られることであり、どこに行ってもある。
 そもそもの話をすれば、昨今スポーツは「勝つため」に最適化すべきであると大前提になってしまっているが、果たして本当にそうだろうか?俺らは、みんながみんな、勝負に勝ちたいからという前提で生きているわけではない。勝った状態が非常にわかりやすいスポーツにおける昨今の以上のような価値観が、別の分野に輸入され続けている。受験にしても、就活にしても、恋愛にしても、研究にしても、音楽にしても、YouTubeに動画をアップロードすることにしても、みんながみんな一本化された「わかりやすい」価値観に最適化することに疑問すら生じない状況になって久しい。

 そんなにも「勝ち」に拘らなくちゃいけないの?という声を上げにくい世の中に、いつからなってしまったのか、と思うけれど、それは、みんながみんなそれぞれに、非常に怖い想いをしてきてしまった結果だと思う。
 「他人を蹴落として、少しズルをしてでも、とにかく”勝ち”を手にしなくちゃ、生きていけないかもしれないぞ!」という経験をした人に、「いや、でもさ、やっぱりなるべく、みんな仲良くできるような道を探る方がいいじゃない?」という言葉は届かない。
 考えてみれば、俺ら生きてきて、これまでたくさんのことがあったよね。ニュースだけ見ても、地下鉄サリン事件、就職氷河期、911、リーマンショック、311と、どれをとっても”騙されてはいけない”とか”いつ自分たちの常識がひっくり返るかわからない”という恐怖を感じるようなことばかり。
 現代の空気感と社会からの要請を考慮して、個々人の人生の中での体験を想像すれば、クズにならないことはものすごく難しい。自分自身だけでいっぱいいっぱいになっちゃっているから、自分の将来の幸福のために誰か弱者を上手に利用して、自分の糧にしながらも、それをシステムの中で気がつかせない方法をとるしかないように思えるような、それが世界の法則で仕方ないことじゃないかって思っちゃうような、それくらいの恐ろしい体験を、沢山沢山目の前で観てきちゃったんだね。

 誰かを「クズだな」って思うんだったら、思うくらいだったら、「それだけツラいことを強いられて、可哀想だったんだ」ともう一回転して解釈したほうが、おそらく真実に近いだろうと思う。

 勝利至上主義な彼ら彼女らでさえも、「こんなに勝ってこれたはずなのに、全然褒めてもらえないな」と不安がっている。だからこそ、そんな自分の気持ちを、具現化されたトロフィーや具体的な数字を使って、自分自身を癒そうとする。もしくは、必要以上に、「こんなに頑張ってきたんだ」という努力(らしきもの)を客観的に示そうとしてしまう。
 勝利なんてハナっから興味がなかった彼ら彼女らでさえも、「いくらなんでも、自分って損しすぎじゃない?」と不安がってしまう。だからこそ、そんな自分の気持ちを、最適化しないだけのイイワケを上手に用意することで、自分自身を癒そうとする。もしくは、必要以上に、まったく別の世界に目を向けることで誤魔化そうとする。

 興味の容量が自分自身だけに占有されてしまっている状況で、さらにその状況を強固にすることを「努力」と名付けてしまえば、そりゃ幸せには到達しない。
 興味のスペースを空けなくちゃいけないはずだけれど、他者のジャッジをすることで平穏を保っている現状をとにかく一時やめなければならないことは、恐怖の経験からそのような手段をとっているために、なかなかにその先に幸せの存在があることの実感が得られないのだ。
 そう、ABCグループもクズも、そのようなジャッジが為されているという現象の説明が目的なのであり、そのようなジャッジそのものをいつまでも肯定化するためのものではないはず。長らく学校でインストールされてしまった「順位主義」から脱却するためであることを忘れてはいけない。

 だからこそ、誰のせいでもない、誰も悪くはない。
 すべては物理現象のせいであり、これを我々でどうにかクリアすることが最大に重要になる。そのために何をするべきか、俺自身、考え続ける必要があるんだと思う。
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"ジャッジしたがり"による多様性否定の問題点

2020-02-03 01:24:17 | Weblog
 世の中には、すぐにジャッジしたがる人がやたらに多いことが、可視化されてしまってから久しい。
 社会で生きていくためには、多くの選択を迫られるゆえ、ジャッジすることそのものは仕方がない。しかも、ネット社会ではすぐにオープンな世界に繋がっているため、選択肢は無限にあるように思えてきてしまう。
 しかしながら、それゆえに「手っ取り早いThreshold」を設定しやすくなってしまい、それに最適化することこそが上手に生きていくことだという価値基準になりやすい。それは、我々の社会に多くの不利益を齎すと思うのだが、多くの人はそんな危機感は感じていないようだ。

 例えば、就活や婚活に代表される「カツ」系を考えればわかりやすいと思うのだが、すぐに「手っ取り早いThreshold」をみんながみんな取りがちになってしまう。それは、年収や学歴などの比較的定量化しやすいものから、コミュ力やルックスなどの曖昧な価値基準まで様々であるが、大学受験を経験していれば明らかなように、いくら相手から選ばれても「最終的に一つしか選択できない」のに、自分が引く手数多であるかどうかの指標を目指しがちになってしまい、手段が目的化しやすい状況になってしまっている。
 その状態も長くなると、自身は選ぶ側であり同時に選ばれる側でもあるという大前提を完全に忘れてしまい、自身を”他者をジャッジすることができる側である”と無理矢理に前提にして選択しようとすることで、ジャッジされることそのものへの恐怖心がより高まってしまう。すると、みんながみんな「相手からジャッジされる前に素早くジャッジしよう」という悪手をとるようになってしまう。
 俺の率直な実感だが、昨今、老いも若きも、この「相手からジャッジされる前に素早くジャッジしよう」に最適化している人はものすごく多く、少数の人がその戦場に参加しないように身を潜めている(同じくジャッジされることが怖い)。

 俺らは、ジャッジすることに慣れていないし、ジャッジされることにも慣れていない。だから、相手を簡単に「神!」と言ってしまったり、簡単に「クズ!」と言ってしまったりする(←それはお前だろw)。
 崇拝する際にも見下す際にも過剰であり、その定量化がまったくできていないことが目に余る。少なくともTwitterでは、だいたい60点くらいかしら、という冷静な判断がされることは殆どないのだ。それは、自身がジャッジされることが怖く、その選択に対しての説明責任をいちいち求められ(てい)る(気がする)ために、誰の目にもわかりやすい判定基準を選択せざるを得ない。

 「え?なんで、あんな男と付き合ってるの?」
 「なんでそんな企業に勤めているの?」

 自己の内在が肥大化しすぎてしまったところに、”世間からの声”は届き続けるため、どんな選択にも億劫に感じてしまうようになるのだ。

 だからこそ、みんな「手っ取り早いThreshold」を簡単に達成できるような選択を求める。短期的に考えて、わざわざ説明責任が発生するような選択を取るメリットがないのだ。
 昨今、整形にしても美顔アプリにしても大流行りである。それは、「何も知らない他者にとって、最もわかりやすい」評価である"見た目"が、ものすごく重視されていることを示唆している。写真を”盛る”ことはSNSで日々行われているし、”真実”はもはや誰も知りたがらない。真実を暴こうとする人は叛逆者扱いである。
 ネット上では嘘をつく人も多い。ネット社会とリアルな社会は連続的に繋がっているから、リアルな社会でも”盛る”ことを厭わない人はどんどん多くなっている。理系の世界ですら、きちんと事実や実験結果を話そうとする人をコミュ障扱いし、「上手に矮小化しつつ、上手に盛れば、上の世代の先生たちに気に入られるのに、”そういうこと”を知らないなんて、バカ」という評価になりつつあることに、ずっと危機感を感じているが、そのことが上手にアカデミアに伝わった試しはない。みんな、見たいものしか見たがらないからね。

 時代は進んでしまったら戻らないことが常。価値観は、後戻りすることは決してないから、この価値観の行き着く先で未来を考えねばならない。
 世界(というか、中国だけどw)に目をむければ、もはや、DNAから編集してしまおうという取り組みすらある。CRISPR-Cas9ベイビーは、賢さも運動神経もルックスも、すべてをコントロールすることが(原理上は)可能だろう。ルックスに対して整形やアプリで修正したり、賢さに対して学歴等を偽ってズルをすることは、まぁそれも人生であるかもねと笑える部分もあるが、ゲノムから根本に「私が私でなくなる」という状況になりえてしまうのだ。
 それもこれも、みんながみんな、他者からのジャッジを恐れるあまり、ジャッジしたがりになり、「相手からジャッジされる前に素早くジャッジしよう」に最適化している結果である。

 じゃあ、マイナーな属性でいることは否定され続けてしまうのだろうか?みんなが好きなものを本当に心から好きな人は良いが、自分が好きなものが偶然少数派の選択だったら、我慢しなきゃいけないことは仕方がないことなのだろうか。そんなはずはないよね。だって、社会には、少数だけど必要なことは沢山ある。そもそも、必要じゃないと承認されないという前提もおかしいが。
 俺は、博士課程の不遇さを、”普通の選択”をとった友達に話すと、たいてい「でも、それは君が選んだことだからね」と上から目線で言われることが多い。みんながみんな、説明責任があまり生じない選択をして、説明責任が生じるような選択をした人に対しては"個人の自己責任"に帰着させ続けていたら、しっぺ返しがくるはずだ。

 いや、もう、しっぺ返しは沢山あったんだけどね。みんな、自分には直接関係ないや、って自分勝手に無視しているだけで。
 例えば、相模原の障害者施設殺傷事件はその末に起きたと理解しているけど、みんなあんまり問題視しようとしていないよね。マイナーであることが個人の趣味や興味や進路などのレベルであればまだ良いけれど、社会には生まれながらにしてマイナーな属性であることを強いられている人も沢山いるわけで(いわゆる”家庭の事情”なども共通に考えられると思う)、そういう人たちの人権や”生きやすさ”が、どんどん保障されなくなっていないだろうか?

 こう考えると、CRISPR-Cas9ベイビーみたいなものが、法的にも肯定化されてしまう日は近いと思う。
 きっと、「それでも多様性は担保されるよ」と、楽観視する人も多いだろうと思う。その解釈をすることは、まさに”ラク”だからね。けれど、確実に、人類としての標準偏差σは小さくなるわけで、何かの摂動に対してフラジャイルになるってことなんだけど、地球人類として、それで良いのかなぁと思う。

 やっぱり多数決というか、”みんなの意見”みたいなやつを絶対視する民主主義って、ある種の限界に来つつあるんじゃないかと思うんですよ、最近。
 そもそも、民主主義の社会のなかで、「多様性を認め合おう」って言いまくってるの、おかしい話やん。それは、”みんなのジャッジ”が可視化されていないから言える、空虚な理想論だと思うんですよね。

 かといって、民主主義以上のシステムが、実現できるかどうかどころか、理論構築すらされていないわけでして、、なかなかに厳しい時代だなぁと思うわけです。
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