たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

本音で生きても、上辺で生きても

2021-10-15 01:03:06 | Weblog
 すぐに本質にアクセスできるほどこの世の中は甘くない。
 一見すると不必要に感じてしまう事柄を、一生懸命に理解したり、一生懸命に慣れたりしないと、本質までたどり着かないことがほとんどだ。

 確かに、積分をするために九九を全部覚えている必要はないかもしれない。
 確かに、ベクトル解析を隅から隅まできちんとやらなくても電磁気学は理解できてしまうかもしれない。
 確かに、装置原理をきちんと理解しなくても実験で何かすごい発見をすることがあるかもしれないし、自分で実験なんかしてみなくっても理論だけで研究はできるはずだ。

 でも、それって、無用の用を無視した意見なのよね。
 たとえば、川にかかっている橋があるとして、その上を墨を塗った靴を履いて渡ったとしよう。そのときに、黒く跡がついた箇所しか実際には使っていないのだから、他の部分は不要だ。それらの箇所だけ川の底から足場を作っておけば良いはずだ、、とはならないでしょう??
 無用に感じるかもしれないけれど、やっぱり必要なのですよ。

 この無用の用を忘れてしまえば、「価値あること」にばかり着目するようになってしまう。
 まるで、子供時代や青春時代に「価値がないかもしれないこと」にあれだけ「価値があるはずだ」と戦えたことをすっかり忘れてしまったかのように、大人は現実とカネだけを受け入れて、無用の用を無視し、いきなり本質にアクセスしたくなってしまうのだ。

 物事は常に、本音と上辺の繰り返し。
 その両輪があるからこそ、前に進める。本音があるからこそ目的を見失わないし、上辺があるからこそ目的の軌道修正が可能なのだ。

 上辺は、目的に対してのゆらぎなのである。可能性はそれなりに広いほうが良いよね?
 もちろん、上辺が本音を侵食してしまえば目的を見失うけど、だからといって、上辺がなくて良いわけではない。あなたは完璧に賢いわけではないのだから、俗物的なものをそこそこはフィードバックして、軌道修正を逐一行う必要がある。

 たとえば、漫画を描くためには、絵が上手い必要もあれば、話が面白い必要もある。
 漫画家になりたいと思ったのに、絵ばっかり描くことで自分が本質にアクセスしており「努力を繰り返している」と思い込むのは簡単だ。面白い話を書くための努力を本当にしようとしたら、他者から「頑張っていないんじゃないか?」ということを一生懸命にやらなければならない。たくさん本を読んだり、ドラマをみたり、いろんな体験をしたり、旅行したり、そういうことは本当に必要かどうかがわからないからだ。

 だからこそ、暇が必要であり、上辺も必要なのである。
 努力っていうのは、他者へのイイワケではないし、自分へのイイワケではないし、失敗への準備ではない。だけど、それらの上辺も、それはそれで、目的に対して適切にゆらぎを与える上で、とても大切なのである。

 そう。だから、自分が納得感を持って楽しみながら何かを達成するためには、本音で生きてもダメだし上辺で生きてもダメだし、コミュニケーション能力を高めて人脈を増やしまくってもダメだし、カネを集めてブイブイ言わせてもダメだし、下げたくない頭を下げてもダメだし、同じ実験をとにかく繰り返してもダメだし、論文や特許をたくさん読んでもたくさん書いてもダメだし、本気で数学や物理を理解し続けるのでもダメだし、精緻に物事を考えて常にリファインして変化を受け入れ続けてもダメだし、信念を何か決めてそれを貫こうとしてもダメで、暇な時間を作ってもダメだし、常に忙しくてもダメだし、やりたいことをやっていてもダメだし、やりたいことをやらないのもダメだし、やりたくないことをやっていてもダメだし、やりたくないことをやっていなくてもダメだし、頑張ってもダメで、堕落していてもダメで、、でも、それらすべてが正解で、とても大事で、とても必要なことなのである。

 なんとも分かりにくい話だと思うんだけど、最近分かりやすいものばかりに君ら飛び付きすぎだから、たまにはこういう文章を読んでもええのではないかと思う笑
コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする