たかはしけいのにっき

ミネソタ大の博士研究員が書く日記です。

負けたくない人

2015-08-31 02:37:02 | Weblog
 何かの目的を遂行したいと思ったら、その価値観に拘るべきだと俺は思う。
 逆に、最初にここに入ったから、今この場所にいるから、などという理由で、あるやり方にだけに固執すべきではないし、ましてや権威主義で、上に立っている人間を無条件で敬うことが当たり前になってしまっているような価値観のあふれる場所にいるべきではない。

 これからの時代、高度成長期やバブル期のように甘くはないのは明らかだ。
 本気じゃなけりゃ、自分のやりたいことを達成することは難しくなってくるし、そのためには若者は、、いや、いまの時代を生きるすべての人間は、本当の実力をつけなくちゃいけないし、(無能な)権威主義者に媚び諂っている時間があったら、ちょっとでも本当の能力を向上させようとし、夢に向かって最短のルートを常に探していなくちゃいけないと思う。

 そして、その価値観と同じ信念を持った人から、時に盗み、時に協力し合い、時に競合しながら、、分野が違うから、まったく違う人物だから、などと決めつけずに、その価値観のみを抽出することで、ライバルや仲間を選定していく必要があると思う。

 特に、研究者は、すべての国民が強制的に取り上げられている税金としての金で研究しているわけで、だとしたら、少なくとも、未来にとって、あらゆる人に届く共通の知識を残そうという気概がなくちゃいけない。
 この意識さえあれば、つまり、意味のある知識をしっかりと得よう、そのための最高の研究環境を作り上げるために貢献しようと考えていたら、年上だからとか、PIが言ったからとか、そういうことは関係なく、自分の意見がずばーっと言えるはずなんだよね。お金をもらっているんだからPIの指示は絶対、じゃなくて、そのお金を支払ってくれているのは国民なわけだから、研究の現場にいさえすれば、立場は一切関係なく、自分固有の意見を自分の責任で発言していくべき、というのが俺の考えだ。

 だから、負けたくない!という気持ちで、戦うべき、負けたくない相手と、戦うことを恐れてはいけない。
 特に研究者は、そのために存在しているのだから。

 さぁ、あなたが、負けたくない!、と本気で思う対象は誰ですか?

【クレイジージャーニー】 深海に潜り続ける研究者SP! 2015年6月4日 (参考は25:00~)
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努力の美化

2015-08-30 04:19:40 | Weblog
 何かを否定したときに、「でもそこで頑張っている人達もいるんだから!」という現実をきちんと観ないことを肯定化する誤魔化し方をされると、心の底から馬鹿にして笑ってしまう俺の性格の悪い部分がつい出てしまう。なぜなら、無駄な努力というものは、この世にいくらでも存在するからだ。

 例えば、爪楊枝を積み上げていって机の上に10本以上積み上げられるように、と10年近くコツコツと努力を重ねた人が、俺に適した職がない!、と騒いでいたら、あなたはどう思うだろうか?おそらく、「いや、それは努力するポイントが間違ってるだろ!」と思いながら、心の底から馬鹿にするのではないだろうか?
 それと同様のことを、受験で頑張る、とか、就活で頑張る、とか、そういったことに妄信的に取り組んでいる人たちに、どうしても俺は思ってしまう。

 だいたい、「努力」がものすごく良い取り組みだ、ってことに、支配されすぎてませんか?

 何かの夢や目標に対して立ちはだかる物凄くデカい壁があったときに、それを乗り越えられるか、それとも諦めるかで、夢に対して本気かどうかの査定ができる、ということは、非常によく言われる。
 しかし俺はむしろ逆のことを考えるべきだと思う。自分がやりたいこととか夢とか目標を持ったことに対して、あまりにもラクすぎるな、あまりにも何も努力しなくてもできちゃうな、って思った時でも、そのことをラッキーだと捉えて、引き返さないかどうかで、夢に対して本気かどうか査定できる気がするのだ。

 だから、大学受験で超努力して東大に入るヤツよりも、今の時代、理系はこれだけ誰でも大学院で東大に入れる時代なのだから、大学院で東大行きゃいいや、と見据えて、受験勉強を途中でやめて、高校生活を充実させるヤツのほうが、俺は賢いと思ってしまうのよね。東大の学部教育って、実際全然よくないし。
 いや、かといって、努力しなくても、全然よゆーで入れたから、別にコスパー悪くないし、って考えのヤツは、それはそれでいいと思うのだけど、、とにかく、(当人にとっても)くだらないことに対して必死で努力をして、その努力をレゾンデートルにしてはいけないと思うだけなのよ。

 だから、金を使う時間もなく、ただ世間体とヒエラルキーのためだけに妄信的に齷齪と働き、そのストレスで俺とかに、努力していることそのものを大義名分に、「お前と違って忙しいんだから!」って八つ当たりされたりすると、こちとら「そんなに辛くて、やりたくない状態なら、世間体なんか気にせずに、辞めればいいじゃん」と思ってしまうわけです。そんなんじゃ人生損してる。

 あまり先を見据えずに、とにかく今やりたいことを、ただやってしまう、というような楽しみ方こそが、意外とストレスを溜めずに生きていけるのかもしれない。

 だけど、俺だって、なかなか、そんなことを面と向かって言えません。できればそういう損な努力を妄信的にしている人が、それに気が付いて、自然と改心することを望んでいますが、簡単にそうはいかないでしょう。
 それだけ、この国では、相手を甘やかすために正しい真実を捻じ曲げることは一切罪に問われず、相手にとって厳しいかもしれないが事実だからという理由で正しい真実を突きつける行為は罪深いことなのです。真実を見せることに対して、相手のことを考えていない!と短絡的に言ってりゃいいのだから、まったく、みんな、ラクだなって思います。

 最近、生命とは、一言で言ってしまえば、マクロからの要請によって各々で何らかの新しい価値観を自ら創発でき、それらがある程度の多様性を持つような自己保存的な系、なんじゃないかと思っていますが、この定義で正しいのだとすれば(もちろん、言葉として改良の余地が多分にありすぎるけれど、昔から俺が生命のなんたるかをとらえているイメージそのものはいっさい変わっていない)、マクロからの要請によって与えられた価値観を単に受け入れて物理的に生活していく一個人は、もはや生きていない。そこにストレスを感じ、とにかく怒りを覚えているならば、生きてはいるが。

 というか、そういう部分で言うと、俺こそがあまり生きていないのかもしれない、と思う。
 おそらく、俺を指さして自由でいいよなと羨ましがる人たちが、自然と持っている自由さを、俺はいっさい持っていないから。

 心でホンモノを求めながらも、物理的な時間の制約でそれが叶わないことだって、この世にはもちろん存在する。そうなると、この努力は「爪楊枝積み」くらい意味が無いことなのかもしれない。
 でも、たとえ、貴女が間に合わずに、俺にとってのタイムリミットが訪れようとも、心ではホンモノだけをまっすぐ見つめていられるようになりたい。

 残念ながらそれはラクなことではなくて、ラクでラッキー!とはならないのだけど、それでも俺は、いま、短絡的にも長期的にも、そうしていたいと思っているし、そう考えている。
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世界中で一番熱くなくちゃいけない場所

2015-08-29 02:51:38 | Weblog
 ここは世界中で一番熱くなくちゃいけない場所だ。
 そういう場面に、俺はこれまでどれくらい遭遇してきただろうか。そういう場面に、俺はこれからどれくらい遭遇できるだろうか。

 こういうときに、もちろん、レベルも経験も年齢も、実際のところ関係ある。だけどそれらは、あくまで熱さを維持できるかどうかということについて関係があるだけであって、そもそも世界で一番本気だ!という気持ちが各々に創発されていなくちゃ意味がないのだ。
 中途半端にプライドだけがあって、そのくせに自信がなかったり、実力をつけようと本気で努力する気概のない人が多ければ、どんなに良さそうに感じるシステムを構築しても、どんなに最善のプランニングをしてみたとしても、そこにいる人間の価値観がしっかりとしていなけりゃ、まったくの無意味である。「そういうことって面白いですよね!」と口で言いながら、口の中で「まぁ、この分野の限られた範囲ではね」っという言葉をいちいち呑み込んでいけば、その分、目は死んでいってしまうだろう。

 くそつまんないことを全員がやっていることは前提としていて、そのつまんないなかでは、そのなかでは、面白い、と、前半部分をキレイに呑み込むことを常習化してしまうことで、世慣れたコメントをするような誤魔化し方を俺はしたくない。

 心から、面白い!つまんない!と言い放ち、本気で自分が一番正しいやり方のはずだ!、っとほとんど全員が思っている集団の目は明らかに違う。
 もちろん、そのなかでも、数々の問題があるだろう。ムカつくこともあるし、わかりあえないこともあるし、全然ダメなのに熱いだけウザいってことだってあるかもしれない。でも、まずは根拠がなくても、とにかく特大の自信がなければ、どんどんチャンスを失いながら、悪いほうへ悪いほうへ向かってしまうと思うのである。

 情熱があればたった一回のチャンスに対して本気になれるし、逆に、どうせチャンスはまた来るはずだから、といつまでもチャンスを逃していれば、いつまでもいつまでもホンモノは掴めない。

 自信だけは世界で一番あるような、そういう環境とそういう人達を、俺は常に選び続けたいと思っている。
 そして、俺もいつの日か、世界中で一番熱くなくちゃいけない、ここと同じような場所で、自分が満足できる理想的な自分を体現できたらと思う。
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よく言われることとその応答

2015-08-27 01:10:27 | Weblog

 「褒めてるの?貶してるの?」
 『事実を言っているだけです』

 「たかはしくん自身は何グループなの?」
 『Ⅽ上グループです。調子いいときはB下グループにもなりますけど』

 「じゃぁ、俺(私)は何グループなの?」
 『いや、初対面だから知らねーけど、そう聞いてくるってことは、少なくともAグループじゃないでしょうね』

 「自分が一番正しいと思ってるでしょ?」
 『はい。自分が一番正しいと思ってる意見しか言いません。めんどーなので、あなたもそうしてください』

 「うーん、君は純粋すぎる」
 『俺を純粋だと思うなんて不純すぎます』

 「○○系の人は、そう思うのかもしれないけど」
 『分野を気にしていては良い研究はできません』

 「なんでいつも眠そうなの?」
 『これ書いてるからで、書いてない日は他の仕事があるからです』

 「行動力あるよね」
 『自分はお前より慎重派で頭がいい、って言いたいのか?』

 「基本的に文句があるんだね?」
 『精神的に向上心のない者は馬鹿だ』

 この記事は随時更新するようにしよう、、かな。笑
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心の友よ

2015-08-25 02:03:43 | Weblog
 また今年も24時間テレビが放映されていたようで、ちょこちょこ情報が入ってくるが、やっぱり俺はあの番組を観たくないという気持ちが働いてしまう。
 最近のは(観ていないので)あまり知らないが、障がい者のピックアップの仕方があまり良く思えないからだ。

 年に一回、その時だけにピックアップすることに違和感があって仕方ない、、年に一度じゃなく、定期的にテレビに出ているのであれば、というところもあるのだが、、それ以上に、「否定してはいけない空気感」というものが、俺にはどうしても暴力に感じてしまう。
 「いや、俺はこんなの偽善だと思うよ」っと(ネット上でいうのはできるかもしれないが)具体的に現実で言うには、かなりのバッシングを覚悟しなくてはいけない、その「言ってはいけないこと」という存在そのものが、俺は暴力であると思う。

 俺の精神的な周囲の友達は、だいたい同じような経験を多かれ少なかれしているが、、俺が小学校高学年のとき、誰かと2人組みになると言ったら、ずっと知的障がいを持った子と組まされていた時期がある。集団全体が、その子を俺に託していると"ラク"だからだ。それは別に児童だけではなく先生も全員そうで、何かとその子を俺の所属しているすべての集団に所属させるようにしていた。そうすると、あらゆる班や集団が、俺も所属させたくなくなっていく。
 俺は『嫌だ』と言うことが卒業して私立の中学に行くまで終にできなかった。それは、今から思えば、俺が『嫌だ』ということを言えないように強要する集団の暴力だったと確信している。何もしてないくせに、対応だけは俺に任せっきりで、偉そうなことを言ってくる子もたくさんいた。それでも友達はいたけれど、この危機を救ってくれない友達なんて、今の信頼関係からすると、誰も友達なんていなかったと言って過言でもないかな。

 このように、"ラク"だから、と、偽りを正当化して、他人任せにして、その「正しさ」を発言できないようにする、集団の暴力はあらゆるところに存在する。アウグスティヌスによれば、正しさと真理を喜びに感じることができる状態が幸福なのだが、その「現実」を見ないように努力している人がこの世には多すぎるのだ。
 例えば、このページは駒場の関係者が多く見ていると推察されるが、あのキャンパスを掃除してくれている人たちについて、どれくらい思考しているだろうか?少なくとも、院生同士、教員同士、話題に一度でも上がったことがあるのが自然だと思うが、どうだろうか?ちなみに、うちのラボの人だと、たぶん俺がその話題をしつこいぐらい振っていたので、、申し訳ないっす笑。

 真理を直視することは難しい。なぜなら、誰もが誤魔化しながら生きているから、そして、何よりも、誰も誰のことも知らないからだ。
 でも、ほんのちょっとずつでも、本音を一歩一歩、匍匐前進でも、進めることによって、信頼関係は増していく。GLEEというドラマでは、かなり初期に「車イスの子がリードボーカルなんて、この部は終わりよ!」みたいなコメントがでてくるが、あぁいう本音をそのままぶつけられるほうが、言ってはいけない空気感を作るよりは、ある意味では自然だとも思う(必ずしも、それが一番いいとは思わないが)。そして、そのほうが、なんとなくだが、信頼関係も掴みやすいと思うのだ。

 「誰と組みたい?」と先生が言うと、
 「やっぱり、最後は、けいさんだよ」

 っと修学旅行の隣の席を決めるときに云ってくれた、ハンディキャップを持ってはいるが、とびっきりの笑顔で言ってくれた、彼の表情が今でも忘れられない。嫌だけど、それでいいや、と思った。それが本音だった。

 「どんなに優しくしても、どんなに手助けをしても、彼は10年後には、けいくんのことは忘れてしまうだろうね。だけど、こういうことが、なんとなくあったな、っていう気持ちは残ると思う。だから、こういう行為は、絶対に無駄じゃないんだよ」

 一緒に生きていくということに対して、打算的な価値観は不要であり、そこに一生懸命になっていさえすれば、意味のない行為など何もないと今もそう思っている。

大山版ドラえもん 第1235話 本音ロボット


SEKAI NO OWARI プレゼント Nコン 中学生の部 【高音質】
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アンバランスなバランス

2015-08-24 01:29:06 | Weblog
 どんな関係性の人同士でも、対等な関係というのが至上だ。

 従属関係になってしまえば、どうしたって虚偽・偽りがぬぐえなくなってきてしまうし、俺らはずっと前からこれをやってきたから、俺のほうが立場が上だから、私のほうが言葉を得ているから、と「正しさ」と「権威」を対等的に考えるようになってしまうからだ。
 友達関係はもちろん、師弟関係も、親子関係も、恋愛も、すべては対等なところへと、そのスタートラインを持っていくべきである。対等になって、はじめてスタートできる。その心得をなくしてしまっては、混じりっ気のない笑顔から、楽しく日々を過ごしていくことが難しくなるのだ。

 いや、それでも集団として振る舞うためには、縦社会も必要なのだ!、と言いたくなるだろう。しかしそれは、「正しさ」と「純真さ」を、ズルしてもいいでしょ?という気持ちよりも優先させていないから起こる気持ちの創発で、たった一度の人生、それではあまりに意味がないだろう、と俺は思うのだ。

 しかしながら、対等な関係を継続させていくことは、非常に難しい。
 なぜなら、ヒトのスペックを表す変数は多種多様であり、当然、時間変化する。さらに、ある種、対等でないリアルの関係性を使って、別の対等でない精神的な関係性のバランスを埋めることもありうる。私は現実を妥協して選んでいるけど、貴方は純粋さを追っているから、同じ行為でも、対等性のバランスから言って、それは許されない、みたいなね。

 アンバランスなバランスが心地よかった2人にとって、ある摂動によってリアルには以前よりもバランスが取れたのだとしても、傾いてた側の当人にとっては、以前よりもはるかにアンバランスさを感じて、切なくなって、暗くなってしまうことは、意外とよくあることだと思う。
 たとえば、俺に対しては、貴方には物理があるでしょ?、生物があるでしょ?、理論やシミュレーションがあるでしょ?、実験ができるでしょ?、とあらゆる種類の一分野にしか自信がない人たちが言ってくる、アンバランスさがある。その分野のその関係性で、ある一定の信頼関係を得てしまうと、俺にとって相手が突然ほかの側面を持ってくると、とても不安になったりする。いっきに、いや別に、そこまで物理ができるわけじゃないし、生物を知ってるわけじゃないし、理論やシミュレーションが得意じゃないし、実験はするっちゃするけど不器用だし、と思ってしまう。

 アンバランスなバランスが、実際にバランスをとりそうなときに、不安になる。
 そんなときこそ、無理矢理に喜んで、応援して、上手くいくといいね、って伝えてみたりして、、で、結局のところ、そういうことを繰り返せることが、信頼関係を頑健的にしていくのだとも思う。

 でも、本当にそれでいいのかな??
 本当の本当は、そうなってしまって私たちの今後の関係が不安だ、って云ってしまうことが、実は一番大切なのかもしれない。心でも実際にも、そういう瞬間に抱きしめ合い、手を握り合って、信頼を確認することが最高の喜びではあるのだけど、一方で冷静な俺は『抱きしめて誤魔化すな!』と思ったりもする。

 まぁ、俺くらい慧眼だと、別に言葉や振舞で伝えてくれなくても、大丈夫だけどね、っと強がってみる。
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自由ときどきラプラスデーモン

2015-08-22 04:39:00 | Weblog
 「生命とは何か?」「時間とは空間とは、何か?」「宇宙の果てはどうなっているのか?」「意識は実在するか?」

 こうした問題を胸に抱えながら、大学で研究をしたり、会社で仕事をしていても、こうした問題をいつもどこか頭で思考している人間は、重度の中二病患者である。
 こういったことは、誰でも一度は思い描く。特に、迷って迷って、あまり上手くいかなくて、鬱屈とした日々を送っているときに、誰でも考えることだろう。普通は、鬱屈とした生活から抜け出したとたんに、つまりは、受かった瞬間に、就職が決まった瞬間に、言葉が得られた瞬間に、論文が出版された瞬間に、すっかりとこういった問題は忘れ去ってしまう。

 にも拘らず、不安定な日々でなくとも、こうした問題がいつまでも心から消えない人、枚挙的価値観に縛られず、こうした本質的な問いに答えようとする活動こそが、唯一研究の価値だと思ってしまう、世の中を生きにくい人たちが、重度の中二病患者として少なからず残っていくのである。

 こうした本質的な問題について考えることが好きで、これを本気で追及していこうと思ったら、まずは個人の能力を特段に高めなければならない。世界中の多くの研究者が、当人も本心では面白いと一切思っていない、細かすぎる枚挙的テーマを、切手集めの如く遂行している一番の理由は、自らの能力が凡人的であることを自覚している「大人」だからである。そうではなく、たとえば「生命とは何か?」と真剣にいつも考えていき、中二病のままにそれを仕事にしたいのであれば、人類の英知を自らの手で進捗させなければその問題に答えることは絶対に不可能なわけで、圧倒的に優れている能力・賢さをつけなくちゃいけないのは理論屋は当然だが実験屋も同じである。そうでなくては、道のどこかで、単純に「これは誰もやっていないからやってみよう、研究になるから」と枚挙的になっていくのである。
 だから、こうした問題を扱いたいのに、「自分は物理学出身だから、分子構造は考えない」「自分は生物学出身だから、積分ができなくても気にしない」「自分は化学出身だから、タンパク質はあまり覚えなくていいはずだ」などという価値観ではいけない。共同研究を進めること、つまりコミュニケーションでなんとかなる、と思っているなら、それはコミュニケーションの意味を勘違いしている。確かに仲間は大切だが、その大切な仲間と楽しくものづくりするためには、まずは相手の領域にきちんと入り合うことが大事だ。それで初めてコミュニケーションは樹立できるのだから。

 こういったスタイルをとり続けようと心に決め、年上だろうが年下だろうが、偉そうな先生だろうがなんだろうが、とにかく自分の能力と他人の能力をぶつかりあわせることで自己実現し、本気で本質的な問題に対して「一言」で答えようと努力していったとしても、実際に、自らの学振やポスト探しや学位がチラついた瞬間に、凡人的な発想になり、とりあえず「今は」上の先生の言うことを訊いて、早くまともな雑誌に自らの論文が掲載されるようにと、それを至上命題にしておけばいいだろう、と考えてしまうのが、中二病患者たちの多くの傾向であると思う。俺も例外なくそうである。
 そして、くだらない結果になってしまった、そのためにくだらないことに注力し、ありふれた、本当にすごい仕事をほんのちょっと改善しただけの、みんなにウケがいいだけの、センスのない、自分の実験系についての新規性を大げさに謳うだけのくだらない研究従事者に成り下がってしまった、などと思い悩むのである。ちなみに俺はここで思い悩むだけ、ほかの多くの「自分は現実も見据えているのだ」と居直っている中二病患者よりは、自分はマシだ、と思い込むことにしている。その気持ちが、少しだけは理想に近づくようにと働いてくれるからだ。

 すでにある研究領域のなかでいつまでも研究者が生きていくための枚挙主義的な価値観を大義名分に、ただただ細かくし続けるだけの行為を、一番に馬鹿にする一方で、最後、自らの出力が枚挙的になってしまわざるをえない重度の中二病患者は、不安定でありツライであろう。しかし、おおもとの幹として、いちいち本質的な問題提起に戻れることは、とても幸せなことなのである。
 たとえば、俺は、量子力学や統計力学を(量子論は確率論だから曖昧な学問体系だ、などと馬鹿なことをほざかない程度には)理解していることが幸せだと思うし、これからもそれらを自分で学んでいける環境にあることをとても誇りに思う。圧倒的な人類の英知の最前線を知ることで、政治力学を人間力などと誤魔化すことで単に権威的になっている人たちを、研究進捗においてはいっさい取り扱わないだけのスピードを手にできているからだ。
 これこそが、いや、こんな小さいことだけが、自分の能力を本当の意味で向上させ続けることを自分に誓っている、特権なのだと思う。

 「えーっと、ほかに何か、質問やコメントがありますか?ないようd…、あ、どうぞ!」
 『つまんないし、よくわかんないし、早く終わんねーかなと思ったわ』
 「????」
 『コメントは以上です』
 「いや、どの辺りがわからないか、そこまで言うなら言うべきでしょう」
 『は?だって、お前、わからせようと思って発表してないっしょ?無難ヅラして、発表をこなそうと思って、発表してるっしょ。だから、これをもともと知ってるマニアックなヤツ以外、そんな説明の仕方で、わかるわけねーよ。そもそも、そんなことに俺、興味ないし』
 「そう思ったなら、、ならば、黙って出ていけばいいでしょう?」
 『いや、他にコメントは?って言われたから、仕方なく言ってやってるんだけど?こっちは』
 「常識がない人ですね」
 『どっちが。もういっこ、訊いとくわ。本当に面白いと心から思ってんの?その研究の目的で??』
 「はい、当然です」
 『ホントの本当に?ただこんな研究しました、って発表じゃん。その研究の価値はどこにあるの?それを説明しないで、俺らにこの短い時間で理解しろ、ってのは、にわかはぶり、でしかないでしょ?こんな人発表させるなんて、時間の無駄。とにかく、俺からは以上』

 とやってしまいたいのをぐっと我慢して、『面白い発表ありがとうございました。こうこうこういう発表だったと思うんですが、、すいません、この研究の意義というか、最終的な目標は、どんなことになるんでしょうか?たとえば、こうこうこういうのが考えられると思うんですけど、、○○先生は、どう考えていらっしゃいますか?』などとコメントしている自分を感じると、自己嫌悪に陥りながらも、俺って大人だなぁと思うわけである。はぁ、現代社会はストレスが多い。笑

 まるですべてが決定論的になっているかのように、、研究計画書通りに研究が進捗していくような枚挙主義的な研究分野に居座り、そこで、その決定論をすべて熟知している悪魔の振舞をすることで、政治力学的な高みを目指すよりは、俺は、せめて、自分が自由であるという意識の中から、時に社会的になることはあっても、基本的には単に楽しくやっていきたいと思っている。

 まだまだ笑えない、思い入れのある現実を抱えながら、ね。
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実写版シンデレラの感想

2015-08-16 03:30:32 | ディズニー
 さて、久々にディズニーを更新します。
 公開からかなり時間が経ってしまっていますが、今回は、実写版の「シンデレラ」の感想を書いておきます。ちなみに観終わった方を前提に書きますので、以下ネタばれ注意です。

 一言でいうと、うーん、現代版に寄せきれてないかな?、ってのが観終わったときの感想です。

 どうしてもディズニー映画シリーズの履歴をある程度は前提としないと感想を書きにくい。なので、ちょっとだけ履歴を語ります。
 「白雪姫」からスタートしたディズニー映画。この頃は、出会ってすぐに運命を感じてキスして結婚。運命は決定づけられたものだったんですが、「美女と野獣」あたりからお姫様サイドもかなり冒険をしなくてはいけなくなりました。そして、ディズニーが禁じ手を使ったのが「魔法にかけられて」です。この作品は、ある意味過去のディズニー映画のすべての恋愛を否定するシナリオで、運命の定義が変わり、true loveの意義がより深くなりました。よって、「魔法にかけられて」以降の作品はすべて、綿密で繊細にtrue loveを伝え、「いかに素直になるか?」「それを誰と共有するか?」というような内容が多くなりました。

 この流れの中で、いかにして「シンデレラ」という王道中の王道作品を現代版にリメイクするか?ということなんですが、まぁ、表面的には、その努力は至るところに見られます。
 まず舞踏会以前にシンデレラと王子が森で出会っていること。シンデレラ自身がさっさと家を出ていっても構わないという選択肢が見られること。最後ガラスの靴を試すシーンで、継母から行くな!と言われることなど、「優しい」お姫様に「勇気」がなければ達成できないようなリメイクになっています。

 しかし、「シンデレラ」の大筋は、自分の力ではどうしても状況を変えることのできない純粋な召使が魔法によって玉の輿、というある種のありきたりな物理現象を語ったベタなので、リメイクするなら、この根本を変えてしまっても良かったんじゃないかなっと思うわけです。

 旧作のアニメ版のシンデレラは、現実的な恋愛をせずに、(ネズミなどの動物たちに優しいなどということを除けば)とにかくこの単なる物理現象を理想的に描いた作品であるのに対し、今回の実写版では、それが現実的に柔和に伝えられています。
 さらに、結論から難しく言ってしまえば、恋愛における滅私と自己表現の絶対矛盾的自己同一性という西田哲学の教えに近いところが、より随所に現れているのが、今作とも言えると思います。

 継母の実娘である二人の姉は、華やかなドレスに身をまとって舞踏会に参加し、まぎれもなく玉の輿を狙っています。一方のシンデレラは、「あの森で出会ったキッドとまた逢いたいわ」という純粋経験に依存した気持ちで舞踏会に参加しています。つまり、シンデレラは男たちの眼差しのもとに、媚態として「かわいい」のではなく、自らが一生懸命に自足しようとする構造体としての「かわいい」を体現している。だから、魔法を使った後も、青いシンプルなドレスなのです。この点は四方田犬彦著の「かわいい論」でも、セーラームーンとその敵の性質を分析して語られていますが、シンデレラでもまったくの同一だと思います。
 純粋な者の敵とは、常に、「生きていくために」と他人に媚びることを正当化する態度そのものなのです。シンデレラの実の父が死んだときに「これからどうやって生きていくのよ」と言い放った継母がそれを象徴しています。
 他人とインタラクションするためには、まずは本当の自分を押し殺さなくちゃいけません。それが「滅私」です(これで止まっているのが継母の実娘2人で、心情としての対比がきちんとできるように、この2人もアニメ版よりも実際に美しくなっています)。西田幾多郎の善の研究では、滅私を前提として、自分を精一杯に「ありのままに」魅せなさい、というような結論に達します。自分を押し殺していくことと自分をめいいっぱいに表現することの絶対矛盾的自己同一性が、結局はホンモノの恋愛に至る(≒王子と結婚できる)、というところを主張しているのが、今回の作品である気がします。滅私を前提としているからこそ舞踏会に行くためには「ドレス」が絶対に必要であり、未成熟なところに美を見出しながらも胸を大きく開けたドレスに身をまとい、最後、王子に名前は?と聞かれたときにエラではなくシンデレラと答えるのは、「ありのままの私を愛してね?」と要求しているのです。

 だけど、かなり厳しいことを言えば、それってシンデレラ側はtrue loveなんかな?ディズニーさん?って俺は思います。
 これは俺が穿った見方をし過ぎているのかもしれないけど、純粋さを貫く過程で、実はキッドが王子だった、ってなった瞬間に、運命を再確認するのって、それって本当にロマンティックなのかな?と思います。それは結局のところ、媚態でしょ?
 現代の日本の恋愛にも多くみられる気がしますが、自由意志から恋愛をして、本当に好きになった相手が、家柄が良かったり、年収が良かったり、とにかく物理的な条件が合っていると分かった瞬間に、ポジティブフィードバックがかかって、やっぱりこの人しかいないわー、と思う女性の嫌らしさは、年収いくら以下の男とはそもそも付き合わない、とか言ってる媚態的意識の女と、順序が違うだけであって、根本的には同じだろ、ってことなのです。友達や親戚などの周囲に、この結婚や恋愛はホンモノの愛以外の目的じゃないと思われたいと思っていることまで計算している可能性も高いから、むしろ、一番悪いくらいかも。
 それは少なくとも純粋ではないし、true loveを掴みかけて、最後のひと押しでそれを冒涜しているし、継母たちの考え方とあまり変わらないんじゃないかなぁと思うのだ。

 本当に優しさを持って、本当の勇気を持っているのは、王女と政略結婚せず、資産も何もないシンデレラを、気になるから!好きだから!と追いかけ、優しいから!!と結婚まで貫き切った、キッド王子のほうじゃないだろうか?そっちを視点にリメイクしたらよかったんじゃないだろうか?
 彼はこの先、自分の力で小国を築きあげ、国民からの非難を弾き飛ばしながら、生きていかなくちゃいけない。ありのままを愛して?って国民や周囲に媚びても無意味で、本当の能力を高める必要があります。それを、男女平等の現代的観点、つまりは50:50で、責務を負っている自覚があるとは、このシンデレラ王女には思えない。女は美を提供しさえすればいい、という時代を引きずっているリメイクにしかなっていない。

 優しさと勇気を貫くことは、シンデレラが思っている以上に、辛く困難で並大抵の覚悟じゃできないこと。それを男側にすべて押しつけて、自らの幸せを自らの優しさと勇気で掴んだと思っているのなら、甚だ勘違いもいいところだ。

 まぁ、確かに、、世界的に時代がそこまで追い付いていないのかもしれない。

 フェアリー・ゴッドマザーがドレスとガラスの靴を用意せずとも、かぼちゃの馬車という幾何学的手段のみを準備すれば、ホンモノの愛を掴めるようになる時代が、俺には想像できる。それだって、精神世界のなかで、滅私と自己表現の絶対矛盾的自己同一性を共有し、ありのままの素直な自分を魅せることに苦労するというのに。

 夢をかなえるためには、まずは思い描くことが確かに大切。でも、やっぱり、それだけじゃダメで、本当に実現するためには、少なくとも素直さを表現する具体的な能力をきちんと身につけたうえで、圧倒的な優しさを目指して実行する勇気が必要なのである。
 それをあなたのお母さんは言ってたんじゃないの?、とシンデレラに問いかけたくなる。

 …と考えてしまう作品でした。笑

Lily James - A Dream is a Wish Your Heart Makes (from Disney’s “Cinderella”)
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ヒエラルキーと犠牲

2015-08-12 09:24:39 | Weblog
 今のところ、どれだけ時代が進んでも、ヒエラルキー至上主義は滅亡していない。滅亡どころか、世界的には促進の方向なのかもしれない。
 士農工商などの歴史的なヒエラルキーをきちんと知りながらも、同じような物理として、学歴社会と家系の関係性に幸せを感じている不幸せな価値観を抱えている金持ちが大勢いる。

 それでも日本は安全だし!というのは確かにその通りなのだが、海外でスリや詐欺を行う人間が俺に向かって魅せてくる表情は、国内で権威によって俺の意見を制止してくる表情と酷似している。とても立派にみえてしまう、大学の先生や、政治家や、医者や、弁護士も、俺固有の価値観の線を一本入れてしまうだけで、軽犯罪者とさしてカワラナイのだと、俺は冷徹に評価している。
 海外にいるスリやひったくりと、国内にいる権威主義の無能な偉そうな人。どちらも、能力を向上させて自己実現することを完全に諦めきっており、自分が生きていくために他人を犠牲にすることは仕方ないだろ!、と俺に訴えかけてくる。

 彼ら彼女らは勘違いしている。世界中の誰も、他人をまったく犠牲にせずに生きていく事など、できるわけがない。もし、それができていると確信が持てるのだとすれば、それはただ視野が狭いだけである。

 言い訳を言うならこうだ。
 「他人をなるべく犠牲にしないなんてことを考えていたら、俺が生きていけないから仕方ないだろ!」

 パリやローマなどのヨーロッパの観光地にいるスリの多くは移民の未成年だ。ネットの情報によれば、親にスリをしてこい、と言われており、成功しなければ夕飯抜きや折檻などの目に遭わされる。
 しかし、俺は、彼らの餌食になるつもりは一切ない。いくら相手がプロだとはいえ、たかがティーンエイジャーの考える思考回路。強盗レベルじゃなけりゃ、いくらでも読めるし、対策できるし、防げる。実際に被害にあったこともない。

 その彼ら彼女らが見つめる目が、「生きていくために!」と訴えているのである。俺は問答無用に自分の思考力を使って、彼らから距離を置く。

 ズルをして、上から弱者を抑えつけて、ガツガツと自分の事しか考えずに実験計画を組み、分野に守られながら申請書を書いて予算を横取りし、論文を書くことは誰にでもできるだろう。しかし、それは、ダサイから、普通はあまりやらないのである。
 それを、我々はヒエラルキーの上位であるからガツガツしているのは当然、むしろ、なぜそんなに見えもしない大勢の他人のことを考えるのだ?時間の無駄だろ、と思う人が多いのであれば、俺はそんな場所から出て行くだけだ。

 その彼ら彼女らが見つめる目が、「生き残っていくために!」と訴えているのである。だとしたら、俺はそんな彼らから距離を置く。
 ただし、ヒエラルキーの階段を下がるつもりはない。正統法で、その彼らよりも遥か上のヒエラルキーへと向かってやる。

 無謀に思えるが、それは可能だ。
 なぜなら、最終的に大衆が求めるものは、圧倒的な優しさと本当の意味での実力なのだから。
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最終世代の学習内容

2015-08-08 04:54:25 | Weblog
 これから俺が真剣に勉強したいと思っている分野に機械学習がある。まったく今さら機械学習なんかに興味を持ってー、遅れてるー、っと思われるかもしれないが、恥を凌いで正確に言えば、現状を知れば知るほど、ここまですでに色々できて実際に使われているとは思っていなかったし、未来を予測しようとすればするほど、機械学習は絶対に避けては通れない分野な気がする。
 もしかしたら、理系は全員(いや本当は、文系も全員、と言いたいところ)、この機械学習をある程度きちんと理解していて、自分でプログラムが組める必要があるようになる時代が、本当にすぐに来るかもしれない。

 機械学習とは、よーするに、コンピュータ自身が経験を積むことで、問題解決できるまで賢くなっていくようなプログラムのことだ。 
 学習ってのは、つまるところ、トライアンドエラーを繰り返し、ある価値観に向かって、必要か不必要か、AかBか、正解か不正解か、とにかく「わける」行為を認識として精緻化することであり、精緻化が完了すれば目的は簡単に達成される。

 以下の動画は遺伝的アルゴリズムでマリオを解いたものだが、機械学習を直感的にわかりやすく捉えられる一番の動画な気がするので、知らない人は是非見てみてほしい。

【人工知能】スーパーマリオブラザーズを学習させてみた【GA】


 全体にかなり複雑で、情報の種類も量も多すぎることでも、経験として学習させることで、着実に目標を達成するのが、機械学習のすごいところ。

 ちなみに俺は医療系の論文を読んでいて、マジで機械学習に注目するようになったんだけど、、こういう技術って、本当に発展すると、病理医とか、顕微鏡画像から何かの物事を言うことを生業としている研究者を、要らなくするよなー、っというくらいの認識だったんですが、、もしかしたら、今すでにもう要らないかも。。笑

 現代は本当にビックデータの時代なので、amazonで買い物すれば、あらゆるタイプの人間のデータとあらゆる事象についての関連性を種類分けすることで、すでに沢山のパターンをお勉強してきた賢いコンピュータ君に、「お前、どーせこんなん、好きやろ?」っと、僕らに的確に広告を出してくれる。googleの翻訳も、カンニングも、画像検索も、犯罪者も、もはやコンピュータは、機械学習によって、すでにすべてを予測しているのだ。

 俺は、正直、少なくとも自分が生きている間は、実際に手を動かせるだけの人間は職が危ういかもしれないが、考える人間は職が無くならないと思っていた。しかし、その考え方はおそらく誤りだ。むしろ、考えることしかできない人間のほうが先に職が無くなるだろうと思う。
 団塊の世代を筆頭とする、バカな時代遅れどもが、、いや!、それでも人間の長年の経験にはコンピュータにない価値がある!、そんな機械学習などという曖昧なもので、診断できるわけがない!、データを考察できるわけがない!、と言い放つだろう。しかし、現に機械学習を用いることで、その分野に対してまったく経験がないメンバーだけで構成されたチームが、画像の新たな着目ポイントを見出している。そして、アルゴリズムを理解しようとしないで、ただ自分の権威を主張しようとする、統計学的な愚か者は、機械学習によって、あなたが機械学習を否定することすら、予測するだろうと思う。

Jeremy Howard: The wonderful and terrifying implications of computers that can learn


 こうなってくると、人間にとって、本当に価値のある具体的な能力とは何だろう?っと思い悩む。
 俺は、まだ考察が足りないかもしれないけれど、たぶん、それは、新しい価値観を与えられること、とびっきりの理想を語れること、に集約していくんじゃないかと思う。

 これは、機械学習にはできない。
 機械学習では、マリオに「さっさとゴールしろ!それがこのアルゴリズムの善だ!」ということはできるけど、「でも、それなりに色んなルート通って、あと、それなりにキノコもとって、あ、それから敵もそれなりには倒してね」ということを包括することは、まだ難しい。いや、それらを完璧にこなすことはできるかもしれないが、そういう可能性の広い行為を繰り返すことで「100upみたいな、面白いものを、新しく自分でみつけてみて」っと新たな価値観を創発することは、この方法では絶対にできないのだ。

 「面白いもの」の定義は人間がしなくてはいけない。

 機械学習は、人工人間では全然ないので、ただ知能があるってだけだ。そこから人間になるためには、知能に生命を含めなくちゃならない。つまり、かなーり大雑把にいうと、生命+知能=人間、なので、知能だけが人間レベル(もしくはそれ以上)でも、生命と連結しない限りは、「気持ち」と切っても切り離せない「価値観」というやつは、機械学習だけでは創発できないのだ。
 人工知能で完璧なものは、おそらく俺らが生きてる間にできるだろう。人工生命としてほぼ全員が納得できるものも、おそらく俺らが生きている間にできるだろう。ただ、それらがコンバインしたものというのは、おそらくはかなり先なのじゃないかと思うのだ。

 だから(機械学習をいっさい取り入れないような、まったくやる気のない)研究室でも、少なくとも、こういうものに価値があるんだ!、こんなのやったって価値ねーし!、という「価値」に関するディスカッションを、俺ら若い世代は、どんどん話題の中心にしていかなくてはいけないと思う。
 どーしても、バカみたいにどうでもいいことに、俺らは「わける」手法を使って、バカみたいに名前を付けて喜んだり、How?に対するサジェストができたときに、バカみたいに自分のレゾンデートルについての安心感を感じがちだ。そんなどーでもいいことは、今すぐやめて、本当にそれをやる価値があるのか?、という議論を活発に行うようにしていかなくちゃ、これからの時代を(それこそ)生きていけなくなってしまうのではないだろうか。

 もしかしたら、我々の最終世代というのは、古代ギリシャ時代の再来を目指しているのかもしれないね。
 奴隷がいることによって哲学が発展したという、ある意味でのアカデミアの黄金期を。
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不自由さを自覚したら?

2015-08-06 01:21:20 | Weblog
 『さぁ出発しよう』
 夕空になった浜辺の水際で、ビーチサンダルを履いて、足を洗っている私を見ながら、彼はそう言った。

 次から次へと足に纏わりついてくる砂をなるべく取り除くために、海中を大股で歩くと、ほんの一瞬の自由を味わうことができる。だけど、砂は細かくすぐに再び纏わりついてくる。
 この程度でいっか?あれ、でも、もう少し洗い流せるかも?と私は海の中から動けない。

 もはや彼の言葉を無視することに疲れた私は、水際から砂浜へと足を向けてみる。海中につかったばかりの足は余計に浜辺の砂をかき集めてしまうので、慎重に歩かなくちゃ。あぁもう!砂がついちゃった!!すぐに海へと戻り、すぐに再び海中でゆっくり歩き始める。
 それを10回くらい繰り返すと、私は突然ものすごく悲しくなってきた。もはや砂を除去するという目的から乖離して、これまでの時間を無駄にしないようにするという目的に、完全に変わってしまったことを感じたからだ。

 そうこうしているうちに、日は沈みかけ、夕方特有の涼しさと不快な風を感じながら、砂を除去することを一つも努力していない彼のビーサンが完全に乾いているのを、私は察知した。もはや彼の足は、海中で砂を洗い流す必要はなく、さらさらとトラップから離れていく。
 そんな事実に気が付いているって思われないように、私はわざと顔を背けた。

 バカにされないように、つまり、単に事実に気がついていないバカでありつづけるために、俯いていると、いきなり彼が近づいてきていた。びっくりして私は「どうしてわざわざ戻ってきたの?」と思わず言う。
 彼は少し照れながら『俺の場合は、すぐに煩わしさがなくなるようになってるから、大丈夫なんだよ』と言う。意味がわからない。それならば、私は、自分がバカだって分かっている程度には賢いことを、彼に知ってもらおう。

 「わかってるんだけどね。この海でいくら砂を落としても、すぐに砂が纏わりついてしまうことは。でももう少しだけ完璧な状態で浜辺を歩きたいの」
 『いや、君は何もわかってないよ』
 「だから、海岸の外で洗い流せる場所を探せ!って言うんでしょ?わかってるんだけど、せっかくこんなに時間かけたから、もうちょっと完璧にしたいの。。でも、そんな悠長なこと言ってて、日が暮れないかな?ってちょっと不安ではあるけど」
 『海岸の外に洗い流せる場所があるかもしれない、ホースがあるかもしれない、その程度の想像力しかないから、君はダメなんだ』
 「じゃぁ、置いてけばいいじゃん?1人で行けば?」

 私は彼が両手いっぱいの砂を乱暴に持ち上げるのを確認した。なによ?それを私にかけるつもり??
 1人で行けばいいじゃん、って言われたことがそこまでショックなのかしら。でも、貴方は私と違って自由なんだから、現状、事実として本当にそうでしょ?

 手に持ってしまった砂をサラサラと海へと返していく彼を見ながら、、やっぱり、そういう強引なことをする勇気もないのね、かといって、私から離れる勇気もない貴方は、案外、私とまったく同じじゃない!偉そうに!!と思っていると、唐突に彼が『ごめんね』と言った。一瞬すべてを受け入れそうになったけれど、別の意味である可能性を感じた私は、とりあえず挑戦的に「何が?」と応じた。
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自由になるためには

2015-08-04 22:03:05 | Weblog
 『さぁ出発しよう』
 浜辺の水際でいつまでもビーチサンダルと足を洗っている君を見ながら、僕はそう言った。

 足に纏わりついた砂子を完全に取り除くために、海のなかへ足を突っ込み、海中でやさしく蹴り上げると、一瞬完全に不快感が無くなる。しかし、海中で足を地面に置いた瞬間に再び纏わりついてくる。
 もう洗い流されたでしょ?でもまだ完璧じゃないから。と君の頭の中は無限ループに陥っている。

 ついに君は僕の言葉に少しだけ耳を傾け、水際から砂浜へと足を向けてみる。しかし、濡れてしまった足は余計に浜辺の砂子をかき集めてしまう。すぐに不快感を感じた君は、すぐに海へと戻り、すぐに再び海中で蹴り上げる。
 それを10回くらい繰り返すと、君はいよいよイライラしている様子を隠せなくなってきた。それまでもかなりイライラした様子ではあったが、今はもはや誰が見てもイライラしているとわかるほどに、表情が強張っている。

 そうこうしているうちに、日は沈みかけ、夕方特有の暑さと心地よい風を感じながら、僕は自分のビーサンが完全に乾いてきたのを感じた。もはや僕の足は、海で砂子を洗い流す必要はなく、さらさらとトラップから離れていく。
 そんな事実を君に気づかれないようにと、僕はわざと水際に戻り足を濡らした。

 そんな僕の目論見を完全に見抜いた君は、自分の惨めさを相手への攻撃で隠すために、あえて食い気味に「どうしてわざわざ戻ってきたの?」と言う。
 僕は少し照れながら『俺の場合は、すぐに煩わしさがなくなるようになってるから、大丈夫なんだよ』と言う。

 「わかってるんだけどね。この海でいくら砂を落としても、すぐに砂が纏わりついてしまうことは。でももう少しだけ完璧な状態で浜辺を歩きたいの」
 『いや、君は何もわかってないよ』
 「だから、海岸の外で洗い流せる場所を探せ!って言うんでしょ?わかってるんだけど、せっかくこんなに時間かけたから、もうちょっと完璧にしたいの。。でも、そんな悠長なこと言ってて、日が暮れないかな?ってちょっと不安ではあるけど」
 『海岸の外に洗い流せる場所があるかもしれない、ホースがあるかもしれない、その程度の想像力しかないから、君はダメなんだ』
 「じゃぁ、置いてけばいいじゃん?1人で行けば?」

 僕は君の頭めがけて大量の砂を思いっきりかけることを思いつく。さすがの君でも、全身を海で洗うような真似はしないだろう。
 そして、そのまま強引に手を引っ張っていて、宇宙に飛び出し、無重力によって、君にとって煩わしいすべての粒子を取り除いてやれればいい。

 そんなバカなことを思いついて、とりあえず手に持ってしまった砂を、こっそりサラサラと海へと返しながら、そんなことするほど勇気がなくて、、『ごめんね』とだけ言うと、君は「何が?」と応じた。
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このページについて150804

2015-08-04 00:19:40 | Weblog
 そういえば、先週までアクセス解析ができる期間だったんですが、ちょっと一言イイですか??
 あくまで冷静に、

 「たかはしけい 生意気」でググって入ってきてんじゃねーぞ、ゴラーーーっ!!!

 ちなみにマジです。マジ中のマジです。
 これでググってこのページ出てくるってどうなのよ?まぁ、面白いからいいんですけど、、極めて冷静なんですけど、、

 次この言葉で同じようにググってこのページ入ってきたらマジで怒るからね?

 というわけで、最近見始めてくれている皆様、こんにちわ。
 ずーっと言ってることですが、このページで書いてあることが、俺が本当に思っていることとまったく異なることは、けっこうあることですので、注意してくださいね。だいたい知り合って、しばらくしてこのページ見つけると、「たかはしさんって、いい人なんですね」とか言われることが多いですが、そんなこたーありませんので。

 この何年かでアクセス数が本当に飛躍的に上がりました。
 みなさん、有り難うございますです。これからも、よろしゅー。
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As long as I can set you free

2015-08-03 00:49:29 | Weblog
 「自由にやっていいよ」と言われた時の不自由さを俺は誰よりも理解している。
 そんなこと言って、いつも後から「この範囲で」「方針として」「まだ学生だから」「もう学生じゃないから」「一応、この分野の人が読むから」「としての常識だと思う」「それはこっちの勝手でしょ?」などと、押さえつけるための都合のいい言葉を、無難な大人たちは語ってくるからだ。

 自分の能力はそのままで、君を支配したい、とはっきり言えば?
 そう言えるだけの勇気が無いから、貴女は昔からずっと、いつだって、決定が直前になるんでしょ??

 俺に気がつかれずに首につけられたと思っている鎖を引っ張りさえすれば、俺がすぐにでも言うことを聞くと思っていたのだろう?今まで、ここまで遠くに言ってしまう人材がいなかったからだと思うけど、俺にとっちゃ鎖を引っ張るのがいくらなんでも早すぎるんだよ笑。これじゃぁ我々が事前に想定していたよりも遥かに早い。
 俺はその鎖を壊してしまう程度の力なら持っている。というよりも、そのくらいの力を、俺は持っていなくてはいけない。生半可な気持ちでこのスタンスをとってるわけじゃない。いつでも戦う覚悟があるし、それを本気に思ったほうがいいぞ。

 俺には弱りきってる穴落ちライオンを助ける義務がある。そのためなら、なんでもする決意がある。
 そして、その犠牲となるのは無難さを前面に押し出した大人たちだ。

 おそらくしばらくすると、嵐が過ぎ去る安心感を享受するということは即ち自分たちの不安感の正体を具現化してしまうことだということに、それぞれが独立的に気が付いていくことだろう。
 その顔が見れなくて、誠に残念だ。

 他人にフラジャイルでファジーな未来を語ってしまうことで、自分を追い詰めていく俺のストイックさは、たった一人のため。
 自由にする限りにおいて、ガチの能力の向上をやめるわけにはいかないのだ。たとえ、傷つけられるべき他の誰かを傷つけてしまうんだとしても。

SEKAI NO OWARI「ANTI-HERO」
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好き

2015-08-01 02:12:53 | Weblog
 自分じゃぁ絶対にできないと思っていることが、もしかしたら自分ならできるかもしれない、と思った時点で、人生は変わる。
 そういう意味で、やっぱり、能力の絶対量は関係ない。自分ならたぶん東大に入れるだろうと思って実際に東大に入ったヤツよりも、自分は絶対に一冊の本も読破できないと思い込んでいて、ある瞬間に突然、もしかしたら自分も読書を楽しめるようになるかもしれない、と手順を踏んだ単なる読書家なヤツのほうが、、価値がある、とまで言い切ることはできないけど、少なくとも俺は後者のような人材のほうが圧倒的に怖い。

 できない、と思っていたことが、できるかもしれない、に変わり、そこに努力を積み重ねたら、できるようになった。
 この経験こそが、向上心という気持ちを高めるうえで、最も重要なのだ。なぜなら、こういう瞬間を繰り返していくことでしか、思考力は高められないからだ。

 できるかもしれない、という単なる可能性の時点で、どれだけ努力できるか?その不確定な事象に対して、自分がどれだけ労力をかけられるか?、と自分自身に対して投資するギャンブラーな気持ちを、どうか忘れないで欲しい。

 ゆえに、自分では絶対にできないと思っていることに、どんどんじゃんじゃん取り組むべきだ。そのなかで一つでも、できるかも?、と思えた時点で、人生は圧倒的に輝きだす。
 これが俺の思う長生きの秘訣。常に新しい楽しそうなことをしている人間は、新鮮だから時間が長く感じる。長生きしたいなら、ルーティンワークを繰り返すことに誤魔化しを覚えないで、どんどん自分が不可能だと勘違いしている新しい楽しそうなことをやり続けよう。そうすれば、こんなにも一日が長く感じてる、って思える。

 そして、こういうこと言うとすぐに、じゃぁお前はどうなんだよ?、と言ってくるバカがいるので、先に言い返しておくが、俺がどれだけ自分が居心地が悪いところにあえて行って戦い続けているか?ってんだ。
 自分の足を安全地帯に置いていながら、ちょこっと他分野を齧ったりしているだけの奴や、もしくは、別に俺はそんなことしたいわけじゃないし、などと閉鎖的な社会をそのままにすることを肯定化し、自分勝手な自分たちを継続させていくことで細々と無難に生き延びようとしかしていないヤツが、偉そうに俺の能力に関して示唆する権利は、本来一切ない。

 こちらが新しい物事を創ろうとしているときに、足を引っ張ってくるのは、いつだって既成概念だ。そのくだらない伝統に、尊敬などという場違いな言葉を飾って、DKEになっている自分に気がつかない態度は憐れである。

 ただし、勘違いされる前に急いで付け足さなくてはいけないが、俺は、そのような、不器用で、負けず嫌いな、ナメていない態度のロバストさが、大好きなのだ。なぜなら、それは、できない!ということをきちんと認知していることと同義であり、向上の方向性さえ見失わなければ、凄まじい楽しさがそこに待っているかもしれないからだ。

 そう、多くの研究者や大学院生は、「どうせ、自分1人がどうやったって、この分野のこの慣習は変わらない」と、小さな世界のさらに小さなセクションの中でチマチマ諦め切っている人間が多すぎるが、そこをもう一歩考えて、「いや!、自分なら変えることができるかもしれないぞ!!」と思えた瞬間に、人生は変わるのである。
 「理」論に強い人間は、「理」想を強く思い描けや。「実」験ができる人間は、それを現「実」にしてみろや。

 その瞬間、私が私じゃないみたいになる。
 ちょっとした変化も、好きなことに対してアピールしたくなるし、好きなことを好きだと叫べるようになる。普段勇気が無くても、好きすぎておかしくなってしまって、そんなことを本当に言って、笑われながら、またそのやり取りをする笑顔が好きになる。

 どんな言葉の束縛も分野の慣習も領域の柵も、俺の目的には、いっさい関係ない。
 敵は誰かじゃない!!敵は解明されにくい自然現象そのもの、何かの行き違いはいつだって残酷な物理現象であることを、常に忘れないでね。

好き / 西野カナ
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