たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

男は暴力的な方がモテる?

2019-08-20 00:16:57 | Weblog
 「男は暴力的な方がモテる」
 この意見がそれなりに物議を醸しているので、今日は俺の意見を少し書いてみようと思います。(*)

 まず、もう少し柔和にして、「いじめっ子の男子はモテる」くらいにしてみましょうか。
 だとすると、「いじめ」の定義が問題になるわけですが、ここでは「弱者を貶したり利用したりすることによって、クラスにおける自分の位置を安定化させたり上昇させたりしようとする人」くらいにしようと思います。とすると、俺個人の所感としては、日本人の8〜9割くらいはいじめっ子になるんじゃないかと思うんですよね。
 で、男女ともにいじめっ子の割合が同じくらいだとすると、そら、いじめっ子でいることを選ぶ方がモテるに決まってます。だって、自然と多数派から共感が得られますから。ふつーの女の子が寄ってくる率が高まるでしょ?露わに「いじめって正しいよね?」なんて言いあうカップルはいないでしょうが、それを違う言葉で言い表す人達はたくさんいるかと思うのです。

 「出る杭は打たれるよね」
 「そうしないと生きていけないし」
 「上手くやらないのが悪いんだよ。っていうか、人間関係って、そういうもんでしょ?」
 「人間だから、しょうがないよね。弱い生き物だから」

 このような言葉で、「弱者を迫害し、自分たちを成り立たせること」を正当化するような行為はいじめだと思いますが、残念ながらこの手法を取る人は圧倒的多数なので、この手段を取った方がモテることは間違いないと思うんですよ。まぁ、クズがクズとくっつくわけで、そんなやり方では絶対に幸せに到達するわけがないんだから、別にどーでもいいじゃん、と俺は思うんですけど。

 で、こう言うこというと、「やっぱ、暴力的だとモテるわけじゃないよね?」みたいな意見が出てきそうですけど、これってかなり暴力的じゃないですか?

 例えば、婚活女は男を年収でジャッジしたりする趣味がありますけど、それって単純に暴力ですよね?
 男をカネが稼げてるかどうかで評価するって、ただの暴力ですよ。だって、必ずしも自分の能力ではどうにもならない社会的評価である指標を、個人に押し付けるわけですから。この暴力性に対処するため、大企業に入る等の既得権益にしがみつこうとすることで、誰かを緩やかに搾取する暴力性に鈍感であり続ける男ほど、モテる。
 別に、小学校の頃と何も変わってませんよ。暴力性の概念が少し複雑になって、それが露わに可視化されていないだけ。

 そう、、「男の暴力性に女子が惹かれる」は、一見正しいように思える。
 だけどね、そのさらに奥に、別の本質があると思います。これは俺の直観でしかないけれど、「女子は、自信のある男に惹かれる」んじゃないかと。

 逆に言えば、「余裕のない男」というのが、悲しいことにひたすらモテないわけで、だから世の安い恋愛指南本では「複数の女の子にアプローチをかけることで、自身の不安と余裕のなさを分散しろ」みたいな書き方をよくしていたりするわけですが、「余裕のない男」の何がそんなに悪いん?俺は肯定化するぞ。真剣に真摯に一人の女の子を追いかけ続けるのは、悪いことではないでしょ。純粋じゃん。
 でも、モテない。事実モテない。だって、きっと、その純粋さって、多くの場合、一過性だから。所詮、付き合っていない「めちゃくちゃ好き」に信用なんてないから。「めちゃくちゃ気になる」を「めちゃくちゃ好き」に書き換えているだけだから。そういう意味で、男を選別しようとするときに、「余裕のなさ」を指標にしたり、「自信がある」を指標にしたりするのは、それなりに正しいのよ。分散させる必要はないけどね。

 そして、この「自信がある男性」のアピールの仕方が、たいてい「俺こんだけ稼いでるぜ?」とか「俺ってこんなに強いぜ?」みたいな暴力的なやり方しかできていないことは事実であると思う。
 もっとまともな、たとえば「俺ってこんなに自分の力を社会に役立ててるぜ。別に儲かってないけど、みんなが助かるならそれで良いんだぜ」みたいな自信を発揮する真の男は少ない。まともよりも、クズが多いから、クズが普通になっちゃうのですよ。

 だから「暴力的な方がモテる」という現象論的な解釈が為されるのかなぁと思いました。

 さて、モテについて語ってきたわけですが、ここで、俺が勝手に思っている、最も手っ取り早くモテるようになる方法を紹介しましょう。

 「喋り方を治せ!」
 自信のある喋り方をして、堂々としていて、低めの声だったら、暴力的じゃなくても、モテると思うんですよ。声色に1/fゆらぎ入れるようにしてさ。これが即効性が一番高いし、割と簡単なんじゃないかと思うんですが、いかがでしょうか、非モテ男子の皆さん。

 参考
(*)「お前が非モテなのは顔でも金のせいでもなく人格のせい!」←では逆にモテる人格とは?
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

決別は虚偽ばかり

2019-08-07 20:16:56 | Weblog
 決別の理由はいつだって虚偽に溢れている。
 “さようなら”に大義名分は不可欠で、それは相手を傷つけないためだったり、相手を必要以上に傷つけないと自分自身が傷ついてしまうからだったり、単に理由がわかりやすいからだったり、受け入れやすいものを選ぶことだってあるし、受け入れ難いものをあえて選んで相手を混乱させることもあるだろう。

 本音を言う必要がなくなった場合、利己的になる可能性は極めて高い。
 でも、その人が今後人生において出会うであろう、まだ見ぬ誰かのために、ここで本当のことを言うことが適切であると判断した場合、むしろ、これまでにないほどに利他的になる。それは、決別を決意した相手にとっては、残酷な真実かもしれないし、どうしようもなく変えられなかった何かかもしれない。だからこそ、この時点で、決意は露呈化するのである。

 逆に、”本当の理由”のようなものは、見出す必要がない。
 落ち度が何もないのかもしれないし、自分とは関係がないことなのかもしれないし、客観的には本当に些細なことかもしれない。けれど、どんな理由であれ、選択そのものはカワラナイのだ。だから、見出す必要性はない。探れば探るほど疑心暗鬼になるだろうし、探った結果、自分自身もその場所から脱出しなければならないことも想定される。そうなれば、自分だけではなく、周囲の人間すべてが困ることになることもある。

 世の中には、知らない方が良いこともたくさんあるのだ。勉強すればするほど、何かを理解しようとすればするほど、そう感じる。
 搾取されてきたと信じたまま死ねるなら、どんなに幸せか。構造そのもの、原理そのものを理解したときに、それが普遍性があり残酷である場合に、ユニバーサルな絶望が理解者の心をも破壊する。どんどん賢くなって、自分よりも賢い人を少なくするデメリットはここにある。
 知は力だ。その知が自分の心を侵食した時に、もはや自分以外に誰も自分を助けられない。自分自身の思考力でどうにかするしかないのだ。

 ただでさえ(無意味な)情報に溢れた現代社会、別れをキッカケに何かの真実を知るような思考力は、将来世代の何かの役には立っても、自分自身にはデメリットの方が大きい。解析する意義があることだけに注力しないと、自分自身を破壊しかねない。そのようなリスクを背負うよりも、ただ現実として受け入れてしまう方が、生存戦略として正しいのだ。

 いま、また見限った”この事象”について、ありふれた証跡と陳腐化された理窟が大義名分を形成していくことに、有り難みを感じる。
 いいんだよ、それで。俺が全部悪い。君達は悪くない。そう思いながら、のうのうと生きていけば良いんだよ。

 そんな風に思って、筆不精でいたら、まさに”決別は虚偽に溢れている”の証明が天から舞い降りた。
 このことには意味がある。そう、この心の決定に間違いはない、ということ、、だよね?
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする