たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

不安の充足感を超えて

2020-08-16 04:19:29 | Weblog
 ヒトの深層心理は誰にも分からない。それは本人さえも例外ではなく、「本当はどうでありたいか」という自分の気持ちが分からないことは、よくあることだ。
 ただでさえ、気持ちは時間依存だから、気持ちを論理的に掌握することは困難を極める。気持ちを適切に解釈できる武器は論理よりは直観であるが、それでも、気持ちの表層部分を把握することはできるかもしれないが、その奥底に眠っている”本当の願い”を抽出することは極めて難儀なのである。

 だから、どんなに口で何かの理想を語っていたとしても、それが本当にその人の願いかどうかはわからない。
 どんなに「世界一になりたい」と繰り返し唱えていたとしても、その後のビジョンが見えていなければ、努力をしていることのアリバイ工作をするように練習を繰り返すようになる。「自分はこんなに練習しているのだから」「でも、まだ練習量が足りないから、、世界の壁は分厚いな」と最適化が足りないことの言い訳をすることが習慣化すれば、人はそこに安住の地を見出してしまう。本当は世界一になんてなりたくないのだ。世界一を目指す自分でい続けたい。でも、当人はそれに気がつくことができない。

 その逆もあり得る。
 
 「終わったら死んでも良いかも」
 そう唱えたとしても、本当に死ぬ人は少ない。その先の人生を、別の人格の自分自身が、勝手に歩み出す。だから、あの瞬間に、もうすでに死んでいたのかもしれないよね。あの時、もしも1番じゃなければ、継続する大義名分を失わなかったのかもしれないから。
 きっと本心では違ったのだ。理想を掲げながら、その理想と現実とのギャップに不安を抱いて、さらに目を瞑って理想を描き、現実を諦めることを終着地として絶頂を迎え、自ら安息を得る。そんな自愛を繰り返していくことそのものを、お互いに従属しながら望んでいたのかもしれない。

 だから、、きっと貴女に見抜かれていたんじゃないかと思う。いつの間にか、本当は心のどこかで、あの状況が変わって欲しくないと思ってしまっていたところを。自分は変わっていくくせに、変わられてしまうことが、心のどこかで怖かったから。それは、状況が変わってしまうことで、俺自身の贖罪とありきたりな感情の間で成り立っていた気持ちが、確実に変化してしまうことへの恐怖だ。
 そして、その強制された充足感に甘んじていた自分自身を責めていたのであれば、結果的に一番傷つけていたのは俺なのかもしれないね。もしかしたら、圧倒的理不尽が支配する系に立ち向かおうとするモデルが適切だったのではなく、そのようなモデルと現実との乖離に悩みを抱くことで充実感を得続けることが目的であって、そこに都合良く完璧主義が存在しただけなのだとしたら。。

 この空間において、ヒトは、気持ちに対して現実を、現実に対して気持ちを、上手に最適化しすぎる。未来である今から見たときに、もはやどちらが要因なのか、わからないほどに。

 解釈として重要なのは、どっちが適切なのかと決めつけることではなく、そのような可能性もあった、と揺らぎを持たせて認識することだ。安易な二元論に落とし込まないことこそが、聡明さだろ?そのように結論づけようとすると、暑苦しい空気を一新するような微風に乗って、懐かしい声が確かに聴こえてくる。
 「それこそ、自分の論理で、自己満足してるだけじゃん」

 誰でも、自分の不安で安息を得ようとしてしまう。
 その性質を用いて、どれほど他者に迷惑をかけてしまうか。それとも、その性質を上手に利用して、他者をより良くするか。

 俺が行ってきてしまったことには、なるべく後者を含めようとしていた、とは言えると思う。
 だから、そのような皮肉に、素直に「ありがとう」と胸を張って言える。そして、「あの時、どうにかできるだけの能力がなくて、ごめんね」と。
コメント
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