たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

青春ノリが行き着く先

2022-09-07 01:29:06 | Weblog
 ここ最近、高校の頃の夢をよく観る。
 原因はなんだろうかと考えてみると、Twitterのフォロー/フォロワーに若い子が多いから、物理会などで説明の際に高校数学や高校物理の内容を確認に使っているから、はたまた、いつまでも文系がー理系がーとか言っているからかしらね?
 まぁ、そんなことは今に始まったことではないので何も因果関係がないと思うのだけど、一つあるとすれば、今所属している組織が形成している「青春ノリ」を鬱陶しく思っているからだろうなと思う。すっかり大人になっているのに(それこそいつまでも)青春ノリなんかが先導しがちな社会構造は日本においてはかなりユニバーサルに保存されていると思うので、そうじゃなければ、こっちも理系とか文系とか言わねーんだけどな。

 俺の高校時代って、いろんなことが不自由で、よくよく考えてみると、自分がしたいことを思いっきりできていない状態が多かったと思う。その足かせになっていた根源を探ってみると、、スポーツに代表される部活動に纏わる青春ノリの行き先が他者への理想の押しつけになってしまうことを、どこか直観していたからだと思う。
 中高生になるよりも前の段階で、すでに俺は、一部の文系(数としては一部かもしれないがその影響力という意味では強大であろう文系)が有するいわゆる体育会系部活の青春ノリを、非常に嫌悪している。

 スポーツマンの全盛期はとても短い。俺が好きなものは音楽と自然科学だが、この2つを楽しむ上で全盛期が20代で終わってしまうということはありえない。
 しかし、スポーツに熱中してしまえば、精神が成長し切っていない状態で肉体のピークを超えてしまうことになる。そうすると、たいていの人はどうなるか?自分が若い頃に抱いた「勝利の法則」を盾に、すべてのことを切り抜けられると錯覚してしまう。
 スポーツ以外のことについても、自分が独自に構築したくだらないスポーツ哲学を、振りかざすようになる。自分だけでなく、他者にもそれを押し付けるようになる。

 そもそもスポーツというのは、古典論的な力学法則のなかで、内輪で勝手に決めたルールを逸脱しないように、目的に向かって最適化するように身体を動かすことが本質である。
 この特殊性を無視しているスポーツマンはやたらに多い(というよりほぼ全員なのではないだろうか)。(サッカーだろうが野球だろうが)あくまでも内輪で勝手に決めたルールであるということ。人間が決めているだけなのだから、最適化するのは非常に容易であること。さらに、ルールを逸脱しなければ、ほぼ何をしても良い、ということである。

 スポーツを参考に社会人として生きてしまうと、平気で倫理観を欠如した行動をとる。審判にバレない範囲でのマリーシアを是としたビジネスを平気で提案する。法律は最低ラインで罰するために存在しているわけで、倫理観を欠如して行動する人のことを想定してはいないし、そんな人もちゃんと罰せられるようにルール設計をすることは(スポーツと違って限られた物理現象だけを考えるわけではないから)不可能である。
 そして、科学技術に対しても目的に最適化するのが簡便であると錯覚してしまう。だから、利益につながる研究開発を!みたいなスローガンを平気で掲げる。高校物理すらきちんと理解していない文系のくせに、それが「勝利の方程式」だと思い込む。相手は「内輪で勝手に決めたルール」などではなく自然現象だ。これは、非常に手強い相手であり、目的までの最短距離をすぐに見極められ、最適化できるのであれば、誰もがそうするだろう。だから、すぐにうまくいかなくなり、徐々に、権威と手っ取り早い数字(論文数や特許数)に頼りがちになる。

 さらにスポーツ系ビジネスマンたちは、スクールカーストのヒエラルキーを、そのまま社内外で適応させる。理系をコマとして使うことに罪悪感のカケラもなく、その業績を上手にかすめとろうと躍起になる。
 これまで俺はそういう風にして勝ってきたんだ!だから、このやり方が正しいんだ!お前らはダサいからそういう重要なことが見えていないんだ!と言わんばかりに、評価したがりになる。ジャッジできない/してはいけない人間がジャッジする立場を得て、自分一人じゃ論破できないとなれば、たった一人の理系を呼び出して同じ価値観を持つ「仲間」みんなでとっちめる。言い負かして、俺の方が正しいんだ!と、あからさまなマウントを取る。そして、ズルしているわけじゃないもん、と自分に言い聞かせる。

 そう、ビジネスにしてもスポーツにしても、当たり前だが、それ自体には何の生産性もないのだ。
 確かに、ここにある電気は、お金がなければつかない。このパソコンも、スマートフォンも、お金がなければ動かないだろう。しかし、お金が大量にあったとしても、電磁気学の理解なくして、それらは存在すらできなくなることを、彼ら彼女らは目にも止めない。そこに、本当の意味での敬意も感謝もなく、ただただ自分の「勝利」だけに邁進する。いざ電気が止まれば、実際に修理してくれる人を心の底では見下し、金払っているんだからちゃんとしてくれよ、などと思ってしまうのだろう。

 構造は、高校時代から何も変わっていないからね。むしろ、午前中で授業が終わって午後は遊んでいる文系を横目に、微積やモル計算に苦しんでいた高校時代のほうがマシ。

 けどね、実は、俺自身は、この青春ノリを(嫌悪しながらも)愛おしく思っている。自分の中にそういう気持ちが芽生えたときに、大事にしたいと思っている。ゆえに厄介なのだ。
 青春ノリによる理想の押し付け無くして、今の自分はありえない。ただ、押し付けてくれる彼ら彼女らが、本当の意味で心から笑顔になり、勝利の余韻に浸ることは、(そのままでは)生涯通してありえないことをよく知っているから、その事実を憂いでいる。

 だからこそ、過去のスクールカースト下位に対する蛮行への贖罪として「感謝」を掲げ、それを他者に強要することを「コミュニケーション」だと定義し、自分勝手で倫理観を欠く「勝利」を圧倒的に全力で目指している彼ら彼女らに対して、優しい言葉をかけ続ける必要があるのだと思っている。「薄っぺらい感謝をして、コミュニケーションした気分になるのではなく、一つでもいいから自分自身で積分してみなさい。金を得ることでも、名声を得ることでもなく、科学による製品に囲まれている現代社会において、それこそが勝利だよ」と。

 与えられている自由と規律を最大限に利用しながら、あの瞬間に止まった秒針を本当の意味で動かすために。
コメント (3)
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