たかはしけいのにっき

ミネソタ大の博士研究員が書く日記です。

真面目ぶっていたから

2017-09-26 00:43:05 | Weblog
 通常、データは多ければ多いほど、真実への確実性が増す。定量性を求めるなら、ある程度のデータ数が必須だ。
 特に画像データの場合、いくら定量的解析をしたとしても、たった数枚から何かの真実を語ろうとするのは非常に危険だし、そもそもそれは時空間上において作為的に選んでしまったものかもしれない。

 だが、作為と無作為が明確に区別できており、その被験者と実験者と解析者が同一人物で、かつ、その人物についての何かが知りたい場合は、この限りではない。たった数枚のデータから真実を言い当てるのは、むしろ容易だ。
 作為的なデータを魅せられて、安心していたい気持ちを取っ払ってしまう客観的データ。そんな不安なデータだって、ちゃんと目の前に出てきさえすれば、いつもなら絶対に見誤らないのに、自分が正しく解析できているのか、不安になる。でも。。

 当時、自分自身に何をイイワケに繰り返し拒否し続けていたか、たった一言を躊躇い続けたのか、自分でもわからなくなってしまった。いま自分が常に逆の立場だからこそ、、あらゆることに感謝したくなってくる。非常に尊かった日々に、、あえて背を向けて、真面目ぶって、実際に必要以上に言葉まで得てしまって、、いったい俺は何を目指していたのか?そして、そうなることをすべて予想していたかのような行動と選択を取り続けてくれたことに、小さく感謝しながら、確率的な罪悪感を胸に抱く。
 その中途半端さがなければ、出会えていない人たちが沢山いる。でも、そのすべてを無に追いやったとしても、唯一価値のある関係性だったかもしれない可能性を完全に捨てて、無難な世間体を得ようとした俺は、あのノリの良さを当時も今も信じられなかったのかもしれない。そして、半分の自分は、今でもそれで正解だと想っている。

 開設当時からあった、このページの1つの目的が消え去った今、喜ばしくも寂しくもあるこの瞬間に、また新しい意義付けを付け加えなくちゃいけない気がしてくる。無理して後から大義名分をつけようとするところがね、、このくだらない世界で得られた馬鹿げた能力だから。

 これで良かったんだ、と心から想える日が来ることを祈っている。いや、俺が主観を捨て切れていないだけで、今もきっとそうだよね。
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「助けて」と言って

2017-09-19 00:16:00 | Weblog
 不遇な現状について、自分の実力不足だと決めつけられるのであれば、こんなに幸せなことはない。
 単純にある1つのわかりやすい価値観に基づいて、実力がなかったり能力がない状態というのは、頑張りさえすれば良い点でラクなのである。芸術や音楽やお勉強よりもスポーツのほうが価値観は1つで評価しやすいし、同じスポーツでも球技よりも陸上などの競技のほうが価値観をたった1つの軸で基底しやすい。同じお勉強系でも、ほぼ確実に偏差値という価値観だけで判別できる中学・高校入試などは比較的わかりやすく、大学入試では学部学科が存在するため少しわかりにくくなる。それでも大学受験なんていうのは、アカデミアよりは明らかに偏差値で価値観を定めてしまいやすく、さらにそのアカデミアでも、実験よりは理論のほうが、(まだ)個人の実力がより強く反映されやすいという点において、1つの軸だけで評価しやすいと言える(部分がある)。

 多くは価値観の軸が簡単には設定できないこの世界の中で、自分の実力不足だ、と100%決めつけて、無駄な筋トレを努力と名付けて継続してしまう人が多いのだが、実はこれは現状からの逃避に過ぎない。その境界内にいる多くの人の価値観をきちんとより良い方向にまず変えようと努力することが正しいかもしれないのに、ある固定化された価値観の軸の中で、「自分の実力が足りないのだ」と決めつけて、曖昧な世界へと逃げ込んでしまう。
 確かに、ある一定期間、自分の能力面について100%悪いと思い込める時は必要ではある。何事もまずは100%自分の責任にしなければ、前に進めないからだ。
 しかし、思考をめいいっぱい使って、とことん自分を追い詰め切っても、偶発性以外の不条理が残るなら、それを直視しないのは、逆に努力不足になってしまう。

 運命は、だいたいは、自分が解ける問題しか提示してこない。それが自分の個人的な能力が足りないからであれ、集団全体の空気を変える必要性があり、それが今満たされていないからという理由であれ、その両方であれ(その割合がどうであれ)、殆どの場合では、とにかく自分のポテンシャルで解ける問題しか存在していないと思う。ただ、本当にレアなケースだが、原理的には自分だけでは解けない問題を提示されることもあるにはある。
 そんな時でも、頑に「自分一人でどうにかできなくちゃいけないんだ」と思い込んでいるのは、実は他者に少しずつ負担をかけていることになっている。

 だから、素直に「助けて」と叫んで欲しい。
 大声で。俺のところまで届くように。

 そう聴いた瞬間に、「助けて、って言わなきゃ助けてくれないなんて」と思考してしまい、「そもそも、あなたなんかに」と嘯くだろうが、、それは確かにその通りかもしれない。
 何かの見返りを完全に求めていない救いなんてありえないだろうし、摂動を与えてしまうことの責任をともに背負ってくれというのは、運命の悪戯を請け負った本人に対して押し付けていることと同義だから、いっそのことまったく知らない人が自分とは関わりのないところで大きな事故にあったことを新聞で知るときと同じように、哀れに思うだけにとどめるべきなのかもしれない。そう、あなたなんかのことよりも、自分の頭痛のほうが遥かに気にかかる、と。

 それでも、一言で、世界は変わりうる。たった一言、「助けて」というだけで。

 言ってくれないその一言を、継続的に、そう思わせられるだけの実力が俺に備わっていないことが悪いと100%思っている。
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Don't they know it's the end of the world?

2017-09-11 02:12:10 | Weblog
 変化の激しい日を終えて目覚めると、どうしてまだ世界が存在しているのだろうか?と本気で思うことがある。
 どの時点からか、、どこかでわかっていたことのはずなのに、目の当たりにしてしまってから本格的に落ち込む自分の想像力の低さを客観的に解釈することで落ち込むフリをして、逃げ場のない悲しさから一時的に非難しようとする。

 夢の中では、まだ、あなたがいて、悲しく笑っていて、いつものように下手っぴにこっちを観てないフリをして、自分が楽しんではいけない空間なんだと決めつけることで一歩距離をとりながら、孤独を楽しんでいる自分に酔っている。そんな姿に気がついているのに顕著に指摘できないでいる私は、実はあなたに似ているのに、それを認めようとしない幼さに愛しさを感じながらも、確実に過ぎ去ってしまっている時間の中で途方に暮れながら、とりとめのないことで笑いを享受できた瞬間に、、目が覚めてしまった。
 理想すら具象化されないで、想起のままの状態を反芻してしまう。「どうして一歩踏み込めないんだろう?」という疑問は「誘っているくせに眠そうにする俺」が体現していて、勇気がある分だけ本気じゃないように見えてしまう。

 最終的に「好きなくせに」に帰着されながらも、それを「察してほしい」という手を数々と繰り出してくる。わかりにくさの中に明確な感情がこめられているのを感じながらも、解釈しようと試みない限り解けないある種の謎は、いつだって私を追いつめて、いつだって振り向かせるだけのキッカケを与えない。それは、私の選択でもあるし、あなたの選択でもある。
 だとしたら、何かを諦めてしまうことだって赦すべきなのだと思う。きっと、「もう既に赦してる。一生理解できないけど」と捨て台詞を言うくらいの体力は、いつだって残っているから。

 同じ日を見れない日々に、どの瞬間が諦めるポイントなのか分からないけれど、それでも何かを失ったという自覚を持つことで、やっと部屋から出て行ける。やっと、まだ、世界は終わってはいないのだ、と思えるのだ。
 それがどんなにホンモノだと確信していたとして、1つの解釈と1つの関係性が終わったとしても、他にも独立にどうでもいい事象は続いていく。それすら赦せない狭い想いの容量を「どーせ自分の人生なんて」って達観視することで納得するしかなくて、何も感情を考えてくれない人が「この経験だって、いつか役に立つから」という、無意味すぎる言葉に吐きそうになる。

 世界は終わったのだ。そう仮定して生きる日々は、案外楽しく、充実してしまう。
 だからこそ、誰も助けてくれなくなる。そして、それこそが心地善くなる。所詮、多くの他人は、自分に変化を齎す敵でしかないのだ。だとしたら、いかに孤独でいれるか、ということにフォーカスしたほうが良いのかもしれない。

 それだけが、この関係性で役に立ったこと、と私なりにポジティブに捉えながら、、また眠りにつこうと思う。

The End of the World - "Space Jazz" Skeeter Davis Cover ft. Niia
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きっと戻れやしないけど

2017-09-05 02:15:43 | Weblog
 理想を追い続けることが子供で現実に即すことができることが大人だとする、その考えは、今でも健在なのかな?

 お互いに利用することで成り立っていた関係性から、いつしか本当に求め合うようになり、(俺だけでなく)お互いの理想を追及しすぎたために崩壊した関係は、今も俺の心の中に深く残っている。

 好きだからこそ期待するし、期待しているからこそ好きになる。そんなやりとりを、強すぎる猫パンチのなかで繰り返す一方で、根ざすものが共通だからこその不一致が拡大していく。
 何かの証がなかなか得られないのではなく、なかなか得られない状態をより継続させたい意図が、見えない力によって働いていることを見抜くまでに、そんなに時間はかからない。それは、俺が望んだのかもしれないし、貴女が望んだのかもしれないし、もっと大きな(ある種の)社会からの要請だったのかもしれないし、今となっては曖昧なままだけど、、でも確実に言えるのは、何の保証も一切存在していない状態が一番楽しめていたということ。いつだって、公に承認を得られてしまってからのほうが、つまらない。

 だから、誰にも何も知られぬまま、このままの状態で、交わらなかった線としてお互いに存在し続けるほうが、幸せに近づくのかもしれない。
 関係性としての承認が得られてしまうほうが、より個人的な承認がローカルに欲しくなって、無意味に傷つけたり、無意味に牽制し合ったり、、そう、これは俺のストーリーで、俺が主人公。だとしたら、失敗の責任はすべて俺にあるわけで、、そのストレスが、貴女の、俺らよりも弱い相手を傷つけることの抑制力を抑制してしまったのだとしたら、、自分の判断を恥じなければいけないと思っている。

 すべての怒りは、自分の無能力に向けられるべきである。俺は、自分の無能を今もどこかで責め続けている。その場に存在し続けられなかったこと、一時でもより外部からの承認を求めてしまったこと、、ただただ、笑い合っていられれば、それで良かったはずなのに。もともと、それだけが目的のはずだったのに。

 崩壊してしまえば、虚構性がバレてしまう。俺にとって、誰かの必要性など、常にないから。
 「大人になったらわかるよ」と、その言葉に甘えたい自分をギリギリのところでこらえながら、新しい集団に慎重に接しながら達観している。

 だって、どーせ、きっときっと、現実的には戻れやしないから。だからこそ、自分のなかに、問題を飼い続けていくべきなのだと思う。

fallin' / EXILE (カバー) アカペラで7パート+αを一人で歌ってみた 【多重録音】
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