たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

大概の"若き天才"

2022-12-28 02:36:12 | Weblog
 若さとは、努力していないのに何故か成功してしまった感を出すのに、必死な状態である。
 これはどうしてなのかよくわからないけど、割といつの時代も、誰にとっても、これを定義としてしまっても良いくらい、若い時代にユニバーサルに成り立つ性質なんじゃないか思う。

 広い社会の中で若い時期に若いままで他者より一歩抜きんでるためには、ハッタリこそが重要になると言うことなのだろうか。確かにそれは有効な手段で、昨今は特に、本質的にどうであるとか、実際のところはどうであるとかよりも遥かに、「他者からどのように見えるか」こそが重要であるから、「若くして〇〇!」という標語に皆飛びつく。
 すんげえ努力して、コツコツやりまくって、60過ぎてやっと花開く。という人生よりも、20代ですでに脚光を浴びていて、天才だと言われていた。という人生のほうが、魅力的に映ってしまうのが若さなのだ。

 アカデミアではしばらくこの方法を用いて大学院生を獲得する構造が存在していた。20代で准教授、研究室持っているあの先生は天才だってね。
 ビジネスでも同じこと。若くして起業した敏腕若手社長!ってね。

 20代前半であれば、どんなにすごい実力があるのだろうか、自分もそうなるチャンスがあるんじゃないだろうか、そのカギはなんだろうか、若いボスだから自分と意見も合いやすいんじゃないだろうか、と期待して、そういう場所に赴きやすくなる。

 しかし、実際にそのなかに入ってみれば、多くの場合で、思ってもみなかった実力以外の力がものすごく働いていることに気が付く。
 恩師という名の「上の先生」と頻繁にやり取りし、「上の先生」の前では、まるで学生のように従順になる若手天才大学教員を見て、察するのである。この人個人の能力が特別すごいわけじゃないんだ。気に入られる能力がはるかに高くて、そこそこ無難なだけなんだってね。
 世の中には「起業した人」ではなく、「起業させられている人」「社長をやらされている人」というのがそこそこいることにも気が付くだろう。株式保有率を見れば誰のものかは最初から一目瞭然。そうでなくとも、VCの手となり足となっているケースさえもある。

 よーするに、ほとんどの若い天才と言われている彼ら彼女らは、ドーピングをしているだけ。そして、その薬剤がいつの間にか自分自身をも侵食していたことに気がつかされる。

 彼ら彼女らが「俺はこんなふうに成り上がった!」「圧倒的に成長しよう!」と虚勢の声を上げれば上げるほどに集団全体から本質が失われ、媚び諂う能力について「狭い世界だから敵を増やさない方が良い」「批判だけではなく提案を」とそれらしき言葉を使うほどに、若さがどんどん失われていく。やはり、努力して、着実に実力をつけてから、ゆっくり一歩一歩成功した方が良いんじゃないだろうか、と気が付いていくのだ。

 自分より若い子が、努力していないのに何故か成功してしまった感を出すのに必死な状態を見つけると、滑稽ではあるが、羨ましく思う。まだ、あの薬の心地よさを心から味わえているのか、と。
 けど、自分より年長者が、いつまでも若い状態から抜け出せない姿を見つけてしまうと、滑稽さだけが残り、こうなってはいけない、と強く思う。

 天才じゃないのに天才に見せたい気持ち。すごくないのに、すごいんだって見せたい気持ち。それを達成するために頑張ることは、努力では決してない。なぜなら、誰のためにもならないから。あなたの一過性の不安な気持ちを、少しの時間だけ拭うだけだから。それは、あなた自身のためにもならないから。
 それでもあなたは、「大衆から天才に見えている状態」から自他共に認める「本当の天才」になるために、まだまだ媚び諂い続ける?忘れちゃいけない。時間は平等に与えられている。媚び諂っていることに大忙しなのだから、本当に成長する時間なんて、とれるわけがねーんだぜ?
 けど、今の立場を守り続けねばならない。立場を守らないと成長するチャンスも環境も他にないと思っているし、本当に立場を捨てちゃえば、迷惑をかけてしまう人がたくさんいる。そして、何より虚勢が嘘だと大衆にバレてはいけないから。

 それはすなわち、クズにならざるをえない選択肢しか残らない最悪の布石。若さを若さのままにして大人になっても幸せなんかじゃない、って気が付くのが、大人への第一歩なんじゃないだろうか。
 これが、俺自身の三十にして立つ、であったと思う。
コメント
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