たかはしけいのにっき

ミネソタ大の博士研究員が書く日記です。

弱者を食いものにすることの愚かさについて

2016-11-28 03:12:20 | Weblog
 自分よりも弱い立場の人間やバカ正直な人間を積極的に食いものにすることで、自らの利益や無難さを追及していった方がラクに思える瞬間がある。
 ここを受け入れられるのが大人だと言っているように聴こえるときすらあるし、圧倒的多数のクズ(と書いてしまうと、実は、クズの定義的にトートロジーですが)に受け入れられたいのであれば、積極的に弱者やバカ正直どもを利用していった方が良いだろう。

 ここのズルさを見抜いて指摘すると、悪者扱いされることすら多々ある。
 「アイツは信用できない」とか「なんでもかんでも、すぐに疑ってきて酷い」とか言ってくる。どのツラして被害者面してんだ?っと思うが、それを無視していると、「現実論者(リアリスト)だから」という声が聴こえてくるのがいつものパターン。これに関しては(特に)あらゆる意味で間違っている。
 まず、単なる自分勝手を現実論者だと解釈しているところ。次に、現実論者というのは、あらゆる存在が自分と同じように生きているものだと仮定することを言うので、自分以外の人間は自分が主役の演劇の登場人物なのだというふーに思って、相手を平気で迫害できたり、ただの迷惑行為を正当化しつづけて自分が利益を得るのは、むしろ唯名論者だと言える。そして、唯名論者だったとしても、自分にとっての利益を(それも他人を迫害してまで)最大限に優先する訳ではないので、こういう自分勝手なヤツは、なんにも信念など持っていないに等しい。

 "自分の利益にとって、敵か味方か"という二元論を、ロジックのかなり最初の段階で持ち込んでしまうことは、心の狭さを物語っているのだが、こちらのほうが社会的に成功しやすいだろう。なぜなら、みんながこういう馬鹿げたロジックを構成しがちだからだ。そして、この人が男性であれば、顔が整っているだけのクズな女の子(俺はこれをカワイイとは定義しないので、顔が整っている、としておきます)からモテるであろうから、結婚もしやすいだろう。
 彼ら彼女らのロジックでは、"それがズルいって思うなら、お前もそうすればいいじゃん?"っていうわけだ。お前みたいに業績に書くことを目的とした論文を無理に書いたり、そのために弱者やバカ正直な後輩(や場合によっては先輩)を迫害したりバカにしたりして、とにかく自分がラクして最大の成果らしい成果を手にすることを至上にして生きろって??それなら、一生布団から出ないで引きこもってた方が、何百倍もマシだろ。

 と、みんながみんな、ここまで極端じゃないわけで、この間で揺れている人が多いだろう。さて、考えてみよう。
 ズルした方がカネは手に入るぞ?業績もラクにゲットできるぞ?出世も早いぞ?どうだどうだ??ズルしようぜ、弱者は食いものにしていこうぜ。みんなやってるんだから。

 だが、である。しかし、なのである。
 こういうズルをした分だけ、実はものすごく損をしている。本当の信頼関係を一度も得られずに、このクズたちは一生を終えてしまうのだ。一度は得られていたのだとしても、"あれは若さゆえだったのだ"と条件付けすることになって、結局信頼関係を得られていないことになってしまうのだ(口にしたけど消化できずに吐いてしまったのと同じ)。そう、つまり、弱者を食いものにすることを常習化してしまうと、本音と本音をぶつけ合わせた経験をいっさい認識しないままに、死んでいくのである。
 そら、弱者を迫害したり、義務を上手くすり抜けたり、ズルをしていれば、出世できるかもしれない。そら、恋愛や結婚もラクにできるだろう。だが、部下から疎まれ、上司とも同期とも表面上の関係であり、家族関係も希薄になり、人生の中で一度も本音トークをしたことがないまま、心と心をかよわすことの意味も知らずに、死ぬのである。そして、そこで行われる葬儀もカタチだけのもので、皆、線香一本あげて急いで帰るのである。

 カネがあれば、モノは買えるし、無難に過ごせるし、出世もできるし、結婚もできるだろう。だが、本音で話してくれ、というのは、10億円払っても、できるものではない。カネを払った相手に、"いや、本当にいつもお世話になっています"と言われるのがオチだろう。

 俺も最近どんどん本音で喋る相手が減ってきてしまっている。これは哀しいことではあるが、自分自身が変わってしまったわけではないと思っている。
 周囲の人間のなかで、残ってくれる人が一人でもいてくれれば、、いや、それすら要らないかもしれない。だって、自分さえ変わらなければ、本気で意見をぶつけ合って、本音で話して、心と心がかよったことがある、という事実は一生消えることではないから。
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最近"飼ってる"問題

2016-11-24 02:14:38 | Weblog
 久しぶりに、最近"飼ってる"問題の公開でもやってみましょうか。

 予備校時代、ある数学の先生から、"数学の実力は解いた問題数に比例するのではなく、考えた時間に比例する"と言われ、"君らはハイレベルな問題を解く必要があるんだから、常に自分の頭になんらかの問題を飼っておく必要がある。いつでも、たった一問を考えているような状態を作りなさい"と。それ以来、俺は、確かにそうだなぁと思って、受験数学の問題を飼わずに(この辺が入試に向かない俺の性質、、というイイワケ笑)、あらゆる問題を飼っています。それらを一時期、ここで結構紹介していたんですが、かなり久しぶりにそれをやろうかと思います。といっても、3問ですが。少ない?いや、多すぎるか?

 答えを出すよりも問題を出す方が罪深いと言われます。そのたった一言で、人々が議論になってしまうわけですから。

 ・時間とは何か?

 ちょこちょこTwitterで考えてる経過を出していたんですが、"時間"って言うのが、今さらだけど、やっぱりよくわかんねーなぁと思って、あらゆる方向から考えています。統計物理的に考えると?弱い相互作用で考えると?(相対論で考えると?量子力学で考えると?)という時間反転対称性で考える物理学のアプローチから、現在中心主義や過去中心主義などから考える哲学のアプローチまで。
 答えが出るわけが無いんですが、ある程度の納得解が欲しいのよね。性質的な定義でもイイから。"生命とは何か?"で喩えると、「自己複製(情報)、エネルギー代謝、コンパートメント、進化する力」みたいな古典的な性質列挙型定義でも良いし、"ダーウィン進化が可能な自己保存的な化学系"みたいな、いやだから結局なんなんだよ?っていうかダーウィン進化ってなに?みたいな謎深まり型定義でも良いんだけど、時間に関しては、その程度の納得解も無い気がします。

 キッカケは、努力って結局意味あんの?っていう疑問からだったんだけど(それは前回と前々回書きました)、、うーん、なんていうか、これがわからないと、生命とは何か?もよくわかんねーんじゃねーかなぁと思うし、だいたい時間って何次元で考えるのが正しいっぽいのかもよくわからないし、考えれば考えるほど超怪奇よね。
 というわけで、飼ってあげています。

 ・EmIバランス理論について

 これは俺が最近新しく提唱している理詰めです。20世紀初頭に発表された重要な3つの物理量、エネルギー(E)と質量(m)と情報量(I)がそれぞれ等価関係にあることは、すでに現代物理で示されているんですが、m→Iの直接的な等価関係性はまだ示されていません(質量を消し去って情報が沢山出てくるような実験系や理論体系があったらなぁ)。ここをきちんと示せたらマジでノーベル賞だなぁとは思ってたんですが(これはこれで実は飼っていますが)、それよりも、この3つで、あらゆる対象を評価できるってのが、面白い。
 例えば人物評価。Eはその人が持ってるパワー。mは耐久性。Iは使い勝手の良さ。この3つのバランスが良いと社会から高評価を得られます。例えば、俺はEとmは良いですが、Iが悪すぎる(と勘違いされている笑 善人にとってはIもものすごくイイですよ?あなたがクズなだけで?笑)。実験装置から人物、集団に至るまで、すべてこの3つで評価できますし、この3つの総合値が高いものが評価されているのではなく、この3つのバランスが良いものが高く評価されています(iPhoneとか)。この等価交換はどこまで可能か?ってのはなかなか難しいもんです。staticにはこれでかなり精緻だと思います。
 (ちなみに"生命"だと、Eが進化する力、mがロバストネス、Iが可塑性です。4つの定義だと、Eが進化する力とエネルギー代謝、mがコンパートメント、Iが自己複製、が一番近いです(これは割合の問題で、たとえば、自己複製はmの要素もありだし、エネルギー代謝はIっぽくもありますが))

 これと"時間"の定義問題、これと論理の3要素(時間、空間、数)、これとABCグループ理論、これと戦術or戦略タイプ、などについて、組み合わせてみたら、また面白いかなぁと思っていますが、これもなかなか難しくて、ロジックにまとめられるほど、俺の思考が追いついていません。
 っというわけで、飼ってあげています。

 ・"能力"と"得ている言葉"と"クズ"の関係性

 見て観ぬフリがクズかどうか?というのは、それこそ俺が5年くらいは飼ってた問題で、こないだ解決されて良かったのですが、それと関連して、能力が低いわりに高級な言葉を得られてしまっている場合に、どれくらいクズとニヤリーイコールにしていいのか?という課題がいまだに解決されていません。
 俺的には、、能力が届いていないのにある言葉を得た状態で、さらにより高級なある言葉を能力無しで得てしまった時点で、ほぼクズなんじゃないか、という帰結に達していますが、きちんとロジック化できていません。つまり、二回以上でアウト。一回はセーフ。超具体的に言ってしまうと、推薦で学校(例えば大学)に行くのは良いけど、その学校でまた内部推薦をとって同じ学校(例えば大学院)に行ってしまうとクズ確定、みたいな感じかなぁ。一回目は多様性的にもOKな感じがするんだけど、二回もそれやると、どうしても弱者を傷つけちゃうと思うんだよね、結局のところ。東大生が、早慶はバカにしないけど、それより下の偏差値はバカにしがち、っていうのと似てるかもね。

 でも、これはロジックじゃなくて、ただの感覚ですので、俺的には確定ではありません。
 なので飼ってあげています。

 書いてて気がついたんだけど、どれも"生命とは何か?"に繋がっていなくもない、、か?
 それなりに、本当に興味あるのかもしれんなぁ、"生命とは何か?"。
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"努力らしき行為"の価値

2016-11-18 01:14:28 | Weblog
 努力は原理的に幻想でしかない。だから、そこに注力するのは、一見無駄なことのように思える。
 何かの理不尽に耐えながら、誰かの要求に応えながら、一部では"意識高い系なだけだろ?"とバカにされながら、自分の掲げてきた目標(それが大学入試やどこかの企業に就職することや論文を出すこと、というような程度の低い目標であれ)に向かって邁進していることに対して、それは幻想だとか言われると、たいていの人はムカつくし、そんな声を聞きたくなくなると思う。だが、待って欲しい。俺は、努力が幻想であると言っただけで、無価値であるとは言ってない。

 政治力学的にアジャストするような行為は努力ではない。ここに対しては言葉を変えない。
 だが、考えてみれば、スポーツや音楽などの娯楽業は殆どの場合、実質的には無価値であり(精神的な有益性は誰もが認めているが)、突き詰めてしまえば、政治力学にアジャストしているだけだ。舞台に立つための、すべての選手が日々行っている"努力らしき行為"を、俺は努力そのものだとは定義しないが、その努力的な頑張りが無意味だとは思えない。本気で幻想を信じているがゆえの彼らの振る舞いが、俺に頑張ることの指針を教えてくれるからだ。

 努力という幻想を信じて、"努力らしき行為"を繰り返し続けていることを、他人にひけらかさず、誰かを想いながらやっているのだ、などと(たとえそれが本心であったとしても)中途半端なイイワケを言わずに、自分自身のために行っているという完全自己中心主義に無理矢理に帰着させたときに、はじめて、努力の幻想は努力としての価値を見出し始める。
 だってさ、たとえ誰かのことを本気で愛していたとして、その彼(女)が何かの圧倒的な不条理にあっていたとして、それで何か努力的なことをしたいと想っていたとしても、それは一緒になることの運命を(自分勝手に)感じてしまっているだけであって、もはや自分のことなわけじゃん?そう、一体系の問題として、内向きに内向きにしていくことこそが、努力の本来の姿に(おそらく)一番近い。努力らしき行為を見せびらかしたり、ましてやそこに大義名分をくっつけてはいけないが、内向きである限りは少なくとも害はない。

 実は、これをよく伝えている、超ベタな有名作品がある。それは10年以上前に流行っていた"世界の中心で、愛をさけぶ"だ。
 俺はコレはドラマしかちゃんと全部観ていないし、そんなに好きな作品でもないのだが、、ドラマの最終回で、主人公"朔太郎"がヒロイン"亜紀"の死後に、自分がどのように過ごしたかを語るシーンがあり、俺が高校生当時観ていたときに、かなり印象に残った。

 「それからの僕は、何事もなく過ごしながら、勉強に没頭した。もちろん、入試のためだったけれど、難しいことを考えてるのは有り難かった。その間は他のことを考えなくて済むから」

 ベタ過ぎて、このドラマを観るのがイヤーになっていたのだが、、ここの朔太郎のコメントは、あーなるほどなーわかるー、って感じだった。そして、今いっそう、これはよくわかるし、よくよくセカチューのストーリーの構造を捉えてみると、この部分がかなり重要な位置をとっていることがわかる。
 このように、自分にもいずれ降りかかってくる"絶対の死"を享受したあとの、人生の暇つぶしの意味としての努力らしき行為は、もっとも幻想の効果を発揮させる。

 ここまで到達している努力らしき行為は、努力がいくら幻想であるとはいえ、突然生まれさせられ、すぐに死んでしまう以上、意味が無いとは言えないと俺は想うのだ。

 だから、、別に、俺は、どうしろと言いたいわけではない。
 貴女に、、そのままで良いんだよ?とも言いたくないし、このままではダメだ!と言いたいわけでもない。

 ただ、俺が、、俺個人が、、自分の努力らしき行為に対して、その程度のことなんだと保険をかけながらも、何も期待せず、虚しく、きっと自分にとっても無意味だし、相手のためになんかなるはずがないけれど、、それでも、圧倒的に長いタイムスパンのどこかで、(自分や誰かの)何かにとって意味や価値があればなぁと願いながら、でも、そんなに上手く行くはずもないよなぁと思いながら、あくまでも根気強く、しかしダラダラと、繰り返していたいなぁと想うのである。

世界の中心で、愛をさけぶ


(ちなみにこの曲は大好きなんです。よくピアノで耳コピしたのを弾いてました。今でもたまに弾く)
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すべての努力は幻想です

2016-11-17 01:27:21 | Weblog
 努力というのはなかなかに定義のしにくいもの。"努力とは何か?"というのは意外とこれだけでかなり深淵な問いだと思います。

 最もよくある"自分は努力している!"の勘違いは、政治力学にアジャストしまくっていることを努力だと勘違いしていること。これはかなり多く見受けられる例ですね。
 誰かからの命令をきいて、ハードワークになりまくっていることを努力だと思ってはいけません。少なくとも努力というのは、自分自身で方針を決めなくちゃ努力とは呼べないですよね?不安定な道を自分の足で歩いているというリスクを背負ってこそ。
 だから、受験勉強を頑張る事は努力ではないし(推薦入試というのはその"頑張る"でもないからマズいんだけどね)、就活を頑張る事も努力ではないし、最短でトップジャーナルに論文を載せようと頑張ることも努力ではありません。それらは、あくまでも無難にアジャストしようと努めた結果の行為ってだけであって、自らの「力」が伴っていないのです。

 この"システムにアジャストすること(すなわち政治力学的に生きること)"を努力だと思っている人はめちゃくちゃ多いんですが、これを持ってして、自分の何かのレゾンデートルの大義名分にしてはいけません。それをすると誰かを傷つけます。なぜなら、この努力によって、自分には能力がついたと勘違いしてしまうからです。そこにアジャストしなかったけれども能力のある人を「自分たちが生き残っていくために」と除外し始めます。だいたい、こんなことで能力がつくのであれば、人生簡単すぎると思いませんか?
 確かな能力というのは、一見すると無駄な頑張りから生まれるものです。たとえば「数学なんて、さっさと答えみちゃって、解法をマスター(暗記)してしまうほうが早い」というのは受験にアジャストしようとしたときに最もコスパーが良いのは間違いないのですが、その瞬間に得られるはずだった思考力upのチャンスが消えたと思ってまず間違いありません。解答がその辺に転がっているのに、ましてや、めちゃくちゃ基本的なことなのに、自分の頭で考えようとしているヤツは、周囲からは圧倒的にバカに見えます。しかし、ここのリスクを受け入れて、周囲の反発を乗り越えない限り、本当の能力というのは得られません。

 ここが理解できていないと、浪人したのだから志望校はもっと高い偏差値じゃないと納得できない、という勘違いが生まれます。もしくは、(推薦で入ったのだとしても)せっかく良い大学なのだから、もっと安泰な超人気企業へ、という発想になります。さらにもしくは、これだけの長い時間、文章作成や実験に費やしているのだから、もっとIFの高いジャーナルに載せないと割りに合わない、などという勘違いが生まれてしまいます。
 これらは、本来努力をしていないにも拘らず、(とにかく)得られた言葉と費やしたと勘違いしている時間を思考の合間にかます事で、自分は努力したのだと逆輸入的に納得しているわけで、実は非常に傲慢な態度です。そして、この望みが叶えられてしまうと、さらに最悪です。反省する機会を失ってしまいますから。

 さらに、とにかく時間だけはかけたんだ!ということをレゾンデートルにしている人ほど、時間をかけていない人を批判します。
 直前の直前まで何もやらずに、最後の最後になって、焦りまくって、間に合わせようと頑張ってアジャストしたことを努力だと勘違いしてしまう人もそれなりの数いますが、実は、時間だけはかけたので認めてください系の人と精神構造は同じです。
 どんな手段を使ったとしても(解答を丸写ししただけだとしても、枚挙主義的な銅鉄研究だったとしても)、(そのぶん沢山解いたから、そのぶん沢山実験したから、などと誤魔化しのセリフを用意しながら)何かの成果さえあって、言葉さえ手に出来れば良いのだ、と周囲からの承認を逆算して頑張る行為を、時間をかけて行ったのだから自分は努力したわけで言葉を得る権利があるのだと勘違いしているのと、時間をかけずに直前の間に合うか間に合わないかのギリギリのなかで焦って作業した事を努力とし言葉を得る権利があるのだと勘違いしているのと、あんま、変わらんでしょ??

 頑張ったというアカシを、作業した時間の長さに求めるか、とにかく作業はしたのだという虚脱感に求めるか。
 そんなんするくらいなら、街中をぶらぶら散歩したほうがよっぽど有意義ですが、みんな意外とおバカさんで、これら無意味な行為を努力だと定義したがって、勝手に落ち込んでいる人すらいます。

 じゃあ、努力とはいったいなんなのか?
 結局のところ、"努力という幻想があるだけなんじゃないか"と俺には思えるのです。俺は再現性を神とする"科学"という宗教の信者ではありますが、一度この宗教の信者であることを"やーめた"っとすると、数秒先であれ未来が来るかどうかというのはわかりようがありません。過去と現在は時間として定義できうりますが、未来に関しては、起こっていないから幻想でしかない。努力という概念も同じようなものだと思います。

 たとえば、"自らの意志を持って未来に向かって邁進すること"と、どこにでもありそうな定義をすることはできますが、本気の本気で考えると、未来が定義できない以上(というか、きちんと時間を定義することすら難しい。まぁ実験的にはセシウムなどの原子時計で定義できるのだが、物理学の論理構造としてきちんと定義するのって想像以上に難しいし、だからたぶん)、努力なんてものは存在しないし、そもそも自由意志なんてあってないようなものだから、原理的に努力なんてものは定義できないと思うし、無理矢理に定義できたとしても不確定要素が強すぎて無意味だと思うのよね。

 だから、ある程度の責任感は持ちながらも、好きなように生きろ。
 何かのシステムにアジャストすることで努力と名付けて息苦しく生きるよりも、自分の道徳に従って(ストイックに)生きるほうが(弱者を必要以上に傷つけないから)楽しいし、自分の責任が要求されるようなことでも、結局のところ同じだと思う。まぁあえていうなら、自分の道徳に従って生きることは(本来的には)時間に依存しませんし、これを努力と定義してもイイのですが、、それだとあまりに俺にとって有利な定義なので笑、ちょっと抵抗があるんだじぇ。

 あ、ちなみに、流石にこれだけの長いことを周囲に言ってられないので、端的に「俺って、努力したことないのよね」といつも言っているわけですよ笑。
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"理論"の直観と"実験"の論理

2016-11-14 02:17:01 | Weblog
 確実に達成できそうな数年の目標を立てることが評価される世界のなかでは、直観の大切さは損なわれていってしまう。
 直観的に認識したり発想が与えられることは、様々なシーンで大切になってくるのだが、それよりも、当たり前のことを当たり前に示す堅実さを持ってして無難に生きることを遂行してしまう社会では疲弊してしまう事は必至だろう。

 だが、この堅実さについても、メリットがある。確実に正解を与えようとしながら、精緻に思考を展開していったときには、役に立つのだ。
 論理的堅実さには無駄も多いが、確実に誰でも解けるという点では、とても良い。一方で直観に頼るというのは、無駄は無いし、芸術的にキレイなことも多いのだが、思いつかなかったら何の答え(成果)も出ない、というデメリットもあるのだ。

 (最近俺は(現在の)自分の生徒という呼べる人がいなくなってしまったのだが、)塾で高校数学を教えていたとき、必ず最初の段階で出す問題のひとつに「6人で3ペアを作るのは何通り?」という問題があった。この問題で、論理と直観の違いを知ってもらいたい、と思っていた。ちなみにどちらが偉いというわけではないが、時間は沢山あるけど多くのステップを踏みながら考えていかなくちゃいけないような試験の場合では論理が勝ちやすいし、基本的に時間が足りなく視力検査のようにパサパサ問題に答えなくちゃいけない試験の場合は直観のほうが勝ちやすい。
 この問題を、論理的に、教科書的に、確実に解こうとするなら、「3つの部屋を用意して、そこに2人ずついれるようにしてから、部屋そのものを並べ替えた場合を考慮しなくちゃいけない」から「コンビネーションの(6,2)と(4,2)と(2,2)を全部掛かけて3!で割る=15通り」という演算をすればいいわけだが、分数で沢山約分ができるということは無駄な論理展開をしているということ。ぱさっと解くなら「1人目の人間が、誰と組もっかぁ、5通りかぁ。2人目は、3通りかぁ。3人目は、選択の余地なし。だから5×3×1で15通りかなぁ」のほうが遥かに早い。
 前者の解き方がロジック(寄り)であり、後者が直観(寄り)であると俺は思う。(いや、この場合は、当然どちらも論理的ではあるんだけど、あくまで、どっち寄りか?って話ね)

 で、たいていの場合、自然科学において研究を進捗させようとしたときに、何の脈略も無く、直観を働かせてどうこうしようとするのは、ただの怪しいヤツになるわけですから、論理でどうにかしようとするわけです。ロジックを精緻にくみ上げようとするのが正しい態度です。

 だから、自分の頭の中で、ある程度まできちんと体系化されている、かつ論理体系と論理体系が(ほぼ)精緻に繋がっている、現代物理(相対論的量子力学や場の理論くらいまでかな?)まで思考を積み重ねていない(自称)理学系の理系研究者は、たいていの場合ただのバカであり、実験屋として手を動かす以外に選択肢がないわけです。これは"分野に依るよぉ"という誤魔化しの常套手段で通じるものではなく、何かを探究しようとしたら、論理か直観しかないわけですから、分野は関係ありません。俺はそういう人にこう問います。「あなたはラマヌジャンのような脈略が何も無い歴史的根拠の無い数式をばんばん出せる、直観型の超天才でもないくせに、どうして、現代の最高峰の(現実の物理現象を語っている)知を理解できるまでに、自分の思考力を高めようとしないのですか?それでも研究者(大学院生)なんですか?」と。
 ましてや高校で習うような積分もまともにできないままに、生命科学を理学的に研究していると自称し、「生命の神秘を〜」とか「生命とは何か?」とか言ってるヤツは、研究のフリが上手なだけの税金泥棒ってわけです。(ま、それと同様に、なんでもかんでも、「ガンの特効薬にー」とか「治療にー」ってむりくり繋げてるヤツもダメだと思うけど)

 そんでもって、だから、数年のプランのなかで、確実に達成できるようなプランをする人が評価されるようになっていってしまうわけです。その「確実」の保証が実はグラグラだということを指摘すると、誰か偉い人から怒られるような空気になります(下手すると、職がなくなります笑)。
 まず本来、音頭を取ろうとしたがる、(自分は頭が良いのだから!と勘違いしている)自分で手を動かすのをめんどくさがっている理論系の人たちというのは、ある程度は直観型でなければ話になりません。ほとんどの理論研究においては、ラマヌジャンのようなすさまじい直観がいるわけではないと思いますが(ちなみに言うとくと、"生命とは何か?"については、本来、ラマヌジャン級じゃなくちゃ話になりません。だって、非平衡統計力学が確立されていない状況でそれを見つけようとするわけだから、そらそうじゃないかなぁ)、ある程度の脈略があるなかで、どこかで思考のジャンプをしなくちゃいけないわけで、ここにはセンスというか直観というかが重要になってくる。で、そのベースとなる脈略がぐらぐらな状態のものを善しとしながら、思考のジャンプについて音頭をとってしまう(=研究計画を立てる)と、手を動かすしかない、どこにでもいる(俺のような)ただの真面目キャラからすると、「どーせこういう結果が欲しいんでしょ?」という、自分(たち)にとって都合のいいデータだけを表向きに出しがちになってしまいます。これが、徐々に、不正に繋がっていくわけです。

 この辺りが上手くいっていないから、データという(ただの、しかし、圧倒的に絶対に正しい)結果が得られにくい理論屋さんたちは、どんどん不安になって、それがただただ傲慢になっていき、他人の自分よりも劣っている部分をみつけることばかりに一生懸命になって、ニタニタ笑うようことでレゾンデートルを維持し、目が暗く怪しく光るようになってしまう。精緻なロジックを理解するよりも、実験屋としてとにかく(上の人たちにとって都合の良い、必要な)データを出せば良いんだ、という中途半端な(というか、偽の)成果主義が蔓延しだすから、実験研の人たちは、目が死んでいくのである。
 まず、理論屋が、銅鉄などの枚挙主義に走る事無く、勇気を持った直観型でなくてはいけないということ。そして、実験屋は、その直観を疑いながら、価値を吟味しながら、つまり考えながら実験できる論理型でなくてはいけないということである。戦略と戦術の関係性。そらそうよね。

 でも、直観がすばらしい理論研の人にも、論理がすばらしい実験研の人にも、あんまり会った事がないのよねぇ。
 どうしたら、いいんだろ。トランプが大統領になるような世界、、一回全部壊すしか無いんじゃないか説、、意外と正しい??

 いや、そんなことはないはず。もちろん数は少ないけど、そういう有能な人はまぁ(言葉で言うよりは)沢山いるし(100人に5人くらい?)、何よりも、楽しければいいじゃない?、という感情論。うーん、感情論で落とし込んでる場合じゃないんだけどね、現状。

 でも、この有能な人たちだけでコミュニティーを作って、情報共有をしながら、善意に賭けるしかないっちゃない。
 最近、周囲の人や、過去の人の善意に、救われているのをマジで感じるから、そういう気持ちを全面に出していくしか無いのよねぇ。
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このページについて161110

2016-11-10 01:03:33 | Weblog
 さて、ドナルド・トランプがアメリカの新しい大統領になることが決まりましたね。
 いがーい。って感じだよね。俺も『そうは言ってもヒラリー・クリントンでしょ?』っと思っていたので、けっこうビックリしました。この、いがーい、って結末が今年はやけに多いなぁと思います。

 そうそう、うちのブログに煽りコメントがつく時代ですよ笑。これは、俺的には、いがーい、です。
 このページって、バカには理解できないように書いているので、(読まれても無視されるから)そんなに煽られないと思っていたのですけど、その垣根を越えてくるあたり、すごく注目されたんだなぁという感じで、ちょっと嬉しいです。バカに見つかったという事は「売れた」ということですから。

 「学振に落ちたら」を書く、かなり前に、まつおさんに「こーいうの書こうかなぁ」と話したことがあったんですが、したら彼「所詮落ちたヤツが何言ってもー、みたいなこと言われると思いますよ?」みたいなこと言ってたので、そうなったなぁっという意味では予想通りなんですが、、なんていうか、そこまで関心持たれると思ってなかったのよね笑。そのとき俺は、『いや、そらそうだけど、そういうクズに何も伝えたくないし、そもそもそういうクズはうちのページ読んでらんないと思う』と言ったんですが、、あ、まぁ別に二人とも当たってるか笑。

 ただでさえ、他人の文章読んで、正しく吸収して、そこにコメントするって難しいのよね。
 だから一年前にTwitterで拡散されたときも、「意味分からん」ってコメントが多かったし、、まぁそら、俺が書いていることがそんなに簡単に理解できるわけがないだろ、って思うわけでして。

 あ、そういえば、ネット小説「研究コントローラー」を更新してませんが、えーっと途中までは書いてて、(少なくとも続きの回の)構成は全部決めてるんだけど、重要なシーン過ぎるから、念入りになっちゃってるのよね。まぁ、そこまでアクセス数がイイワケでもないし、そんなに待ってる人も少ないと思うしー、っと思って、ついつい後回しになってしまっています。煽ってくれれば、少しは早く書こうとするかもですが。
 (いや、煽りを待ってるわけじゃないんですよ?笑)

 最近更新が少なくてすいません。やっぱり今、インプット期なので、どうしてもブログが全体的に後回しになりがちです。まぁ俺の文章がもっともっと読みたい!と思う人は、俺の博士論文でも読んどきゃいいんじゃないですかね笑。

 んなわけで、いつものおさらいです。

 このページは俺の日記です。だいたいの文章で、俺が後から読むと、『あー、この日(らへん)には、こんなことがあったのかぁ』とある程度わかるように書いています。
 コメント、質問、連絡は、いつでも誰でも大歓迎です。が、すべての文章は、俺が本当に思っていることを書いているとは限りません。他人の気持ちを想像してそれを書いていることもありますし、思考には段階がありますので、最初の段階を書いたり、中間を書いていたりすることも、かなーり多いです(というか、ここ3年くらい、そればっかり)。

 そんなわけで、これからも、このページをよろしくね。
 あと、電子出版したいなぁと思ってるんだけど(そういえば、ちょっと放置してたけど、そんなお話があったなぁ)、書いて欲しい内容とかあったら、教えてね。参考にします。
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評価されていることが評価されるシステム

2016-11-07 02:39:15 | Weblog
 名誉ある言葉が自分にくっつけばくっつくほど、生涯その言葉を持つことが難しい人間が、自分に対して何かめんどくさいことを言ってくる確率が低くなる。この事実は、学歴を高める、唯一のメリットと言ってイイ。

 何かの言葉を持っていないと、いちいち論破しなくてはいけなくなってくる。あなたがあらゆる本を読み尽くし、あらゆる論理展開をマスターしていたとしても、そこまでの議論に辿り着いていないどうでもいい連中が、どうでもいい事柄について躍起になってあなたに議論をふっかけてくる。この煩わしさを回避するためには、持っていると評価されているとみなされる言葉を自分が持てば良いわけだ。

 そう、みんな、評価されているということを、評価の対象にしたがるからだ。

 ノータイムで正確に評価するためには、世間一般として評価されている言葉をどれだけ持っているか?を確認すればイイ。ここにあらゆる評価は正当であるという暗黙の了解が入っているのだが、多くの人はそこまで考えない。その人が一般入試で入ったのか推薦入試やAO入試で入ったのか、など誰も気にしないし、その人がどんな分野でどのような研究室の環境でどういう内容の論文を書いたかということよりも、名の知れた学術雑誌に何本論文を書いたか?ということしか気にしない。
 評価する側の人間はこのようなバカでもいっこうに構わない。たとえ無能なクズを評価してしまったとしても、舞台さえ与えておけばいつかはそれらしい結果を出してくれ、バカな世間は「やはりあの時の評価には先見の目があったのだ」と言ってくれるだろう。たとえ有能な超人を評価しなかったとしても、舞台さえ与えなければ永遠に結果は出ず、またしてもバカな世間は「やはりあの時の評価には先見の目があったのだ」と言ってくれるだろう。

 このように、評価されていることが評価されてしまう世の中は、実力や本当の生産性から乖離してしまい、結果として必ず疲弊する。
 本当に価値があるのか、どれほど重要な成果なのか、という本質的な考察がまったく入らないままに、評価されている言葉を得ているのだから、評価に値するのだ、などというロジックを振りかざしている限り、腐っている現状はカワラナイ。何かの生産性があることを宣言して長時間仕事をしているフリが上手い日本人は、このロジックを振りかざしまくっている。
 そして、真実を観ようとしないままに、こう口にするのである。「事実を直視するよりも、目をつぶって、幸せでありたい」と。社会の風は冷たいぞ、と警告してくれる(本当の意味ではまったく)生産性のない個人は、自らの体験として本当に社会の冷たさを知っているわけではなく、長いものに巻かれている限りルールを知らなくても良いと主張しているに過ぎず、たいていの場合で、世間体を意識した「幸せ」を目指しており、そのためには、真面目で損している人間をさらに踏み台とすることも厭わない。

 本を読めば読むほど、真実を知れば知るほど、社会性から離れていってしまう現代社会。それはある意味では当然である。クソの役にも立たない哲学は、philosophy(愛知)=philo(愛)+sophia(知)なのだから。
 しかしそれでも、もしあなたが、手っ取り早い幸せなんかよりも真実を愛するのであれば、何が評価に値するのか、今一度、考え直してみるべきだろうと思う。
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見て観ぬフリはクズか?

2016-11-02 00:18:55 | Weblog
 この記事を書くにあたって、事前に「見て見ぬふりはクズか?」と、いくつかのネットツールを使って、アンケートをとりました。ご回答くださった皆さん、有り難う御座いました。("見て観ぬフリ"と表記するのが俺は正しいと思いますが、一般性を考慮してアンケートでは"見て見ぬふり"としました)
 詳しく数字を書くのは避けますが、だいたい総括しますと、「見て見ぬふりはクズだ」と思う人が40%くらい、「見て見ぬふりはクズじゃない」と思う人が60%くらいと思ってもらえればイイと思います。

 このアンケートをとってみて、俺が最初に思ったのは『あー、そら、こんくらいは、クズじゃないって思いたいよなぁ。だって、クズ多いはずなんだから』っと思いました。『いや、でも、クズだ、って言ってる人数多すぎだろ。これはこれで、嘘つきなんじゃね?』って二番目に思いました。『クズだと言ってる人のなかで、実際にはクズのヤツが、一番タチが悪いな』っと三番目に思いました。
 えーっと率直な感想はここまでにして笑、論理化していきながら、答えを探していきましょう。

 まず、この問いは直観的に俺が、結構微妙なラインなんじゃないかな、って思ったのでテーマとしてみたんですが、、この議論を始めるにあたって、少し準備をしておきましょう。クズの定義をしなけりゃ質問に答えられません。(ここでの)クズの定義は「自分よりも(立場の)弱い人を(上手に利用したり、いじめたりすることで、)蔑ろにしたり踏み台にしたりして、人間関係においての自身の位置を保持しようとしたり、成り上がってやろうと思っているヤツ」のことです。よーするに、弱い者イジメは生きていくために仕方ないと思ってるヤツですね(これは、実は、過去にいじめられていた、いじめられっ子も、意外とこう考えていることが多かったりします)。
 この定義をする事によって「他人のことをクズとか見下しているヤツの方が、よっぽどクズなんじゃね?」という論理性の拙いオフェンスにディフェンスすることができます。クズは弱い者いじめを実際に行っているヤツのことですから、心の中で(正しく)見下したり、心の中で見下してしまっている相手・集団について議論するぶんには、いっこうにクズではありません。だいいち、こういう話をしようとしたときに、「見下すヤツのほーがクズじゃん」と正義っぽいことを言うヤツの殆どが、自身のズルを白日のもとに曝されることを恐れているだけ。(アカデミックな話題でもそうですが、)多くの人がやっているズルに対して真実の光をあてがちな人のことを悪だと思ってしまうのは、ただの自分勝手ですから、気をつけましょう。

 こう考えてみると、明らかなクズっというのは、比較的わかりやすくて、安心感を与えてくれます。大学院生や卒研生を最もコスパの良い作業員だと思って高圧的に命令しまくるブラック体質の教員や、弱い立場の人のことをコイツはダメなヤツなんだと皆に認識させるために、何かにつけてナンクセをつけたり、(机を思い切り叩いたり、怒鳴ったり、なども含めて)暴力的な行為をしたりして黙らせようとするヤツは、完全にクズですから、その場から走って逃げればイイだけです。さらに、人間関係ってそういうことだろー、と思ってる、権威を持ったクズに迎合するクズもいます。これも非常にわかりやすい。
 (ちなみにですが、若者の唯一の特権はこの部分にあるかもしれません。若者・若手は総じて弱い立場ですから、相手がクズかクズじゃないかが、とりあえずわかりやすい。サイレントお祈りとかしてくる雇用先はきっと"クズだらけ"ですから、落ちて良かったですねー、ってやつです。立場が上がれば上がるほど、自分に対してはへーこらしてくるクズが増えますから、なかなか見抜くのが難しくなってきます。それよりは、わかりやすいぶんマシ。)

 さて、これらに含まれない人が、クズ判断において難しいわけですね。よーするに、あからさまな不条理を他人が被っているのを"見て観ぬフリ"することが常習化してるヤツら。
 念のため言っておきますが、誰かが小さく失敗しちゃって、それを見て観ぬフリをしてあげられる人は、優しい人だと思いますよ。「何を見たか?」ですが、ここでは「誰か立場の弱い人がクズ(や世間のルール)に迫害されている姿」ということにします。

 とりあえず、明らかにいい人というのは、迫害現場を観たときにどうするか?をまず考えてみましょうか。えーっと、いじめられている子や暴行を受けている人がいたら、相手が誰であれ、「先生や警察に言う」「(物理的に)助けに入る」というような行動をとれる、(俺のような笑)明らかなイイ人は、クズじゃありません。(ちなみに俺、街中で暴行や恐喝を見かけたりして、年1回くらいは警察にチクってますが、俺が特別に危険度が高い地域にいるわけではないと思います)
 これは不条理への対抗としてプラスに働いているわけで、まぁ、(少なくとも行為としては)クズじゃないかなぁと思うわけです。いや、でも、そこまでできなくても、、友達同士で「あれはないよねー」と言い合えるのであれば、俺はとりあえず"より良き"に働きかけることができていると思うわけです。この程度できていれば、(少なくとも行為としては)"クズ"じゃない。

 他人が不条理を被っている様子を見てしまって、ほんのちょっとでも何か小さな行動ができさえすれば、絶対にオーケー、クズではない!
 クズは、そういうとき、ここぞとばかりに、弱い(立場の)人(たち)に不条理が負荷されることに促進をかけます。それが自分を安定化させたり、レベルアップになると思っているからです。

 じゃあ、"見て観ぬフリ"は?
 そう、この問い、実は「場合分けの条件としての、不等号の記号の下に、イコールがつくか?つかないのか?」という問題なのです。弱い(立場の)人(たち)が不条理を被っている事実に対して、その事実を認識しながら、促進も抑制もしようとしないことは、クズなのか?クズじゃないのか?こう考えると捉えやすいでしょうか??
 なんか、ここまで書いてきて"半クズ"みたいな帰結でいいんじゃね?と思ってきたわ。一様に電荷を持った球殻が生じる電場も、(ガウスの法則ではなく)クーロンの法則から解くと、球殻表面で一気に1/2になるし(計算してみてね)。まぁ、ここまで読まされて"半クズ"が帰結だと非難ゴーゴーな気がしますけどね笑。

 もちろん、"時間"のことを考えてみて、"見て観ぬフリ"は保留状態であるので、最後(を、どう定義するかはまた難しいですが、コトが起きてから1週間以内)まで"見て観ぬフリ"で終わったら半クズで、どこかの時点で"より良く"しようとすればクズじゃなく、どこかの時点でいじめに参入したらクズ、という、この帰結でもイイ気がします。

 ただね、これはちょっと厳しい意見だとは思うのですが、俺は、すべての人間は"より良くする義務"があるんじゃないかなぁと思うわけです。だって、長い時間をかけて人間は進歩しているわけで、その恩恵を受けているわけで、あなたも俺もクズもクズじゃない人も、超優しい誰かの気持ちに助けられながら生きているわけですから、少なくとも"より良くしようとする"ことは義務だと思います。(キリスト教のことはよく知りませんが、)これをなんとなく"原罪"と呼べる気もします。

 そういう意味では、(あまりに人類にクズが多すぎることになっちゃいそうでちょっと怖いですが、)俺的には、見て観ぬフリはクズ!、という帰結です。

 自ら積極的にいじめているようなクズは一生治らないかもしれませんが、"見て観ぬフリ程度のクズ"は一生ずっとクズなわけではない気がします。ヒトは成長しますから。
 だから、自分の能力に自信がないゆえに、「自分が余計な事をするよりは、何もしないほうがイイ」と考えて、自分を蚊帳の外においておくのではなく、ちょっとでも"より良く"しようと思って行動すること、そしてそのための能力をつけなくちゃいけない気がします。

 なので、この"見て観ぬフリはクズか?"問題、実はもっと深淵なテーマである「(他人の痛みが分かるほどの想像力がなければ、つまり)賢くなければ、原理的に、優しくないのか?」という問題に繋がっているわけなんですが、もう十二分に長くなってしまったので、ひとまず今日はここまでにしときましょう。
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