たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

「弱いことは悪いことじゃない」

2020-01-26 04:52:40 | Weblog
(cf. 『幸せな人生を送ってね』)

 そう、まさに、その通りだ。弱いことそのものは悪いことじゃないのに、そのせいでクズになってしまわざるを得ない性質が、社会構造として最も不条理なのかもしれない。
 だから、俺たちは、この世界の普遍的な性質に絶望している。時代にも場所にも依存しておらず、ユニバーサルな絶望を感じる理由はここにある。認識の有無は別にして、少なくとも、この価値観は一致しているんじゃないかな?

 自分の弱さを受け入れて、変わらないことを是としてしまうと、どうしても生物圏としての性質により近くなってしまう。いわゆる弱肉強食だ。自分の弱さをそのままにすることに肯定的であり続けると、どうしたって自分よりも何かの劣勢性を有している他者を搾取していかないと、生きてゆけない。
 それは、ヒトという種族が、この地球上で最も強者であるせいなのである。ヒトは、他の動物から搾取されることがない。だから、弱肉強食についてのヒトの社会は”閉じている”と言える。閉じた社会のなかで生きていくために、生存本能を呼び覚ませば、社会構造のなかでの弱者に焦点を当てるしかない。その社会全体を引っ張っていくような気概を”強さ”と呼び、その強さを向上させることに一生懸命になることができれば、(自分と自分以外の他者全体について)Win-Winになることができる。

 そもそも人類は、狩猟生活から田畑を育てる農耕社会へと突入することで、継続的に食料を確保することができるようになった。しかし、当時の旧世代である狩猟民や流民から収穫物や土地を守るために、そして効率よく収穫をするために、どうしても統制が必要になる。農耕社会のなかで生きていくためには、そのシステムを維持するためには、統制せざるを得ない。この統制から、階級システムが生まれた。科学が発展していない時代、人々は神に祈ることで自然災害の危機を回避できると考えていたために、生贄の文化が生まれる。階級システムにおける弱者を(本当の意味で)搾取することによって、社会は成り立っていたのだ。でも、それは、狩猟民時代の、明日も食べられるかどうかもわからず、いつ飢え死にしてもおかしくない社会システムよりも、かなりマシであった。
 時代が進むと、産業革命が起こる。産業革命が齎したものは、(再現性を唯一神とした宗教である)科学の発展と階級システムの崩壊だった(封建主義→中央集権)。経済的自由競争のなかで、能力さえ高めて一生懸命に仕事をすれば富を得ることができる社会は、身分が絶対的に支配している農耕社会よりも魅力的に感じたことだろう。その一方で、弱肉強食についての”ヒトとして閉じた社会”も加速していく。無能なヤツを上手に利用して富を得る者が報われる社会では、どちらが有能であるかを客観的に示す必要に常に追われる。そして、国家間での戦争が多発し、多くの人が亡くなった。しかし、それも、農耕社会に比べれば、かなりマシであったはずだ。なぜなら、能力をつけて頑張れば良いわけで、必ずしも誰かが死ぬわけではないのだから。

 そして、情報革命の真っ最中の現代では、日々、Twitterで議論と称した”吊るし合い”が行われ、InstagramやFacebookでは隠れマウンティング合戦が行われている。生贄文化はカタチを変えて今も生きている。ヨハネス・グーテンベルクが活版印刷術を発明して以来、いかに自分のミームを効率的に残すか?という装置が一部の人に開かれたが、インターネットの発達によりそれが全員に開かれてしまったのが1990年代後半から2010年代の流れである。多くの人が自分の信者を募集し、塾や勉強会やオンラインサロンやセミナーやネットワークなどと称して、人集めに邁進している。能力や資本力など関係ない。とにかく数多く信者を集めた方が勝ち、というゲーム。それが間違った内容で怪しい内容であったとしても、どんなに卑怯な方法であったとしても、みんなの共感が得られることを第一義的に考えてしまう社会の到達である。
 この社会構造のなかでの搾取は、"レッテル貼り"に集約される。「あいつは、これにグルーピングされるから、ダメなヤツだ」と主張することによって、自分の地位を高める。先の社会同様、もちろん、その犠牲になる者もいる。「あんなやつ、無職だし、中卒だし、ただの社会のお荷物だろ」という言葉を受けまくった人が傷つき、自殺してしまうことがある。ヒドいケースだと、”無敵の人”などと呼ばれ、一般市民に牙を剥いてしまうことも。。
 しかし、この以前の社会よりは、マシであろう。戦争が起きる恐怖心は少ない。どんなにグルーピングされても、きちんと自我を保っていれば、他者から殺される可能性はかなり低い。食う飯に困るわけでもないし、いつでも有名になるチャンスは与えられている。もちろん、無敵の人の暴走はランダムに起きてしまうが、その被害に合う確率は極めて低い。

 ここまで書いてみるとわかるように、「極普通の常識の中で、人間の弱さみたいなものを互いに理解し合いながら、みんなと調和しながら生きていきたい」というのは、非常に現代的であり、ちっとも弱くないのだ。それを最高峰に行うことができれば、その人こそが現代システムの最強者である。注意しなければならないのは、強くなったとしても、最強者になったとしても、それがイコール幸せとは限らないんじゃないか、ということだ。(上に書いたWin-Winとは別の"強さ"ね)
 そして、共感を得ながら「あの人いい人だな」とか「私、いつの間にか、あの人のファンだな」とかの声をいかに多く集めることができるか、という社会システムに移りゆくなかで、自分一人について、”今の瞬間の自分の感情”と”未来の自分を想定することで後悔したくない気持ち”の両方に同時に素直になることは、オフェンスではなく、むしろディフェンスとしてしかありえないのである。

 時代が変わっても場所が変わっても、ヒトが形成している閉じた社会システムで効率よく階級を登るためには、弱者を搾取しなくちゃいけない。貴女が言うように、顕でないだけで、自分が明確には認識できないところで、システムを利用することで、俺自身も確実に誰かを搾取をしているクズなところはあるだろう。
 しかしながら、それをきちんと把握しようと勉学に励み、試行錯誤し、仕方なく搾取してしまった自分のクズ性を反省するためにも、今も未来も楽しめるようなものを選択し続けなくてはいけないのだ。それこそが、後世へと、また”よりマシ”な社会を、きっと作るはずだと思うから。そんなスタイルこそが、Win-Winを前提にした、社会を次のステージに引っ張っていくような気概だと思う。

 弱くても良い。弱いことは悪いことではない。
 けれど、今よりも本当の意味で強くなろうとする、その気概を持つことは重要である。

 確かに、こんな世の中である。そりゃあ、「嫌だ!」と叫びたいことの1000個や2000個は軽くあるだろう。こんな世の中に、突然に生まれさせられて、いつ死ぬかもわからない。こんなに理不尽なこともないだろう。これもユニバーサルな絶望の大きい要因であろう。
 しかし、そんな世の中で、確実に生きてきてしまっていることもまた、事実なのである。だとしたら、人間に与えられた唯一の幸せは、心から存分に”楽しむ”ことくらいなんじゃないかと思うのだ。圧倒的に理不尽な環境であっても、不条理なシステムのなかであっても、こう楽しめば、未来もきっと楽しいはずだと思えれば、今も楽しくすることができるようになる。そのために、カネをかけて楽しんでも良いし、誰かを全力で助けたり応援したりして楽しんでも良いし、賢くなって現実を多角的に解釈することによって楽しんでも良い。なるべく他者を搾取しないように、心から楽しめれば、それで良いのだ。これも、過去・現在・未来と、普遍性の高い処方箋なのではないかと思うのだ。

 そして、現実からフィードバックさせて、「これこそが幸せなんだ」と自分に言い聞かせることも、確かに良い手段である。そう言い聞かせるとね、本当に心から笑えてくるんだよ。貴女は知らないかもしれないけれど、俺はこの手段を、よく使うし、ずっと使ってきている。
 だからこそ、その副作用の怖さも良く知っているつもりで・・・、、それを書くのは・・・、もっと先の・・・。

 まぁ、少なくとも言えることとしては、どの方法でも、”楽しむ”ために、唯一それだけを取るのは、危険だということだ。どこかで間違えやすくなってしまうからね。
 でも大丈夫。間違えたと思ったら、間違えた地点まで戻れば良いだけだよ。戻る勇気さえあれば、遅れなんてすぐに取り戻せるものだし、任意の人生において、失敗はありえない。

 きっと心から笑っていて欲しい。もし今そうじゃないなら、そうなる方向性に向かっていて欲しい。
 そんな風に、小さく祈っている。
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『幸せな人生を送ってね』

2020-01-24 03:51:24 | Weblog
 『”今の瞬間の自分の感情”と”未来の自分を想定することで後悔したくない気持ち”の両方に同時に素直になって、今この瞬間も未来も楽しくなるように選んでいって、幸せな人生を送ってね』だって?
 (cf. 「どうすれば幸せな人生が送れると思いますか?」)

 勝手ね。
 貴方一人、自分だけのことを考えるんだったら、それでも良いかもしれない。でも、みんながみんな、そんな方法をとることはできないでしょう?

 未来を見ずに今やりたいことをやるんでも、未来に楽しさを取っておいて今我慢するんでも、それだけだって、他の人のことを考えたら自分勝手になることもあるのに、今も未来も楽しくなるようにってことしか手をつけないんだとしたら・・・、、そうだよね、だからいっつも我慢できないもんね?
 貴方みたいに身勝手な方法を平気で取ることができるような社会的な基盤を成立させ続けるために、どれだけ多くの”普通の人”が、普通の価値観を崩さないように、必死に生きているか、きっとわかっていない。そこには、確かに、なんのドラマもないかもしれないし、”ありふれた任意の人生においてよくある帰結”でしかないかもしれない。

 けれど、みんながみんな強いわけじゃないの。そういう、普通の空気感を大切にしながら、怯えながら、人間の弱さみたいなものを互いに理解し合いながら、それでも「これでいいのかしら?」と不承不承しながら生きている人だって沢山いるの。
 極普通の常識の中で、みんなと調和しながら生きていきたい、という気持ちを大前提に抱えながら生きることは、、そんなにもそんなにも、幸せになれないことなの?

 そういう人生を歩む上では、”普通であること”が何よりも大事だから、他の人には絶対に言えない秘密があるものだし、そうやってこっそり生きている時間のなかにも、ひと時の安らぎがあって癒されることだってある。開けっぴろげで、何でもかんでも宣言できて、胸を張って堂々と「楽しいものだけ」を素直に選択することだけが、幸せを掴む道じゃないと私は思う。

 この世界は、綺麗なものばかりではないし、裏側を少し見てみたら、汚い部分が土台になっていることだってある。
 そんな世界の闇の部分も見て、それでも”心から笑え”って、そんなことできるわけないじゃない。そんなことまで”極普通”を選択した人に要求するのって、貴方が定義する”クズ”そのものなんじゃない?(cf. 弱さの本質 -バカとクズの違いとその相関-)

 そう、この前提にたってみると、人間の弱さを露呈させている部分を指差してクズなんて言うのって、やっぱりひどすぎる。泣く泣くそうせざるを得ない人も沢山いて、そういう人の気持ちも考えないといけないと思う。
 その先に、到達すべき理想があるはずだし、そんな自分になれれば、もっともっと幸せを他人に還元することだってできるんだから。

 弱いことは悪いことじゃないし、誰もが何かに秀でることができるわけじゃない。
 だとしたら、もっと現実的な、ありふれた幸せを、ちゃんと大事に思えることだって幸せなんじゃないかと私は思う。それがたとえ、強い信頼関係でなくても、本当にわかりあえていなかったのだとしても、現実を直視する中で「これこそが幸せなんだ」って言い聞かせることだって、幸せには違いないと、、思いませんか?
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「どうすれば幸せな人生が送れると思いますか?」

2020-01-23 05:28:56 | Weblog
 一言で言えば、「自分自身に対して素直になること」なんじゃないかと思う。
 これは、簡単なようで至極難しい。”今の瞬間の自分の感情に素直になること”と”未来の自分を想定することで後悔しないように素直になること”は拮抗することも多い一方、見分けがつきにくいこともあるからだ。

 例えば、誰だって、時間がかかるわりに大して面白くないかもしれないことに注力することは、気が引ける。
 どんなに誰かが熱く「物理学をガチで勉強すれば、価値観がガラッと変わって、楽しくなる」と主張していたとしても、実際にそれに手をつける人は少ない。それは、自分自身の未来について想像した時に”面白いところまで理解できないで途中で投げ出してしまう可能性”を考慮すると、”ベットするだけの時間や大変さ”が見合わないからだ。「騙されたと思ってやってみようよ」と簡単に言うが、どうしたって「それは、君が元々理系分野に強く、自分とはどこか違う人間だからだ」と決めつけてしまう。
 しかし、極少数ではあるが、実際にこういった「時間がめちゃくちゃかかった後にやっと楽しさに気がつけるようなこと」に注力する人がいる。その人たちの中でもさらに熱心な人たちは、まさに「未来の自分を想定し、たった一度の人生の中でこれをしなかったら絶対に後悔するから」という気持ちに素直になり続けることになり、魔法にかかったように呆気なく”普通”を手放す。そうすると、多くの人が、この記事のタイトルのような質問をするのだ。「それって、幸せなんですか?」ってね。

 数学者で有名な人の中には、極普通であることに最適化しようとする人からすると、明らかに不幸せそうな人生を選ぶ人も少なくない(例えばガロアやパパキリアコプロスなど)。そのような人の伝記を目にした時に必ず書いてあるセリフは、「でも彼らは、たった一度の人生の中で、”それ”だけに注力するほどのテーマを見つけられたのだから、すごく幸せなんじゃないか」ということだ。
 果たして本当にそうなんだろうか?まだ、有名な数学者は業績としてのミームが残っているから良いかもしれない。しかし、”普通”を手放し、特異的な人生を選び続けて、やりたいことに注力し続けた人は、たいてい何の成果も得られないことが多い。そう、実は、”未来の自分を想定することで後悔しないように素直になること”だと思っていた選択は、いつの間にか”今の瞬間の自分の感情に素直になること”に変換されてしまっていたりするのだ。本当の本当に未来の自分を考えたら、すべてを捨てて、5次方程式が根号で解けないことを示すことよりも、閉じた3次元多様体のなかで単連結性をもつものは3次元球面のみであることを示すことよりも、無難に就職して無難に結婚して子供を作った方が幸せなんじゃないだろうか、と彼らだって考え、そうでない選択をしてしまっていることに、それなりには後悔し続けたのではないか、と。。

 これは逆サイドについても、まったく同じだ。つまり、今この瞬間に安心感を得るために「無難さを獲得しよう」と思う素直さ(とにかく結婚しようと婚活する、みたいなね)が、いつの間にか未来の自分を想定することで後悔しないようにと素直になることに変換されており、「なんとなく、これがやりたいな」って思っていることを我慢し続けてしまうことだ。実空間上に孤独でないぶん、気持ち上では余計に孤独感に束縛されてしまう。共感性を大事にしてみたはずなのに、実際にはただの同調圧力になってしまっていた、というのは、ありふれた任意の人生において、よくある帰結と言えよう。

 Memento Mori(自分がいずれ必ず死んでしまうことを忘れるなかれ)とは善く言ったものだが、逆にいつも「自分は死んでしまう」と思いつめていたら、健やかな人生は送れない。それはイコール、そんなに幸せではないと思う。
 なぜなら、自殺とは、自分が存在している世界の未来に対して、自らの全てを捨てて、何かを諭そうとミームを残す行為であるからだ。これは確かに極端ではあるが、それでも、それに近いようなあらゆる生き方について、幸せな人生であるとは述べられないと思うのだ。

 「どうせ死んでしまう」と考えて行動するのは時として必要だし重要だけれども、この考え方だけで突き進むと、時として取り返しのつかないことを人生に齎らし、狭い範囲のなかで生きていかざるを得なくなったりもする。覚せい剤にしても、AVに出ることにしても、後戻りしにくくなることはこの世にいくらでもある。それほど極端な例でなくとも、Twitterで「理系じゃないリスト」なんて本質的なことを書いてしまえば(笑)、あのリストに書いてあることすらできないくせに理系であるプライドだけは高く権威ある人たちに嫌われて、その後の人生は狭くなってしまうかもしれないよね?

 そもそも自分の人生の全体は、自分自身しか分からない。どの時点で、今の感情を優先したり未来を見据えたりして、その選択をしたのかというのは、自分自身でさえも忘れていってしまうものだ。
 俺自身も、中学の理科第1分野のテストで直列回路と並列回路が組み合わさった問題が解けていなかった自分の答案を見て「っま、高校で理系に進まなきゃいいよね。これやるの、これで最後でしょ」と確かに思ったはずだった。いつ、どんなきっかけで、素直な気持ちが「物理学科に行きたい」になったのか、詳しく覚えてもいない。いつの間にか努力(らしき行為)が気持ち良くなっていて、いつの間にか物性理論研にいた。
 間違いなく「今、これやりたい!」という気持ちと「これを今選ばないで、理解しないまま死んだら、絶対後悔する」という気持ちの両方を抱き、そうなったからこそ実際に選択をしたはずだ。だから俺は、理系の高校生が憧れるようなことは、だいたい全部してしまっている自信がある。数学やりたかったけど・・・、実験で生物を扱ってみたかったけど・・・、プログラミングしてみたかったけど・・・、有機合成してみたかったけど・・・、のようなことは一切ない。他のことも、あらゆることについて、全部こういう気持ちで選んできた。

 俺は、自分の人生で、”今も未来も楽しくなるような選択肢”だけをとってきたつもりなのです。そうすると、心から本当に笑える。何かのキッカケで、自分自身も含め誰もが絶対に死んでしまうことの不条理が影響する残酷さに直面して、泣いてしまっても、慢性的に落ち込むことはなく、短い時間で済むのだ。
 ”未来はわからないけど、今はとても楽しい”という選択肢も”今ツラくても我慢して、未来はきっと楽しいから”という選択肢も、どちらもどこかニセモノに見えてしまうから、大事な瞬間にはどっちかだったら無理に選んだりはしない。逆に言えば、”今楽しくて、未来も楽しくなるような選択肢”が見つかるまでは、ゆるっとする(ダラダラする)っというのは良い方針かもしれないよね。

 俺はこの方針で、それなりにかなり幸せに過ごしてきているし、これまでの人生を振り返って何か後悔していることがあるかと言われたら、、うーん、思いつかない。能力が至らなくて、あの時にその能力があればね、と思うことはあるけれど、それも今はその能力があることが全部だから、あんまり後悔がないのですよ。

 というわけで、ぜひ貴女も、”今の瞬間の自分の感情”と”未来の自分を想定することで後悔したくない気持ち”の両方に同時に素直になって、今この瞬間も未来も楽しくなるように選んでいって、幸せな人生を送ってね。もし、そうなるお手伝いが何かできるなら、いつでもしますよ。

 忘れないでね。何をするんでも、心から本当に笑いながらやってなかったら、何も意味ないんだぜ?
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「大学院に行くなら就活しちゃダメなの?」-相談メールの実際の例-

2020-01-16 22:38:21 | 自然科学の研究
 相談メールの実際の例を紹介しようと思います。今回は2016年夏頃に送っていただいたメールから、相談者の方のご厚意で公開したものです。相談メールのルールなどについては「相談メールの目標とルール」をご覧ください。

相談文
(プライバシー保護のため、少しだけ文面を変えています)

初めまして。いきなりのメール失礼します。
私は教育大学の農学系に所属している三年生です。

8月から研究室配属が始まり、本格的に研究室生活がスタートしました。私が所属している研究室は有機合成系であり、コアタイムが9時半~19時半です。
配属される前は大学院志望でありどんだけ長くてもやってやる、という気持ちでいっぱいでしたが、いざ研究室生活が始まると思ったよりきつく、自分は研究には向いていないのかな?と思うようになりました。

また、大学二年生のころまでは創薬に興味を持っており、今の研究室はほぼ薬学部のようなことをしている、と聞いていたため当時はここしかない!と思っていましたが、薬に限らず体に良い成分などの研究に興味があることに気づき、三年生に入ってからは創薬よりも食品開発の方に興味を持ち、今ではどのように作るか?というひたすらに実験をやっていく有機合成への興味が薄れてしまいました。大学院は食品系の研究室に行きたいと思っています。

今の研究室の先生が担当されている授業の成績も悪い方ではなく、前々から「創薬に興味を持っている」「院に行きたい」などと話していたため先生の中では印象に残っている方だと思っております。

ただ、院に行くにせよ就活は経験しておこうと思い、インターンに行く機会があったため先生に報告したところ、「研究者になるならインターンなんてするな」「今のうちからそんなことを考えるようだったら研究者には向いていない」などと長時間話をされてしまいました。ちょうどその日はインターンについての説明会を受講する予定だったのですが、キャンセルしろと言われてしまいました。また、創薬ではなく食品系の研究室に行きたいと話したところ、「食品はレベルが低い研究だ」と言われてしまい、ここに来たなら有機合成の道に進みなさいといった風に言われてしまいました。
この言葉がきっかけになったわけではありませんが、自分としては興味が変わったというよりは、実際に研究室に所属してみて元々持っていた創薬に対するイメージが変わってしまい、有機合成がしたいわけではない、と気がついたのです。

先生の言うことも一理あり、研究職につくなら今はひたすら研究をしなければならないとは思いますが、自分としてはインターンなども経験したく、先生との考え方が合わないと思ってしまいました。
また現在、四年生の先輩と留学生の論文を書いていまして、なかなか実験をすることができない状態で、朝から学校に来て論文の手伝いをし、時間が空いたら他の子がやっている実験を手伝い、夜は論文紹介のゼミに参加といった生活です。。
院には進学しようと思っていますが、先生はインターンなどにいくなら就活一本に切り替えなさいと言われてしまい、どうしたらいいのかわからなくなってしまいました。また、実験をろくにすることができないため、自分が本当に研究に向いていないのか、研究が始まったら苦痛でなくなるのかわからなくなってしまい、大学院も有機合成系の研究室でなければ先生の協力が得られないのでは?と思っています。

院進学というと就活などに反対されてしまうため、もう就活一本で対策をするか、有機合成系の院に進んで今のうちから成果を出すか、一番興味がある食品系の研究室(外部)を目指すか、どうしたら良いでしょうか。今は研究室生活が辛く、どうしたらいいか胸が押しつぶされそうです。

拙い文章で申し訳ありません。
よろしくお願いします。


回答文

相談者さまへ
ご相談ありがとうございます。

メールを読ませていただいて最初に気になった点なんですが、あなたが送ってくださったメールには「研究に向いているかどうか」という記述が3回ほど出てきます。よほど「研究に向いているかどうか」が気になるのだろうなと思いましたので、まずそれについて私からコメントをしたいと思います。

一般に「何かに向いているか」という疑問は、長い期間をかけないとなかなか答えは出てきません。ましてやそれを本格的に始めていない段階では何もわからないことのほうが普通でしょう。
しかし、です。私は、「研究活動そのものに関しては誰もが向いている」と考えています。なぜなら、研究の骨格とは「問題設定→解決」で、これは人間なら生きていれば誰もがやらなくてはいけない行為だからです。「自分は息をすることが向いているだろうか?」と悩む人はいませんよね?研究なんていうものは、それくらい基本的な行為だと私は考えています。
もちろん、呼吸を整えるのが上手な人がいるのと同様に、研究にも「できる」うえでの優劣は(呼吸の仕方と同程度くらいには)あるかもしれません。そういう意味では、あなたは研究をするのが得意なほうだと思いますよ。実際に研究室の生活で何かの問題が発生しても、ネットで検索もせずただただ悩む人、検索はしてみたけど私などの相談募集者にメールしてこれない人、というのは沢山います。あなたには解決に向けて一歩踏み出す能力があるわけで、これは研究では確実に必要な能力です。

さて、その上で、あなたは”次、何を選択すべきか?”ですが、とりあえずは自分のスタイル・生活状況を押し付けてくる研究室やそこの先生から離れようと、きちんと決心することだと思います。
今は食品系の分野に興味があるとのことですが、あなたはここ数年以内であらゆることに新しく興味を持って、その順位が激変してきているのではないでしょうか?だとすると、今は「食品開発が良さそう」と思っていても、5年後には変わってしまっているかもしれませんよね?だから、とにかく今の場所から抜け出すことを前提として、「自分が嫌じゃないところ」にはどんどん足を突っ込んでみるのがいいんじゃないかと思います。ちなみに、あらゆることに興味が持てることも、問題解決するうえで必要な能力ですから、その点でもあなたは研究に向いているほうだと思います。
私なら先生に「まだ自分がやりたいことがわからないので、いろいろなところに足を突っ込みたいと思います。もう少し自由時間をください」と言いますが、こう言えますか?もし言えないのなら、「就活に絞ります」と噓をついて、それなりに就職活動をしてみて自由時間を広げ、空いた時間で外部の院などを調査したり院試勉強したりするのがいいかと思います。

つまり簡潔に言えば、「行き先はまだ決めるな!ただし、その場所からは離れようとしろ!」です。

あなたのメールには「先生の言うことも一理あり」と書いていらっしゃいますが、「一理もない」と思えるかどうかだと思います。10時間のコアタイム設定で、同じような狭い分野内で「あの分野のレベルは低い」と言ってしまうような人の意見を真摯に訊ける態度は私も見習わなくてはいけないですが、あまりに考慮しすぎるのも大変ですから、気に病むくらいなら無視してかまわないかと思います。

どうでしょうか?逃げる決心はつきましたか?


 その後、この方とは何度かやり取りをさせていただいて、先日久しぶりに連絡をしていただき、「研究室を移るか迷っていたのですが、勇気を持って先生に相談しました。研究室の先生からはやはりダメ、とのことでしたが、日頃気にかけてくださっていた先生が助け舟を出してくださり、他の研究室に移ることができました。環境も変わり、実験や知識も目指していた食品系の研究室と近いところがあり、院試も合格することができました」とあったので、非常に安心しました。かなり嬉しい連絡でした。

 参考になれば幸いです。
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2019年の復習と2020年の開始

2020-01-02 03:29:29 | Weblog
 すでに年が明けてから2日目となりましたが、あけましておめでとうございます。
 本年もブログも書いていきたいと思いますので、よろしくお願いします。

 昨年はどんな一年だったかなぁと思い返してみると、、重荷を下ろしてどんどんストレスフリーになっていったなぁと思います。重荷を下ろすためには、自分にとって何が重荷かを認識することが重要で、それは俺自身にとっては意外な事柄だったり、そりゃそうだろってものだったりもして笑。客観的に「ほら、これが進捗しているだろ?」と示すようなことはできないのですが、確実に前に進んだと言える一年だったなぁと思います。
 そして、俺は究極的に自分自身にかなり興味があるのであって、自分がどう感じたか、どういう直観が降りてきているのか、ってことに素直だなぁと思いました。もちろん俺だって、習慣とか履歴とか雰囲気とか(手っ取り早い)合理性とか、そういうことに捕われる時間帯もあるにはあるんですが、最終的な選択は自分の感情と直観に従っていることが多くて、もっと冷静じゃなくても良いのにね、と思ったりもしました。直観にしても感情にしても間違えようがないのですよ。間違える時は、いつだって習慣や合理性を重視しようとした時。そういう意味で、単純にありふれているそれらに「身を委ねてしまっても良いのに」と思ったりして、、でも自分の感覚を絶対に狂わせないようにして、その感覚を具現化するためなら、どんなに急速な行動も、どんなに通常から異なる言動でも容易くとれてしまうのだから、、そりゃ幸せ(≒平衡状態)にはならないよねってね。そうそ、いかに俺が幸せの状態をあんまり目指していないか、ってのも思ったかなぁ。少なくとも今は、薄っぺらい幸せよりは別のことに最適化していたいな、って。

 2019年はそんな感じだったのですが、2010年代でどうだったか、というのも少しだけ書いておこうと思います。
 2010年〜は、バイオ系の分野に参入した年で、今から思い返すと、よくあの状況と環境の中でやってたよ、っと正直思ったりします笑。そこから2010年代前半までに、自信が本格化していったなぁと思う。「自分自身に対しての圧倒的な自信」みたいなものが通常だったら揺らぐシーンは多かった気もするけど、結局のところそれはあんまり客観性の高い事柄でもなくて、恣意的な評価基準や泡沫であることが、時間が経てば経つほどにわかったような感じだったかなぁ。
 2015年からの5年間は、「権威はすごい」っていうのがみるみる崩れていった期間で、特に渡米してからは、それが完全なる確信に変わってしまった気がする。そして、その後に偉ぶりたいだけのおっさん達を沢山観る機会がさらに多くて、でも俺のこれまでの経歴からその気持ちを俺にだけは直接行使できない情けない姿を沢山みて、さらに、権威って誰の何の役にも立たないくだらねーもんだな(実力もないままに偉ぶりたいクズの役には立つんだけどさ)、というのが確固たるものになったかな。少し場所が変わってしまえば「たかはしけいが言っている学術的なことに間違いなんてあるわけがない」という状況になってしまうわけで、10年前には考えられなかったことが容易く起こる現象を前にして、俺はそんなことに溺れたくないし、そんな状況を無理矢理に楽しむことはできても、継続はしないよね、ってところに行き着くことができた。そのようなくだらない状況にも拘らず、正社員で総合職という安定的な雇用になったことによって、「よかったね」みたいな世間の評価を受けたり、その上で「おいくら万円なん?」みたいなジャッジしたがりがやってきたり、世の中というのは本質を見誤るクズばかりが蠢いているんだなぁという気持ち悪さを感じた。口を開けば金と女の話しかしない無教養な連中は、色々な理由をつけて、こちらが長年習得してきたものを無意味化して、搾取しようとするし。それを懐かしむことはできても、迎合することはもはやできないくらいには、この10年の月日は長かったのかもしれないね。なるほどな、みんな、これが嫌でアカデミアにしがみつくのね、無視しきれないほどウザいっちゃウザいわね、ってね。

 というわけで、ちょっとだけ書くつもりが、振り返りのほうが長くなってしまいましたが、、この先どうしましょうかね笑
 正直、これからの人生、何をすべきか、何に取り掛かるべきか、非常に困っているところではあります。こういう時に、俺は特別何かを考えているわけではなくて、なんとなくこれかな、という方向性に行きがちでして、かといって「これはねーな」ってことにはすぐ直観することができるんですが、まぁもし何か面白いことがありましたら、ぜひ誘ってください。俺は無理矢理に引っ張られていくことには、めっぽう弱くて、そっちに引っ張られがちなので、俺でお役に立てそうなことがあったら、連絡くれると嬉しいです。
 ちゃんとした意味での研究開発ができたら良いなぁと思っているのですが(それなりにアイディアもありますし)、博士号取得以降、それが思い切りできる環境に巡り合っていないなぁと思います。自ら環境を作れよ、と言われそうですが、それもそれなりに行なってきたつもりでいますが、そっちに最適化しようとすると、変化を恐れる人たちにどんどん崩されてしまうので、あんまりそういうことにそもそも向いてないのかしら、と思っていたりします。

 2020年は、とりあえず何か夢中になれそうなことが見つかったら良いな、っと思いますが(いや、これは直近すぐにでも見つかって欲しくはあるけどw)、それまではゆるっと生きていきたいと思います。あまり焦って見つけようとも思っていませんが、あまりにじっくりするつもりもありません。そして、2030年までには、無理矢理に思い込もうとしたそれじゃない、ものごとを考えないようにすることによって表面的に浮き上がってきたようなそれじゃない、本当の意味で幸せになっていたら良いな、と思います。

 本年も、よろしくね。
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