たかはしけいのにっき

ミネソタ大の博士研究員が書く日記です。

図示することの意義 -自然科学としての図示を中心に-

2017-06-23 00:25:18 | 自然科学の研究
 「文章で10行書くよりも、ひとつ図示してみることが重要である」
 というのは、自然科学の中でよく言われることである。人が何かを認識するとき言語だけで頭の中で構築するのは難しいことが多い。例えば、読者の中で何人が、小説など(挿絵の少ない本)を読んでいて、登場人物などの相関を図示してみたことがあるだろうか?みんな日本語がわかっていると言うのは大いなる勘違いで、「わかった」と仮定して先を読み進めているだけ、ということも多々あるのだ。

 1つの数式から物理現象をイメージすることは、慣れてしまえばそんなに難しいことではない。しかし、2つの互いに依存しあった式を同時に頭の中だけでイメージすることは一気に難しくなり(俺程度の思考力レベルでは多くの場合、不可能)、3つ以上の式になればどんなに簡単で平衡状態で時間に依存しなかったとしても数値計算でself-consistentに解いてパソコンに図示させてみなければ、そのイメージすらわからない場合が殆どだ。
 人間が言語化によって得られる情報は意外と少なく、「図示する」という行為によって視覚化することで、思わぬ自然法則が明らかになることは多い。

 それほどに「図示する」という行為は自然科学にとって重要なのだが、これは単純に「リアルな絵を描く」という行為とは違う。
 「図示」というのは、抽象化を含み、不要な部分を排除するということである。よく「抽象化(abstraction)」というと「曖昧にすること」と読み替えている人がいるが、必要な骨格だけを「抽」出するというのが本来の意味である。芸術に詳しくはないが、具象絵画が現実に忠実に書こうとするのに対して、抽象絵画というのは具象から骨格や本質を「抽」出してきた際のモデルを描くという理解を(俺は)していて、(おそらく)共通だと思う。
 つまり、俺は、(あくまで)サイエンスにおいて(は)、何らかの理論的予測や価値観や興味対象を持って「図示する」行為には意味があるが、ただ単純に具象を正確に記述することの意義はかなり低くなると考えている。

 この違いを明確に持つと、今の時代に大学の学部教育の中でケント紙に細胞をスケッチさせる価値は殆ど無い、ということが明らかだと思う。
 勘違いしないでほしいのは、一度くらいはきちんと細胞小器官別に(もしくは他の価値観で)抽象化して自分で図示することにはそれなりの価値があると思うし(顕微鏡で細胞を観ながら描くと良い)、顕微鏡画像をデジタルに処理してイメージングすることにももちろん価値があるが、学部生全員に具象として「ケント紙に細胞を輪郭線以外は点描させる」という行為は旧世代の先生方の自己満足である(つまり、わざわざ習うことではない)。それこそ、今の時代、Z-Stackがキレイにとれるので、三次元に図示させてみるような課題を作ってもいいかもしれない(PC上でも、実際でも、どっちでも良い)。どの種類の細胞かにも依るが、細胞は生命の最小単位である。非常に価値がある、、かもしれない。

 だが、やはり、どんな崇高な価値観を持って、細胞を抽象化させて精緻にスケッチ・工作・イメージングしてみたとしても、細胞の機序が完全にわかっていないうちは、還元主義の枠からでないことは認めなければならないだろう。生物学が物理学からスタートしている公理系に接続していない以上、仕方ない(化学は20世紀でだいたい接続しているから、まぁまだ良かったよね)。
 俺が大学で教職をとっていたとき、偏差値が低く授業中に席に座っていられないような高校の生物の授業モデルとして、「細胞を色塗りさせるのが効果的」という内容を扱った。資料集にある細胞を白黒にクラス全員分印刷して、「好きな色で塗りましょう」と言うと、不思議なくらい皆集中して席に座っていられるとのこと。この手法は、生物に興味がなくても、還元的に細胞を扱う価値観が得られ有用だと、確かに俺も思う。
 もちろん、図示することと色塗りはかなり違うが、「ケント紙に細胞の各器官の輪郭線を描き、他の濃淡は点描する」という行為は、レベルとしては高校の(しかも底辺)レベルに近いことを認識すべきだろうと思う。

 それに、本当に「ケント紙に細胞をスケッチすること」に何らかの価値があると思うなら、教授もポスドクも大学院生も、1年にいっぺんくらいはそれをやってなきゃ、あかん。生物系の人全員に「一度は」やらせることに価値があると思っているような行為について、自らは「一度やったからそれでいい」というのは成り立たないと思う。

 一方、電気力線やファインマンダイアグラムなど、物理学には一見すると複雑にみえる自然現象を、図示と数式を重ねることで理解しようとする取り組みがある。これは、図示による理解を数式として表すこと、さらに数式の一部を図示してしまうという武器で、端的にいえばヤバい笑。細胞を具象として描くなんてことよりも、遥かに有用性(応用性)の高い武器であり、得られる価値観も新鮮なはずだ。描いたGaussian SurfaceやAmperian Loopを貫く力線についてガウスの法則やアンペールの法則の積分系を立式する、という発想も素晴らしいし、摂動展開のそれぞれの項をファインマンルールに従って相互作用を描くという発想も、素晴らしい。これらをマスターするには、まともな教科書を読んだり、信用あるプロに習わなければ理解不可能だ。
 
 抽象化して図示するというのは、現状をより正しく把握しようということである。
 複雑な世界を単純化して理解するのが自然科学の1つの目標だが、そのやり方として単純な還元主義のもとに描くことと、最低限の要請事項だけで構成され、しかもそれら理論体系が(少なくともある程度は)正しく接続されている公理系のもとに描くことには、かなり違いが生じるということである。

 自然科学に限らず、何かの対立関係や人間関係や政治力学も図示することで見えてくることもある。
 わからなかったら、わかっていることを図示!コレは、論理展開において、基本中の基本である。

 さしあたり、今、あなたが所属している集団の、人間関係の図示をしてみてはいかがだろうか?「好き」「嫌い」「どうでもいい」の矢印で各人を結んでみるだけで、かなりの理解が深まるはずだ。ちなみに、(一部の皆さんご存知のように)俺は、毎年この時期、必ずやっている笑。(縦軸をABCグループにすることがポイント。かなり新しいことが沢山理解できてくる)
 めっちゃ楽しいぞ!笑
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思考力と直観力の使い方

2017-06-21 23:40:17 | Weblog
 どんなに賢くても、とにかく誰かを否定したいだけになっちゃっている状態だと、平気で論理展開のやり方そのものを間違える。
 これは、思考と直観と感情の区別ができていないために起こることだが、ツイッターを見ているとこういう(無駄に頭良いぶっている)人はやたらに多い。

 あまりに受験でのイメージをいつまでも引きずっていると、思考力というのは正解を導くための道具だと勘違いしてしまうが(これは受験が制限された、いわば「盤上でのロジック」を使っているために、思考力を正しく用いれば確実に正解を導けることから、現実や研究でもそうだと思い込んでしまうことから起こる)、思考力は本来、客観性を齎し、人と分かち合うために存在するものであって、一般的な社会性を含んだ正解は常に直観から導かれる(個人的な正解は感情から導かれる)。

 学生時代、かなり長い間塾講師のバイトをしていたけど、「受験では、まず、受験に必須な暗記事項と思考力以外のすべての要素を取り除くこと。感情や直観などは世間では役に立つが、受験では役に立たない」ということを理解してもらうことから、スタートしていた。
 思考の展開や段差の大きさについては、慣れがある。それに慣れるためには問題数を大量にこなせばどうにかなるが、それは明らかにコスパが悪い。最初から慣れようとするのではなく、思考力の絶対量を大きくすること。思考力の絶対量を大きくするためには、一度で理解できる器の容量を広くすること。理解の器を広くするためには、自分の理解の器の容量をまずは認識すること。器を認識すれば、自分の理解の器の限界まで新たなやり方・手法・概念を導入できる。常に限界まで新しさを導入していれば、勝手に器は広がる。器が広がれば、新たな手法をどんどん頭に詰め込めるから思考力の絶対量が増えていく。
 さらに、思考力の絶対量があっても、一度に継続して思考力を使えるだけの思考の体力が無いと、段差の連続で躓いてしまう。段差のレベルと精緻さが同等なのに、それを繰り返すと思考がついていかなくなってしまうのは、体力が無いから。これは、1〜2週間程度、自分にとっての最上位に難しい問題を常に頭の中で飼い続けることによって形成される。
 ここまでを自分1人で完璧にできるようになれば、俺から「賢くなるための手法」として学ぶことは何もない。あとは、ずっと実行していけるか?だ。そんなのは俺の仕事ではない(と思っていた)。だから、1年以上継続して生徒を持ったことは殆どない。1年以上一緒にいる意味がないからだ。

 慣れてでも、とにかく受かりたいのか?それとも受かろうとすることを通じて、賢くなりたいのか?

 コレは受験だけのことだが、日常生活にも同じことが言える。多くの人は、単純な慣れと専門性の違いがついていない。プロと言うのは仕事を原理から理解していなくてはいけないのだが、自分の思考力を構築しようとするよりも先に慣れてしまおうとして立場を得てしまったから、他人である新人や学生に対しても、無意味なこととわかっていても1から鍛えなくてはならないと思ってしまう。
 思考力がある程度のレベルまで十分に形成されていれば、直観で答えを出してそこにロジックを組み立てることも容易になるのだが、大抵の場合は思考力が不十分なため、これも訓練が必要である。つまり、ロジックを組み立てていって正解を出すというやり方をずっとしていると、常に自分が間違った方法で間違った解答を出しているにも拘らず、日常生活はロジックが効かないこともあるからなぁ、といった言葉に落ち込んでしまう。ロジックは後で使え。まずは、自分の経験のなかから直観することに注力すること。その上で、その直観で求めた解答へとロジックを組もうとすること。
 さらに、直観に直観を重ねてはいけない。さらに、(一般性を含む社会的でありたい正解を求める場合は)感情を介在させてはいけない。とにかく、直観でロジックを組み続けてみること。すると、いかに自分には思考力がないか?と気がつくだろう。思考力だけに注力する必要があることがわかるはずだ。そういう意味で、最低限、高校数学と高校物理を完璧にしてみるというのは、大切なことなのだと思う。

 もちろん、自分の気持ちを誰かに伝えるために、感情をロジック化することもできる。しかし、これはやらないほうが良いだろう。
 やればやるほど、切なくなって、苦しくなるだけだからだ。それは、俺がここで10年かけて実証済みだから笑。

 生半可な思考力と単純な慣れで成り上がってきてしまうと、感情をベースにして思考と直観とを本当に上手く使えている相手に巡り会うと、クズほど勝手に苛立を覚えてしまうだろう。自分のレゾンデートルが危ういことを、(慣れていない)直観(力で直観)するからだ。
 そして、他人を蹴落としてまで自分を成り立たせようとしない非クズであれば、仲間になりたがる。

 だから、俺は、思考力も直観力も、どっちもバランスよく高めたい。目立てば目立つほど、自分の本当の味方や本当の敵が認識しにくくなるが、思考と直観の使い方と絶対量さえ優れていれば、敵味方の明確なリトマス試験紙になるからだ。
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マトモな評価の存在意義

2017-06-15 00:52:33 | Weblog
 誰でも評価を強いられてしまえば、自分には何かを評価できるだけの能力があるはずだ、と信じてしまいたいものだ。
 一度それを誤魔化して、とにかく評価を実行して誰からも「お前なんかがそんな評価をして!」と否定されないと、それで成り立っていると勘違いしてしまい、自分の単純な好き嫌いと正しい評価の区別ができなくなってしまうのだ。

 思考と感情を完全にわけたうえで、社会的価値観に立ち返った場合には、自分の個人的な感情は一切介してはならない。なぜなら、思考とは他人に説明するために存在するツールだからである。自分が毎日不快に思うんだとしても、雇うべき人を雇わなくてはいけないときはあるだろうし、逆に、どんなに生き方が好きだと思っても、完全に断絶しなくてはいけない瞬間も存在するだろう。それがプライベートで行われる交友関係や恋愛とは異なる「社会的な評価」というやつだ。
 そもそも立場を含まない評価なんて存在しないから、パーセンテージで語ることも避けなくてはならない。自分の決定へのオフェンスに対して、常にレスポンスできるだけの能力が無ければ、他人を評価することなんてできないのだ。

 しかし、多くの人が、そんなことを一切考えずに、日常の中で自由に評価することに慣れてしまっている。それが集団へのより善きにおいての「評価」を行えているか?というチェックよりも、自分が単純に気に入っているかどうか?めんどくさくないかどうか?という、自分の本来の「好き」にすら到達しない、目の前の判断に終始していることが殆どである。
 「これを認めてしまっても、自分の以前(これまで)の努力(らしき行為)が無意味化されないだろうか?」という自分勝手な感情を、いっさい介在させない評価を、俺は久しく観ていない。ほぼどんな人も、自分の選択やそれに向かう過程を肯定しうるような評価を下したがり、レゾンデートルは守られるべきであるという前提に立った、殆ど評価とは呼べない選択を繰り返しているに過ぎない。だから、新しいものが創造されないのだ。

 さらに、「相手については、すべて把握しているはずだ」もしくはそうありたいと願う気持ちは、(ストーカー的だし)一般に気持ち悪いという共通認識があるにも拘らず、立場の弱い者や自分に脅威がありうる人に対しては、平気でここを当然視して相手を判断したがるクズが圧倒的大多数なのだ(見て観ぬフリも含む、世の99.5%)。だから、「あの人のことだから、どーせケンカでもしすぎたんじゃないだろうか?」とか、「どーせ、あの人はそこまで考えられてないんだから、ここまでやらなくてもいい」とか、「どーせ、○○なんだから、こう考えているに違いない」とか、あらゆる疑念を自分にとってわかりやすいモデルに落とし込み、総体的な多種類の感情を単純に一人ひとりに(キャラづけさせて)振り分けてしまうことで他人を正しく判断できているはずだと思い込みたい衝動を、世間が肯定化する。そして、「そういう(勘違いされるような)イメージすら、もたれてはいけないのだ」「世間のイメージを裏切ってはいけないのだ」という言葉に落とし込むのだ。
 なぜ、クズに合わせなくてはいけない?ここに考慮する必要は一切ないのだ。

 弱者を蹴落とすことで自分を維持・向上させることに決定的に躊躇できるマトモな人は、常に正しい評価をする。それは、自分は評価者という立場から退散するという選択も含め、かなり正確である。
 圧倒的大多数のクズを、無理矢理に(論理の)直前で肯定化するための文句ばかりを蔓延させて、「(弱者を蹴落とすことを厭わないで)上手くやる」ことをしない善人をバカ呼ばわりする社会は、疲弊に向かうだけなのである。

 俺は、社会がどんなにクズになっていってしまって、マトモな人が極少数だとしても、その人たちだけのためになるような価値観をシェアしたい、、と言ってしまえば、感情を一個人に還元できるという発想と全く同じ。重要なのは、マトモさが殆どで構成された人がいることも否定は出来ないしその人のためにと真っ先に考えなくてはいけないが、一方で、大抵の場合はみんなの気持ちの総量として、クズの部分がかなりマジョリティで、そこから僅かに流れ出るマトモさに訴えかけ続けることを諦めないこと。
 あらゆる種類の気持ちや価値観を完全に一個人に還元させない上での評価に価値があると思えていることこそが、俺の市場価値だと思っているし、俺のレゾンデートルであるとも思っている。

 ここに賛同者が(わずかでも)集まり始めれば、マトモな評価のレゾンデートルも大きく育つだろうと思う。そして、その花が作る種こそが、明るく未来を創るだろうと思う。
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いつの日か訪れる未来

2017-06-09 00:57:35 | Weblog
 いつも、変わっていないことを真っ先に確かめながら、本当に変わっていない現状に打ちのめされる。
 幸せを願う気持ちは、なんでも良いから何か変化していてくれという言葉になるし、自分だけの勝手な感情は、俺がどうにかするまで別に何も変化するなという言葉になる。勝手でごめんね、って思いながらも、変化は変化で受け入れられるほどにすでに冷静になっている自分自身を感じて、情熱がコントローラブルになればなるほど確かに上手く行きつつあるという、一般に成り立ってしまう物理現象に憂鬱になってみたりして。

 もっと大変なことがいっぱい待ち受けているのかもしれない。でも、そのたびにきっと成長できるチャンスにしていけるはずだと考えられるなら大丈夫。その強さと本気と根拠の無い自信を、みんなが期待しているし、俺らはいつまでも待っている。
 そう思える瞬間もあれば、神様が何かの間違いで貴女に与える課題を間違えてしまったのだと解釈したくなる自分もいる。

 そのままにしていれば普通なのに、普通の環境が存在していないせいで、普通に関するロジックが強くなりすぎて、いちいち確認したがるところが好きで仕方ないのだけど、その賢明さが異常さのなかでの応急処置になりすぎてしまっているせいで、歯車が廻りださないというのが俺の見立てだ。脱出するには異常を彷彿とさせる行動をとらなくてはいけない。
 今の世は、通常さを追求したオリジナリティ豊かな純粋さと、純粋さを追究した一般的な不純さに満ち溢れていて、特にその世界は、ただのヒエラルキーで成り立っているのにも拘らず純粋で貫くことを全面に出すことで圧倒的な不純さを含んでいるのだから、通常さを追求しても現状打破にはならないのだ。

 異常になるためのロジックなら俺が沢山もってるよ?と言おうとする自分を、幸せを願う気持ちも自分勝手な気持ちも、同時に止める。だって、俺が変わっていない自分の心を証明するために、変わっていない即物的なプロパティを見出し続ける一方で、貴女は俺が変わってしまっていることを前提に話すわりには、変わっていないことを信じてやまない気持ちが垣間見えて、また泣きそうになるから。
 どうして、あのとき、どんな状態でも走って、あの場所へ行かなかったのか。どうして、情熱の体現としての賞味期限が切れる前に、どこかの時点でプロトコルを放り投げて、気持ちを伝えておかなかったのか。ホンモノは完了形として存在してしまう。せめて、手前に"現在"がつくであろうことを期待しているはがゆい気持ちに、今更飛び込むだけの権利があるの?

 それでも、誰かみたいに何かが達成されることを目指すよりも、自分の気持ちにそのまま従い続けることを俺は選びたいから、どんな関係性でもどんな状況でもどんな結果になっても、すべてを肯定していたいと思う。
 そう、むしろ、あの時点で歯止めがかかったことは、あらゆる意味でより善くなるための運命だったと結論づけたい自分の気持ちが存在する。あの時に何かの気持ちをシェアしたとしても、問題の本質に気がついていない俺にイライラするだけかもしれないし、途中で諦める可能性が高かったと。もちろんその一方で、いや、そんなのただのイイワケ、、後悔を後悔として認識できるからこそ、次に繋がるかもしれないのに、と叫ぶ自分もいる。

 助けを求めることは、どの時点でも、とても難しい。助けになると期待していた気持ちが裏切られる可能性があるからだ。
 俺は、、どんな些細なことでも、どんな重大なことでも、本気になれる自信があるし、少なくとも何度かは手を伸ばしたが、、俺じゃあ解決できないだろうと予見して、私に関わらないで自分だけの成功と幸せを目指して、という優しい声が聴こえてくる。優しすぎるんだよ。だから、頑張っているのに、どうしても嫌いになれない。
 よーするに、そのような予見をもたれてしまうくらいの実力しかない、、簡単に言えば、俺の実力不足が何も上手く行かない根本的原因なのだ。

 初めからわかっていたことじゃないか。その解決に向けて、あれから、それなりには実力が身に付いている。
 この能力面での変化を自信にして、、いつも本気でいたいと思う。

 そして、いつの日訪れる未来に、ついに助けられたとしても、何も望まないとここに誓おう。
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あの頃の未来

2017-05-30 23:02:09 | Weblog
 そもそもが別れからの出会いであったことから、二人がいずれ気持ちのうえでも離れてしまうことは必然なのかもしれない。
 悲しみっていつかは消えてしまうものなのかなぁ。かつての面影をどうにかどこかに見出し続けようとする自分の惨めさなんかよりも、いずれこの痛みを忘れてしまう自分が悲しい。

 普通になりたかった君と、普通から逸脱したかった俺。あの頃、ベクトルは違えどちょうどいいところで意気投合していた心情は、それぞれの目標が達成されると同時に消えてしまったのだ。
 「何が大切なことなのか?」と寝る間も惜しんで語り合った日々を、終状態の解釈で淀ませてしまうことを必死で押し殺す。事実は解釈次第で、善くも悪くもなる。だってあの頃、俺らで描いた理想は、幻想ではなくホンモノだと信じている。
 でも実際、つまらない常識など潰せると本気で思いながらも、結局二人で行動したことは少なかった気がする。むしろ、あれから、それぞれで自己実現に向かってからのほうが、お互いに、いくつかのつまらない常識を、ほんの少しだけ潰せてきた。

 君を奪っていったものは、その"常識"そのものかもしれないし、あの頃俺らで信じていた何か以外の何かかもしれないし、純粋さの委託かもしれないし、単純な忙殺かもしれない。圧倒的に神聖な場で、誰かの声に気がつきながら身を潜め合った仲間たちが君とともに変わっていく一方で、俺だけは、あの頃のまま変わらずにいる。それを、"上手く行っている"だとか"報われていない"だとか表現したがる君は、もはや俺が話していた君ではなくなってしまったのだろう。
 そんな言葉を心のいちばん奥でから回りさせ続ける一方で、俺が君に話した言葉はどれほど残っているのか?と問いたくなる。「もう、これ以上、教えてあげないっ」と悪戯っぽく言ってみても、きっと「いや、忙しいし」と返されるであろう返答を憂いで、深くついたため息は少しだけ、白く残って消えた。

 この切なさも、新しい信頼関係の中で、新しい集団と新しくものづくりを始めながら、笑い合うことで安心感を得て、払拭されてしまう。
 このままどこまでも日々は続いていくのかなぁ。ホンモノだった思い出だけを胸に、雲のない星空が続く向こう側の明日へ駆け出そう。今の俺らのものづくりを待つ人のために。

 また、いつか、会うことがあれば、あの頃の未来にむけて、俺はいつでも走り出そうと思う。

Suga Shikao x YUI 夜空ノムコウ


 (この曲を、アカペラで色んな場所で沢山歌っていた時期から、もう10年も経つことに驚いている。
 あらゆる人が唄っているこの曲。スガシカオとYUIのコラボの夜空ノムコウも好きだ。おもいっきり唄わない、"何気ない雰囲気"がこの曲にはよく似合う。この曲のサビはハモリを目立たせないようにするのが難しいのだが、YUIは強弱をつけて上ハモをさらりと唄っているし、スガシカオの下ハモ(正確に言うと、上ハモのオクターブ下)も、存在感は薄いのだがしっかりと主旋律を支えている。だから好き。
 10年前、これを歌唱力でおもいっきり歌おうとしてしまっている自分のリードボーカルの音源を聴くと、あの頃に比べれば今はあらゆる価値観が得られたんじゃないかと思う。あの頃の未来に、僕らは立っているのかなぁ)
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