たかはしけいのにっき

ミネソタ大学ツインシティー校ポスドクの日記です。

アカデミックで初めて職を得たラボでのお話1

2017-04-23 01:55:18 | 自然科学の研究
 「たかはしさんを入れる理由はラボに撹乱を与えること。これに尽きるでしょうね」

 2015年3月、そう言いながら俺が入ることを迷っているラボの写真を見てくれている、この年上の後輩の言葉に俺は慎重に傾聴していた。彼は続けて予測を述べた。
 「今の段階では、その撹乱に自分も巻き込まれてしまうとは夢にも思ってないでしょう。疲弊しているのは明らかみたいですし」
 俺はその言葉に、俺も何かの予測の切り返しを与えたくて言葉を返そうとした。
 「生物系はどこもそんなもんじゃない?特に、ここは古典的っぽいしね」
 「それもそうですが、この立ち方ですよ。リラックスしているはずの飲み会の様子なのに、ほとんどのみんなが背中に集中しながら規律を守ることに忙しそうです。彼らはこの中で本音を言えていないはずです。それから、この笑顔も、口角だけ上がってますが、口が開いてない」
 動きの見えない写真から、いくらなんでもそれは言い過ぎなんじゃないか?と思いながらも、彼の予測が外れることもそう多くはない。俺は視点を変えながら、イイワケとしてのディフェンスを見つけ始めていた。
 「まぁ、研究テーマとしては、確かに何にも面白くはない。だけど、カネは手に入るし(手取りで30万弱くらい)、俺の目的からしても悪くない選択だと思う。あの医療センターには、"彼"がいるしね。おそらく何かしらは接触する機会があるだろう」

 俺は、このラボに来る以前に、自分のブログで公開している「研究室の選び方」のなかで、「10年以上同じ研究室にいる人が1人でもいるラボはやめたほうが無難」と書いている。この判断基準は俺が研究室を選ぶ際には絶対的なモノで、参考程度ではない。実際そのラボにはすでに10年以上その研究室にいたり、大義名分的に一度外に出て所属が変わっていたとしても結局ボスの目の届く範囲にいて、また戻って同じラボにずっと所属しているであろう人が最低でも5人はいるように考えられた。だから、研究室を選ぶという基準で考えると、俺の中では初めから論外だったのだ。"研究室を選ぶ"という基準だったらね。

 そして、年上の後輩くんは言った。
 「まぁ、ここは政治力学ぐるぐるでみんな疲れちゃってるわけですけど、カネが大量にあれば政治力学ぐるぐるを脱出できるのか?それを見てくるってのは、悪くないかもしれませんね。とにかくカネだけはありそうですから。おそらく、6月くらいになると、たかはしさんのヤバさに気がついて、先生が"バランスをとる"でしょうね。そのバランスのとり方は、関係の崩壊を生むと思います。たかはしさんが容認できないやり方だから。逆に言えば、たかはしさんが容認できないやり方をとるしかないでしょうね。というわけで、もって1年でしょう」
 そのラボに俺が2回程度しか見学に行ってない段階で、しかもこいつは俺の話もロクに訊いていないのに崩壊の経緯まで予測してしまうのは、些か予見に予見を重ねすぎなように感じた。だけど、まぁ、当たってるだろうなぁとも思った。俺が生まれながらの直観タイプ、後天的努力としての論理タイプ。彼が生まれながらの論理タイプ、後天的努力としての直観タイプ。この重ね合わせは、それまでも、あらゆる予測を可能にしてきた。いや、正確に言えば、それは彼だけの力であり、俺は大して役に立ってないかもしれないけど。。

 指導教員に「3月あとちょっとで終わっちゃいますし、ギリギリなんで5月からにしてもらおうか迷ってるんですよね、いま」と相談すると「そうですね!論文があるから、5,6月からでもいいかもしれませんね」と言ってきた。俺の提案よりも1ヵ月延ばして承知しているくせに、カネは支払われないわけでしょ?と思いながらも、研究社会そのものにバカバカしさを感じ続けていた俺は(まぁそれは今もね)、そのまま容認してしまった。これが後にめんどくささを生むことになる。

 そして、5月。ついに正式に医療センターの研究員になった。JREC-INには2年契約とだけ書いてあったので、これで2年はここにいるのだろうなぁと思っていた。しかし、そのわずか2週間後、イタリアでラボを持っている先生から連絡が届く。こちらからすれば有名人なのだが、何故か一回話しただけで気に入ってもらえていた。某WPIが財団から獲得した予算で設置したポスドクフェローシップがあるから、うちで出さないか?通れば一年をイタリアと日本の半々で過ごせると。これを俺は6月まで保留しておくことにした。〆切はどーせ7月で、通ればそのとき貰っている額の約2倍になる。
 この件に関しての予言者が言っていた6月までは、保留。俺の容認できないやり方での"バランス"とは何なのか?それを見るまでは、俺から行動を起こすべきではないように思えた。

 ラボにはそれなりに満足していた。良い実験環境だし、みんな親切だし、クソつまんない与えられた研究テーマと平均値的な東大のプライドと、進捗プレゼンのクソさ以外に気になることはなかった。そのクソつまんないテーマも、慣れてきたら徐々に俺が変えていってしまって良いとの話だった。「即戦力として」は求めていないと。
 さぁ、それがどのように移り変わっていくのか。。それは、また別の記事で書くことにしよう。俺の当初の目的は6月まででほぼ完了してしまう。俺としてはカネを貰うという大義名分以外に用はなくなってしまい、本当に先生は"バランスをとろう"としてしまい、それこそが決別のキッカケになった。まぁよく考えてみれば研究の世界が特殊で、ほとんどの仕事なんて、カネを貰うことだけが目的であり、それをコントロールするのが上司の役割なんだけどね。

 悪友曰く、「最初からそこに軸足を置いてねーな」と。
 その通りである。それまでの研究人生で、じゅうにぶんに、生物系や医系のラボの多くが腐り切っているのは、分かり切っていた。あの分野は抜本的に改善しなくては未来がないことは、ちょっとでも関われば誰でも十分に分かるレベルだ。考察もしていたし、仲間とさんざんディスカッションもしているし、実際さほど今と2年前と解釈としてはカワラナイ。だから、期待していない分だけ、医療センターで所属したラボには何も感情を持っていないのが事実である。やっぱりクソだったかぁと思うだけだ。俺も年下の後輩くんも予測できなかった、ただ一人の見込みのある研究者の存在を除いては。
 俺が1年半前から半年前くらいまで怒りを抱いていたのは、むしろ、融合分野としてものづくりをしてしまった後のプラン(上手く行ったとしても上手く行かなかったとしても)をあまりに考えていなかった自分自身と、そのリスクを(おそらくわかっているのに)いっさい語ろうとしない駒場の教員達の身勝手さである。その先には、アカデミックの雇用システムのテキトーさがある。
 その辺りはまた書こうと思う。今日はあくまで予告編。次回作も読んでみてね。

 (これを書くのは何度も迷いました。具体的にならざるをえないし、なにより、これまでに何名かの日本の大学教員が、おそらくこのページを見つけて、突然俺とのメールのやりとりを途絶えさせてきているからです。しかし、匿名で色々な悪口を書くよりも、俺のほうが誠意があり後輩の役に立つはず!、何よりこのページの読者の何人かが書いてくれと言っている、と思って書くことにしました。そのことを少しでも読者側が思慮してくれたら、執筆者としてはとても嬉しいです)
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必要なカードは揃った

2017-04-19 23:28:47 | Weblog
 抱えている問題が複数絡まり合うことが悩みの定義である。この絡まり合った問題を相手の価値観の中で上手に分解してあげることが他人から相談を受ける時の第一歩であり、常にこの原則から外れてはいけない。
 つまり相談を受ける場合、圧倒的に賢くなければならない。自分の価値観を押し付けて、相手が提示する疑問の一つに答えることは簡単だが、それでは何も意味が無い。悩みを抱いている相手は、絡まり合っている問題そのものに気がついていないのだし、相談を受けることが自らの主張の場になってはいけない。

 この原則は「他人」にのみ適応される。つまり、俺が、ただの他人だとは認識していない、何名かの相手に対しては、俺は俺の価値観をはっきりと伝える。ここを勘違いしてもらっては困る。(なので、近くにいる(と俺から思われている)人ほど、大変なのかもしれない笑)
 俺にとって誰かが必要だということは常にないのだ。NEEDではなく、常にWANT。これが主体性を見失わずに、他者に利益を齎しうる人間のスタイルだと俺は思っている。このスタイルを成り立たせるのが、賢さを追求しつづける覚悟があるかどうかということだ。

 賢さは常に諸刃の剣だ。賢くなればなるほど真実を知ることができるが、より早く絶望的な結果を導いてしまうことだってある。
 そう、(俺のように)賢い人間にとって、露にしてもらった絡まり合っている問題のなかに、人類にとって未開の問題が含まれていることはザラである。未開の問題に対しては、本来、数多くのディスカッションが必要であり、それだけで一生を終えてしまうであろう問題が週に1度は届くという怖さが俺にはある。だが、この問題を置き去りにしてしまっても、多くの相談者には満足してもらえる。なぜなら、それは本人にとっての目先の問題ではないから。

 しかしながら、、俺が本来解きたい悩みは、人類にとって未開の問題が複数含まれているため、生半可な覚悟では解けない。満足してもらえないだろう。不特定多数からあらゆる相談を受けた上で、はじめて、この悩みの特殊性と難易度の高さがよくわかる。だからこそ、いま俺は、こんなわけのわからない国に来ている。
 間に合わないかもしれないが、この負け試合を勝ち切らないといけない。勝ち切れば、確実に青史に名を残せるであろう。だが、そんなことはどうでもいい。とにかく、助け切らなくては。

 ここから先、本当に大事なことを確実に見極めながら、研究としては最もコスパの良いルートを通る必要がある。その準備は整ったように思えるし、問題の大きさのわりには、意外と順調なのかもしれない(?)
 必要なカードは揃った。さぁ、本当の意味でのゲームを再開させることにしよう。
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Now it's much too late for me

2017-04-17 00:15:54 | Weblog
 始めたキッカケなんて10年も経てば必然的に変わってしまうものだと頭でわかってはいても、いつの間にか自分自身の目的が変わり、伝えたい人が変わり、懐かしみながらその変化を受け入れられてしまう自分を感じると、悲しい気持ちになってくる。その変化そのものから涙を流せるはずの自分が、いつの間にか殆ど消えてしまったことに、切なくなるのだ。

 もう、あの頃の自分はすっかり死んでしまった。履歴だけを共有している自分の身体だけが、こらえきれない急激な変化に耐えかねて、言動だけを停止させる。

 あの頃、話すことすら躊躇って、戦う相手を変えてしまうことで忘れようと努力していた。難しい問題を解けば解くほど、乖離していってしまう距離に、むしろどこか満足していたのかもしれない。その躊躇は正しかったと断言できる。だって、それが今に繋がっているのだから。もし、あの時に与えられた振り通りに後ろを振り返っていたら、今のあらゆる関係性を否定することになる。一人きりで迷った日々そのものが無駄じゃない。
 ただ、もっともっと知りえたらと思う自分は健在で、今の俺自身を高揚させる。知ることは選択を増やすことに繋がる。そして、それが俺を、こんな遥か彼方の地にまで追いやっているのだ。悲しい自由を含みながら、ね。

 終わったら死んでもいいかも。。
 と、俺もあの瞬間に本当にそう思えた。そして、実際に終わってしまったのに生きていることに違和感が残る日々を感じ続けている自分が、確かに俺の一部を作っている。だからこそ、行動的になれるのかもしれない。だからこそ、恐れなくなっているのかもしれない。

 今できることを!
 と現実的な格言が追いかけてくる。もう少し余韻に浸りたい気分を、あらゆる社会が赦してはくれないのだ。わかっているさ、今できることを!でも、きちんと落としどころをここでつけておかないと、何かに期待してしまいそうな自分に負けそうになる。というよりも、直観的には、期待してしまう自分がすでに存在していることに気がついている。どうして?わざわざ?だから?と、あっという間に言語化が追いかけてきて、現実的な格言を追い超してゆく。

 ならば、その曖昧な夢の行方と、曖昧な輪郭を、そのまま受け入れる他ないのかもしれない。お互いにお互いの世界で頑張る中で、もしまたどこかで繋がっていたら、一緒にものづくりをしよう。
 ホンモノの対象は変わったのだとしても、より良くする意志は、いつまでもいつまでもカワラナイのだから。

 そして、だから、俺には、この世界をより良くする義務があり、ホンモノを救い出したい気持ちに駆られているのだと自己認識する。
 こっちは、まだまだ遅くはない。タイムリミットまで走りながら、できることをするよ。貴女みたいに。
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生き恥を曝せ

2017-04-10 23:44:58 | Weblog
 勝敗が拮抗している苦しい時間帯、カッコいい負け方を模索しようとした時点で負けが確定する。
 負けたくないのであれば、勝ちだけを意識することである。そうすれば最終的には負けない。勝つかどうかはわからないが、少なくとも負けることはないだろうと思う。

 しかし、あまりに勝ちを当然視していると、実質的に勝てなかった時のショックが大きくなってしまうだろう。惨めでみっともなくて、今すぐにでも消え去ってしまいたい気分にかられることも少なくない。だからこそ、やはりカッコいい負け方を考慮しておくべきか?と思ってしまう。
 考えておく分には損は無いはずだからと、負けた場合のシミュレーションを頭の中で構築しようとしたその瞬間、負けてしまう。そのぶん、"勝ち"にむけて全力でぶつかってみたら良かったのに、と思っても後の祭り。

 期待しないのが勝ちゲー?いや"負けない"ゲー?いやいや、それは単なる"勝負してない"ゲー。いやいやいや、それって、ゲームじゃねーじゃん。
 勝てないことを前提としながら、大衆よりは勝てているであろう現状の蓄えを使って負けない状態を持続させ続けようとするのが、大人のやり方?全力で挑んで負けてしまって、生き恥を曝すよりはマシだと思いましょう、、ってね。

 そう、実は、勝負しないことこそが本当の意味での生き恥なのかもしれない。でもでも、それだけなら、まだ全然マシなんです。だって自分が勝負しないだけで、自己完結しているのだから。
 最も最悪なのは、自分の生き恥のはけ口を他人で晴らそうとすること。誰かのせいにしてしまうこと。そのプロジェクトが上手く行かなかったのは、本当にその大学院生やポスドクのせいなのかな?その経営が上手く行かない原因は本当に若者が怠惰なせいなのかな?生き恥を弱い立場の人間に押し付けてしまうことは非常に簡単なんだけど、そのぶん実質的な負け以上に自分自身が傷ついて、で、最終的にめちゃくちゃ負けてしまう。
 当たり前だよね。だって、真っ先に、カッコいい負け方が思いつくことを称して優秀だと定義しちゃうくらいに、戦略が悪いんだから。そら、負けが常套化しちゃってるんだよ。

 そもそも、「生きる」という行為は恥ずかしいのが大前提であることを、俺ら「生命とは何か?」を常に考えている人たちは自覚しているはずだ。
 何かから搾取しなくては生きていけないし(エネルギー代謝)、自分の殻に閉じこもることを肯定化しないと生きていけないし(コンパートメント)、自分だけがより良くなってしまうことを認めなくては生きていけないし(進化する力)、自分の情報は特別良いものだと無理矢理に仮定して増やしていかないと生きていけない(自己複製)。
 「生きる」というのは、それら自分勝手な自らの欲望を受け入れ、いずれは消えてしまうことの不安を受け入れ、それらすべてを前提としたあらゆる混沌と膨大な退屈に付き合い続けること。
 そのなかには、必要以上に他人から搾取しようとするクズも(大勢)いれば、全然何も考えていない(大勢の)バカから心ない言葉を言われて傷つくこともある。しかし、どんな行為を目の当たりにして、それにどう反応したとしても、所詮連綿と続く時代の一時に過ぎないことを本当の意味で自覚すれば、多くの人に対して恥を曝すことが凡庸なことになるはずなのだ。

 だからこそ全員、みんなみんな、これからもたくさん生き恥を曝すことが、とっても大切なんです。
 それこそが生きることであり、それこそが"負けない"秘訣なのだと俺は思う。
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9. 社会統計力学と機械学習/『研究コントローラー』

2017-04-08 23:32:10 | ネット小説『研究コントローラー』
 以下はフィクションです。実在の人物や団体などとはいっさい関係ありませんし、サイエンティフィックな内容についても実際には正しいことではないことも含まれます。

前のお話 8. 放任と管理/『研究コントローラー』

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登場人物まとめ

戸山渉…都王大の大学院生(M2→D1)。野崎からの依頼でRC制度に従事する(潜入先は慶明大の山岡研究室)。主人公。
綾瀬香奈…戸山渉の彼女。
村川晋也…戸山の親友。修士で卒業し、現在は技術営業職として大手企業に勤める。

野崎正洋…研究コンサルタント。RC制度の発案者。都王大出身。バークレー工科大学大学院応用数学コース中退。
吉岡剛史…帝都工業大学の大学院生(M2→D1)。RC研究生。潜入先は北東大。ガタイが良い。
斉藤結衣佳…日本茶大の大学院生(M2→D1)。RC研究生。潜入先は京阪大の澤田研究室。斉藤自動車のお嬢様。
山下美弥子…東都科学大学の大学院生(M2)→野崎の秘書。有機合成を専門とする光田学派の村松研究室に所属していた。ネット上では「みゃーこ」と名乗っている。
直樹…美弥子の彼氏。商社マン。現在行方不明。
相澤祥太…東都科学大学村松研に所属している大学院生(M2→M3?)。現在行方不明。

井川英治…慶明大学山岡研究室に所属している大学院生(D4→D5)。現在行方不明。
高野翔…慶明大学山岡研究室の特任准教授。野崎とは都王大時代からの仲。野崎に井川失踪の依頼をした人物。
豊杉雷之佑…山岡研のポスドク2年目(2016年度時点)。高野に井川失踪について相談した。
原田愛菜…山岡研のM2。野崎らに疑われ、現在失踪中。
岸信明…山岡研のM2。就職希望だが学推DC1に応募中。
権田卓…山岡研のD1。一時、山岡先生によって学推に応募できない状況だったが、野崎の根回しにより、学推DC2に応募することができた。
森下真治…山岡研のD2。優等生でゲルの研究をしている。
友川多恵…山岡研の秘書。

水島…京阪大医学部基礎系ゲノム情報学プロジェクトの教授。斉藤が潜入している研究室の主催者である澤田からの要請という大義名分で、彼の研究室を野崎と美弥子が調べた。

用語まとめ

学推…日本学術推進会。文科省の傘下で、大学院生や研究者に研究助成を行う組織。
RC制度…レアケース研究遂行制度の略。表向きは研究助成だが、若手・大学院生連続失踪事件を解決するために野崎が用意した組織。
スマートグラス…スマートフォンの機能をメガネに搭載している近未来型の通信機器。
パラレルスマホ…ハッキング防止のため通常の回線と異なる回線を使うスマートフォン。スマートグラスと連携可能だが、機能は最低限である。
被害者リスト…研究コントローラーと名乗る犯人らしき人物から送られてきた手紙に送付されたリスト(73名)。野崎が独自に調べた不可解な行方不明者リスト(104名)とほぼ一致した。
桜タワー…飯田橋駅前にあるダブルタワー。野崎と戸山と美弥子が住んでいる。

2016年9月21日(水)

 私の名前は綾瀬香奈。今はなんとかデザイン会社に勤めているけど、この普通の生活を手に入れるまでにはそれなりに色々なことがあった。2年半前から付き合っている戸山渉くんには美大卒ということにしているけど、実は大学になんて一度も行ってない。私のような人生を、普通に幸せな人生を送ってきた渉くんが理解できるとは思えなかったから、最初に出会ったときにウソをついたのだ。小さなウソを隠す為に最小限のウソをつき続けてきたつもりだが、彼は私の事を普通に両親がいて普通に学校に通い、そして就職したと思っている。それはそれなりに罪悪感のあることだけど、私の事を想って都王大の大学院に進学予定だった渉くんを紹介してくれた当時のバイト先の先輩に感謝しているから、このウソをつき続けることに決めている。
 渉くんとは12時過ぎに神保町の待ち合わせの予定だ。カオマンガイが美味しいタイ料理のお店にランチデートする予定だけど、お昼休みを利用しているだけだから、あまり時間はとれない。渉くんは、RCの仕事でこの近くで学会に潜っているらしい。RC研究遂行制度。渉くんの上司の野崎正洋先生は、研究コントローラーと名乗る大学院生・若手研究者の連続失踪事件の重要参考人の捜査を行っているらしく、これはとにかく他言しないように言われている。正直、私はよくわかっていない。渉くんは野崎先生という人から給料をもらっているらしいが、大学院には授業料を払っているようで、しかも都王大で実際に指導をしている”担任の先生”的な人は渡辺先生と言うらしい。そして、そこからまた別の慶明大の研究室に所属していたりするのだから、ややっこしいにも程がある。私は、そんな渉くんを思いながら、まだかなぁとスマホを見てみた。そして、何故だか、これまでの人生を振り返ってみることにした。どうしてこのタイミングで?と思いながらも、思考は止まらない。まぁ、いいか。
 私は物心がついた瞬間に自分が「施設」という場所にいることを認識させられた。最初、みんなも普通に施設にいるのかと思っていたけど、小学校低学年くらいのときにおかしさを感じたのだ。あ、普通は、お母さんとお父さんっていう人が一人ひとりにいるんだ、っと。私は「施設」という言葉に敏感で、渉くんに昨日「学会はどこの会場なの?」って電話で聞いた時も、「えっと、博士会館って施設」と言われてしまってドキッとした。一瞬、バレたのか?と思ったし、何よりもこの言葉が嫌いだ。小学校の頃から施設がイヤでイヤで仕方なくて、中学に入った頃から何度か脱走したりしたけど、私を本当に助けてくれる人は誰もいなかった。相手が求めているモノを提供すればその分だけ何かの見返りが手に入る。所詮この繰り返しだと思うし、誰も助けてくれない。社会に出てしまえばこういったことが私以外の身の回りでも普通になったから、まぁ、その分だけ今はとてもラクだなぁと思う。私が施設を脱走して、私だけの現実から逃げようとすればするほど、児相の職員の人と話さなくてはいけなくなり、これがとても苦痛だった。私が何か不満を漏らしても、児相の人は自分の責任にならないようにという前提で話をするだけなので、時間の無駄なのだ。そして施設に戻ると、反省文やランニングなど、あらゆる苦痛を強要された。私はいまだに児相の職員にこう言いたい。
 「一回でイイから自分が施設に入ってみたら?」
 中学卒業後、私はすぐに施設を出た。高校は1年遅れで定時制高校に入ることができた。中学ではやらなかった部活動も、まるで普通の人のようにバスケ部に入り、毎日が充実していた。バイトに部活に大変だったが、それなりに授業をサボったりもできたから、施設時代よりもずいぶんラクになった。その頃からバスケ部の先輩達の集団に混ぜてもらって、よく深夜徘徊していた。男子だけのグループに私一人女子。よく深夜に心霊スポットばかり行っていたが、私だけは誰からも怒られない。私は当時霊が見えると言うことで、みんなに仲間に入れてもらえるように自分を守っていた。なんとか4年間で高校を卒業すると、次の年から高校が無償化された。自分はなんて損なんだと思って、ひどく落胆した。最初から高校が無償化されていれば、あんなにアルバイトをしなくても良かったかもしれない。そう、どんなときも、どんな節目も、行き着く先はこの言葉。・・・どうして私だけ?

 「ごめんごめん、待った?」
 渉くんはそう言いながらスマホをいじっていて私に近づいてきた。こんなデートの良くあるシーンも私にとっては警戒を高めてしまうことに寄与している。ここ最近、渉くんと会っていなかったせいかな?
 「ううん、いま来たところ」
 私がそう言うと、二人で歩き出した。暖かさのなかにほんの少しだけ涼しい風が吹いている。気持ちいい風を肌に感じながら、私は何故だか少し落ち込んでいる表情を作っている自分に気がつく。どうしてだろう?と思いながらも、タイ料理の独特の匂いが近づいてきて、店に入った。二人で一緒に同じカオマンガイを頼んでしばらく待った。
 「最近はどうなの?」
 私がそう訊くと、渉くんは向かって左側を見上げながら喋り始めた。私に不安が蓄積される。
 「どうって、別に。桜タワーの暮らしには満足しているし、最近は学会三昧で、ちょっと疲れ気味かな・・・。野崎先生の指示だから仕方ないんだけどさ」
 「学会で、何か情報はつかめそう?」
 「いや、全然。それにしても、つまらない研究ばかりだし、あまりにも政治っぽいことが多すぎて嫌になってくるよ」
 渉くんはやっと私の目を見ながら話し始めた。
 「でも、研究って、ある程度はそういうのは仕方ないんじゃない?」
 「そうかなぁ。ただ単に自然現象としての真実を求めるだけなのに、なんで他人のこと考えなくちゃいけないのかな?って思うよ」
 この辺りが甘いのよね、温室育ちって。相手が求めるものを提供すると自分が欲しいものが手に入るのが、この世の中の原理なのだから、それはそうでしょ?そんなことも大学では教えてくれないの?と思いながら、口角を意識的に上げて無理矢理に笑って魅せた。けれども渉くんの文句はとまらなかった。
 「だいたい、学会にしても、教授陣にしても、おじさんたちに都合が良いようにしてるだけじゃん。そのせいでどれだけ俺ら大学院生が苦労しているか。俺はRCがあるからいいけど、普通学推をとっていたとしても月20万しかもらえないんだぜ?しかも、そこからさらに諸々の税金引かれまくって。科学立国が聞いて呆れるよ。理系を飢え死にさせる気かよ」
 「そうだね。そんなに頑張ってるのに、どうして報われないんだろうね?」
 と言いながら、私はまた、必死の想いで笑顔を造る。本心では、ふざけるな、と思っている。貴方は”飢え死に”の本当の恐怖を知っているの?何のアテもなく、街中をふらつくときの怖さを、どれだけわかっているの?貴方は、帰る家に誰もいないことが最初からずっと当たり前の人の心情を、ほんのちょっとでも考えたことがあるの?でも、私は大人だから、身分違いの間柄に演技はつきものだって、きちんとわかっている。演技を続けなくちゃと思っていると、渉くんが次の言葉を発した。
 「だよな。どんだけ苦労して大学に行って、大学院に行ってると思ってるんだよ。まったく」
 いやいや、そういう環境に生まれただけだろ。ワタシ、今日はどうしたんだろう?気持ちが抑えられない。我慢、我慢。
 「でさ、そういう利権ばっかり大事にしながら、肝心の科学を全然進捗していなかったりするんだぜ?いざって時に、偉そうなおっさんたちが、いっさい責任をとらないのは、ほら、あの一昨年の万能細胞論文の捏造の一件で一般の人にも理解があるようになっただろ?自分が責められなきゃなんでも良いんだなぁと思うよね、まったく」
 責任者が責任をとろうとしないというのは、どこも共通らしい。私は、どうにか共感できそうなポイントを見つけて、そこにレシーブすることに努めようと決めた。
 「どこの世界でもさ、責任者が責任とるべきところで、責任とりたがらないってのはよくある話で、基本、自分のことしか考えてないんだよね、みんな。だから、そのなかでも貧乏な人とかは大変だよ?」
 「まぁね。そうだよね」
 渉くんは、スマホをいじりはじめた。私の意見を聞いてくれない様子だ。少し語気を強めて、もう一度レシーブ。
 「だから、まだいいじゃん、渉くんは。都王大に入れるんだから。中には、お金がなくて大学に行けない人もいるわけだし」
 すると渉くんはあっけにとられたように、さらりと答えた。
 「え?そんなの、今の時代、奨学金があるんだから、イイワケにならないでしょ」
 私は驚きながら、渉くんを見つめた。渉くんにわかって欲しい気持ちを必死で抑えながら、精一杯に自分の気持ちにむけて同じ言葉を繰り返した。恵まれている人にはわからないんだ、恵まれている人にはわからないんだ、恵まれている人にはわからないんだ、恵まれている人にはわからないんだ、恵まれている人にはわからないんだ・・・、私は何度も何度も心の中で同じ言葉を繰り返した。でも、それは心の中で完結していなかったようだ。私は、その場で立ち上がり、思いっきり机を叩きながら、怒鳴っていた。
 「そんなの!恵まれている人にはわからないんだよ!!」
 どうしてこのタイミングなんだろう?現実の自分が起こした行為を冷静に客観視している自分が語りかけてきた。確かにこの2年半、こんなことはなかったので、自分自身に驚きながら、目線を下に落とした。渉くんがさらに驚いた表情をしながら咄嗟に言った。
 「え?どうしたの?突然」
 私は、落とした目線の先に、全体的に黄色い画面のスマホが目についた。上に”みゃーこ”と書かれており、渉くんの側から「みやちゃんと、今日も、、したい」と書いてあった。
 「この、みやちゃん、って誰?」
 彼の表情が曇る。私が自分の人生を振り返ったり、いきなり怒りに駆られた理由がよく分かった。それは人生の節目が近づいていることを、直観的に感じていたからだ。これで戸山渉くんとは終わり。そう決めると、私の行動は早い。私は千円札を出して、それをテーブルにおきながら渉くんに吐き捨てた。
 「まだ来てないけど、請求されたらこれで払っといて。さようなら」
 「いや、違うって。ちょっと待てよ」
 私は渉くんの姿を一度も振り返らずに店を出た。こんなに哀しい気持ちで寂しい気持ちなのに、青い空の環境に入っていく。ほらね、私って本当に恵まれていない。天気まで私の心情の敵なのね。
 どうして私だけ?やっぱりここに帰結する。どうして?どうして私だけが恵まれないの?そう思いながら、少しずつ溢れてくる涙を手でふきながら、どこかへ向かった。アテが無く歩く事には慣れている。東京は本当に冷たい人が多い。誰も私に見向きもしていない。待っていた信号が青に変わった。これでもう追いかけられることはないだろう。そう思っていると、横断歩道のむこうに仁王立ちしている背の高いスーツ姿の男性に気がつく。どうやら私のことを観ているようだ。え?何か用?そこまで歩いていくと、やっぱり話しかけられた。
 「君が綾瀬香奈さんだね」
 え?マジで誰?
 「戸山くんから聞いていないかな?私は野崎正洋です。今日は君に用がある。少しでいいから、時間ありますか?」
 そう言いながら渡された名刺を観ながら、私はつい立ち止まってしまった。

 博士会館の会場はコーヒーブレイクに包まれ、多くの寝起きの研究者に談笑の機会を与えていた。生物物理化学会は、今年で58回目。今回の年会は海外色が強く、まだ発表が残っているというのに、このコーヒーブレイクにはワインやビールまである。大御所の先生から、その大御所に媚び諂うことに忙しい若手研究者たちが勢揃いしており、割合は低いが外国人研究者も数多くこの会場に来ている。俺は正式な指導教員の都王大学の渡辺先生の話を久しぶりに聞く事ができて、ある種の懐かしさと落ち着きを感じていた。彼女の綾瀬香奈から突然席を立たれてから5時間か。少し動揺が落ち着いてきたが、罪悪感が深く根付いていることに自分でもビックリした。美弥子と香奈を比べれば、自分の好きな気持ちは香奈に向いていることはハッキリしている。なのにどうして美弥子と関係を持ってしまったのだろう?正直なところ自分でもよくわからない。そんなことを考えていると、聞き慣れた声が聞こえてきた。
 「Say when (どのくらいかな?)」
 「When! Thanks, Masa(おっと、そのくらいで。ありがとうマサ)」
 野崎先生が外国人研究者のグラスに赤ワインを注ぎながら、仲良さそうに喋っている。え?何故彼が学会会場に来ているのだろう?おそらく俺が近づいてしまうとRC制度のことが公になってしまいそうで怖くなり、近づく事はできない。だが、彼は今日、俺がここに潜入していることは知っているはずだし、どういうことなのだろう?そうこうしていると、野崎がこっちに気がついたらしく、俺を呼び止めた。
 「戸山くんじゃないか。こっちに来いよ」
 野崎はそう言いながら、小さな個室の中へと俺と見知らぬ外国人を招き入れた。おそらくまた電磁遮蔽された部屋なのだろう。しかし、リスクが高いはずだ。どういう風の吹き回しだろう?というよりも何かのトラブルである可能性も捨てきれない。俺は不安を募らせながらも部屋の中へ入った。そこには小さなテーブルにチーズとワインが置いてあるだけだった。
 「John, he is Wataru Toyama. He’s the one I’ve been telling you about. (ジョン、こちらがさっき話していた戸山渉くんです) 戸山くんこちらはバークレー工科大学講師のJohn Walter先生だ」
 俺は突然の英語に頭がついていかなくなり、あたふたしていると野崎先生が助け舟をだしてくれた。
 「大丈夫、彼は日本でポスドクをしていた時期があって、簡単な日本語なら喋れるから。それにこの部屋も電磁遮蔽されている。私が頼んでおいた部屋だ。だから、自由に会話できるよ。JohnもRCについては全部知っているからね」
その言葉に反発するように、俺はどうにか英語で喋ろうと心に決めた。
 “Nice to meet you, John”
 “Nice to meet you too, Wataru”
 反発した割に中学生レベルの英語しか出てこない自分に憂鬱になりそうになる。Walter先生が日本語を使って話題をふってきた。
 「どんな、研究を、していますか?」
 「はい、僕は、Synthetic biologyのフィールドとしてlipo-housingを利用して、共生のモデルを作ろうと思っています。」
 俺がそう言うとWalter先生は野崎を見ながら、
 「ほう、さっきマサが言っていたやつか。それは素晴らしい」
 と言った。いちいちリアクションが大きい。これだから俺は外国人は苦手だ。あまりにもわざとらしい仕草に、笑いそうになってしまうのだ。俺は自分の話題よりも相手に質問することにした。
 「Walter先生は何を専門とされているのですか?」
 「ワタルくん、ジョンでいいよ。私の専門は・・・、まぁ、マサのテーマと近い研究だよ」
 え?マサ、つまり野崎の研究テーマ?そういえば、野崎の研究テーマなんて聴いたことなかった。そもそも野崎は研究コンサルタントであって研究者ではない。他人の研究にいちゃもんをつけるのが主な仕事なはずだ。こいつに研究テーマなんてあるのか?と思いながら野崎を見ると、
 「そうだね。戸山くんには私の研究テーマを伝えていなかったな。まぁ単純には変な予見を持って欲しくなかっただけなんだが・・・。私たちは自分の分野を説明するときに、社会統計力学と呼ぶことにしている」
 社会統計力学?なんだ??その怪しい名前は??と思いながら俺は野崎の言葉を待った。
 「そうなんだ。戸山くんの顔に書いてあるように、この用語はかなり怪しい。だから何か良いネーミングを探しているところでもあってね。この分野はかなり新しく、そしてあまり知られていない。簡単に言えば、熱力学や統計力学の考え方・計算手法を社会学に応用しようという取り組みだ。これまでにも、数理モデルを作りたがりの多くの連中が社会学に進出しているようだが、どれもぱっとしなかった。しかし、ここにいるJohn Walterは唯一、まともな社会統計力学の基礎原理を築いたと言って良いだろう」
 野崎がそういうと、Walter先生は笑いながら言った。
 「マサ、そんなに褒められても、私は君に何もできないよ?」
 「いや、そう謙遜しなくてもいいじゃないか」
 俺は二人の大人達の間に割って入るように、質問することにした。
 「野崎先生、どう”まとも”なのかを教えていただけますか?」
 「うん、まぁ、あくまで簡単に言うとだけど、彼は、”数”にとことん着目したんだ。つまり、社会学が扱いにくいのは、非常に数が少ないからだというわけだ。全世界の人口は、70億人くらいしかいないだろう?これは多く見積もっても10の10乗程度でとても少ない。1ナノモルにすらならない。かといってシミュレーションするには多すぎる。そこで、10の23乗〜10の24乗のあたり、つまり100〜1000垓人くらい世界に人がいたらどうなるか?ということを考えたのさ」
 そこまで野崎が話すと、Walter先生が話し始めた。
 「マイクロ(微視的)に一人ひとりが完全にランダムな状態をとるのではなく、ある程度のクラスターも加味しました。世界を二次元のハバードモデルに簡略化して、サイト内ではほとんど自由なモデルを適応しながら、サイト間でのホッピング相互作用はタイトに設定する。すると、アンサンブル形式の統計力学を、ほとんどそのまま使うことが可能となります。この考えから、個人がリバタリアニズム的に振る舞うと、集団全体として全体主義的な価値観が見出されることを実装しました。これを私は平衡系の社会統計力学と名付けています」
 そうWalter先生が話し終えると、俺は何がなんだかわからなくなっていた。そもそも、リバタリアニズムって何?全体主義って何だっけ?野崎は、おそらく同じセリフを何度も聴いているのであろう、Walter先生の説明を訊いた後、吐き捨てるように言った。
 「そもそも100垓人も人類は存在していない。だからあくまで机上の空論に過ぎないのだが、意外にもこの研究は社会学からも物理学からも評価されている。まぁ、実情として、社会学の分野は統計力学のことを知らないし、物理屋はろくに文系科目を勉強していないから、ちょうど良かっただけだと思うけどね」
 この瞬間が困るのだ。野崎が毒を吐くこの瞬間。しかも、(俺は良く知らないが)大御所を相手にしていて、なぜそんなことを野崎は云うのだろう?すると、Walter先生は別の話題を提供してきた。
 「それはそうとマサ、あの女性とはどうなったんだい?」
 野崎は少しバツが悪そうな表情になりながら、ゆっくりと応えだした。
 「とっくのとうに別れましたよ」
 「それは、プライベートの意味で?それとも共同研究者としての意味で?」
 「どちらもですよ」
 女性?もしかして、竹田講堂で野崎宛の手紙を俺に寄越した女性のことか?あの女性は確か、「野崎くん」と言っていた。そして、研究コントローラーから送られてきた手紙に書いてあった一文"The best way to find out if you can trust somebody is to trust them”を言っていたことから、連続失踪事件について何かの情報を知っているはずだ。しかし、野崎とWalter先生という重鎮二人を目の前にして、そのことを訊けるほど俺はタフではなかった。
 「それは残念だ。彼女は優秀なデータサイエンティストだから、君と組めば、機械学習を利用した社会統計力学がきちんと完成する見込みがあったのに」
 「私はクズと組むほど暇じゃないんですよ」
 野崎はそう言うと、自分用にワインをつぎ始めた。そして、野崎がまた言葉を続けた。
 「それに、あの分野は、すでによくわからない人物によって完成されつつあると私は思っています。今私が指揮しているRC研究遂行制度が追っている犯人たちは、おそらくこの分野を熟知している人物だろうと」
 え?それはどういうことだろう?俺は訊きたくて仕方なくなってしまい、思い切って野崎に訊いてみることにした。
 「野崎先生、犯人は研究者だと思っていて、さらに専門分野までわかっているということですか?」
 「まぁ、こちらの行動があまりに読まれすぎているし、社会統計力学の知識と機械学習の技術が無ければ、あれだけ仕組みながら行方不明者を巧妙に隠すことは不可能だからね。行方不明者の殆どの両親が自分の子供が何も連絡しなくても心配しないほど関心がないし、そのわりには人数が多すぎるし、分野も広すぎる」
 するとWalter先生が残念そうな顔つきで野崎に諭すように語りかけた。
 「君ほどの能力があれば、同じことが実装できるはずだ。是非負けずに頑張って欲しい」
 「もちろん、私も一部には予測能力を高めてはいますが、なかなか独学でディープラーニングを完全にマスターするのは厳しいですよ。Johnが示した平衡系での社会統計力学をベースとして、粒子数である人間を現実的な人数へと少なくした時と時間依存性については機械学習で予測する。これをあらゆる分野に応用させられたら、ほぼ自然科学は完成したとすら言えるかもしれない」
 俺は自分の心がわくわくするのを感じながら、自分がこれまでやってきた、もしくは自分がこれまで見てきた殆どすべての研究がくだらなく感じる自分を恐れた。野崎の圧倒的な自信は、その思考力もさることながら、このような革新的かつ有用性も高い研究を自分で進めてきている自負があるからだと気がつかされた。世間一般の研究者は、論文が何本とか、業績がどうとか、まったくもって研究の本質からズレたところに一喜一憂している。それを完全にバカにできるだけの本質的な研究を遂行してきたからこそ、相手に対しての自然な圧巻があるのだ。
 「さて、そろそろ戻りましょうか」
 野崎がさらりと言った。しかし、野崎が足を止めて、思い出したように俺に話しかけてきた。
 「っていうかさ、戸山くんって、最低だね」
 突然の侮辱にただただ驚いてしまった。野崎はいったい何の話をしているんだろう?
 「ダメだよ。女の子を泣かせちゃ」
 「ええ?っていうか、なんでそんなこと知ってるんですか?」
 すると、Walter先生がこちらを見つめながら、告げた。
 「これが社会統計力学を極め、機械学習で補完しようとしている者の予測能力だよ」
 Walter先生と野崎が笑っている。本当にそうなのか?俺をからかっているだけなのか?俺にはその違いが見極められなかった。しかし、強制的に扉は開けられ、それ以上の気まずい難関を目の前にすることになってしまった。なんと扉を開けた瞬間に、山岡研の高野先生と豊杉さんが目の前に現れたのだ。
 「おおー、戸山くんじゃないですかぁ。元気でしたか?」
 そう言ったのは豊杉さんだった。相変わらず”さしすせそ”のイントネーションが強くて標準語なのに関西弁に聴こえる。野崎を見ると、二人に会釈しながらWalter先生とどこかへ行ってしまった。
 「お久しぶりです」
 俺がそういうと、高野先生も話しかけてきた。
 「全然ラボに来なくなっちゃったから心配してたよ。まぁ、大変だったみたいだよね。野崎くんから少し話は訊いたからね。分子は、僕が精製まで終わらせちゃったよ」
 さすが高野先生だ。仕事が早すぎるし、それって俺の仕事・・・、でもないのか、俺は潜入が仕事だから。
 「それはそれは、高野先生、有り難う御座います。野崎先生から話を訊いているなら、まぁ、俺が説明しなくても大丈夫ですよね。ところで、M2の原田さんはどうなりました?」
 俺がそう言うと、高野先生が応えた。
 「え?どうって?最近も普通に来てるよ?この学会にも来てるはずだし」
 なんだって?!彼女は研究コントローラーと深い関係があると俺は確信しているだけに、なぜ研究室に普通に来るようになっているのか?と俺は疑問に思った。バツが悪くなったとかでしばらくは研究室に来ていないと野崎から訊いていたが。というか、この俺の予測を野崎が高野先生や豊杉さんに伝えていないのも問題じゃないのか?そう思っていると、豊杉さんがニヤニヤしながらおちょくってきた。
 「なになに?戸山くんは原田さんが好きなの?」
 めんどくさい。そんな場合じゃないぞ。
 「いや、そういうわけじゃないんですけど。っていうか、なんか始まるみたいですね。僕らも行きましょうか」
 豊杉さんはまだおちょくってきたが、学会の授賞式が始まるらしく、みんなが会場のほうへ向かっていく。俺たちもそそくさとそちらへ向かうと、大勢の人が一番広いメイン会場の入り口に集まっていた。中に入ると、もうすでに大御所の先生方が壇上で椅子に座っていた。すべて日本人で、年寄りばかり。足を大きく開いて、大多数が腕を組んでいる。俺たちは後ろのほうにまとまった席を見つけると、そこへ座った。周りを見渡したが、野崎とWalter先生の姿は見えなかった。渡辺先生は前のほうに座っているようだ。会場は少し暑苦しく、すでにお酒も入っている状態であるから、早く終わって欲しい雰囲気に包まれている。そんななか、式典が始まるらしい。
 「それでは授賞式を始めたいと思います。まずは、評価委員の先生方に自己紹介をしていただきましょう」
 そう言って、司会者役を務めている研究者がマイクを最初の先生にまわした。そして、年配の先生がマイクをいじり始めたと思った次の瞬間、壇上が突然輝きだし、目の前がものすごい光とものすごい音に包まれた。そして、いつのまにか床に倒れている自分に気がついた。壇上が爆発したのだった。

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 10. ??? / 『研究コントローラー』に続く

 添削してくれた方、いつも有り難う御座います。

 大変遅れてしまいまして、申し訳ありません。だって、そんなにアクセス数よくないんだもーん。続きが読みたい人は沢山アクセスしてね。
 アメリカに来て、小説が読めねーってなっていて、あ、だったら自分で書けばいいんじゃね?っとなった次第です笑。というわけで、次の更新は早い、、はず??
コメント (2)
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