たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

「絶望は罪である」

2015-06-24 00:21:28 | Weblog
 "自然科学は実証学問だから、実験を一切しない、いわゆる理論家は、舞台の外から指を銜えて見物している評論家にすぎない"
 "自然科学はサーカスではないので、実験屋は必然的に構築されていく壮大な理論の僅か1点の実証にしかなりえない、それも生涯を通じて"

 俺は、実験を重視しない理論屋も、理論を重視しない実験屋も、好きではない。実験と理論、双方に意味がある。

 しかし、これらが対等な位置関係を示しているとも思えない。結論からいってしまえば、実験を鑑みない理論屋は、理論を知らない実験屋よりも、徳が低い。そもそも比率からいって、理論研の人間のどれほどが、実験を行っている研究室を実際に訪れ、そこで生の「現場」を自分の肌で感じ取り、(不器用さや当然のことを知らないことを露呈されて)恥ずかしい思いをし、泥臭い努力をすることで、「あれか?これか?」と本当の内情を知ろうとしているだろうか?ちなみに実験屋は、超最低限として自分の安全に関する原理は理解しているはずである。
 (たとえ様々な政治的要因があるにしても)恐る恐る自らの意志で実験している研究室を訪れ、簡単な実験の一つでもしてみようと思ってみたことすらないくせに、理論屋が「そのぶん、自分は賢いから」と、精緻な論理を自分の頭の中だけで構築し、どんなにすごい論文を書いても、無意味なことは明確であり、ましてや壮大な理論など泡沫に過ぎないことは明らかであろう。

 まぁ、だからといって、実験する人間は、自分たちの実験の詳細にレゾンデートルを置くがゆえに、その内情を知るためには、その研究室に実際に所属するしかないほどの閉鎖性を持っている(だから理論研の人もふわっと訪れにくいのかもしれない)。超細かい、しかし重要な操作、というのは実験にはつきものであり、それをすべて言語化するのは不可能だが、それをどうにか表現しようとする努力が実験屋には足りない。
 確かに、実験の詳細なプロトコルをすべて示している論文は見たことないし、プログラムのソースコードをすべて示しているような論文も見たことない。

 こういうことに気が付いてしまうと、閉鎖的すぎる理系のアカデミックの世界そのものに、絶望する。ある研究室に一度入ってしまうと、外を知ることが許されないほどに閉鎖的であり、その閉じた系を破境していくことを誰一人として望んでいないように見える現実に打ちのめされる。
 そして次第に、そこから身動きが取れない自己自身を絶望する。絶望している状態かつ自分自身であろうと欲しない言動が続くのだ。

 それすら、さらに超えてしまうと、絶望していながらも、自己自身であろうと欲するようになる。絶望のなかにいる自分から抜け出す努力をせずに、そのままの自分であろうとする。(俺の言葉でいうと「穴に落ちたライオン」)
 「どうせ私の気持ちなんて、誰もわかってくれないんだから!」と先手を打つことで、絶望のある種の心地よさに胡坐をかいていることを肯定化し始めてしまうのだ。こうなると、あらゆる助けを頑なに拒絶するようになる。なんとも女々しい状態であり、圧倒的な環境撹乱によって自分が変化することを望むようになる。だから、地震が起きてほしかったりするわけでしょ?

 今回の趣旨からはどうでもいいことではあるが、アカデミックの世界にいる人間のほとんどが、この最後の絶望の状態、つまり、絶望しながらも自己自身であろうと欲しているように、俺には感じられる。
 よーするに、理想を追求することを諦めてきた時間があまりにも長くなってしまって、それを否定することができない、ってところかな。

 そんな人たちに、冷酷な言葉をプレゼントしよう。彼も第二部のタイトルではっきりと言っていることだが、「絶望は罪である」

 『今更になって、守っていたレゾンデートルが、とてもとても小さいことに気が付いてる。こんなことで自分を保たなくちゃいけないなら、早く言ってくれればよかったのに』
 「だから言ったじゃない?私は大したことしてない、って」
 『問題はそこじゃない。それほどまでにツライということを、俺に宣言してくれれば良かった』
 「言ったとしたら何か変わったと思う?」
 『…、結果は同じだったかもしれない。でも、それも問題じゃないかも。比較せざるをえない状況下の中で、俺は貴女のことが確実に。。その事実だけで、少なくとも俺らは、楽しかったんじゃないかなぁ』
 「そんなことに意味がないでしょ?だって、どうせ。。それに、結局、貴方は何も変えていないじゃない?」
 『本当にそう思う?ホントに?この文章だけだって、どれほど変わるかわからないと期待している俺は、やっぱり現実がみれていないかなぁ?これの上のほーを読んで、1人でも何かしらの意識が変わって、実験をしてくれたり、理論を構築してくれたり、そんなくだらないガキの遊びを超えて、誰かのために無駄な努力をしてくれたり、より良くしたいって思ってくれたり、、たった、それだけだって、俺の思惑通り、変わっている』

 絶望を絶望のまま信じるのではなく、その不条理な物理法則そのものを価値あるモノとして信じ切れた時、きっと、絶望の淵から自分の意志で抜け出せると俺は思う。
 それまでは、(この件に責任がないわけではない)俺が、せいぜい天と地をひっくり返せる程度の撹乱を起こし続けることを、ここに誓おう。
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