広く浅く

秋田市を中心に青森県津軽・動植物・旅行記などをご紹介します。

藤/看板/体育館

2014-05-29 23:55:48 | 秋田の季節・風景
以前の記事の補足を中心にいくつか。
●咲いた!
旭川沿いに植えられていた藤棚のフジに病気(コブ)が付いており、そのためかここ数年は花が咲いていないようだった。
昨冬、管理者である県へいちおうお伝えしたところ、病巣の除去・消毒をしてくれた

コブを取ったからといって、すぐに花が咲くとも限らないだろうと思っていたら、
咲いた!!
藤棚のごく一角に偏ってはいるものの、複数の花房が付いている。房ごとの長さや花付きは正常に見える。

偶然かもしれないけれど、(自分でやったのじゃないけれど)手をかけたのに応えてくれたようで、うれしい。

【2015年5月25日追記】その後、2015年春にも多少花が咲いた。相変わらず葉は旺盛に繁茂していた。
ところが、2015年5月20日頃、この河川公園の藤棚を含むすべてのものが撤去、更地になり、25日までにはアスファルト舗装で道路の一部のようになってしまった。河川公園自体がなくなってしまった。


●きれいに残る
その場所の住所を表示した「街区表示板」。秋田市の古いタイプでは、下に広告が入っていたのだが、現存するものは少ない。

「酒は天下の太平山」 という広告が入った、保戸野鉄砲町のものを紹介したが、かなりサビてしまっていた。
その後、
 こんなに状態のいいものを発見
屋根などない、野ざらしの場所なのに、どうしてこんなにきれいなんだろう? 固定されていた針金は新しそうだったので、大事にはされているようだ。
探せばそれなりに残っているものだ。


●古い看板
この項は新作。
秋田市内には、大規模なJRの社宅がいくつかある。その1つのフェンスに、こんな看板があった。
手がきで、かなり薄れている
「住まいの事なら御相談下さい」「アッキーホームサービス」
いちばん下は「7」しか見えないが、JR用地である中通7丁目の住所を表示しているようだ。
「アッキーホームサービス」が企業名なのかサービス名なのかは分からないが、JR東日本秋田支社が関係する住宅工事関係の宣伝のようだ。

右のイラストは、この人。
(再掲)アッキーくん
旧・国鉄秋田鉄道管理局のマスコットキャラクターだった、ヒョウの「アッキー」。
分割民営化後、本社から国鉄時代の遺産は使わないようにお達しがあって、ひっそりと姿を消したことになっているが、JR化後だいぶ経ってから新製された701系のドアボタンに登場するなど、ひっそりと残ってもいた。

この看板も、かぶっているヘルメットにJRロゴがあるので、JR発足後のものであり、かつ電話番号の局番が2桁なので、1998年10月以前ということになる。

ネットで調べる限り、今は「アッキーホームサービス」は存在しないようだ。
同じ電話番号は、今はJR東日本(本社)の子会社の秋田支店が使っていて、所在地も変わっている。
事業自体が移管されたのか、あるいは電話番号だけを移したのか。


●逆だった体育館
子どもの頃、千秋公園の上にあって(当時は)校舎が新しい秋田市立明徳小学校をうらやましく思っていた。

明徳小の体育館は、敷地西端の山の斜面に面している。
東の門側からは校舎に隠れて、他の3方向からは木々に隠れてよく見えない。
(再掲)冬に西から見上げる。夏は葉が茂ってほとんど見えない

校舎と同時に建設されたので、デザイン的に統一感はあったが、形状はちょっと変わった体育館だと思っていた。

秋田市立学校の体育館の屋根は、カマボコ形→切妻→陸屋根と変遷し、明徳小は時期的に切妻屋根なのは法則通り。
しかし、切妻の頂点(棟)が揃っていないと表現すればいいのか、一般的な逆「V」字形ではなく、「入」「人」のようにずれているのが珍しい。ずれた部分には、明かり採りの窓があるようだ。

千秋公園内からは、グラウンド越しに体育館を見ることができる。ただし、木の葉が茂れば隠れるし、雪が積もれば近づけない場所。
こうなっているのか!
西面以外から体育館を見るのは初めて。第一印象は、思ったより小さい。(小学校の体育館って、わりと小さいものが多いけれど)

よく見ると、今まで勘違いしていた。
今までは、東西方向(校舎と平行)に長い体育館であり、西から見えていたのは体育館の短辺だと思っていた。

ところが実際は、南北に長く、西から見上げていたのは長辺だったのだ。
東面に窓が付いていることからも分かる(西面にもあるものの、斜面に隠れて見えないのだろう)し、おそらく北側にステージがあって、そこに光が当たるように明かり採りがあるのではないだろうか。

ということは、屋根の「棟」と「妻」の関係が珍しい体育館だ。
棟がない陸屋根は別として、普通は棟が伸びる方向が長辺で窓がたくさんあり、妻側が短辺。これはそれが逆転していることになる。

土地の面積・形状あるいは西面が崖状になっているため、落雪対策などで制約があったのか、それともデザイン的な斬新さを狙ってこうしたのか。運用上は、何か好都合・不都合はあるだろうか。

【5月31日画像追加】
Googleマップ航空写真より。赤茶色のが体育館
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無意味な訓練?

2014-05-27 23:57:07 | 地震
秋田県民(と津軽地方など隣接県日本海側住民)にとって5月26日は、9月1日と3月11日と並んで忘れてはならない日である。
1983年5月26日11時59分57秒にマグニチュード7.7の「日本海中部地震」が発生。津波により各地で合わせて100名が亡くなった(津波以外の死者は4名)。
秋田県では、この日を「県民防災の日」に定め、避難訓練などを実施する機関や組織も多く、今年も報道された。

JR東日本秋田支社では、列車運行中に津波警報が出た想定で、乗客の避難誘導訓練を羽越本線・桂根駅付近で実施。
全社的な取り組みで、秋田でも以前から実施していた。今回の訓練では、乗客役に高齢者の姿が目立った(従来はJR社員ばかりだったはず)。秋田市の自主防災組織の関係者のようだが、ハシゴで車両から降りたり、急傾斜を上ったりしなければならないから、より実情に即しているだろう。
JR東日本では、東日本大震災の津波で被災した列車はあったが、そのすべてで乗客を避難させており、人的被害はなかった。こういう日頃の積み重ねが功を奏していることになる。
それでも、ワンマン運転だったら1人で誘導しないといけないし、避難に都合のいい場所に停車できるとも限らないけれど。

秋田県庁は自衛隊なども参加して「図上訓練」を実施。
「図上訓練」とは、最近、国土交通省が水害対策などでよく使う言葉だが、要はシミュレーションということだろう。
実際にやってみたら違うこともあるだろうけれど、日頃から想定して頭に入れておくだけでも効果はあるし、安くつくし、意味はある。



一方、報道を見る限り、何をやりたいのかよく分からない訓練があった。
秋田市新屋町(いわゆる向浜)にある県立武道館から秋田カントリー倶楽部の高台へ、中学生を避難させる訓練。避難にはバスを主に使い、誘導は警察官が行っていた。

まず、NHK秋田放送局や秋田魁新報の報道では、「誰が」主体となって実施した訓練なのかがあいまい。(5W1Hは基本でしょ)
朝日新聞秋田版と読売新聞秋田版では「秋田中央警察署」が実施した訓練ということが明確に分かる表現。(読売では「中学校と合同で」としている)
つまり、市でも県でも武道館でも、県警全体でもなく、1所轄署内の訓練らしい。

訓練の想定や内容は、報道機関によってはしょられているものもあったが、読売が詳しい。
「午前10時20分、秋田沖を震源とするマグニチュード8・9、最大震度6強の地震が発生し、海抜5メートルの県立武道館に競技中の生徒約200人がいるとの想定」
「署員約40人と(秋田市立山王中学校の)2年生約200人が参加」

「2階観客席の生徒約150人は署員の誘導で大型バスに乗り込み、約2キロ離れたゴルフ場駐車場に避難」
秋田魁新報では「160人」が「バス4台」に乗った。
NHKの映像では、中央交通の大型路線バス2台が映っていた。1台はノンステップのエルガ「977」、もう1台はナンバーが見えなかったけれど、富士重工ボディで窓枠が茶色で行き先表示が幕式(社名を表示)だったので、おそらくノースアジア大学送迎バス専属車両(が珍しく別用途に使われた)。どちらも秋田営業所の車。

「倒壊した武道館に取り残された柔道部員ら50人は、約300メートル離れた海抜15メートルのゴルフ場に斜面を駆け上って避難」
体育着のほか、剣道の袴姿(→だったら剣道部員じゃないの?)で参加した中学生もいて、斜面を上っていた。

津波到達想定までの時間は25分。避難完了は魁によればその「5分前」だが、NHKは「8分前」、朝日は「17分後」=8分前としている。
中央警察署の警備課長という人がテレビや新聞のインタビューに答えていて、魁には「署員間の連携不足でバスの出発が遅れるなどの課題」もあったと言っている。


上記を見た素人としては、突っ込みどころが満載。
・どうして中学生200人?
映像では、武道館の客席はガラガラだった。大道場の観客席だけで2510もあるそうだから、最悪の場合、今回の10倍超を避難させないといけない。
また、今回は素直で身軽で体力があり、学校という集団単位で参加した中学生だけを避難させれば済んだ。しかし実際には、もっと誘導に苦労させられたり、避難に時間がかかる人を避難させたりしなければならないこともあるだろう。JRの誘導訓練のように高齢者がいるなど。

・どうしてバスで?
バスで遠くの場所へ避難というのなら分からなくもない、ただ今回は、バスでも徒歩でも避難先は同じ勝平山の上。
徒歩で避難した人もいたように、武道館のすぐそばが勝平山のふもと。しかし、バスで車道を通って行くには、山の反対側(こまちスタジアムの通り)をぐるりと回りこまなければいけない。
体の不自由な人などは車で運ぶしかないかもしれないが、そうでない人は、津波警報発令後、できるだけ早く、自力で斜面を上って早く避難させるほうがいいのではないか。のんきにバスを待っているほうが危険なのではないか。

・ほんとにバスで?
当然、地震が起きてから、バス会社に連絡してバスを手配することになる。これはまどろっこしい。
今回の想定規模の地震なら、バスの車庫から武道館までの道路が陥没や建物倒壊で通行できなかったり、事故・渋滞によって機能しなかったりして、間に合わない可能性が高いのではないか。
仮に間に合ったとしても、避難場所へ向かう途中の道が避難渋滞や道路障害で立ち往生してしまえば、そこを津波が襲うという惨劇になってしまう。
やっぱり可能な限り、できるだけ早く、自力で避難させるべきではないだろうか。

なお、今回の訓練では秋田営業所のバスだったが、立地としては臨海営業所のほうが近い。
これに関しては、バス会社の都合や中学校-武道館の送迎もあるだろうから、仕方ないか。

・どうして勝平山に?
わざわざバスを呼んでまで勝平山へ避難させたわけだが、他にも避難場所はある。
「秋田市津波ハザードマップ」によれば、武道館から秋田運河と国道7号線を渡った「秋田県青少年交流センター駐車場」が津波避難場所に指定されているし、その辺りは津波被害が想定されていない。
700メートルほどの距離で高低差はあるが、多くの人が徒歩で津波到達前に避難できるはず。新港大橋と横断歩道橋が損壊していなければの話だけど(橋が壊れたらバスも来られないか…)。

また、バスで避難するにしても、ゴルフ場より若干近い「向浜運動公園内旧運転練習場」も津波避難場所になっている。

・奇跡! 倒壊したのに無事?
今回の想定では、恐ろしいことに県立武道館が倒壊した。
その中にいた50人が斜面を上ったわけだが、あの巨大な武道館が倒壊したとして、その中にいた50人全員がうまい具合に助かって、中から抜け出して津波到達までに避難できるのだとすれば、奇跡だ。

・というか倒壊する?
そもそも、2004年に完成したばかりの武道館が1度の震度6で倒壊するだろうか。
武道館が倒壊するのなら、他の多くの建物も倒壊するはずで、市内は壊滅的な被害となるはず。やはりバスでの避難など不可能ではないか。
武道館倒壊は、あくまで今回限りの想定上だとしても、相当強引で無理がある。

・どうして警察が?
武道館は不特定多数が訪れる公的施設とはいえ、ひとつの施設から避難させるために、わざわざ秋田中央警察署からお巡りさんが助けに来てくれるのだろうか?
基本的には、お客は施設管理者やそのイベントの主催者が避難誘導するものではないだろうか。
他にも県立スケート場とかこまちスタジアムとか、不特定多数が津波に遭遇する場所もあるだろうに、警察はその1つ1つで同じことをしてくれるのだろうか。

・間に合う?
さっきのバスの手配もそうだが、それ以前に警察官が武道館に到着できるだろうか。
秋田中央警察署は武道館から道のりで5キロ離れた秋田市中央部にある。そこから武道館まで来るのだってタイムロスが大きい(むしろ県警本部から来たほうが近い)し、道路状況で間に合わない可能性も高い。
到着前に利用者たちが自主的に避難を始めたり、済ませたりしてしまっているかもしれない。

・ほかにやるべきことは?
大きな地震が起きれば、停電するかもしれないし、道路障害や交通事故が発生するなど、交通整理が必要な事態になる可能性がある。
交通整理は警察官でなければできない。

警察官の人数だって限られているのだし、道路がごちゃごちゃでは、けが人の搬送や消防車出動などにも影響を及ぼす。
津波の避難誘導なんて、個人や各施設に任せて、警察は交通整理に力を注ぐべきではないか。
※「警備課」の業務の1つとして、災害救助も含まれてはいる。

・警察だけでやる?
仮に今回の想定のような災害になれば、警察だけでなく消防も出動するだろう。
だったら、消防と連携して(合同で)訓練したほうがいいのではないだろうか。それに武道館側は関与しないのだろうか。

・実際のところ武道館は安全
今回は哀れにも倒壊させられてしまった県立武道館だが、実際には倒壊はしないだろう。倒壊しなければ、武道館の屋上などに避難すれば、津波から逃れられるようだ。20メートルほどの高さがある。
※武道館公式サイトの資料:http://www.akisouko.com/budokan/new/escape3.pdf


以上、巨大地震が起きて武道館は倒壊したけれど、他の建物や道路は無事で、バスはすぐに来てくれて、避難させる客はあまり多くなくてほとんどバスに収まって、倒壊した建物の中にいた人も元気に出てきてくれて、武道館や消防の人は来なくて警察の“一人舞台”で活動できて、他の避難者で道路が混乱することもなく…と、警察にとってかなり“都合のいい”想定の訓練、もっと言えば“甘い”設定だ。

それなのに「署員間の連携不足でバスの出発が遅れる」とは、心もとない。ましてマスコミに公開しては、恥さらしじゃないだろうか。
警備課長は「今後も訓練を繰り返していきたい」と言っているが、こんな低レベルな訓練に動員させられて巻き込まれる学校やバス会社の身になってほしい。まずは警察内部だけで充分に検討してから実際にやるべきだ。それこそ「図上訓練」。
「机上の空論」と言うけれど、それよりもむなしい、「実際やったのに無意味な訓練」ではないだろうか。

武道館にしても、自分の所が倒壊するなんて事実無根でイメージダウンにつながる想定の話を、よくも引き受けたもんだ。
中学生にとっては、何か役に立ったのだろうか。単なる頭数として駆り出されたのなら時間の無駄だ。お巡りさんたちが右往左往するのを見て、「自分の身は自分で守らなきゃ」と思えたのなら、多少は役に立ったかな。
付き合わされた中学校、バス会社、武道館はごくろうさんでした。


日本海中部地震前は、秋田では津波が襲うという認識は低かったという。その後、さらに東日本大震災もあって、このような動きがあること自体は良いこと。
津波も大事だけど、個人的には、日本ならどこでも起こり得るとかいう直下型地震への備え、つまり建物や道路、ライフラインの備えや復旧体制と住民の啓発が足りていないと思う。極端な話、津波は地震後に海から遠くへ逃げて、逃げ切れればとりあえずは大丈夫だが、突然起きる直下型地震から逃げるのは難しい。
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パンdeプラネット

2014-05-26 23:49:41 | ランチパック
週末、イオンで数種類のパンが平積みになって税込み100円で売られていた。
今まで、スーパーでこういうパンを100円ちょうどで売ることはなかったと思うけれど、消費税5%当時に98円だったのが8%になれば100円だから、正当な増税分上乗せということか。
※だたし、イオンでは、増税前と変わらない98円セールも火曜日などに開催している。

見慣れない黒っぽい包装のパンで、どこのメーカーかと思ったら、おなじみの山崎製パンだった。
チーズクリームやバナナクリームが入ったパン、カレーパンもあったけれど、この2種類を購入。いずれも茨城の古河工場製(固有記号YK)。
パンdeプラネット ツナサラダパン 308kcal
「ツナをやわらかな生地に包み、パン粉をつけてサックリと焼き上げました。」
ヤマザキでは、ランチパックをはじめとして、ツナサラダをパンで包んだパンが何種類も存在する。その1つか。
クリームパンでよくある形状で、パン粉がかかっている
揚げたカレーパンのように見えるかもしれないが、そうではない。パン粉はさほどこぼれ落ちない。【下記、6月19日付追記参照】
パン生地は甘さがあって、ツナサラダもそれなりの量。「サックリ」感はなく、パン粉の意味はあまりなさそう。

ツナサラダの味はランチパックのとは違う。
原材料名表示では「小麦粉、ツナサラダ(たまねぎ、植物油脂、かつお油漬け、乾燥たまねぎ、食酢、植物性たん白、乾燥マッシュポテト、…」
ちなみにランチパック ツナマヨネーズ オニオン入り では、「ツナサラダ(まぐろ油漬け、ドレッシング、たまねぎ、植物性たん白、食酢、その他)、小麦粉、… 」。

これにはドレッシングが入っておらず、マッシュポテトが入っているのも違うけれど、ツナそのものがマグロでなくカツオだ。

はごろもフーズの缶詰、シーチキンシリーズでも、原料はマグロのほかにカツオのものがあって、「シーチキンマイルド」として販売されている。(いちばん安いやつで、我が家の定番)

コスト削減でカツオに変えてイモでかさ増ししたのだろうか。
【6月19日追記】2度目に食べた時は、パン粉が多少パラパラ落ちた。ツナの味は、なんとなくトマトケチャップのような味を感じるが、原材料には使われていない。


包装が黒いのは、「パンdeプラネット」という商品シリーズ名にちなんで宇宙空間をイメージしたのだろう。
パンdeプラネット
初めて見たが、全国的には今年初め頃から売られている所があるようだ。

それにしても、「パンdeプラネット」って…
もう1つ買ったほうは、なんとなく理解できた。
パンdeプラネット スイートカスタードパン 364kcal
「カスタードクリームを包み、ケーキ生地をかぶせて焼き上げました。」
クリームパンということになるが、形状が特徴的。
 
ドーム状のパン”本体”の周りに、薄い“縁”が付いている。
なんとなく土星のような輪のある惑星に見えなくもないから、それで「パンdeプラネット」なのなら、納得できる。

これの縁をもっと広くしたものが高知県内のパン屋ではポピュラーで、「帽子パン」と呼ばれて親しまれているそうだ。ヤマザキの100%出資関連会社「高知ヤマザキ」でも発売している。


そして、実は秋田でも作っていた(いる?)店があって、僕は子どもの頃好きだった。
湯沢市に本社があって、秋田市内にも店舗がある菓子店「くらた」のベーカリー。サイズや形状はパンdeプラネットによく似ていたと思う。縁はもう少し厚かったか。
中身は何も入っていなかったはず。
子どもの頃はパン本体よりも縁の部分が好きで、できればそれだけ食べたいと思って、本体から外して後でまとめて食べたりしていた。我が家ではこの縁のことを「耳」と呼んでいたが、それは南部せんべいの縁をそう呼ぶこと(これは公式な呼び名)から来たのだろうか(南部せんべいの耳も好きだった)。
そしてその正式な商品名は覚えていないが、我が家では「UFOパン」と呼んでいた。惑星にせよUFOにせよ、宇宙的な形状ということか。
【27日追記】くらたのは「ドリーム」という商品名だったそうだ。

ヤマザキの惑星は、表面がべたべたしているのもくらたのと同じ。
ただ、食感や味は少々安っぽい。値段が値段だけど。
くらたのはもっとふかふかしていた記憶があるし、ヤマザキの製品で比べても、普通のクリームパンのほうがこれよりおいしいと思う。

【2018年5月4日追記】
この後、2015年頃から、セブンプレミアムで同じ形状のパン(中にクリーム入り)が発売されている模様。当初は耳部分が少なかったが、2017年頃からは幅が広がって、UFOっぽくなった。セブンプレミアムでは「ブールパン」という商品名。ブールはフランス語で「ボール」。

※関係がありそうな「ボルガパン」について。
高知のぼうしパンを食べることができた
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会館/枝切り

2014-05-25 23:59:59 | 秋田の季節・風景
秋田市の通町の商店街の通町橋からほど近い所(住所としては大町一丁目2番地)に、こんな建物があった。
2012年10月撮影Googleストリートビューより
調剤薬局(以前はほっかほっか亭)と履物屋さんの間にあり、お店でなく住居だったようだが、これが昨年、解体されていた。
道路拡張時に建てられた家だと思われるので、築20年に満たないまだ新しいものだったのに。

その後、
通町橋から
鉄骨造2階建ての建物が建築され始めた。
間口の割に奥行きがあって、細長く見える。

マンションやコンビニではなさそうだし、何ができるのかと思っていた。


通町では、冬期を除いて毎月第4土曜日に「通の市(つうのいち)」という、共同のセールを開催している。
24日がそうだったが、その際、この建築中の建物で上棟式の「餅まき」が行われたという。
ここには「上通町招福稲荷神社会館」ができるとのこと。

通町の商店街は、通町橋側から上通町・中通町・大工町の3つに大きく分けられ、町内会や商店街もそれが基本単位のはず。その上通町町内のもの。
招福稲荷神社は、ここの斜め向かい、眼鏡屋さんの隣にある。近年は秋に「狐の行列」が開催されるなど、地域のシンボルになった。
距離的に離れた場所なのにお稲荷さんの名前を使った意図はよく分からないが、つまりは町内の拠点となる建物ができるようだ。
通の市のチラシに出ていた完成予想図によれば、通りに面した1階は、入口が奥にありピロティ構造になっているようだ。


どうしてこの場所にこれができたかというと、こんな話を聞いた。(伝聞なので不正確かと思います)
以前あった家には、お年寄りが1人が住んでいたが、亡くなったそうだ。その方は、生前、土地を町のために役立ててほしいという遺志を遺されたそうで、それでこのようなものが建てられることになったとか。【7月12日追記】さらにさかのぼればここは料亭で、閉店後にその経営者が住んでいたそうだ。

※続きはこの記事後半



もう1つ保戸野地区から。保戸野小学校のニレの木の話題。
以前の記事。種としては「ノニレ(マンシュウニレ)」だと思われる。ハルニレとは近縁ながら別種で葉が小さい。
※上記の町内会の関係もあり、大町一丁目であっても通町の通りに面した世帯だけは、旭北小ではなく保戸野小の学区。(さらに特例で上肴町町内も保戸野小)

ニレは今年も芽吹いて、花が咲いた。
芽吹きの途中の4月26日
その後、先週変化があって、
こうなった(若干アングルが違いますが)
22日と23日にかけて業者が来て、枝切り作業が行われたそうだ。

ここのニレは2本並んでいるが、向かって左の木は、かなり大胆に切られて、上のほうの樹冠がなくなってしまった。
対して右の木は、樹冠の先端部を控えめに切って、樹形を整えた程度に見える。
【26日追記】右の木は樹高が若干低くなったことになる。従来は、校舎の避雷針(ニレのちょうど後方数十メートルに設置されている)と同じ程度の高さまで達していた。樹高を下げることにより、木に落雷するのを避ける意味もあるのかもしれない。

2本あるといっても、大部分は右側の木の枝で、左の木は押しやられて枝を左へ左へと伸ばしているように見えた。
左側は道路だし、電線もあるから、それらへの干渉を防ぐためか、あるいはこのままでは傾いてしまう恐れがあるとかの理由で、思い切って(やむを得ず)切ったのかもしれない。

秋田市の街区公園のケヤキなどは、かなりバッサリと枝が伐られることがあるが、学校のシンボルツリーであることに配慮したのか、丁寧なやり方だったと言えよう。

ケヤキの仲間なので丈夫だから、枝切りの季節はいつでも構わないようだが、近隣の住民へ配慮すれば、もう数週間早くやるべきだったかもしれない。
ニレは、ものすごい数の果実をまき散らし、落ち葉の季節並に掃除の手間が生じるから。花が咲く前に切っていれば、今年に限ればその手間を軽減できたはず。

※2018年夏~秋頃にもニレの枝切りが行われ、その後、温帯低気圧の影響で葉が枯れ落ちた。この記事後半。


ところで、保戸野小学校のもう1つのシンボルツリーである、グラウンドのポプラ。
30年以上前はグラウンドの三方を並木が囲んでいたのに、今は2本にまで減ってしまい、昨年は2度も枝が切られていた
今春、うまく芽吹くかと心配していたのだが、残念ながら芳しくなさそう。
道路上から見る限り、1本はまったく芽が出ておらず、もう1本もほんのちょっとだけ小さな枝が伸びて葉が出ているだけ。

ポプラは倒木しやすい木で、永く育てるのは難しいようで仕方ないのかもしれない。ネットで隠れて根元が見えないのだが、そこから新芽が伸びているといいのだが…
保戸野小学校は今年創立140周年。ニレは大丈夫だと思うけれど、ポプラの美しい樹形を再び見ることはできるだろうか。

【2015年4月26日追記】2本のポプラは翌2015年の春も同様の状態で迎えた。そして2015年4月25日に伐採されて切り株となってしまった
このような状況が2シーズンも続いている以上、復活は厳しく、倒壊等の危険性もあったと考えられ、やむを得なかったのだろう。
コメント (4)
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6月2日着工

2014-05-22 20:08:19 | 秋田の地理
先日、動きがあるかもしれないとアップしていた、「千秋地下道」の撤去工事がついに始まることになった。※地下道についてはこの記事も参照
各入口に看板が設置された(立てかけているだけに見えるけど、固定している)
「地下道通行止のお知らせ」というタイトルの看板によれば、6月2日・月曜日8時30分から通れなくなるとのこと。
以前の繰り返しになるが、地下道は秋田市管轄だが、撤去工事は秋田県が実施する(県道の拡張に伴うためか)。

看板は、施工業者名義で、「県発注工事により、地下道の通行ができなくなります。」とある。「撤去工事」とは言っていないから、知らない人は工事が終わればまた通行できるようになると思い込むかもしれない。どうせなら工事を行う県の名前で看板を出すべきではないだろうか。
どこか、よそよそしいというか回りくどい看板。


回りくどいといえば、歩行者の迂回。
工事中は横断歩道は従来通りで、地下道通行止めによって千秋トンネルの通りは横断できなくなる。そのため、千秋公園側と明徳小学校・手形陸橋の歩道のある側を行き来する時は、県道をいったん向こうへ渡り、再度渡って戻るという2度手間になる。
歩車分離式だから、車と交錯することはないと思うが、突っ切る自転車と歩行者がぶつかったりしないか、少々心配。


これに伴い、現在は県警による信号柱・信号機移設工事も発注されている。
ここの県道28号線では、1991年4月5日から2010年7月28日まで、時間帯によって方面別の車線数を変える「リバーシブルレーン(中央線変移システム)」を実施していた。その頃、走行できる車線を示す標識が設置されていたゲートはその後も残され、今は単なる信号や標識の設置柱代わりとして使われていた。

地下道がある千秋城下町交差点には、県道側にゲートが2つあり、ほかにも市道側の信号機の横に右左折後の車線を示す行灯式の表示機が設置されているが、今回の工事によって、それらがすべて撤去される模様。(県警の資料では「門柱」「標示板」としている)
※以下の写真は、以前撮影したもの。撮影時期に前後して、信号機が電球式→LED式薄型(+県道側車両用は横→縦)に更新されている。
手形陸橋側から。手前と奥左に門柱がある

右に標示板が見えている。リバーシブルレーン廃止後は、常に白くなっている

門柱撤去後は、通常の柱に信号機が取り付けられ、県道の拡幅に備えてなのか今より外側に立てられるようだ。
右が道路用地、奥が手形陸橋で、さらに奥に太平山
歩行者用信号機は、もちろん地下道の代わりとして、千秋トンネル通りを横断する側に新設される。

信号のサイクル(現示階梯)も若干変更される。
現在は、青信号の順で
1.県道側の車両用→2.県道・手形陸橋から来る側のみ→3.市道側の車両用→4.歩行者用
という、時差式かつ歩車分離式。

変更後は、市道側に左折(トンネル→陸橋方向)の矢印信号が新設され、上記「2.」で点灯する。
したがって、市道側は「青信号より先に左折できる」形となる。

これで多少は流れがスムーズになるだろうか。とりあえず事故のおそれは低そうでいいかもしれない。
従来同様、歩行者用が青に変わった直後に、無理矢理進入(侵入)して右左折する車はいるかもしれない。地下道撤去で見通しが良くなるので多少は安全かもしれないが、ドライバーの配慮と横断者の注意は引き続き必要。
千秋地下道を通れるのも、あと10日

【6月5日追記】6月4日付秋田魁新報 秋田市地域面で、「千秋地下道の撤去開始」が報道された。それによれば、
工期は「9月末まで」
「県道・岩見船岡線の拡幅工事の一環」「撤去は交通安全の確保が目的」
「出入り口の屋根や壁を取り壊して通路部分はウレタンで埋め、その後にアスファルトで舗装する。事業費は約3千万円。」
「地下道は1978年の市道秋田環状線完成に伴い設けられた。設置者は県。歩行者と車道の分離や混雑緩和を目的に整備した。」
→造ったのは県ということか。
ただし、その後の維持管理は、秋田市でやっていた。冠水警報装置にそう書いてあるし、清掃作業の入札などは秋田市が行っている。
「近年はドライバーなどから「地下道出入り口の壁で視界が遮られ、見通しが悪い」などの声が寄せられていたため、撤去を決めた」
→歩行者の立場から言わせてもらえば、歩行者だって車が見えなくて危険。上記カギカッコの前に「車両用信号が赤に変わった直後に、信号無視して左折してくる車が散見されるが、」を付け加えたい。(「止まれない」のならともかく、速度やタイミングからして「止まらない」で進入する者も少なくない。)
地下道の構造のせいもあるが、信号無視する車がいることも問題。これは地下道を撤去しただけでは解決しない。(この件については、県警に伝えてあります)

※続き(着工後)はこちら
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長いロングシート

2014-05-21 23:47:36 | 秋田のいろいろ
男鹿線のキハ40系気動車の話。※以前の関連記事
国鉄が製造してJR各社に引き継がれたこの形式群は、各地の実情や経年への対応から各社・各地域ごとにさまざまな改造が施され、形式番号では分からない、種々雑多な仕様が混在している。

秋田車両センター所属の男鹿線用のキハ40系には、こんな車内の車がある。
「キハ40 569」
窓を背にして座る「ロングシート」の座席がずーっと並んでいる。
原型のキハ40は、両端のドア付近に短いロングシート、中央部は4人がけボックスシートと、2種類の座席配置が1両に混在する「セミクロスシート」だけ。このようなオールロングシート仕様は存在しない。この車は後の改造でロングシート化されたことになる。
(このキハ40 569は、以前は仙台支社所属だった。仙台時代に既に改造され、その後秋田へ転属したと思われる)

秋田車両センターには、キハ40 569以外にもロングシート仕様に改造されたキハ40系がそれなりに配置されている。
男鹿線用と五能線用合わせて61両のキハ40系が配置されており、ロングシートはおそらく男鹿線だけで運用されているはずだが、具体的に何両かは不明。
感覚としては、2.5両に1両くらいの割合でオールロングシート車がある感じだろうか。
【2015年6月11日追記】2015年時点では、五能線では29両が運用されているとのこと。男鹿線との掛け持ち分がカウントされているのかは不明だが、差し引き、男鹿線でも30両ほどが走っていることになりそう。【2016年9月11日追記】2016年夏の五能線全通80周年のロゴマークが掲出されたキハ40系は「32両」。ちょっと増えた?

この時は4両編成で、秋田寄りから2両目と4両目がロングシートだった。
1本の列車の中で、全部がロングシートという場合はないようで、逆にロングシートがまったく連結されていない場合もあまりないと思う。それなりに配慮して配車しているのだろう。【2016年6月7日追記】2両編成で2両ともロングシートの場合はあった。3両以上だと、どこかに最低1両はセミクロスが入っている印象かな。


ところで、冒頭で「座席がずーっと並んでいる」としたけれど、このキハ40 569の場合、
中央部に座席がない部分が
中央にドアがない車両でオールロングシートの場合、その長さが際立って感じてしまうものだが、途中で途切れていることにより、そんなに「長い」という印象は受けない気もする。
ただし、最近のロングシートでは一般的な仕切り板がなく、座席とわずかな棒だけが単調に並ぶためか、一般的なロングシートとはどこか違う、異質な感じもする。

座席が途切れている部分は、壁や窓は元のまま。窓の下に手すりが設置され、荷棚(網棚)は撤去されて途切れている。座席に相当する部分は、
片側は床面に何もなく、窓際に立つことができる
もう片側は、
座席と同じ高さの金属製の「台」みたいなのがある
台のある側は、下に暖房機と思われる出っ張りがあるので、そこに立たせるわけにはいかなくて台を置いたのかもしれないが、だったら座席にしてもいいような…
たまに荷物を置く人がいるのはいいとして、腰掛けてしまう人もいる。無意味なスペースではないだろうか。
なお、車椅子スペースは、端のほうにある(折りたたみ式椅子になっている)。

宇都宮支社のロングシート化されたキハ40系でも同じような空間があり、そこにゴミ箱と消火器を設置しているが、幅がもっと狭い。
男鹿線のは、位置や幅からして、ドアを設けられそうにも感じる。将来のドア増設の改造を見越して、その準備スペースかなとも考えたが、座席撤去なんて簡単な作業だろう。やるんだったら壁や窓のほうが大掛かりな工事になるから、そっちを準備をするだろう。(そもそもドア増設なんて技術的にできるのか、できたとしても費用対効果がどれほどかも疑問だし)

さらに、この車では、座席も独特。
現在一般的なロングシートの座席は、縫い目がつけられて1名ずつ座る位置を指定する「バケットシート」。それが2~3名分ずつで1セットになった背もたれと座布団から構成されている。
701系電車のシート。3席で1セットで切れ目が入っている

ところが、このキハ40 569では、
1名分ずつ切れ目が入っている
厳密に1人ずつのスペースが定められているせいで凹凸があり、視覚的に「うるさく」感じるかもしれない。

一方、足元はキハ40 569のほうが何もなくシンプル。
701系では、中に暖房機が入っている都合上「蹴込み(けこみ)」と呼ばれるカバーが付いていて、足の置き場に困ることがある。最近の首都圏の電車では、暖房機を工夫して蹴込みがないタイプが増えているが、キハ40 569はそれを先取りしているかのようだ。

701系と比べれば、薄っぺらに見える座席だけど、座り心地はそんなに悪くないと思う。凹凸が大きいせいで、やや窮屈でベンチに座っているような感じがして、長時間は厳しいかな。

男鹿線で使われるロングシートのキハ40系の中には、これとは違う仕様のものもあって、途切れなく座席が並んでいたり、3席で1セットの席の車もあるようだが、乗ったことはないような気がする。
【2015年5月16日追記】3席1セットのロングシートに乗る機会があった。柔らかめながら、浅くてどこか落ち着かない掛け心地で、あまり良くなかった。
【2016年11月5日追記】3席1セットのロングシートの車両かと思うが、吊り手(つり革)のひもが長いのと短いのが1つずつ交互にぶら下がっている車両もあった(優先席部分を除く)。ほんとにいろいろなバリエーションがある。


キハ40 569をもう少し観察。
キハ40 569という番号は、国鉄時代の法則にのっとれば「両端に運転台があって、トイレがあって、寒冷地仕様」ということになる。
写真では分かりにくいが、運転台はちゃんと両側にある。ところが、片方のドア直後にあるはずのトイレが見当たらない。よく見ると…
優先席付近
優先席の片側がおかしい。細長い小さい窓しかなくてあとは壁だし、非常ボタンが壁の途中のおかしな位置にある。
そう。改造時にトイレを撤去して客席にしていたのだった。
窓や壁以外の床、荷棚、吊り手は他と同じで区別がつかず、上手に処理している。トイレがないのなら、国鉄時代の法則なら「キハ40 1569」に改番されるはずだが、そこまではしないのか。

さらに上の写真で分かるように、デッキとの仕切りが撤去され、そのための保温対策として半自動ドア化も実施(ドアボタンがある)されている。運転台周りは原型のままで、ワンマン運転はできない。

両運転台だけど、トイレなし、ワンマン非対応というこの車。運用上の制約がある。
男鹿線の他の車でも、どれも何らかの制約があるだろうから、車両運用を決める作業は、奥羽本線などより大変かもしれない。

窓が狭い場所が
これは原型ではボックスシートとロングシートの境界部。2人がけの席があった場所だ。
再掲)元々はこうなっていたはず
杓子定規な国鉄の規定のためか、原型のキハ40では、ロングシート部分も含めて座席番号が割り当てられ、表示されていた。さすがにオールロングシートでは表示されていない。

あと、男鹿線では定番の改造だが、冷房設置・扇風機撤去も実施されている。



このような2ドア車の長いロングシートは、男鹿線キハ40系だけのものではなく、各地でちらほら見られる。
キハ40系では北海道や西日本でも改造されているし、国鉄末期以降には新製時からロングシートの形式(四国のキハ54、JR東日本左沢線のキハ101、JR西日本のキハ120等々)も存在する。

利用者が多く、そのほとんどが短距離利用である大都市ではロングシートがふさわしいけれど、地方の長距離路線でもロングシートの車が走っている。
鉄道会社としては、できるだけ客を詰め込んで、かつ乗降の流れをスムーズにして遅れを減らし、車内清掃の手間を省きたいのがホンネだろう。通学時間帯とそれ以外で混雑の差が激しく限られた車両数で回さなければいけないこと、大都市の車両と共通設計にしてコストを減らす目的もあるだろう。


ところで、僕が初めて列車に乗ったのが、たしか1981年の夏。羽越本線の普通列車で秋田-羽後本荘を往復した。
当時は、青や茶色の雑多な形式の旧型客車を機関車(羽越本線はEF81か)がひいていた。

行きは、ボックスシートの車両で、座席の枠や壁は木製だった(写真が残っているはず)。これは当時としてはありふれたものだったはず。
帰りは、なんと古い客車なのにロングシート。これも端から端までオールロングシート(たしか青い布)で、内装は塗り立てのようにきれいだった(というのを同行者が話していたのを覚えている)。車内のお客はとても少なく、小学生くらいの男の子が、つり革にぶら下がって遊んでいた。
この時も、おそらく全車両がロングシートではなく、ボックスシートの車両があってほとんどの客はそちらに座っていたのかもしれない。

調べてみると、「オハ41」形というロングシートの客車が存在し、秋田にも配置されていたようなので、それだろうか。
戦前(1939年から)に製造された「オハ35系」(さらに改造されてオハ55?)を1965年頃に土崎工場などでロングシート改造・改形式したものだそう。
※オハ41は1978年までに廃車されたという情報もあるし、他の形式でもロングシート客車があったようなので、違う形式かもしれません。

子どもだったからか、生まれて初めて見たロングシートだったからなのか、この時のロングシートはものすごく長かった印象がある。
それと比べれば、キハ40のロングシートなんて、大したことないように見えてしまう。長さは大して違わないはずなのに。

【2017年6月14日追記】男鹿線でオールロングシート化・トイレ撤去が行われた「キハ40 541」に乗った。
運転席後部に窓が設置され(ワンマン対応としてよく行われる)ているが、それが客席側窓のように上下に二分割されていて開閉する構造。しかも、上側の窓は、客席側に開閉つまみが付いていた。ということは、運転士の意志に関わらず客が開けられるということなんだろうか? 運転席内側にもストッパーがあるのかもしれないけれど。
また、国鉄の気動車に標準搭載されていた、車内放送用オルゴール「アルプスの牧場」は残っており、珍しく車掌が鳴らしていた。このオルゴールは自動停止機能がなく、鳴ったとしても中途半端に流れることが多いのだけど、この時の車掌さんはとても上手で、1フレーズぴったりと放送してくれた。
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道州制の県庁所在地

2014-05-20 23:51:25 | 秋田の地理
BS日テレに「笑点デラックス」という番組がある。要は昔の「笑点」の再放送なのだけど。
先日、1999年6月6日放送の第1668回を見た。テレビ岩手開局30周年を記念して、北上市民会館で収録された2回のうちの1本目。

大喜利は先代(5代目)三遊亭圓楽が司会で、林家こん平もいた頃。
大喜利メンバーのあいさつで、三遊亭楽太郎(現・6代目円楽)がこんなことを話していた。(うろ覚えです)
「岩手といえば、例の北東北3県の道州制でございます。実現したら県庁(州庁舎? 議会?)は3県の真ん中の十和田湖でしょうか。十和田湖に船を浮かべて思いを巡らす、いいじゃありませんか。楽太郎です」

そういえば、青森・岩手・秋田3県をまとめる構想(道州制だけに限らず、県の合併も検討)があったのを思い出した。
ひところ騒がれていたが、今はまったく聞こえてこなくなった。3県民でも忘れたり知らなかったりする人が多いだろう。
地方ロケで地元へのサービス(といっても十和田湖は岩手と関係はないけど)もあったのだろうが、全国放送で楽太郎師匠が「例の」と話すほどだから、当時は全国的にも認知されていた話題だったのだろうか。


そして「中心都市を十和田湖にする」という部分。
似たような話を思い出した。1997年から2009年までの秋田県知事(先代)・テラタスケシロ氏(現・参議院議員)が、「田沢湖に県庁を作ればいい」という発言をし、ちょっとした問題になったのを思い出した。
この人は、気安くリップサービスをするようで、「男鹿水族館リニューアルオープン時に、シロクマ(ホッキョクグマ)の展示が間に合わなければ、自分と男鹿市長がシロクマの着ぐるみを着る」とか言って、結局間に合わなかったのに自分では着ず、男鹿市長は約束どおり着た(着せられた?)という一件もあった。(重大な公約違反だと思うのだが…)


楽さんとスケシロさんどっちが先か? 気になった。
調べてみると(秋田県議会平成16年2月定例会本会議第3日議事録より)、スケシロ氏の発言は、2004年1月14日に青森県職員に行った講演と19日の記者会見が発端だった。楽太郎師匠のほうがずっと先だ。

講演においてスケシロ知事は、
「(合併後の)県庁舎は、個人的な意見だが、田沢湖高原がいい。広大な環境の中でなら、職員はしっかり物を考えることができる。」
と言っていた。田沢湖の湖畔じゃなく、高原のほうだったのか。
※この時は、県民・議会・県庁での議論が充分でないのに、知事が先走っていたことが批判を受けたようだ。また、これより以前の講演でも、同じ趣旨の発言をしていたような情報もある。


一方、別の所では十和田湖も登場していた。1997年10月に青森県知事の発案で初めて開かれた「北東北3県知事サミット」の会場が、十和田湖の遊覧船上だった。楽太郎師匠の2年前。
これをモチーフにした、大喜利のあいさつだったのかもしれない。
※知事サミットは後に北海道も加わり、現在も続いている。

既存の都市でなく地理的な中央を新たな拠点にするのは、海外の首都移転でも例があるから、十和田湖や田沢湖も真剣に検討していいのかもしれない。
こんな風に楽太郎さんやスケシロさんが発言した頃は、2010年をめどに道州制または合併をする計画だった。ところが今は2014年…


先日は、30年後には多くの地方で自治体が成立しなくなっている可能性が指摘された。
その対策の1つとして、道州制実施を指摘する人もいるが、議論が盛り返すことになるだろうか。

【24日追記】「ドクターヘリ」を、北東北3県がそれぞれ保有・運行している。隣県のドクターヘリが出動したほうが早い場合もあるのに、これまでは隣県からヘリが出動できるのは、自県のヘリが出動できない場合に限られていたという。このほど、「医師が必要と判断した場合」に隣県に出動を要請できるようになりつつあるそうだ。こんな点でも、3県の連携はまだまだ遅れている。(以上追記)



ちょっと話が逸れるけど、30年近く前だろうか。「遷都構想」を知り、子ども心に未来の首都がどこにできるか、想像を巡らせた。(歴史の平安遷都などより先に知ったはず)
首都を東京以外に移す構想のことで、後に「首都機能移転」として一部の機能だけを東京から移すことに変わったようだが、これも話が進んでいない。オリンピックまでやることになったし。

首都直下地震とか富士山噴火などを考えれば、危険分散の意味で必要だと思うし、人口の首都集中を軽減して地方の活性化のためにも、やったほうがいいと思う。
このままでは、東京以外はどこも無人地帯になってしまいそうだ。
コメント (3)
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ひなん場所

2014-05-19 23:30:51 | 秋田のいろいろ
災害などが発生した地域の人たちが、体育館みたいな所に寝転がったりして、「住民は不安な一夜を過ごしています」などと報道されることがある。
多くの秋田市民は、幸いにもそうした経験がない。仮に自分の住んでいる地域で何かあった時、どこへ避難すればいいか、把握しているだろうか。

(再掲)秋田公立美術大学(美短から名称部分を修正。厳密には大学のグラウンドを指定している)
秋田市では、「ここは火事・地震のときの ひなん場所」という看板(表示板)が、学校や公園などに立っているのをよく見かける。
※秋田市では「標識」と呼んでいるようですが、道路標識と紛らわしいので、以下「表示板」とします。

じゃあ、何かあったらここへ来れば一夜を明かせるのか?
というわけではない。
僕は最近まで知らなかったのだけど、(おそらく全国どこの自治体でも)自治体が指定するものには、「避難場所」と「避難所」があり、両者は異なるものだった。

避難場所」とは、災害発生時に身を守るために一時的に避難する場所。学校のグラウンドや公園など、屋外の広い場所が指定されるようだ。
さらに避難場所は「一時避難場所」と「広域避難場所」に分けられ、状況によって(火災の延焼など)一時避難場所に避難していた人たちが広域避難場所へ移る。
【20日追記】静岡県や大阪府の市町村に多いようだが、避難場所のことを「避難地」と呼称する自治体もある(静岡は県としても)。
「学区」と「校区」のような呼び方の地域差なのだろうか。避難“場所”よりは避難“地”のほうが、直感的な気がしていいかもしれない。

避難所」は、一定期間避難生活(寝泊まり)する場所のこと。体育館や公民館のような建物が指定される。したがって、夜間などは施錠されているので、災害発生後すぐに使えるわけではない。「収容避難場所」とも呼ぶようだ。


秋田市総務部防災安全対策課ホームページによれば、秋田市では避難場所130か所(そのうち5か所が広域避難場所にも指定)、避難所144か所が指定されている。
避難所は浜田小を除くすべての公立小中学校(秋大附属小・中も含む)のほか、公私立高校・大学、市の各コミュニティーセンターや閉校した学校の建物等。ホームページには、面積から算出したと思われる、施設別の収容能力人員も記載。少ない所では各コミセンの50人程度から、一般的規模の小学校で300~400人、多い方は秋田商業高校1250人、明桜高校1616人までさまざま。

避難場所は学校のグラウンド、避難所は学校の体育館が指定されることがあるから、その場合は「避難場所と避難所が同じ場所」と認識しても間違いではないが、公園とコミセンなど異なる場所の場合も多い。
いざという時に間違わないよう、まずは両者の違いを認識して、自宅や職場近くのそれぞれを把握しておくべきだろう。
※ただし、秋田市が作成した一部ハザードマップにおいて両者が同じマークで記されたり、ホームページにおいては区別はされているものの違いについての説明がなかったりと、行政側でも紛らわしさを助長してしまっている現状もある。


秋田市の場合、避難場所には冒頭のような表示板が設置されるが、避難所には何も設置されない。(その都度開設する/しないを判断するからだろうか?)
※その表示板では、「○○○小学校のグラウンド」が避難場所であっても、「○○○小学校」までしか表示されないルールで、その点でも避難所と混同を助長している。
また、例えば弘前市では、避難場所であっても特に表示板はなかったはずで、表示方法は自治体の裁量なのだろう。


東日本大震災後、秋田市ではさらに別の避難する場所もできた。「津波避難ビル」と「津波避難場所」である。
その名の通り、津波から逃れる場所。津波による浸水想定区域内にある、丈夫で高い建物(官民問わないが、入口を夜間・休日でも開放できる等条件がある)が津波避難ビル、高い位置にあるグラウンドや駐車場が津波避難場所に指定されている。(浸水想定エリア外には存在しない)
津波避難ビルも津波避難場所も、一時避難場所の派生と考えられるだろう。一時避難場所と津波避難場所が重複して指定されている箇所も多い。

現段階で津波避難ビルは36か所、津波避難場所は45か所。津波避難ビルは壁面などに表示板が、津波避難場所には次のような表示板が昨年度末頃から設置されている。
従来からの避難場所と兼ねている津波避難場所は、
土崎南小学校(例によって実際にはグラウンドが指定されている。以下同じ)
従来の表示板の盤面を更新して対応。
「ここは津波・地震・火事のときの ひなん場所」と書かれ(火事と地震が入れ替わっている)、左右にそれぞれのピクトグラムが表示されている。

一方、津波専用の避難場所には、
イオン土崎港店 敷地
従来はなかったから新設されたのだろう。サイズは一般の避難場所と同じで、白地に「津波ひなん場所」と書かれる。場所の英語表示はない。
海抜も表示板内に書かれているが、これは避難場所の表示板でも一部では見られる方式。

津波専用避難場所は表示板がとても目立つが、兼用の表示板は従来と同じ色使いだから、遠くから見た時に分かりにくいと思う。ピクトグラムの背景だけでも白くするとかできなかったのだろうか。


もう1つ。
八橋運動公園
上に「ここの地面は海抜3メートル」とある。これを見れば「たった3メートルの場所が津波避難場所なの?」と不安になるかもしれない。

実は、津波避難場所としての八橋運動公園は海抜16メートル。階段を上がった丘の上。
3メートルというのは、「この表示板が立っている場所」の海抜であり、表示板は避難場所の丘の下に立っているのだ。分かりづらい。(だからといって上に立てるわけにもいかないけど)
おそらくこの上が津波避難場所
しかも、表示板と16メートルの丘までは離れていて、そこまでの誘導がない。非常時に初めてここに来た人は、避難場所までたどり着けない恐れがある。
※八橋運動公園は浸水想定エリアの端っこ。だから、丘に登るよりは、内陸の市役所方向へ避難したほうが無難かもしれないが、そういう情報も現地では分からない。

八橋運動公園に限らず、津波以外の避難場所でも同様なのだが、この表示板には他にも難があると思う。
まず、表示板は、基本的に各避難場所に付き1枚で、道路沿いに設置されるようだ。(美大は遊歩道上なのが例外的)
学校のグラウンドの場合、グラウンドの入口にはあっても、学校の正門にはなかったりするし、あの広い千秋公園でも1枚(脳研向かいのバス駐車場)しかない。
さらに、上記の八橋運動公園では、運動公園そのもの、陸上競技場、野球場など公園内で複数箇所が避難場所に指定されている。その違いや位置関係も、表示板では分からない。
初めて訪れた場所で避難が必要な災害に遭遇してしまう人だっているのだから、誰でも避難場所に避難できてこそ、表示板だろう。



さて、ここで避難場所(津波以外)の表示板そのものについて。
現行の秋田市の表示板は、サイズ、ピクトグラムや文字を入れる幅が厳密に指定されている。
盤面は1メートル×2メートルちょうど。ピクトグラムは75センチ四方、脚を入れた地面から最上部の高さは2メートル90センチなど。

その一方、特に指定されていない点もあって、それは発注ごと(請け負った業者次第)に異なってしまっている。(些細な点だから別にいいのですが)
ざっと見たところ、最多数派は、冒頭の写真の美大のタイプ。

以下、多い順に、
山王中学校

川尻小学校
違いがお分かりでしょうか?(盤面の色合いも微妙に異なるようだけど、それは別として)

文字の書体が違うのです。英字もだいぶ違うけれど、ここは日本語で。「き」や「な」が識別しやすい。
最多数派は、モリサワの「新ゴ」というフォント。表示類ではよく用いられる。
2006年に設置されたものがこれだったし、最新の津波避難場所の表示板も、一部太さは違うがいずれも新ゴ。

山王中のは、パソコンや今はサザエさんの次回予告などでも見られる、「平成角ゴシック体」だろう。表示用としてはどうだろうか。

川尻小のは、「ここは火事・地震のときの」と「ひなん場所」で書体が違う。
「ここは~」は新ゴだが、「ひなん場所」はそうでない一般的なゴシック体だ。しかも縦に圧縮してある(長体)。やはりモリサワ製っぽく「中ゴシックBBB」あたりか。


そして、今のところ1つしか発見できていない、レア物。
健康広場・第2球技場
2012年10月撮影のGoogleストリートビューで既にこれになっていた。

何よりも、ピクトグラムが左右が反転した鏡像になってしまっている。鏡像であっても、ピクトグラムとしては問題はないようだが、なんでそうしたんだ?

さらにこのフォントが珍しい。
直線的な「こ」、「は」の1画目のはね具合、「き」のカーブ、「な」の3画目から4画目へのつながり方などにクセがある角ゴシック体なのだが、どこのメーカーの何という書体か分からない。
【2021年3月12日追記】視覚デザイン研究所というメーカーの「V7ゴ」もしくは「VDL V7ゴシック」というフォントのようだ。入手は難しくはないようだが、レアではある。


発注の仕様書を見てみると、図面はパソコン標準搭載のMSゴシックなどで作っているが、文面では「ゴシック体」ということすら指定されていないようだ。
だから、受注した業者が明朝体ならまだしもPOP体や江戸文字で表示板を作ってしまっても、文句は言えないのかもしれない。



ところで、今の避難場所の表示板になる前の表示板って、ご記憶でしょうか。
1991年12月20日「広報あきた」1229号より
大人と子ども(?)の2人が走っているイラストが強く印象に残っている。色合いは今より薄く黄緑(秋田市の色の若草色?)だった。
「ここは火事・地震のときの ひなん場所」の文面は今と同じだが、文字は手書きで表示板自体が横長。

国際標準のピクトグラムを採用するために、今の表示板に変更したのだろう。
広報によれば1991年にはまだ旧タイプだ。一方、1998年に設置した旨が記載されている現行表示板が存在するから、少なくとも一部は15年以上前には変わっていたことになる。
※旧看板はこの記事末尾も参照

2020年度には、表示板のデザインと内容が新しくなり、「避難場所」と漢字表記・ふりがな付きとなった。。
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青森進出/赤飯分布 他

2014-05-18 21:11:31 | 秋田のいろいろ
青森と秋田の話題いろいろ。まず青森から。
●40年前の弘前
陸奥新報に「日曜随想」という、県内の大学の研究者などが執筆したエッセイがある(http://www.mutusinpou.co.jp/index.php?cat=37)。いろんな人が書いて、各自の研究分野以外の話題も多い。
今日は弘前大学医学研究科長の中路重之氏。1951年長崎県諫早市生まれで、大学生以降41年間、ずっと弘前大学にいるようだ。
今日のタイトルは「「私的弘前40年史」ヨーカドーとかくは宮川」。(以下、太字部分が日曜随想からの引用)

昔の弘前の様子が描写されていて興味深かった。
1973年4月に初めて弘前に来た時(受験は弘前でない所だったのか?)、一緒に来た母を見送ったのが「今のヨーカドーの場所にあった木造のバスターミナルである。」。

正確には、今もイトーヨーカドー弘前店の中にバスターミナルが同居しているから、「先代のバスターミナル」ということになるが、木造だったのか。
写真などは見たことがないが、どんな趣きだったのだろう。

ところで、長崎からの行きは「丸1日以上電車に揺られて」来たようだが、帰りのお母さんはバスでどこへ行ったのだろう? 青森空港かな?
弘前-盛岡の高速バス「ヨーデル号」は1985年の運行開始だし、そもそも当時は東北自動車は青森まで到達(開通)していなかったし、県外への路線バス自体、なかったはずだから。

その後、バスターミナルの場所に弘南バスが「弘南ビル」を建設し、中に「弘南ビルバスターミナル」が開業。ビルにはイトーヨーカドー弘前店が1976年10月1日にオープン。
(後にビルはイトーヨーカドーに売却され、「弘前バスターミナル」となった)


中路先生は開店直後にヨーカドーに行き、「女子店員の垢(あか)抜けた東京スマイルには驚いた。」「“中三”、“カネ長武田”の両デパートも健在であったが、イトーヨーカドーの東京スマイルには「いずれしてやられるな」と直感していた」そうだ。
※「中三」は改築・経営破綻を経て今も土手町で営業(だから書き方としてはまずいのでは?)。土手町のしたどてスカイパークの位置にあった「カネ長武田」は、1993年10月1日に「弘前ビブレ」として郊外へ移転。現・さくら野弘前店。

ここを読んで思い出した。僕が子どもの頃の昭和50年代辺りまでは、秋田でも、青森でも、他の地方都市でもそうだったかもしれないが、イトーヨーカドー、ジャスコ、ダイエーなど駅前や市街地にある「総合スーパー」のことを「デパート」として認識する人が(おそらく大人でも)少なくなかったと思う。
秋田や青森では、中三、松木屋、木内、本金といった本当の「デパート(百貨店)」もあったわけだが、「なんでも1か所で揃う」ということでは同じ分類だったということだろうか。また、当時は郊外型ショッピングセンター(モール)はまだなかった。

弘前ではその後、もう1つの百貨店「かくは宮川」が「ハイローザ」を経て閉店、ダイエーの進出と撤退などがあったが、何やかんや言って、イトーヨーカドー弘前店が今なお営業を続けているのは、すごいことだ。


東奥義塾高校も聖愛高校も街中にあった。
両私立学校の郊外移転は、東奥義塾は1986年だが、聖愛中学高校は1974年だから、ヨーカドー開店よりは先だし、先生が来て1年後。


そのころの弘前の市街地はまだこぢんまりしていた。級友が城東にアパートを借りたが、「何が悲しうて、あんな田舎に」とからかって大笑いした。しかし、今ではそれも昔の話。城東の変化はまったく驚くべきである。
「昔の弘前は懐かしい」。
この部分、「弘前」を「秋田(市)」に、「城東」を「駅東(広面~桜辺り)」に置き換えても、当てはまる。古くからの市街地と、「駅裏」である幹線道路沿いに発展した新しい街の関係。

現時点において、秋田市と比べれば、弘前市はまだコンパクトにまとまっていて、市街地もまだ元気なようには思えるが、ずっと見ている人にしてみればやっぱり寂しくなっているのだ。


●ついに進出
今日の朝日新聞3面に、「セブン-イレブン空白県ゼロ筋道/沖縄で市場調査に着手」という記事があった。
記事は、地理的要因から制約が多かった沖縄でも、セブン-イレブンが進出する用意があることをメインに伝えているが、
「現時点で店がない4県のうち、高知、青森、鳥取への数年以内の進出も決めた」
そうで、沖縄にもできれば、セブン-イレブンの全国制覇が達成される。

ということで、ついに青森にもセブンイレブンができることになりそう。
高知と青森には2015年に、鳥取は遅くとも2019年春(JR西日本のキヨスクの転換もあり)までに出店するとのこと。

実は5月2日に社長が明らかにしていたようで、時事通信は既に伝えていた。「弁当や総菜を生産する提携先の専用工場が15年春に岩手県北上市で稼働するため、供給体制が整う。」ためとしている。

※その後、青森進出が確定した


以下、秋田の話題。
●秋田のコンビニ
秋田では、パチンコ屋の敷地内に出店するなどセブン-イレブンが増殖中。
5月15日の秋田魁新報社会面に、今年2月末時点の秋田県内のチェーン別店舗数が出ていた。
ローソン179店、サークルK・サンクス97店、ファミリーマート73店、セブン-イレブン38店、デイリーヤマザキ34店。

なお、セブン-イレブンは今日現在、店舗検索によれば秋田県内に40店、うち秋田市に21店。秋田市以外では、内陸南部に集中しているが、1店だけ本荘に「由利本荘荒町店」があった。3月5日にオープンしたようだ。
今後は由利方面も増えていくのだろう。

【2016年6月4日追記】
2016年5月10日付秋田魁新報経済面より、2016年2月末現在の店舗数。
ローソン184店、サークルK・サンクス99店、ファミリーマート78店、セブン-イレブン75店、デイリーヤマザキ24店。
前年(2015年)比ではトータルで9店増で2012年から5年連続の増加。チェーン別では、ローソンは増減なし、サークルKサンクスは+1、ファミマは-1、セブンは+15、デイリーは-6。デイリーヤマザキは10年前は73店舗もあったとのこと。


一方、減っていくコンビニも。
秋田市山王新町、山王大通りに面した県立体育館の向かい、バス停の所に、「サンクス県立体育館前店」があった。
2012年11月撮影Googleストリートビューより
これがいつの間にか閉店してしまっていた。5月2日に気付いた時には、既に店内は空になっていた。
立地は悪くなさそうだったけれど。【19日追記】いただいたコメントによれば、この店が秋田初出店のサンクスだったとのこと。

なお、先に閉店していた、泉(保戸野桜町)の天徳寺地下道そばのサンクス秋田金ノ町店跡は、高齢者向けの健康関係のお店になったとか。
ビルの中にあって移転に伴って閉店したローソン秋田竿燈大通店跡は、空いたまま。

【7月21日追記】
この後、7月中旬に、千秋矢留町のマンション1階にあった「サンクス秋田矢留町店」が閉店。ここは酒屋さんの名前が併記された店だったはず。(【2015年1月1日追記】サンクス秋田矢留町店は、2001年オープン、2014年7月1日朝9時閉店という話もある。)
ビル内の店ながら前に駐車場があり、真向かいがアパホテル(旧・ホテルはくと)なので宿泊客の利用があり、複数の高校の通学路沿いでもあり、立地は悪くなかったはず。川の向かいのセブン-イレブン通町店の影響か、単にサンクスの縮小傾向の一環か。
撤退後はとりあえず空きフロアになっている。
また同じ頃、ローソン秋田竿燈大通店跡は何かの工事が行われている。

【2014年11月8日追記】サンクス県立体育館前店の跡は、建物を改装してマッサージ店「りらく 秋田山王店」が11月7日にオープンした。
【2015年6月22日追記】サンクス秋田矢留町店跡はずっと空きフロアのままだったが、2015年6月に内装工事が行われている。中には衣類用大型乾燥機が並んでいるのが見えるので、コインランドリーになると思われる。

●赤飯分布
以前、青森県などでは「赤飯が甘い」ことを記事にした。
17日の秋田朝日放送「サタナビっ!」で、秋田におけるこのことを取り上げていた。サタナビは、こういう県内の文化的な風習をたまに取り上げてくれるのがいい。お店紹介ばかりがローカル情報番組ではない。


秋田大学の佐々木信子准教授(教育文化学部家庭科教育分野)が調査しているそうで、市郡単位で「高甘味地域」「低甘味地域」「混在地域」に分けた分布が地図で示された。

うろ覚えだけどそれによれば、低甘味は秋田河辺と男鹿南秋だけ。
高甘味は、鹿角、大曲仙北、横手平鹿、湯沢雄勝、由利本荘。
両者が混在するのが、能代山本と大館北秋。
上記は1996年の調査で、2010年には大館北秋が「高甘味」に鞍替えしていたという。


内陸南部で甘いものが食べられるのはわりと知られていて、納豆に砂糖を入れたり、茶碗蒸しが甘かったりはするから、赤飯が甘くてもおかしくはない。
番組では、「県南部では昔、麹屋が多くあり甘いものがぜいたく品として作られていたようで、その名残で砂糖を使った甘いお赤飯を好む方が多い」としていた。(ホームページより)
そういえば、由利本荘市大内の道の駅の産直でも、甘そうな赤飯が売られていた(食べてないので未確認)し、本荘ではそばつゆも甘い。
でも、鹿角とか北の方でも赤飯が甘いとは知らなかった。青森と隣接している関係だろうか。

青森では、ローソンがわざわざ甘く変えた赤飯を売ったり、1つの店で甘いのと普通のと両方売ったりしていたが、秋田ではそこまではやっていないと思う。(あるいはタカヤナギ辺りは地域で分けているのだろうか?)
地域の食文化を大事にして、もっと売り出してもいいかもしれない。
コメント (17)
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最近の青森の話題

2014-05-15 23:18:22 | 津軽のいろいろ
行こうと思いながら、さくらまつりにも、リンゴの花見にも行きそびれてしまった青森の話題をダイジェストで。
●スパー跡にローソン
5月3日に「ローソン弘前中野四丁目店」が開店した。
「中野」というから、西弘前(弘南鉄道大鰐線・弘前学院大前駅)周辺かと思ったら、もっと南だった。
ローソンホームページ店舗検索より
弘前大学前から富田大通り(県道127号線)を進んで、県立弘前実業高校の先で聖愛中高前駅へ右折する丁字路の角。あそこはバス停の名称などから「松原」だと思っていたが、線路と県道の間は、松原郵便局の辺りまで「中野」なんだ。
2013年5月撮影のGoogleストリートビュー
ローソンができたはずの場所には、1年前の時点では、DVD屋とカラオケ屋が入る建物がある。

というか、ここは、昔、「ホットスパー(HOT SPAR)」というコンビニがあった(店舗名は不明。少なくとも1998年まではあった)。建物自体はその頃と同じはずで、カラオケ屋はあったような気もするが、別の店で左側(スパーが右側)だった気もする…
※正式には「ホットスパー」ですが、一般に「スパー」と呼ばれていたため、以下そのように表記します。
この記事で触れたように、スパーは秋田市では1992年頃から、ヤマザキデイリーに続くコンビニチェーンとして展開を始めた。サークルKサンクスやローソンよりも少し早い。秋田では秋田県大館市のスーパー「いとく」が関わっていた。
弘前ではスパーは多くなかったが、いとくの縄張り内であるので、やはり関与していたかもしれない。
その後、弘前のスパーはいつの間にか閉店していたようで、秋田市内のスパーはローソンに転換。全国的にもホットスパーのブランドは消滅したそうだ。

実業高校~松原の辺りは、ホームセンターやスーパー(ベニーマートなど。いつの間にかユニバースもできている)はあるけれど、スパーのほかにコンビニはこれまでなかったようで、それが復活した。
幹線道路沿いで、住宅地で、高校が2つあるから、けっこういい立地じゃないだろうか。

画像が更新されたストリートビューで、ローソンの姿が確認できる。以前の建物を解体し、新たにほぼ同じ位置にローソンを建てていた。


●亀ハウス閉店(5月12日陸奥新報より)
弘前市富野町にあったライブハウス「亀ハウス」が、4月20日で閉店した。1992年から22年間の営業。
陸奥新報は「バンド人口の裾野を広げ、弘前の音楽シーンをけん引してきた」が、「バンド人口が減少の一途をたどり、終幕を下ろすに至った。」と伝えた。

僕が弘前にいた頃は、開店間もなかったことになる。僕には縁がない分野の店ではあるが、多少の思い出はある。
まず場所。
2013年5月撮影のGoogleストリートビュー。左手前が亀ハウス、右が弘大
富田大通り沿いの弘前富田郵便局の隣。向かいは、弘前大学の総合情報処理センター(出入口は裏側)という立地だから、よく通っていた場所であり、馴染みのある風景の一部であった。
亀ハウス。手前のログハウスみたいのが特徴的
もう1つは、テレビ番組。
亀ハウス内で収録された「人間椅子倶楽部」というローカル番組があった。
Wikipediaを参考にすれば1995年7月から1999年4月放送。記述はないが、放送局は青森朝日放送(ABA)で、日曜の? 23時台辺り? の放送だったか??
弘前市出身の2人が結成した「人間椅子」というロックバンドのトークや演奏からなる番組。好んで見ていたわけではないが、たまたま見て、「弘前市『亀ハウス』からお送りしています」とか言っていたのが印象にある。

※ローカル深夜番組といえば、青森放送テレビの「スーパーギャング深夜同盟」が懐かしい。「ガフィー」の「青森の純真」とか。

【2017年6月2日追記】亀ハウス跡は、その後空き店舗だったようだが、2017年4月24日に肉料理をメインとした飲食店であるアメリカンダイナー「Cherry」がオープン(5月17日付弘前経済新聞サイトより)。
また、上のストリートビューでは、2階には美容室が入っているが、2017年春でも引き続き入居し、看板類もそのままのようだ。


●弘大学食リニューアル(3月27日陸奥新報より)
弘前大学文京町キャンパスの大学生協・文京食堂が42年ぶりにリニューアルし、「見た目にも明るい雰囲気に」なったそうだ。
「Horest(ホレスト) 」という愛称があるようだ(以前からかもしれない)。
あまり思い入れはないし、基本的にメニューは国立大学はどこも共通だけど。


●新寺構 (5月10日陸奥新報より)
弘前市桶屋町に「新寺構(しんてらまちがまえ)」という、弘前城の一部だった史跡があるそうだ。
このほど、弘前大学医学部グラウンド付近175メートルを、当時の状態に近づけて遊歩道を設けるなど整備されたとのこと。
最勝院五重塔そばの、アップダウンがあって道が狭い一帯で、避けていた場所だったが、いつか行ってみよう。


●カモシカ現る(5月3日・5日陸奥新報より)
秋田市では、住宅地などをニホンカモシカが歩いていることがたまにあり、市民もさほど驚かないし、ニュースにもならない。
※過去に、竿燈大通りでタクシーとぶつかった時と、天徳寺辺りで小学生に頭突きしてケガさせた時は報道された。
再掲)秋田のカモシカ
秋田市は平地の近くに手形山とか金照寺山など低い山が点在するので、そこから下りてくるのだろう。千秋公園には住み着いているという話もあるが、それはどうか。

弘前では、ニュースになった。
さくらまつり期間中の5月2日午前、弘前公園そばの藤田記念庭園(この記事に少々)に体長1メートルのニホンカモシカが出没。
「市職員らが捕獲を試みた際は一時騒然となった。」。弘前市は「目撃しても騒がず、自分で捕まえようとせずに連絡してほしい」などと呼びかけたという。
その後、「同一とみられるシカが4日までに、弘前公園内の弘前城植物園で発見、捕獲されていた」そうだ。

そういえば、弘前でカモシカという話は聞いたことがなかった。(皆無ではないようだが)
たしかに弘前の街は、秋田と比べて「山」からは遠い。カモシカがやってくる余地は少ないのだろう。

陸奥新報の記事では、一部でカモシカを単に「シカ」と表記している。カモシカはウシの仲間であって、見てみればシカと姿形はけっこう違う。カモシカを「シカ」と表記するのは違和感があるし、カモシカを見慣れた人(新聞社)ならそうはしないはず。


●今年の田んぼアート
弘前市の隣、田舎館村(いなかだてむら)は、水田に稲を使って絵を描く「田んぼアート」で有名。類似のものは全国各地にあるが、ここは緻密でクオリティが高い。
5年以上前に見たきりだったが、現在は会場が2つに増え(村役場と弘南鉄道の駅も併設された道の駅)、高い所から見るのが有料化されている(以前は任意の協賛金だった)。
毎年絵柄が違うわけだが、今年は、村役場の第1会場が「富士山と羽衣伝説」。世界遺産登録のブームに乗ったのだろう。
そして道の駅いなかだての第2会場は、なんと「サザエさん」!
これは見に行かないと。


●青森でもバナナボート?
秋田のたけや製パンのロングセラー商品で、秋田県民が好む洋生菓子に「バナナボート」がある。バナナと生クリームをカステラ生地で巻いたもの。
個人的には山崎製パンの「まるごとバナナ」のほうがおいしいと思うが、多くの県民はそうではないのか、秋田県内の店ではまるごとバナナはあまり見かけない。

「バナナボート」とは、たけやの商品名かと思っていた。すなわち、たけやが展開していない秋田県外には存在しない食べ物だと思っていた。
ところが、五能線沿いのつがる市(旧・森田村)のリゾート施設「つがる地球村」では、毎年2月に「地球村冬物語」 というイベントが開催され、その目玉が「世界一長~い!バナナボート」だそう。
今年で7回目くらいだったようだが、昨年を5メートル上回る160メートルのバナナボートができた。

調べてみると、鰺ヶ沢町や五所川原市金木では、地元のお菓子屋さんでバナナボートを作っているところがあるようだ。
弘前市にはあるか分からないが、津軽地方でもそれなりに知られたお菓子なのだろうか。

また、「一般社団法人信州いいやま観光局」ホームページによれば、長野県飯山市でも、複数の菓子店が作っている。「1957年の大ヒット曲「バナナ・ボート」(歌・浜村美智子) にヒントを得て商品名にした、という説があります。 」とのこと。


●おやきとしとぎと豆しとぎ
秋田には「おやき」というお菓子がある。この記事で取り上げたように、信州のおやきとは異なり、つぶあんを米から作った餅状の皮で包み、表面を焼いたもの。
秋田市のとあるお店の「おやき」。すぐに硬くなるのが難点だが、素朴でおいしい
形状や厚さは違うが、製法や味は、三重県桑名や四日市の「安永餅」「なが餅」、そして秋田市の 「一乃穂」の「しとぎ餅」とよく似ているはず。【16日追記】福岡県太宰府の名物「梅ヶ枝餅」には、形やサイズも似ているようだ。

「しとぎ(粢)」とは、水に浸して柔らかくした生米を粉にして、それを固めた食べ物のこと。餅の原型とも言われ、供え物とされた。
辞書にも載る共通語だが、秋田では、一乃穂のしとぎ餅以外ではあまり使わないと思う。

ところが、青森の津軽地方には「しとぎ餅」が広く存在し、それはまさに秋田のおやきと同一。「津軽料理遺産」に認定されている。
2013年12月17日の陸奥新報によれば、「つがる市ではしとぎ餅が「名物」として扱われ、産直施設などで常に味わうことができる。」そうで旧木造町と旧柏村が紹介されていた。これも弘前まで来てしまうとメジャーではないのかもしれない。
五能線沿線って、秋田と共通する文化が多いのだろうか。言葉も津軽弁ながら微妙に秋田弁っぽい雰囲気があるし。

一方、青森県南部地方(八戸など県東側)では「豆しとぎ」なるものがあり、それを単に「しとぎ」と呼ぶそうだ。
豆しとぎは米のしとぎに大豆を混ぜたもので、あんこは入れずにカマボコみたいに切って(やはり焼いて)食べるようだ。駄菓子の「きなこねじり」にちょっと似た感じか。豆しとぎについての記事
南部では、冷涼な気候のため米が貴重だったため、このような形になったのだろう。
「おやき」も「しとぎ」も所変われば品変わる。

【16日追記】
津軽のしとぎ餅は、油で焼くのが一般的のようで、そのためか表面がツルツルしているものが多いようだ。「しとぎ鍋」という専用の調理器具もあるようだ(フライパンやホットプレートで代用できる)。
秋田のおやきでもツルツルしたものがたまにあるので、同じ製法なのかもしれない。

しとぎ餅は弘前市でも作られているそうだ。
お菓子のヒロヤや茂森新町の佐藤もち店で扱っているという情報がある(最新の情報ではありません)。弘前市内には、小さなお餅屋さんがちらほらあるので、もしかしたら製造しているかもしれない。
【22日追記】いただいたコメントの通り、津軽などでは「大判焼き」のことを「おやき」と呼ぶ。(秋田では普通に「大判焼き」)

※続きはこちら


●青森鉄道管理局(4月28日陸奥新報)
今回はずいぶんと陸奥新報さんを参考にさせてもらったが、最後も。
「津軽の街と風景」という連載の2回目を弘前大学國史研究会会員・石塚雄士氏が「幻の青森鉄道管理局」として執筆。
国鉄時代の鉄道管理局も、JR東日本の支社も、青森には置かれなかった。津軽地方側を秋田が、南部地方側を盛岡が管轄。その話。
※連載では触れていないが、青函連絡船は函館の「青函鉄道管理局」の管轄。

戦前は「管理部」というのが全国に49あって、青森県内は青森管理部が管轄した。国鉄発足後の1950年に27の鉄道管理局に再編されることになり、当然青森にも設置されると予想し、決定前から「「青森鉄道管理局」の看板を用意して」いたという。
ところが、そうはならず、「現場の国鉄職員をはじめ、県民も「ただ呆然(ぼうぜん)自失」といった状況であったという。 」
「当時の新聞に、本県の政治力の貧困と油断の結果であると書かれた」そうだ。

たしかに、鉄道路線の配置や旅客の流動上、青森は重要な要衝だ。秋田や盛岡よりも。
ただし、秋田と盛岡には車両工場(盛岡工場は後に廃止。秋田は土崎工場→秋田総合車両センター)があるから、そういう事情もあったかもしれない。

連載中では「この出来事は、後々まで県内の国鉄の路線に、設備改良やサービス改善等の面から微妙に影を落とし続けることとなった。」としているが、ピンと来ない。
むしろ管理局があった秋田のほうが、恵まれていなかった気がする。
東京との行き来には青森のほうが選択肢が多かったし(東北本線と奥羽本線があるから地理的に当然だが)、485系電車など新型車両の乗り入れは青森が早かったはずだし、普通列車では秋田はJR化後の701系電車登場まで冷房はなかったが、青森の東北本線では国鉄末期の客車時代から冷房が付いていた(元は急行用だった12系だからだが)はず。
秋田なんか、国鉄総裁まで輩出しているのに…
「微妙に影」は具体的にどんなことだったのだろう。隣の芝生が青く見えていたに過ぎない気もする。

そういえば、林野庁が、1999年に全国に9つあった「営林局」を7つの「森林管理局」再編する時も、同じようなことがあった。
営林局は東北地方では青森と秋田だけにあり、それが1つにされることになったが、森林管理局をどこに(どちらに)置くかで、ひともんちゃくあって、結局、秋田に東北森林管理局が設置された。この分野では、「微妙に影」はあるだろうか。


一時期もてはやされて今は鳴りを潜めたけれど、北東北3県道州制構想というのがあった。最近は、このままでは30年後には地方の多くの自治体が成り立たなくなっているという予測も出た。これからは、青森か秋田かなんて大した問題じゃなくなっていくのだろうか。
だけど、地域ならではの個性は大事にしていきたい。


※カテゴリーは違いますが、次の記事でも青森の話題があります
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やっと着工?

2014-05-14 23:03:19 | 秋田のいろいろ
●マックスバリュ泉店
2011年11月に、秋田市中央部の北側の泉地区に、イオン系列の食品スーパー「マックスバリュ東北」が新店舗を作ることが明らかになった。
泉北一丁目の日本通運の倉庫が解体された更地に建設され、2012年6月27日に「マックスバリュ泉店(仮称)」としてオープンする予定で、市への届けがされていた。

ところが、いつまで経っても着工する気配がない。
2012年9月と2013年4月の決算発表の新聞報道では、どちらでも「来期以降に出店したい」としていて、“先延ばし”状態だった。
さらにその後の決算発表の報道(例えば今春)では、泉店のことは触れられず、このままでは計画倒れになるかと心配していた。

これは個人的邪推だが、2012年9月には、泉から遠くない外旭川にイオンタウンが建設される計画が分かった。
前例では、イオンタウンの食品スーパー部分は、その地域のマックスバリュ運営会社が関わることが多い。
外旭川にイオンタウンができるとすればマックスバリュ東北が入る可能性があり、そうなれば泉店は近すぎる。だから、泉店は様子を見ているのかななどと考えたりした。(以上、あくまで邪推です)


ところが今日、「日刊秋田建設工業新聞」のサイトに、マックスバリュ東北が「(仮称)マックスバリュ泉店新築工事の施工を大森建設に決定した。9月18日の予定工期で建設する。」とアップされた。
やっと動き出したようだ。秋に開店ということかな?

一部の噂では、「マックスバリュ」ブランドではなく、最近全国的に力を入れているディスカウント店「ザ・ビッグ」になるのでは? なんて話も聞いたが、やっぱりマックスバリュなんだろうか。
個人的には、全品5%引きになる第2日曜日などに散歩がてら出かけるにはいい立地になりそうで、期待しています。

【20日追記】20日のマックスバリュ秋田市内3店舗共通の折込チラシの片隅で「マックスバリュ泉店今秋オープン!(予定)」として約90名のパート募集が告知された。※このチラシって泉周辺では折り込まれているだろうか?(ネットで見られるけど)
公式にオープンが明らかになった。
※工事が無事終わって、9月20日にオープンすることになった(この記事末尾)


一方、外旭川のイオンタウンのほうは話が聞こえてこなくなってしまった。


●千秋地下道撤去
計画があったのに着工する気配がなかったのが、もう1つ。
(再掲)
この記事後半で取り上げた、千秋トンネル通りが手形陸橋の通りにぶつかる丁字路「千秋久保田町」交差点にある、地下横断歩道「千秋地下道」の撤去工事。
地下道は千秋トンネル通り側なので秋田市の管轄だったが、県道の拡幅工事と関係するのか、撤去工事は秋田県が行う模様。
昨年度末に工事が始まるという話だったが、現在も通行できるし、着工の気配もない。

昨年度のうちに、工事に関する入札は何度か行われていた。昨今の建設業界の事情からすれば、入札不調に終わったのだろうか。
今年度早々にも再度入札をしていたようなので、もしかしたら間もなく動きがあるかもしれない。

※地下道は6月2日から通行止めになり、工事が始まることになった。


●千秋トンネル
最後に1つ、千秋地下道のそばの秋田市道の千秋トンネル
昨年秋に大規模な点検が実施され、内部はチョークでびっしりと書き込みがされている。
(再掲)
いつまでこのままにしておくのかと思っていたら、4月25日の秋田建設工業新聞により、今年度予算で改修工事が計画されていることが分かった。

ほかにも、「既存照明施設90基をLED照明に更新」「ジェットファン4基の撤去」なども行われるようだ。
(再掲)このジェットファンとも(照明とも?)お別れか
笹子トンネルの事故もあって、各地の高速道路や国道のトンネルでは、換気スペースのためにあった天井板を撤去してジェットファンに切り替えているが、それで済むだけ車のエンジンの性能が向上して、排気がクリーンになったということ。だから、今まではジェットファンが必要だった千秋トンネル程度の規模なら、ジェットファンすら不要ということなのだろうか。実際、ジェットファンが動いていることはほとんどないし。


ということで、場合によっては千秋地下道撤去と千秋トンネル改修の2つの工事が同時に実施されるかもしれない。
少なくとも地下道撤去工事では、車線が1本塞がれる模様。トンネル側から陸橋方向と脳研方向に左折と右折で分かれている車線が1本になると思われるが、だいぶ渋滞しそうだ。せめて冬期は避けて工事してほしいし、通学など歩行者の安全への配慮をしっかりとお願いしたい。
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長崎惣之助

2014-05-13 23:59:20 | 秋田のいろいろ
今年4月16日、韓国の国内フェリーが転覆・沈没事故を起こし、乗り合わせた修学旅行の高校生を中心に、多くの犠牲者・行方不明者を出している。
運行会社ぐるみで過積載など不適切な運行を行ったのが直接の原因のようだが、沈没まで時間があったのに船長を含む多くの乗組員が適切な避難誘導をせずに自分らだけとっとと脱出したり、救助活動が上手くいかなかったり、国の監督体制も批判されたりしているようだ。


事故発生直後の日本では、「霧の中で事故が発生し、修学旅行生が乗っている」という情報しかなかった。
朝日新聞の「天声人語」でも触れていたが、僕がそれを聞いて頭をよぎったのは「紫雲丸(しうんまる)事故」だった。

59年と2日前の1955年5月11日に、当時の国鉄・宇高連絡船(うこうれんらくせん。岡山の宇野と高松を結ぶ、青函連絡船と並ぶ主要な国鉄航路)で発生した沈没事故。
霧の中で別の連絡船(貨物船)と衝突して数分後に沈没、168名が亡くなった。中国四国地方の複数の小中学校の修学旅行生が乗り合わせており、児童生徒100名、引率者8名が犠牲となった。
※紫雲丸事故では船長が死亡したこともあって、はっきりと原因は解明されていないようだが、韓国ほどずさんだったわけではないはず(国鉄や船員の非がなかったわけではないのも確かだろう【14日追記】沈没までの時間が短かったとはいえ、避難誘導が不適切だったとの話もある)。この事故が1つのきっかけとなって、学校のプール設置と瀬戸大橋の建設が促進されたという一面もあるとのこと。【16日補足】この事故をきっかけにして、学校における水泳授業が「始まった」というのは誤り。それ以前からあった。水泳授業が「本格的・全国的に行われるきっかけ」であり、そのために「プール設置が進められた」というのが正しいだろう。

この前年には、台風の悪天候下に青函連絡船で「洞爺丸事故」も発生しており、国鉄のトップである総裁が、紫雲丸事故のわずか2日後に引責辞任している。【14日追記】国会からの追求を受けての辞任で、事実上の更迭であろう。



その辞任した国鉄総裁は、長崎惣之助(ながさきそうのすけ)という人。
実はこの人は、秋田市の出身。

秋田市旭北寺町のとあるお寺の前に、このような石碑が立っている。
「第三代 国鉄総裁 長崎惣之助先生墓所」※逆光とお墓の工事(?)の車が邪魔でこんな写真ですが
ここは同じ敷地に3つのお寺が同居しているので、どのお寺かは分からないが、とにかくお墓も秋田市にあることになる。

碑はあまり古そうにも見えないが、僕は5年位前からその存在は知っていた。【8月13日追記】裏面に「昭和三十九年十一月建立」とあった。
鉄道好きとして、「国鉄総裁で秋田出身の人がいたのか」と感心したものだが、深く調べないでしまっていた。
しかも、「第三代」とあるのを見て、「日本の鉄道が始まった明治時代から数えて3代目」であり、相当昔の人だと思い込んでしまっていた。実際は、「国鉄」が発足したのは戦後(1949年。それ以前は「鉄道省」など)で、そこから数えて3代目なので、わりと最近(というほどでもないか)の人なのだった。
総裁就任は1951年8月25日から1955年5月13日まで。

ネット上には情報が少ないが、Wikipediaによれば長崎惣之助は1896(明治29)年生まれ、1962年没。
南秋田郡川尻村の村長の長男として今の川尻上野町に生まれ、川尻小学校、牛島高等小学校、旧制秋田中学校と秋田で過ごし、旧制一高、東京帝大卒後、鉄道省入省。戦前・戦中は鉄道官僚を務め、戦後は公職追放されるも復帰して、総裁になった。
辞任後は、1956年に秋田で参議院選挙に出馬するも落選、1962年に66歳で東京で亡くなった。
「マチャアキさんに顔が似ている」という情報を見つけたが、たしかにそうかも。あと東海林太郎にも。
【8月13日追記】亡くなった2年後に、お寺に碑が立てられた(昭和39年11月と裏面にあった)ことになる。11月7日が命日なので、三回忌に当たる。

【5月15日追記】
一部資料では長崎家の「三男」となっている。鉄道省入省直後は品川駅で助役をしたらしい。
総裁辞任後は「日本エアウエイ株式会社社長」を務めたようだ。三菱重工系列のモノレールに関わった「日本エアウエイ開発」という企業があったそうだが、それのことか? だとすれば、名古屋の東山公園モノレール(現在の動植物園のとは別)や湘南モノレールにフランスから「サフェージュ式」モノレールを導入した会社。(以上追記)


川尻村は1926(大正15)年に秋田市に合併している。
上野町とか総社神社辺りが村の中心部だったのは想像できるが、江戸時代までさかのぼれば、今の大町二丁目辺りが本村で、今の川尻地区は開墾された支村だったそうだ。
明治時代には、今の山王から川口境辺り一帯の広範囲が川尻村だったとのこと。(1980年2月1日「広報あきた」801号「秋田市ものがたり (20)川尻地区(1) 」)
お墓のある寺町も川尻村だったかもしれないし、高等小学校があった牛島は「河辺郡牛島町」という“隣町”だったはず(牛島町は1924年に秋田市に合併)。

長崎惣之助氏が子どもだった頃の川尻は、一面の田んぼだったのだろう。
牛島を通る羽越本線はまだ開通しておらず(1920年開通)、奥羽本線しかなかったが、秋田駅周辺の汽車の煙を田んぼの向こうに見て育ったのかもしれない。


長崎惣之助氏が総裁を務めた前と後には、多数の犠牲者を出す列車火災や脱線事故が相次いで発生し、2つの連絡船事故と合わせて「国鉄五大事故」と呼ばれている。
戦後の混乱から高度経済成長に差し掛かる時期で、設備も人員も不十分な時代だったのだろう。哀しいことではあるが、こうした事故を経験して安全な基準やシステムが確立され、今日の世界一安全な日本の鉄道が成り立っている。

1949年の国鉄発足から1987年の分割民営化まで、10代の国鉄総裁がいた。
僕が知っているのは、「新幹線の父」と呼ばれた、1955年から1963年までの4代目総裁・十河信二(そごうしんじ)だけ。
10人のうち、十河氏を含む8人が何らかの引責で辞任しているようだ。(そうでないのは高齢が理由の5代目と、国鉄最後の10代目)【15日訂正】初代総裁・下山定則は在任中に原因不明の死を遂げている(下山事件)。したがって、引責辞任は歴代10人中7人でした。訂正します。

国鉄では昭和40年代以降は、労働組合や赤字が大きな問題になり、今思えば鉄道事業が大きく停滞してしまっていたようにも思う。そして分割民営化に至ったわけだが、国鉄総裁というのは大変な仕事だったようだ。


長崎惣之助氏が総裁の間に推進した主要な事業が2つあるそうだ。
1つは、当時の西ドイツを参考にした小型の気動車「レールバス」の導入。これは、当時の技術や利用実態からは上手くいかなかった。
昭和末期になって、バスの設計を取り入れた気動車が登場したり、最近は道路も線路も走れる「DMV」が研究されたりしているが、時代が早すぎたのかもしれない。
【14日追記】実現はしなかったが、ワンマン運転や現在のLRTに通じる概念も検討されたようで、その面でも先見の明はあったと言えるだろう。

もう1つは、交流電化。
仙山線で1955年に試験運転、1957年に営業運転が始まり、現在は新幹線を含む多くの路線が交流電化されている。


ところで、秋田で長崎姓は多くないが、有名なのは水泳の長崎宏子さん(現在はスポーツコンサルタント)。
川尻小学校の小学生だった時にモスクワオリンピックの選手に選ばれ(政治情勢から不参加となって幻に終わる)たように、川尻の方。おそらく長崎惣之助氏と関係があるのだろう。
【2020年10月1日追記】2020年9月22日に、元秋田ステーションデパート代表取締役常務の長崎忠夫氏という方が82歳で亡くなった。存じ上げない方だったが、秋田魁新報に死亡記事(広告でなく)が載った。
それによれば、山形駅長などを経て97年から3年間ステーションデパート常務ということで、国鉄職員~JR東日本社員だったようだ。
記事の最後には「次女は競泳元五輪代表の長崎宏子さん。伯父は国鉄の長崎惣之助元総裁。」とあり、関係が分かった。
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通帳繰越

2014-05-12 23:20:10 | 秋田のいろいろ
昔から思えば、世の中便利になったなと思うことの1つが、「金融機関の通帳を機械(ATM)で繰り越せる」ようになったこと。
昔なら、平日の営業時間に店舗へ出向き、場合によっては長時間順番待ちが必要だったのが、夜でも休日でもできるようになったし、待たされることもまずない。(繰越作業自体は3分くらいかかるけど)
※ATMの管理やトラブル対応の都合上、店舗外ATMで繰越できる所はどこの銀行でも多くないはずで、本支店に設置されたATMが中心だけど充分便利だ。


秋田銀行の通帳がいっぱいになったので、ATMで繰り越すことにした。
秋田銀行ホームページのATM検索では、「通帳繰越対応ATM設置店」が一覧で掲載されていて親切(かに見えた)。
秋田市内では、32本支店中20店でATM繰越ができるようだ。

都合上、本店営業部へ行くことにした。
本店営業部は、ビル1階の窓口フロアと駐車場内の別棟の2か所にATMがある。
窓口のATMは広々としてあまり混雑しない気がして好きだけど、窓口営業中しか使えない。窓口が閉まっている時間だったから駐車場の別棟へ。

別棟には4台のATM。昔はもっと多かった気がするし、ATMを撤去したようなスペースがあるから、減らされたのだろう。
ホームページには本店営業部にATMが「8台」あることになっているから、差し引き窓口側にも4台ということになる。こっちも昔はもっとあったような…


ATMの上のその機械で対応するサービスの表示と端末の画面のボタンを見て、嫌な予感がした。
とりあえず記帳すると「通帳がいっぱいです。窓口へお越しください」とか表示され、通帳に残っていた最後の1行には、
「通帳が繰越扱いになりました」と印字された
文章が若干意味不明だが、そんなこと印字されなくても知ってるよ! だから僕は今、ここにいるんだ!!

本店営業部で通帳繰越ができるATMは、窓口側にしかないようだ。すなわち本店営業部では、平日の15時までしか繰越ができないのだ。これでは「宝の持ち腐れ」。

通帳繰越を自動化した目的は、「窓口の混雑緩和」と「対応できる時間の拡大」だろう。
前者は、お客だけでなく銀行側にもメリットになる(くだらん通帳繰越の客のために、大事な行員の手を煩わせなくて済むという)。後者は冒頭のようにお客にはとても便利になるが、銀行としては保守管理など手間と費用が増えてしまうかもしれない。
本店営業部のような設置・運用方法では、後者の目的は達成できないし、前者にしても客より自分たちが楽することだけを狙って設置したかのように思えてしまう。

本店近隣には、県庁支店と秋田市役所支店があるが、どちらもATMでの繰越はできない。
反対側に数百メートル行った大町支店では、3台のうち中央の1台が繰越対応で、土日も稼働している。(その近くの廃止予定の秋田支店もできない)
秋田銀行ホームページより抜粋。本店のATM繰越の時間制限は触れられていない
本店別棟のATMに通帳繰越機能をつけてほしいものだが、それができなのなら、ホームページのATM情報には「ATM稼働時間中でも、繰越はできない時間帯があること」を明示してほしい。でないと、僕のように無駄足になる人がいる。(いちおう銀行側には要望というか文句は言っておいた)
ATMで宝くじを買えるのも結構だけど、その前にやるべきことはあるのではないだろうか。

ということで、秋田銀行本店営業部では、窓口営業時間中しかATMでの通帳繰越ができませんのでご注意を。
他にも同様の店舗があるかもしれない(秋田銀行で窓口内にATMがある店ってほかにあるかな?)。

【19日追記】銀行へ文句を言ったのが効いたようで、19日にATM検索をしてみると、

「※通牒繰越は平日の9~15時にロビーのATMでのみ取扱可能です。」の一文が追記されていた。
これならまあいいだろう。でも「通牒」って…(「最後通牒」とかでしょ。通帳のこととは違うはず)
あと、あのスペースは「ロビー」と呼ぶのか。

【2017年8月15日追記】その後、2017年8月に久々に秋田銀行ホームページのATM一覧を見ると、表記が変わっていた。
「本店営業部」に4台、繰越対応、「本店駐車場」に4台、繰越非対応、すなわち本店の店内と屋外を分離し、屋内は本店営業部とは独立した店舗外ATMコーナーとして扱っていた。うまくごまかしたというか…(以上追記)



ということで、少々回りくどく繰り越した、新しい秋田銀行の通帳。
秋田銀行では、長らく鉄腕アトムをキャラクターにしている(1999年4月からのようだ。その前はウッディ・ウッドペッカーだった)。個人向け通帳は、基本的にはアトムの絵入り。
今回の繰り越しでも、有無を言わさずアトムの通帳で更新されたが、通帳のデザインは一新されていた。(数年前に変わっているようなので、秋銀と取り引きの多い方はもう見慣れていると思いますが)
上が旧通帳、下が新通帳
総合貯蓄口座通帳(普通・貯蓄・定期)の場合、従来は青系統でアトム一家や御茶ノ水博士が表紙。ただし、犬が描かれている一方、「コバルト兄さん」は不在。
中の記帳するページでは、背景に薄くアトムとウランが描かれている(普通預金2パターン、貯蓄預金1パターン)。

旧通帳に対応するキャッシュカードも、旧通帳と同じ青紫系の色だったので、新通帳とは統一感がなくなってしまう。だが、以前は通帳とカードを一緒にしておくと、溶け込んでしまって見失い、紛失したと勘違いしかけたことがあった。その心配がなくなることになるので、歓迎。


新しい通帳は、「角館武家屋敷」と場所が明記され、桜の花が咲いて、アトムがいる。
桜の絵はソメイヨシノっぽいが、武家屋敷なら正しくはシダレザクラではないかと思うが…

アトムの絵のタッチは以前と少々違い、原作に近くなったのかもしれない。肌の色も変わった。
以前あった「MIGHTY ATOM」の文字や、他のキャラクターは登場しない。アトム自身も、表紙に1人と、裏表紙の「あなたの100万馬力 秋田銀行」の横に小さく顔があるだけ。
中は、定期預金を含むすべてのページに花が咲いた桜の枝が描かれ、アトムはいない。
左が旧通帳、右が新通帳
だいぶ控えめになったけれど、手塚プロとの契約費を削減したのだろうか。

預金(通帳)の種類によって、それぞれ違う秋田県内の季節・風景と鉄腕アトムが描かれているとのこと。
2018年にはアトムが引退


通帳のデザインだけでなく、通帳としての項目の配置や構成も変わった。例えば、
・表紙の口座番号や名義人の表示位置が移動。
・ページ構成の変更。総合貯蓄口座の場合、
従来は表紙から定期預金2ページ、普通預金8ページ、貯蓄預金3ページの順で、裏表紙に磁気テープ。
現行は、普通7ページ、定期4ページ、貯蓄2ページの順で、貯蓄は上下が反転している。つまり、貯蓄預金は裏表紙側からATMに挿入する。そのため、磁気テープは裏と表両方にある。
・表紙の裏の名義人の漢字表記を廃止(カタカナのみ)。従来「CIF-No.」という欄にあったのと同一と思われる数字が「お客様番号」になった。
※「CIF」とは「銀行システムにおける顧客情報ファイル(Customers' Information Files) 」のことだろう
・記帳する各ページの注意書きの位置等も変わっているが、基本的に取引ごとの印字内容や位置は変わらず。ただし、定期預金はそれも一新。従来は1つの契約に対して、新規預入から解約まで同じ1つの欄を使っていたが、新しいのは普通預金と同様、1回の取り引きごとに1つの欄を使うことになったようだ。(だからページが増えたのか)

・これは旧通帳でもそうだったが、普通預金などの記帳の仕方が2010年春(大型連休頃?)から若干変わっていた。
以前の記帳
ATMでキャッシュカードで引き出した場合、以前は日付欄が「22・04・01」、摘要欄が「カート゛12時00分」と時刻まで表示、右端の記号欄は「A000」などとアルファベットで現金・振込・小切手の別+数字で扱い店番号だった。
現在の記帳
現在は、「26-05-12」と区切りがハイフンに変わり、「ATM支払」だけで時刻表示なし、記号はアルファベットがなくなって数字だけ。

それに、以前はページが変わる度に、最初の1行目の摘要欄に「繰   越」と金額が印字されていたのが廃止され、1行目から取引内容が記帳されるようになった。



ところで、いつでも手数料なしで引き出しでき、ATMで硬貨の入手金ができて、とても便利なゆうちょ銀行。その数少ない不便な点が、ATMで通帳繰越できないこと。
昨年、窓口で通帳を繰り越した時、「印鑑を登録してほしい」という案内を受けた。(その時は印鑑を持参しなかったのでできなかった)
ゆうちょ銀行ホームページより
昔はどこの銀行もそうだったはずだが、通帳を開いたところに「副印鑑」といって届け出印を押印していて、ゆうちょ銀行はずっと継続していた。(近年は台紙に押印して緑色透明のシールで封印し、通帳繰越時にはそれを剥がして新通帳に貼り替えている。昔は直接押していた)
遅ればせながら、ゆうちょでもそれを廃止し、他の銀行のようにシステム上に印影を登録するそうだ。

ゆうちょ銀行の発表によれば、昨年6月3日で副印鑑の制度は廃止されたことになっているが、大急ぎで進めているわけではないようで、窓口の人も「ついでの時、いつでもいいので」と言っていた。

この印鑑登録により、通帳を盗まれて印鑑を偽造され不正に引き出されるのを防ぐ狙いがあるとのことだが、僕はもう1つの狙いがあるのではないかと期待している。
ほかならぬATMでの通帳繰越である。

各金融機関でATM繰越が実現したのは、ATMの高機能化と手作業に頼っていた副印鑑の廃止によるものだと思う。
ゆうちょ銀行なら、ATMを改造・更新して繰越機能を付けることぐらい、たやすいはず。副印鑑さえ廃止してしまえば、そう難しくないのではないでしょうか。※その後、2020年に繰越対応ATMの設置が始まった!


さらに、ゆうちょ銀行では昨年2月1日から、従来の緑色の総合口座通帳に加えて、「ブラックダイヤ」と「ハッピーライフ」という、柄やイラスト入りの通帳を発行。3種類から選べるようになっていた。
ゆうちょ銀行ホームページより。左からハッピーライフ、ブラックダイヤ、一般


【13日追記】ちょうど12日、秋田銀行の決算発表や取締役会で役員人事が決まった。
儲かっているようで何よりだが、執行役員の1人は、あの昨年ヒットした「倍返しだ!」の銀行員と1文字違い。(2文字目が「田」)秋田市出身54歳。
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いいともの思い出

2014-05-11 23:35:01 | 昔のこと
遅くなりましたが「はなまるマーケット」に続いて、「森田一義アワー 笑っていいとも!」の思い出。(以下、「笑っていいとも」「いいとも」とします)

※以下、後々見ても分かるように番組の説明なども記述するので、2014年時点で読めば回りくどいかと思います。(当ブログはいつもそうか)
※記憶に基づく記述も多いので、事実と異なる可能性があります。また、あくまでも個人の感想です。
※敬称の有無に他意はありません。
※(他の記事でもそうですが)後から思い出して追記する可能性があります。

「笑っていいとも」は、フジテレビが平日正午から1時間放送していたバラエティ番組。1982年10月4日に始まり、2014年3月31日まで32年半・8054回放送。
フジテレビ本社ではなく、新宿の「スタジオアルタ」(以前は「新宿情報ビル・スタジオアルタ 」)に観客を入れて生放送。【9月23日追記】観客は18歳以上(高校生除く)を条件に公募されていた。
※現在も放送中の13時からの「ライオンのごきげんよう」の前身である「ライオンのいただきます」(1984~1989年)も、いいともに続いてアルタから生放送していた。ごきげんようについてはこちら

タモリ(森田一義)が司会で、曜日ごとに5人前後のレギュラーが出演し、トーク、ゲーム、クイズなどを繰り広げる。他にもゲスト扱いの芸能人・文化人や「そっくりさんコンテスト」などで一般人が出演することも多かった。【2015年5月16日追記】キーボードを弾きながらデタラメに聞こえる歌を歌い、それを逆再生するとちゃんとした曲に聞こえるという特技を持つ女性は複数回出たかもしれない。2015年頃には後継番組「バイキング」にも出た。
毎日放送されたコーナーが「テレフォンショッキング」。タモリとゲストが1対1でトーク。その日のゲストの「友達」を翌日のゲストとして紹介し、(演出上は)電話で出演の約束を取り付けるスタイル。ただし、末期(2012年春以降)は番組側が翌日のゲストを紹介し、電話はさらに形式的なものになった。

ほかに日曜日の10時から11時45分までは「笑っていいとも!増刊号」が放送された。1週間の総集編や、テレフォンショッキングのCM中の会話、放送終了後にゲストと観客が残って繰り広げられるトーク(いわゆる「後説」)などを「放送終了後のお楽しみ」として放送していた。
東北地方では「増刊号」は当初、放送時間が異なっていた。日曜朝に、東北エリアのローカル番組があったため。
秋田テレビでは、土曜日の午後(13時とか14時だったか?)に放送していたので、6日遅れ。1つ前の週のダイジェストを見ていたことになる。1997年頃から遅れなしの同時ネットになったようだ。(Wikipediaには1987年とあるが、間違い)

年末やクリスマスなどの夜には、数時間に及ぶ「笑っていいとも!特大号」も放送された。レギュラー総出演で「ものまね紅白歌合戦」などがあった。
2012年7月には「27時間テレビ」の中核となる番組がいいともになり、サザエさんの特番でタモリさんたちがアニメ化された。(それ以外の年でも、増刊号が27時間に内包されていたため、関わりはあった)
最終回後の2014年3月31日20時から23時14分までは、「笑っていいとも!グランドフィナーレ感謝の超特大号」が放送されて、32年半を締めくくった。


以下、いろいろ。
●「ウキウキWatching」
番組の主題歌。作詞:小泉長一郎、作曲:伊藤銀次、編曲:鷺巣詩郎。(2011~2012年にかけては小西康陽による別アレンジ)
12時ちょうどにアルタ前の中継映像とともに「いいとも青年隊」が歌う「♪お昼休みはウキウキWatching」が流れ、アルタ内にタモリさんやレギュラーが登場するのは、お昼の光景として定着していた。

「いいとも青年隊」は若手芸能人など2~3名(昔は4名の時もあったらしい)による、アシスタント的存在で数年ごとに交代していた。メンバーによって少女隊、スタッフ隊という呼称の時もあった。【24日追記】青年隊は16代に及んだ。番組内で愛称がつけられていたが、「あさりど」のように既存のコンビを採用した(既にコンビ名が付いていた)こともあった。

オープニングで歌われたのは、後期は「ウキウキWatching」の冒頭の一部(青年隊が歌う部分)だけだったが、2000年4月までは、続いてタモリさんが1番を全部歌った後で、レギュラーが登場していた。オープニングを毎日、生で歌っていたのだ。(最終回で再現された)
【8月17日追記】番組中、コマーシャルに入る前の音楽(ジングル)は、ウキウキWatchingの最後「♪いいとも いいとも いいトモロー」の歌詞に相当する部分が最終回まで使われた。2000年以降のオープニングでは歌われることがなかった部分なわけだから、2000年以降にいいともを見るようになった人は、何のメロディか分からなかったことだろう。(以上追記)

タモリさんは「司会者が歌って始まる番組なんておかしい」という発言を何度かしていたが、個人的にはそれが好きだった。
「ごきげんななめはまっすぐに」「きっとあしたは いいトモロー」という掛詞というかダジャレを理解できたのは、中学生になってからだっただろうか。(「蛍の光」の「いつしか年も杉の戸を」だってダジャレと大して違わない)【下の5月19日付追記参照。僕が小学生の頃は違う歌詞が歌われていたようなので、その歌詞そのものを知らなかったのかもしれない】

毎日歌われていたのは1番で、特番などでその「替え歌」が歌われることもあったが、正式な歌詞としては2番も存在する。
以前(2000年以降か?)、いいとも内で、有名な歌ながら知られていない後半の歌詞を検証するコーナーがあり、ウキウキWatchingの2番が取り上げられた。
「電話ボックスが突然鳴り出す“Hello Hello”」という歌詞があり、タモリさんが「『電話(機)』じゃなく『電話ボックス』が、しかも『ハロー』と『鳴る』なんて」とあきれていた。

【19日追記】昭和時代は、オープニングで1番以外が歌われていたこともあったようだ。
1985年近辺(2代目~4代目青年隊?)は、1・2番ではない「♪抜き差しならないこの時間」「♪隠しちゃおけない男伊達 正論正論」「♪正しいお昼の過ごし方を 教えてあげる You can do」「♪今日のメニューは どうゆうの(=Do you know?) 後の続きはどうゆうの どうゆうどうゆう お楽しみ」といったもの。
1987年から1989年の5代目青年隊は磯野貴理子など女性3人の”少女隊”「チャイルズ」。この頃は2番の歌詞を歌っていたが、上記の通り、後にタモリさんが疑問視することとなる「♪電話ボックスが突然鳴り出す」の部分は「♪電話はいかが? 突然鳴り出す」に変えていた。
【24日追記】8代目青年隊「工藤兄弟」以降は、青年隊の歌う部分がパートに分かれてハモるようになった。
【2015年4月21日追記】ごく初期の1983年には、末期と同じ1番の歌詞で歌われていたようだ。

また、タモリさんの歌は、タモリさんらしくテキトーなこともあり、1番では「♪楽しませすぎ『ても』 ごめんなさい」と歌っていたことが多かったが、正しい歌詞は「楽しませすぎ『たら』」。(2番の対応する部分が「冷たくされても」なので、そことごっちゃになっていたのだろう。)
やる気なさそうに歌ったり、自分で合いの手(?)のようなひとりごとを入れたり、さらに過去にはいろいろあったようだ。(以上追記)


タモリさんが歌っていた頃は、そのカメラ割りが曜日ごとに固定されていた。(少なくとも1990年台後半)
「昨日までのガラクタを(チャッチャッ)」のチャッチャッの部分で、カメラをタモリさんに向かって小刻みにズームアップしたり(水曜日?)、最後の「いいともいいとも」の部分で「タモリ→天井(ここでカメラ切り替え)天井→タモリ」と左右のカメラを振りながら切り替えたり(金曜日?)といったように。
当時は増刊号のオープニングで、その週のどれか1つの曜日の歌と映像がランダムで使われていたが、カメラ割りから何曜日のものか区別できたものだ。
【19日追記】最終回では昼も夜のグランドフィナーレでも歌われた。「昨日までのガラクタを(チャッチャッ)」のカメラは、昼は1990年台後半の水曜と同じく正面からの“2段ズーム”。夜は、昔は1990年代後半は見られなかった、ステージに向かって右のアングルからの2段ズームだった。【←23日追記・右側からの2段ズームは、第1回放送ではやっていたので、初期は行われていたのだろう】
ただ、2度とも2段ズームが使われたということは、スタッフにとっても思い入れのあるカメラワークだったということだろう。(以上追記)

そういえば、NHKで1985年から1989年まで、タモリさん司会の「ウオッチング」という番組が放送されていた。その番組名は、ウキウキWatchingに掛けていたのだろうか。
※「ウオッチング」は「生きもの地球紀行」とか「ダーウィンが来た!」の前身に当たる番組。放送時間が30分と短く、テンポが良くて好きだった。エンディング(?)曲の「てれぱしいください」や、独特の音楽・映像とタモリさんによるタイトルコールも印象深い。

【19日追記】
●ネット局紹介
オープニングでタモリさんが歌い始めた辺りで、
「新宿情報ビルアルタより生放送 この放送は・・・・・・北海道文化放送/青森テレビ・岩手めんこいテレビ/秋田テレビ・(局名は上下2段表示、両端揃え)(略)・・・・・・以上31局ネットでお送りします」
というテロップがスクロール表示されていた。放送初期はたしか角ゴシック体、後述の1995年のテロップ変更時には明朝体系の「JTCウィンM」。
いつの間にか(タモリさんが歌わなくなった時か?)表示されなくなったが、当時はワイドショーなどでも同様の表示がよく行われていた。
【24日追記】ネット局テロップは、初期は角ゴシック→1993年10月から丸ゴシック→1995年10月からJTCウィンMと変遷したようだ。
(以上追記)


●定番フレーズ・アイテム
・「いいとも!」
タモリさんがオープニングで「今日も最後まで見てくれるかな?」、テレフォンショッキングの翌日ゲストに「明日来てくれるかな?」、エンディングで「明日も見てくれるかな?」と問いかけ、「いいとも!」と答えるのは、この番組に欠かせないものだった。(最終回でも「明日もまた~」だった)

2013年10月23日のnikkansports.com「「3カ月でやめる」故横沢氏いいとも秘話」では、元フジテレビプロデューサー横沢彪氏(故人)の21年前の話として、次のように紹介している。
横沢氏が居合わせた飲み屋で、品切れになっていた焼きそばを注文した客に、ママが「「(略)焼きうどんならあるけど、焼きうどんでいい?」と言われ、客は店中に響く声で「いいとも!」と言った。 」ことが「横沢さんの頭の中に強く印象に残り番組名になった。 」そうだ。

放送開始後しばらくすると、「~してくれるかな?」「いいとも!」は幅広い世代に流行語となった。
1987年3月かと思うが、僕が通っていた小学校の離任式でのこと。定年退職される男性の先生が、あいさつの最後に「~してくれるかな?」と児童たちに声を掛けた。(「~」の部分は忘れてしまったが、「これからも元気でいてくれるかな?」とか「先生のことを忘れないでいてくれるかな?」とかだったろうか)
子どもたちのほうは面食らってしまって声が出ず、先生が「『いいとも!』って言わなきゃ!」ともう1度やり直して「いいとも!」となったのだが、昭和2年生まれの人でも、小学校という教育現場でも、「いいとも!」は一定の認知や評価はされていたと考えられよう。

【16日追記】テレフォンショッキングでの「明日来てくれるかな?」は、紹介制でなくなった2012年春以降には、基本的には聞かれなくなり、「それでは明日よろしくお願いします」などとタモリさんが電話を締めくくるようになった。
その結果、相手の翌日ゲストが相槌に窮し、電話が中途半端に終わってしまうケースがよくあった。一方で、聞かれてもいないのに「いいとも!」と答える翌日ゲストも多かった。
多くのゲストはタモリさんよりも若く・芸能界の後輩であるから、聞かれていないのに「いいとも!」なんてフランクな返答(聞かれていないから「返答」ですらないか)をするのは、考えてみればタモリさんに対して失礼かもしれない。そう思って「いいとも」と言わなかったのかもしれない。

なお、紹介制に変わった直後はしばらくの間言っていたし、翌日のゲスト側から「聞いてもらえますか」と頼まれて言うことはあった。2014年3月20日に、翌日のゲストであるアベ総理の代理として電話に出た秘書官に対しては、「代理で『いいとも』言っていただけますか?」と前置きして「明日来てくれるかな?」があった。(以上追記)



他にも、いくつかの言葉やアイテムなどがいいともから広まった。タモリさんが単独で出演し、最初から最後まで放送されていたテレフォンショッキング発祥のものが多い。
・「友達の友達はみな友達だ、世界に広げよう友達の輪、輪っ! 」
1987年頃まで、テレフォンショッキングのゲストが声を発し、タモリと観客が続けて「輪っ!」とやっていたそうだ。僕はなんとなく記憶にある程度。

上記日刊スポーツの横沢氏のインタビューによれば、これは坂本龍一氏が出演した際、日本航空の鶴のマーク(鶴丸)は、「あれは『世界に広げよう、友達の輪』という意味なんだ」と話したのにタモリがのって、始まったそうだ。

・テレフォンショッキングの流れ
ここで、テレフォンショッキングのコーナー内の流れを簡単に(時期によって差があるが、1990~2000年代を基準)。
CM明け→テーマ曲→タモリの雑談→テレフォンアナウンサー紹介→ゲスト登場→花・電報紹介→ゲストの告知→トーク→CM→友達紹介→CM
トークをするテーブルは、長らくセットに向かって右寄りに置かれ、中央は空いていた。末期は中央に移されたが、タモリさんは「なんで今まで隅っこでやってたんだ?」と疑問を呈していた。

・タモリの雑談と観客の相槌
1990年代前半には確立されていたはずで、末期にはなくなっていた。
タモリは「こんにちは」「今日はいい天気ですね」とか「今日はこどもの日ですね」とか当たり障りないことを話し、観客が「そうですね」と声を揃えて返す。
話は「明日はだいぶ暑くなるみたいですよ」「そうですね」「東京は30度超えるらしいですよ」「そうですね」と続き、「あ、一人『えーっ!』って言った」とか「ウソだよ!」といった感じで終わる。

・テレフォンアナウンサー紹介
1987年以降はフジテレビのアナウンサーが原則曜日ごとに出演し、電話の取り次ぎを行う。(それ以前はスタッフが行っていた)
「今日のアナウンサーは山中くんでーす」とタモリが紹介する。後期は男性はくん付け、女性は呼び捨て。

・花・電報
ゲストへ生花が届いて並べられるのは最後まであったが、昔は電報も届き、一部をタモリが読み上げていた。
後期には、押し花とかメロディ付きとかキャラクターのぬいぐるみ付き電報がよく届き、電電公社→NTTにはいい宣伝になったことだろう。

生花には、「○○さん江 ○○より」といった札が付く。最後のほうまで、タモリさんは「贈った側(○○より)の文字が大きすぎる。特にジャニーズ系」「贈った側の名前の表記などいらない」といった趣旨の発言を繰り返していた。
しかし、ある日(ここ1年くらいか?)、「今まで言っていたのは間違いでありました。贈り主の名前を書くものだそうです」といった訂正をした。
たしかに、お葬式の花なんか贈り主の名前しか書かないから、それと同じ考え方か。

・「髪切った?」
登場したゲストに対し、タモリが「髪切った?」と聞くというのは、コージー冨田のものまねで広がったそう。【2016年1月2日追記】「さんまのまんま」での明石家さんまの発言によれば、明石家さんまが髪を切った時、番組内でタモリが言ったとか。
【16日追記】否定表現である「んなこたぁーない」も同様か。

・「これ張っといて」
ゲストが発売するCDとか出演する作品などのポスターを持参することがある。
タモリはポスターを受け取り、「おーい。これ張っといて(ちょうだい)」と青年隊に渡し、直ちにボードに掲出される。2013年まで行われていたそうだ。

【7月1日追記】
・トークの内容
トーク本体の内容は、ゲストやタモリさんの興味によってさまざま。
いいとも終了が分かった翌日・太川陽介がゲストの時は、路線バスの旅の話で盛り上がって、それだけで終わってしまった。
タモリさんと親しい井上陽水の時(2013年3月25日?)は、地名の音の響きの話題になり「川崎市高津区」の「タカツク」が好きだという話題。他のゲストの時も、タモリさんの地理的な話題で盛り上がることが多々あった。
タモリさんはミュージカルが嫌いなのは有名で、ミュージカルに出演するゲストは気まずそうな時も。
【9月6日追記】
双子のマナカナが出た時は、「目の下にほくろがあるのが、カナ」という話になり、タモリさんが「だったら『ほくろかな』で2人の見分け方を覚えられる」と提案。以後、本人たちも他の場面で見分け方として紹介しているようだ。
【9月23日追記】
作家の阿川佐和子が出た時は、東海道新幹線の3つ目の列車の愛称が「希望」を覆して「のぞみ」に決まったのは、決定委員をしていた阿川の発言(父の阿川弘之の「日本の列車名には大和言葉が使われてきた」)によるものであるという話が出た。
別の人の時は、地名「保土ヶ谷」の由来とか、いろいろ勉強になったものだ。
(以上追記)

・「えーっ」
トーク終盤。タモリが「そろそろ(次回出演の)お友達を…」と水を向け、ゲストが友達の名を述べる。
青年隊が顔写真を表示するディスプレイ(後期はマッキントッシュで、青年隊が操作して表示させていた)を運び、アナウンサーは電話をかける。

最後の何年かはなかったのだが、「そろそろお友達を」の時、観客は「えーっ!」と声を上げることが多かった。「もう終わってしまうの」という意味。
しかし、そのタイミングが遅れると、ゲストが友達の名前を述べたのと重なってしまい、「そんな人が友達なの!」「そんな人が明日のゲストなの!」という意味に取れてしまいそうな時もあった。(たまにタモリさんが指摘していた)

・拍手の止め方
拍手の最後を、チャッ、チャッチャッチャッと止めるのも、いいともでタモリさんが始めたのではないだろうか。
平成初期・1991年頃には既に存在したはず。

・「福井さーん」
タモリさんは、(テレフォンショッキング以外の)コーナー中、効果音の真似(尺八とか特定の音色)をしたり、メロディに「毛毛毛毛 カツラ」などテキトーな歌詞を付けたり、ゲストや一般人にテキトーに「アテレコ」したりして“遊んで”いた。ちょっとしたものまねも。
1993年から1999年まで放送されていた「料理の鉄人」において、太田真一郎レポーターが福井謙二アナウンサーを呼ぶ時の「福井さーん。フクイサフクイサフクイサーン」の真似が好きだった。
【8月7日追記】タモリさんは放送中はほぼずっとハンドマイクを持っていたはずだが、1990年台中盤以降はピンマイクもつけていた。上記のようなアテレコをする時は、ピンマイクを服ごと口元へ持ってきて、それに向かってしゃべることがほとんどだった。

【2016年6月4日項目追加】
・「ナカイクン」
「福井さん」と同様のものまね(?)。
最後は火曜レギュラーだった(1994年から出演。曜日は何度か変遷)SMAP中居正広が登場した時に、観客が呼ぶ「中居くーん」がモチーフ。
「ナカイクンナカイクンナカイクン」で始まり、「ナ」が省略されて「カイクンカイクンカイクン…」と続く。


●出演者とコーナー
上記の通り、出演者は幅広く、コーナーもさまざまだった。1回限りで終わってしまったコーナーもあり、全貌は誰も把握できないだろう。
曜日ごとに全体的な傾向というか性格が違うような気もしたし、お笑い業界の変遷に伴うその時期(年代)による違いも当然あるだろう。

初期に所ジョージがレギュラーだった頃「永久自然渋滞」という話があったそうで、よく分からないが高尚な感じ。
「トータライザー」というスイッチを持った観客100人に質問をして、その人数を当てるようなコーナーは形を変えて何度も存在した【2023年11月12日補足・テレフォンショッキングの一部(100人中1人、もしくは指定した人数と一致すれば、ストラップがもらえる)として行われたほか、曜日コーナーだった2000年前後には女刑事とかノーパンだとかの人数を尋ねて、盛り上がった)】。
他の番組でやったことを二番煎じしたようなものもなくもなかった。(1990年代後半の田原俊彦の「ニクタイ」というコーナーで、針金ハンガーをかぶると、勝手に首が動くというのがあったが、それは「探偵ナイトスクープ」が先だ)

主に末期に多かったが、注目されつつある人を、レギュラーではないものの、レギュラー並みに出演させたこともあった。
渡部陽一(戦場カメラマン)、スギちゃん、林修(予備校講師)、ふなっしーなど。
【7月1日追記】2012年から終了まで水曜レギュラーだった栗原類が「ネガティブなイケメンモデル」として人気になったのも、この番組の影響。(当初はコーナーのゲストだったはず)【7月20日追記】同じく2012年から月曜レギュラーだったスポーツ系タレント(?)武井壮も同様。

2000年前後には、バラエティ番組には場違いかのような年齢の高い文化人も出演(こちらはちゃんとしたレギュラー扱い)し、それはそれでけっこうおもしろかった。以下、カッコ内は出演期間。
志茂田景樹(1992~1994。奇抜な衣装の作家。出演により音痴なことが判明)、福井敏雄(1995~1996。「寒冷じぇんしぇんがぁー」で知られる気象キャスター。晩年は探偵ナイトスクープ顧問)、野村沙知代(1996)、松岡憲治(1996~2000。TBS定年退職直後)、橋田壽賀子(1998~2001)、ピーコ(2000~2011)、おすぎ(2002~2011)、浜田幸一(2002)など。

いいともが、こうした人の人気上昇に大きな役割を果たしたと言えよう。


●1990年代後半
個人的に、いいともをいちばんよく見て、いちばんおもしろかったと思うのが、大学生だった1990年代後半。
1998年5月11日に放送4000回を迎えていて、32年の折り返しだった頃となる。
また、1995年10月にはプロデューサーが交代して、リニューアルがあったそうだ。この時から、テロップ(青文字の)が丸ゴシックから太い明朝体に変わっており、いいともの特徴の1つとして印象に残っている。(ずっと「平成明朝体」だと思っていたが、それは2011年からで、それ以前は「JTCウィンM」というフォントだったらしい)
【24日追記】テロップは、最初は手書き(上記系列局表示は角ゴシック)→1993年10月から丸ゴシック→1995年10月からJTCウィンM→2011年から平成明朝と変遷したようだ。丸ゴシックは期間が短かったが、大きくてやや文字間隔が広めで、好きだった。

当時のレギュラーは、明石家さんまが1995年秋で降板し、初期からの今や大御所となった芸人はほとんどいなかった。
代わりにSMAPの3人、東野幸治、勝俣州和などが入り、ほかには加藤紀子、リサ・ステッグマイヤー、田原俊彦、鈴木紗理奈、千秋、つぶやきシロー、ふかわりょう、ユースケ・サンタマリア、シャ乱Q、ゴスペラーズなどが印象にある。
上記、天気予報の福井さんはなぜか記憶にない。

あとはレギュラー扱いではないが「ミスターマッスル」。1997年に金曜日のオープニングコーナーに登場し、曜日を変えて1999年まで出演。
健康器具の通販番組をモチーフにしたコーナーで、筋肉質の外国人が出てきて、日本語吹き替えのように声優(幸野善之)がアテレコする。「夜空ノムコウ」を歌ったり【2022年8月29日追記・T.M.Revolution「HOT LIMIT」も】、タモリさんに「うるさいぞタモリ!」など横柄な言動をする一方、上記のようにタモリさんにテキトーにアテレコされたりしていた。
正体はイラン人のタレントで、現在は「ランディ・マッスル」として活躍中。2008年に爆発火災現場からけが人を救出し、ニュースのインタビューに答えていた(ちゃんと日本語で)。いいとも最終回にも出たそうだ。
【2015年6月11日追記】2015年5月頃放送の「モヤモヤさまぁ~ず2」の田園調布の回で、マッスルが経営するエステショップが取り上げられた。オーナーであるマッスルがたまたま居合わせ、さまぁ~ずと往年の吹き替えを再現したり、松やにパックを施したりした。

あとは水曜日に安斎勝洋先生(【19日追記】「開運アドバイザー」の肩書きで)が出て、「ガッと来ますよ」と姓名判断や家相判断をするコーナーがあって、そこに爆笑問題がいたような記憶があった。
しかし、Wikipediaによれば、安斎先生は1999年3月まで、爆笑問題は2000年4月からだそうで、重なっていない。誰かと勘違いしているのだろうが、記憶っていい加減なもんだ。【19日追記】安斎先生のアドバイスの前に、爆笑問題の太田さんがふざけていた(ゲストの似顔絵をかいたり、いい加減なアドバイスをするなど)気がしていたが、タモリさんがやっていたのかもしれない。
それにしても、この頃のいいともをDVDにして発売されたりしないだろうか…

【2015年1月5日追記】いいともの中で安斎先生が「財布に紙幣を入れる時は、向きを揃えて上下を逆にして入れると、お金が逃げていかない」と話したのを聞いて以来、僕はずっと実践している。逃げていかないかどうかはともかく、向きが揃っていると気持ちいいし分かりやすくて、やめるつもりはない。

【2019年4月17日追記】安斎勝洋氏は2018年9月15日に73歳で亡くなった。訃報はテレビでは伝えられなかったと思うが、新聞には小さく載り、いいとも出演に触れたものもあった。(以上追記)


●5時間遅れのウキウキWatching
大学生当時だから、青森で見ていた。
フジテレビ系列局がない青森県では、TBS系列の青森テレビ(ATV)が、夕方に遅れて放送していた。
※青森県の一部地域では、越境電波やケーブルテレビ経由で、隣接地域のフジテレビ系列局を視聴できるが、弘前ではいずれも不可能。

オープニングのタモリさんが現れる辺りで、画面上部に「この番組は今日正午から収録したものです」とかいうテロップが表示され(【19日追記】上記の「アルタから生放送」のテロップと同時に表示されていたはずだから、ややこしい)、さらに夕方なのに「お昼休みはウキウキWatching」が始まると揶揄されることもあったが、ある意味、お昼より見やすい時間かもしれない。ただし、JNNの報道特番が入った場合は、放送休止されてしまうことがあった。

以前は、フジテレビ系列局がない、もしくは他系列と掛け持ち(クロスネット)の地域が多かったため、このように遅れてネットされていた所が他にもいくつかあった。しかし、晩年には青森テレビだけになっていたという。

青森テレビでの放送が始まったのは、いいとも開始後1年経った1983年10月3日で、当初は16時00分からだったそうだ。
また、当初は「笑っていいとも!増刊号」も日曜の午後に放送していたそうだ。

僕が青森にいた1990年代後半では、平日は17時00分開始で、増刊号の放送はなかった。
その後、18時台のニュース番組の前倒しスタートに伴い、16時55分、最終的には16時45分始まりになっていた。
青森テレビホームページより
若干おかしな番組表で、「森田一義」の日(月木)と「タモリ」の日がある。さらに2013年3月でレギュラーを降板した三ツ矢雄二さん(隔週水曜)が、最後まで出演していたことになっている。

ちなみに3月31日の最終回は、TBSの番組編成上、1時間早い15時45分から放送された。

グランドフィナーレ特大号は青森では放送されず、青森テレビで見ていた人には消化不良に終わってしまったかもしれない。

フジ系列局がない青森にいながら、フジテレビのアナウンサーや番組告知を見るのは、不思議なようなもどかしいような気持ちがしたものだが、楽しみだった。
地井武男さんがテレフォンショッキングに出た時は、当時CMキャラクターを務めていたみちのく銀行から花が贈られ、地井さんがその旨説明していた。

直接関係ないが、青森でのいいともでは、ローカルのスポンサーが多く付いていた。(秋田でも「エスエム自動車商会」とかあった)
以下、うろ覚えだけど、こんなもの。
・地井さんの「便利なみちのくミニバンク(ヘイ!)」
・「ひろさぎからも、はぢのへからも来るんだよぉー」「修理もやっでらおん」の青森市の家電店「ザ・ビデオ屋」
・「あずましいバスだのぉー」の観光バス会社
・黒石八郎さんの「湯っこでも水っこでも2~3分」の「おさきんのナット昆布」
・小泉八雲をイメージしたかのような「湯瀬ハ トッテモ イイ所デス」の湯瀬ホテル

いいとも終了後は、TBSのニュース番組「Nスタ」を17時台からネットするようになった。


●終了決定
いいとも終了が明らかになった経緯。
2013年10月22日火曜日のエンディングで、木曜レギュラーの笑福亭鶴瓶が“乱入”。「(終了するという話を聞いて)確かめに来た」と尋ね、それをタモリが肯定する形で、いいとも終了が告知された。
タモリは、フジテレビ、出演者、国民への感謝を述べ、30歳でこの世界に入って6年目で始まったこの番組で、初めて芸能人として認められた。などと話した。
「いいともが終わる」という話は、この数年前からネット上などで散見されたが、サザエさんやドラえもんと同じような都市伝説的なものかと思っていたが、唐突に現実の話になった。驚いたものの「やっぱり」という感想も持った。「いいともは継続するが司会者が交代する」という噂もあったが、それは否定されたことになる。
【19日追記】2013年7月から2014年1月にかけては、曜日別コーナーのうち1つ以外にはタモリさんが一切出演しない事態になった。
表向きはリニューアルの一環ということだったようだが、体調不良説やタモリさんと制作側の間で何かあったのではないかと、ネット上などで話題になったが、番組終了と関係があったのかどうか…(以上追記)

残り半年は、テレフォンショッキングのゲストに大物が出たり、終了を前提にした内容も多かった。
1月13日の宮根誠司との会話では、開始当時のタモリは昼の番組にはふさわしくない人選であり「今で言えば江頭2:50を起用するようなもの」だとした。
ほかには(別の日)、タモリの服装は、月曜から金曜に向かってフォーマルからカジュアルという、1週間の中で方向性を持って選んでいたことも明らかにした。
3月21日金曜日(春分の日)には、アベ総理大臣が出演してしまった。


●最後のEPG
最後に、最終回の電子番組表(EPG)を記録しておく。
 3月30日・増刊号の最終回
出演者の表記が「○曜レギュラー ほか」で大雑把

31日お昼の最終回。
これは数日前の詳細が記載されないバージョン。「番組概要」に出演者が表示されている
全国的なのか知らないが、秋田では他の番組・局でも、雑な番組説明が多い気がする。
 直前のバージョン。感謝の言葉が入った



いいともが始まった1982年は、東北・上越新幹線の大宮暫定開業(JRでなく国鉄)、500円硬貨やテレホンカード(NTTでなく電電公社)の登場、コンパクトディスクの本格的生産開始、青春18きっぷ(の前身「青春18のびのびきっぷ」)の発売開始などがあった。
その後、バブルとその崩壊、昭和から平成へ、インターネットの登場、テレビのデジタル化等々、さまざまな変化の中、いいともは放送されてきた。

僕は放送開始時は幼稚園児だったのが、今は放送開始当時のタモリさんの年齢とほぼ同じ。タモリさんはそこから還暦過ぎまでやったのだから、気が遠くなる。


笑っていいともを第1回から最終回まで欠かさず見たという人はきわめて少ないだろう。見ていたとしても、昼休みや昼食中のながら視聴が多く、記憶に残らないことも多いことだろう(僕も1990年代後半を振り返ってそう感じた)。
しかし、長きにわたって日本の昼を象徴するテレビ番組として存在し、多くの人に親しまれた番組だった。

32年の間に時代が変化し、テレビというメディアも変化した。
最近は食べ物や買い物、芸能人の家を訪問するような似通った番組が多かったり、「芸人」なのに芸をせずに内輪のことをしゃべっているだけのバラエティ番組が少なくない。笑っていいとものような番組は、この先は成立しないだろう。


※この記事ではいいとものタモリさんのことを「司会(者)」と表記した。
しかし、今は司会者のことを「MC(master of ceremoniesの略)」と呼ぶのが主流のようで、近年はいいとものタモリさんも「MC」と呼ばれていた。
一般人でも相当認知されてきた(使うことは少ないが、意味が分かるということ)が、元々は業界用語的なもので、それを番組内で出演者が使うようになったのが広まったのだと思う。
個人的には、番組=「ceremonies」には違和感があるし、「エムシー」より「シカイ」のほうが短くて言いやすい。あえてMCと呼ばなくてもいいと思うのだが。「結婚式のMC」とか「葬式のMC」とは言わないし…

【12日追記】昨年流行ったNHKの朝ドラ「あまちゃん」が終わって、喪失感を覚えることは「あまロス」と呼ばれた。
それに引っ掛けて、笑っていいとも終了による喪失感を「タモロス」と呼ぶのだとか。「いいロス」ならともかく、「タモロス」ならばタモリさんがいなくなった(引退したとか亡くなった)ように感じられてしまい、不適切だ。
ミュージックステーションやタモリ倶楽部で、タモリさんには引き続きお会いできるのだから。

【15日追記】最後の半年間で、おもしろく見たコーナーが2つあった。
1つは金曜日の「劇団ひとり企画負けず嫌いマッチ」。劇団ひとりが発案したもので、例えば「2人が即興芝居をし、その流れの中で相手を殴れば勝ち」といった、メチャクチャな内容。(しかも対戦する2人でないタモリさんが割り込んできてちょっかいを出し、結局タモリさんが殴られてしまっていた)【7月1日補足・「譲り合う椅子取りゲーム」、劇団ひとりが卑怯な手段を駆使する「メンタリスト省吾」などもあった】
もう1つは木曜日の「なりすましタモリを探し出せ! タモレオン!」。ある職業(「船長」とか「料理人」とか)のホンモノ2人とそれになりすましたタモリの中から、レギュラーが質問をしてタモリを当てるもの。(ボイスチェンジャーを通した声だけで推理する)
こういうのがほんとうのバラエティ番組だと思う。

【31日追記】
1983年末公開の映画「男はつらいよ 口笛を吹く寅次郎」でこんなシーンがあった。
久しぶりにとらやへ帰った寅次郎が、店先でおばちゃんに向かって「頭を整理したいから、ちょっと2階で休んでいいかな」と尋ね、おばちゃんは「いいともいいとも」と答えていた。
もちろん手振りはなく、ごく普通のセリフの一部ではあったが、時期を考えると、「笑っていいとも」を意識したセリフだったかもしれない。

【2015年1月2日追記】
いいとも終了後しばらくの間(2013年夏か秋頃まで?)、サントリーフーズの缶コーヒー「BOSS」のテレビCMで2006年から続く「宇宙人ジョーンズの地球調査シリーズ(主演:トミー・リー・ジョーンズ)」で、タモリが出演して、いいとも風のバラエティ番組が舞台となったものが数パターン放映された。
ジョーンズがテレフォンショッキング風のコーナーに出演するもので、いいともを知る人なら誰もが、いいともを連想するような雰囲気のセット。
タモリは「スペシャルゲストです」とジョーンズを紹介し、テロップや名札は「宇宙人 ジョーンズ」。
「髪切った? 宇宙人って髪伸びるのかね?」というセリフや、翌日のゲストを紹介する段で観客が「えーっ」と言うのが“再現”された。
次の日のゲストは「宇宙人 ダダ」。
ジョーンズの「この惑星のテレビは、タモリがいないと寂しい」のナレーションで締めるバージョンもあった。

【2016年3月3日追記】
2016年3月31日をもって、スタジオアルタのスタジオとしての営業が休止されることになった。スタジオは1980年4月から36年間続いた。
ファッションビルとしては「新宿アルタ(新宿ダイビル)」だそうで、営業継続。スタジオは7階にあった。

【2019年11月15日追記】思い出したこと2つ。「スガシカオ」と「バンズ」を初めて知ったのが、いいともであった。
・おそらく弘前で見た1990年代後半。上から読んでも下から読んでも同じ「回文」の(視聴者投稿?)コーナーがあった。
(鑑定団のアシスタントを長く務めた)吉田真由子がゲストで来た回で、彼女自身が読み上げて紹介。
「お菓子が好き好きスガシカオ」
僕だけでなく、吉田さん自身がスガシカオを知らなかったようで「清し顔」みたいなイントネーションでやや戸惑いながら読み、観客の反応も微妙だった気がする。スガシカオの説明はなく、そのまま進行。
スガさんは1995年デビュー、1998年「夜空ノムコウ」の作詞で注目されるようになったらしい。ヒットチャート10位に入るのは2002年以降。

・2010年前後のテレフォンショッキング。ゲストの友近が「最近はハンバーガーのパンのことを『バンズ』って言うんですね」と発言(最近気になること的な話題か?)。
タモリさんも知らず、「んなこたぁない」みたいなリアクションだった。
本来は、ハンバーガーのみならず丸いパンのことを指すらしいが、その後何年か経って(2010年代中頃?)、ハンバーガーのパンのことをそう呼ぶのが、若干、広まった。いいともと友近さんの観察力のおかげで、いち早く知ることができた。
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最近のパン 他

2014-05-08 20:40:51 | ランチパック
パン類の話題をいくつか。
●さらに由利高原鉄道シリーズ
たけや製パンが3月に第1段4月に第2段を発売した「由利高原鉄道シリーズ」。5月もひっそりと新商品が出ていて、ホームページによれば「ミルククロワッサンドーナツ」と「メロンみるく蒸し(←尻切れとんぼなネーミング)」。(4月以前のものも発売継続)
4月発売のものをさらに2つ食べた。
ミルクなホットケーキ ジャージー練乳クリーム&粒あんサンド
「洋生菓子」扱いで、2枚1組×2個入りという、通常のホットケーキやローソンからたけやが受託製造した金足農業のパンケーキと同じ系統。
あんこもクリームも多め
ジャージー牛乳は生地に入っている。練乳クリームがいい感じで、おいしい。

ミルクまんじゅう こしあん
中身はこしあん1種類だけのようだが、これより小さいのが6個入って1セットになったのものもある。
高さがある
前から言っているように、たけやはあんこを作るのがなかなか上手で、和菓子の味はあなどれない。
これはあんこに加えて「皮」がユニークでおいしい。ジャージー牛乳が入っているだけあって、ちゃんとミルクっぽい味を感じる。


●マックスバリュ限定
4月16日から、秋田市に本社を置くマックスバリュ東北の店舗限定で4種類の菓子パンが発売された。たけや製パンが製造する。

マックスバリュ東北の4月15日付ニュースリリースには、「株式会社たけや製パン様と協働開発したオリジナルパンを期間限定で発売いたします。」とある。最近は役所などで「協働」という言葉が流行しているが、この場合は「共同開発」でいいんじゃないかな。あえて「協働」とした理由はあるのかな…

マックスバリュ東北は、現在は秋田、青森、岩手、山形、新潟の5県で店舗展開するが、そのうち新潟を除く4県の農産物を挟んだ「ふんわりロール」というパン。
秋田のジャージー牛乳、岩手の山ぶどう、山形のラ・フランス、青森のりんごをそれぞれ「使用したフィリングをサンドしました」。

「物流網と店舗網の活用により、秋田県はもちろん、岩手県・山形県・青森県・新潟県のマックスバリュとザ・ビッグで販売いたします。」そうで、約100店。(同社運営でもウエルマートでは発売されていない可能性がある)
たけやの製品が秋田県外にも広く流通することになる。
いずれも1個税込み100円。5月中旬まで24万個を販売予定。

ということで、マックスバリュ東北とたけやのお膝元である秋田市内のマックスバリュへ行ってみたのだが、店によるのか時間帯によるのか、在庫がなかったり、全部見切り品に寄せられたりしていることもある。
ふんわりロール 青森県産りんご 291kcal、ふんわりロール 秋田県産ジャージー牛乳 296kcal
包装にはマックスバリュの「マ」の字もなく、知らない人は通常のたけや製品だと思ってしまう。
また、「秋田県産ジャージー牛乳」についてそれ以上の言及(牧場名等)はない。おそらく花立牧場工房ミルジーだと思うけど。

さて、パン業界では「フィリング」という言葉をよく使う。
このふんわりロールでも、「りんごを使用したフィリングをサンド」とある。僕はあえて「ジャム」と表現しないからには、何かクリームみたいにしたものを挟んでいるのかも、と期待していた。(僕はジャムパンはあまり好きでないので)
大きくて食べごたえがある
中身は、
なーんだ
おそらく「ジャム」と呼べる条件を満たしていないのだろうが、要はジャムパンだ。量はやや少なめ。
この大きさでこの価格なら、仕方ないか。

ジャージー牛乳のほうはクリーム状で、おいしかった。白いパンは柔らかくて食べやすい。

※2015年6月に第2弾が発売された。


●派生商品ラッシュ
たけやの5月の新商品から。
まずはロングセラー商品の派生商品が盛ん。
少々予告したように、「学生調理」をベースにした「中年調理」3種。パッケージの色と具は、緑が「チーズササミカツ&ごぼうサラダ&焼ビーフン」、赤が「メンチカツ&カレーキャベツ&焼きそば」、黒が「油淋鶏&チーズポテト&ナポリタン」 。
仕入れ量が少ないもしくはゼロの店もあり、入手は難しいようだ。なお、要保冷なので、菓子パン売り場ではなく、サンドイッチ類と同じ売り場に置かれている店が大部分なので、置いてあるとしても見つけにくい。
※これについての新聞報道で、学生調理の発売が1986年であること、当初は高校の売店向け限定の商品で、人気が出たため後に一般向けにも販売したということが分かった。
【5月16日追記】朝日新聞秋田版によれば、「5月中の期間限定の予定だったが、売れ行き好調のため、販売期間の延長を検討している。」
また、たけやは「パンの県内シェア約6割の地場大手。」だそう。もっと高いと思っていたが、そんなもんか。

「アベックトースト」初の派生商品として2012年10月から発売されて、後に発売終了となった「メープル&マーガリン」が、包装を少し変えて再登場。
「粒あんグッディ」の派生商品(初?)として、「塩練乳フィリング」を入れた「あん練乳グッディ」、背割れコッペにコーヒークリームを入れた「コーヒー」にチョコホイップを入れた「Wコーヒー&チョコホイップ」も登場。


●ここはどこ?
5月のまったくの新商品として、たけやのホームページで推しているのが、「ここ。北海道 DELICIOUS HOKKAIDOU」なるシリーズ。いや、ここは秋田ですけど…
ホームページには5種類出ていて、いずれも北海道産の原料を使っているということらしい。「ポテトサラダパン」「かぼちゃあん&ホイップ」「ソフトフランス練乳」「練乳クリーム北海道」と、
カスタード&ホイップ 346kcal
「北海道産の牛乳が入ったカスタードとホイップクリーム、シュークリーム感が味わえるドーナツです。」

まあ、クリームがおいしい、柔らかいドーナツといったところ。

【10日追記】パスコ(敷島製パン)でも、「北海道こだわり素材」として、北海道産原料を使った5種類のパン類は今月から6月まで発売している。


●S14Yの謎
最後にたけやから離れて。
複数の製造拠点がある食品メーカーでは、その商品がどこで製造されたかを分かるようにしなければならないことが法令で定められている。
パンなどでは工場名を直接記載しなくても、「製造所固有記号」で記すことができる。その場合は消費者庁に届け出て、顧客から問い合わせがあった時には教えなければいけないことになっている。

ここで、イオンのプライベートブランド、トップバリュシリーズのパン。
やわらか仕込み食パン使用 シュガーマーガリンブレッド 305kcal(製造所による違いなのか301kcalのものも存在する模様)
4月9日に新発売ということのようだが、それ以前からあって包装が異なった。(トップバリュシリーズでは、包装デザインのリニューアルを進めている)新パッケージでは、栄養成分が表面と裏面両方に記載されている。

税込み78円とずいぶん安いが、パンが1枚しか入っていないから。
柔らかくて味が優しく、けっこう好き。シュガートーストといえば、イギリストーストかこれかな。

これも製造所固有記号が表記されているが、裏面には、
「宮城県の工場で作っています。」
今までなかった、工場の所在地が表示された。(上記301kcalのは埼玉県で作られたもの)

昨年、工場の従業員による冷凍食品農薬混入事件があった。
製品の回収が遅れたのには、プライベートブランド製品において製造所固有記号しか記されないため、回収対象商品かどうかが分かりづらかったことも一因とされた。
それを受けて、イオンではパッケージをリニューアルし、工場所在地を記すことにしたのだろう。(だったら製造所名そのものを書けばいいようにも思うが…)
【11日追記】パン以外のトップバリュ商品の新パッケージでは上記と同じ書式で「国内の工場で作っています。」と表記しているものもある。マヨネーズと紙パックジュースで確認。ということで、必ずしも製造地を具体的にを明らかにするために表示しているのではないのかもしれない。【13日追記】食用油は県名を表示していた。法則が分からない。


山崎製パンでも、製造所固有記号を表示している。
自社工場はすべて「Y」から始まる記号であり、公式ホームページでも説明されている。
例外が、当ブログではおなじみの「TK」と「KD」。(ホームページには掲載されないが、Wikipedia等には出ている)
ヤマザキと関係がある、たけや製パンと工藤パンの工場で受託製造しているもの。自社工場製では「製造者」となっている山崎製パンの社名や所在地が、委託分は「販売者」として表記されている点でも識別できる。(この辺りも法令で定められているようだ)

BIGナポリタンロール 289kcal
ヤマザキのこんな製品があったのだけど、その製造所固有記号。
「S14Y」!?
初めて見た。
「Y」で始まらないし、裏面を見ればヤマザキが「販売者」になっている。
ということは、山崎製パン以外の企業に委託していることになる。たけや、工藤パンに次ぐの新たな提携先ということか?
東北地方近辺なんだろうけど、どこだろう? ヤマザキに聞けば教えてくれるだろうけど。
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