広く浅く

秋田市を中心に青森県津軽・動植物・旅行記などをご紹介します。

長崎惣之助

2014-05-13 23:59:20 | 秋田のいろいろ
今年4月16日、韓国の国内フェリーが転覆・沈没事故を起こし、乗り合わせた修学旅行の高校生を中心に、多くの犠牲者・行方不明者を出している。
運行会社ぐるみで過積載など不適切な運行を行ったのが直接の原因のようだが、沈没まで時間があったのに船長を含む多くの乗組員が適切な避難誘導をせずに自分らだけとっとと脱出したり、救助活動が上手くいかなかったり、国の監督体制も批判されたりしているようだ。


事故発生直後の日本では、「霧の中で事故が発生し、修学旅行生が乗っている」という情報しかなかった。
朝日新聞の「天声人語」でも触れていたが、僕がそれを聞いて頭をよぎったのは「紫雲丸(しうんまる)事故」だった。

59年と2日前の1955年5月11日に、当時の国鉄・宇高連絡船(うこうれんらくせん。岡山の宇野と高松を結ぶ、青函連絡船と並ぶ主要な国鉄航路)で発生した沈没事故。
霧の中で別の連絡船(貨物船)と衝突して数分後に沈没、168名が亡くなった。中国四国地方の複数の小中学校の修学旅行生が乗り合わせており、児童生徒100名、引率者8名が犠牲となった。
※紫雲丸事故では船長が死亡したこともあって、はっきりと原因は解明されていないようだが、韓国ほどずさんだったわけではないはず(国鉄や船員の非がなかったわけではないのも確かだろう【14日追記】沈没までの時間が短かったとはいえ、避難誘導が不適切だったとの話もある)。この事故が1つのきっかけとなって、学校のプール設置と瀬戸大橋の建設が促進されたという一面もあるとのこと。【16日補足】この事故をきっかけにして、学校における水泳授業が「始まった」というのは誤り。それ以前からあった。水泳授業が「本格的・全国的に行われるきっかけ」であり、そのために「プール設置が進められた」というのが正しいだろう。

この前年には、台風の悪天候下に青函連絡船で「洞爺丸事故」も発生しており、国鉄のトップである総裁が、紫雲丸事故のわずか2日後に引責辞任している。【14日追記】国会からの追求を受けての辞任で、事実上の更迭であろう。



その辞任した国鉄総裁は、長崎惣之助(ながさきそうのすけ)という人。
実はこの人は、秋田市の出身。

秋田市旭北寺町のとあるお寺の前に、このような石碑が立っている。
「第三代 国鉄総裁 長崎惣之助先生墓所」※逆光とお墓の工事(?)の車が邪魔でこんな写真ですが
ここは同じ敷地に3つのお寺が同居しているので、どのお寺かは分からないが、とにかくお墓も秋田市にあることになる。

碑はあまり古そうにも見えないが、僕は5年位前からその存在は知っていた。【8月13日追記】裏面に「昭和三十九年十一月建立」とあった。
鉄道好きとして、「国鉄総裁で秋田出身の人がいたのか」と感心したものだが、深く調べないでしまっていた。
しかも、「第三代」とあるのを見て、「日本の鉄道が始まった明治時代から数えて3代目」であり、相当昔の人だと思い込んでしまっていた。実際は、「国鉄」が発足したのは戦後(1949年。それ以前は「鉄道省」など)で、そこから数えて3代目なので、わりと最近(というほどでもないか)の人なのだった。
総裁就任は1951年8月25日から1955年5月13日まで。

ネット上には情報が少ないが、Wikipediaによれば長崎惣之助は1896(明治29)年生まれ、1962年没。
南秋田郡川尻村の村長の長男として今の川尻上野町に生まれ、川尻小学校、牛島高等小学校、旧制秋田中学校と秋田で過ごし、旧制一高、東京帝大卒後、鉄道省入省。戦前・戦中は鉄道官僚を務め、戦後は公職追放されるも復帰して、総裁になった。
辞任後は、1956年に秋田で参議院選挙に出馬するも落選、1962年に66歳で東京で亡くなった。
「マチャアキさんに顔が似ている」という情報を見つけたが、たしかにそうかも。あと東海林太郎にも。
【8月13日追記】亡くなった2年後に、お寺に碑が立てられた(昭和39年11月と裏面にあった)ことになる。11月7日が命日なので、三回忌に当たる。

【5月15日追記】
一部資料では長崎家の「三男」となっている。鉄道省入省直後は品川駅で助役をしたらしい。
総裁辞任後は「日本エアウエイ株式会社社長」を務めたようだ。三菱重工系列のモノレールに関わった「日本エアウエイ開発」という企業があったそうだが、それのことか? だとすれば、名古屋の東山公園モノレール(現在の動植物園のとは別)や湘南モノレールにフランスから「サフェージュ式」モノレールを導入した会社。(以上追記)


川尻村は1926(大正15)年に秋田市に合併している。
上野町とか総社神社辺りが村の中心部だったのは想像できるが、江戸時代までさかのぼれば、今の大町二丁目辺りが本村で、今の川尻地区は開墾された支村だったそうだ。
明治時代には、今の山王から川口境辺り一帯の広範囲が川尻村だったとのこと。(1980年2月1日「広報あきた」801号「秋田市ものがたり (20)川尻地区(1) 」)
お墓のある寺町も川尻村だったかもしれないし、高等小学校があった牛島は「河辺郡牛島町」という“隣町”だったはず(牛島町は1924年に秋田市に合併)。

長崎惣之助氏が子どもだった頃の川尻は、一面の田んぼだったのだろう。
牛島を通る羽越本線はまだ開通しておらず(1920年開通)、奥羽本線しかなかったが、秋田駅周辺の汽車の煙を田んぼの向こうに見て育ったのかもしれない。


長崎惣之助氏が総裁を務めた前と後には、多数の犠牲者を出す列車火災や脱線事故が相次いで発生し、2つの連絡船事故と合わせて「国鉄五大事故」と呼ばれている。
戦後の混乱から高度経済成長に差し掛かる時期で、設備も人員も不十分な時代だったのだろう。哀しいことではあるが、こうした事故を経験して安全な基準やシステムが確立され、今日の世界一安全な日本の鉄道が成り立っている。

1949年の国鉄発足から1987年の分割民営化まで、10代の国鉄総裁がいた。
僕が知っているのは、「新幹線の父」と呼ばれた、1955年から1963年までの4代目総裁・十河信二(そごうしんじ)だけ。
10人のうち、十河氏を含む8人が何らかの引責で辞任しているようだ。(そうでないのは高齢が理由の5代目と、国鉄最後の10代目)【15日訂正】初代総裁・下山定則は在任中に原因不明の死を遂げている(下山事件)。したがって、引責辞任は歴代10人中7人でした。訂正します。

国鉄では昭和40年代以降は、労働組合や赤字が大きな問題になり、今思えば鉄道事業が大きく停滞してしまっていたようにも思う。そして分割民営化に至ったわけだが、国鉄総裁というのは大変な仕事だったようだ。


長崎惣之助氏が総裁の間に推進した主要な事業が2つあるそうだ。
1つは、当時の西ドイツを参考にした小型の気動車「レールバス」の導入。これは、当時の技術や利用実態からは上手くいかなかった。
昭和末期になって、バスの設計を取り入れた気動車が登場したり、最近は道路も線路も走れる「DMV」が研究されたりしているが、時代が早すぎたのかもしれない。
【14日追記】実現はしなかったが、ワンマン運転や現在のLRTに通じる概念も検討されたようで、その面でも先見の明はあったと言えるだろう。

もう1つは、交流電化。
仙山線で1955年に試験運転、1957年に営業運転が始まり、現在は新幹線を含む多くの路線が交流電化されている。


ところで、秋田で長崎姓は多くないが、有名なのは水泳の長崎宏子さん(現在はスポーツコンサルタント)。
川尻小学校の小学生だった時にモスクワオリンピックの選手に選ばれ(政治情勢から不参加となって幻に終わる)たように、川尻の方。おそらく長崎惣之助氏と関係があるのだろう。
【2020年10月1日追記】2020年9月22日に、元秋田ステーションデパート代表取締役常務の長崎忠夫氏という方が82歳で亡くなった。存じ上げない方だったが、秋田魁新報に死亡記事(広告でなく)が載った。
それによれば、山形駅長などを経て97年から3年間ステーションデパート常務ということで、国鉄職員~JR東日本社員だったようだ。
記事の最後には「次女は競泳元五輪代表の長崎宏子さん。伯父は国鉄の長崎惣之助元総裁。」とあり、関係が分かった。

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5 コメント

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船の修学旅行 (あんなか)
2014-05-14 05:16:33
いつもためになる記事とご返事ありがとうございます。
韓国のフェリー事故は日頃日本に対する態度と国は違えど人事とは思えませんでした。
実は私も高校の修学旅行にて船で現場近くの海域を航行した事があるのです。
私の高校は本州で初めて中国への修学旅行を実地したのですが
当時修学旅行は規定で飛行機が使えず苦肉の策としてチャーター船の大島運輸所属「さくら丸」を使いました。
秋田港を出港して3日目にあの海域まで来ましたが
海は透き通った青色で丁度松島をスケールアップした風景が広がり済州島も見えていました。
つまり事故は後もう少しで目的地に着く海域で起こったわけで遺族の無念さが伝わってきます。

あの海域で印象深いのは船内のテレビで韓国のテレビが映ったことです。
チャンネルの配置が日本と違いますがカラー方式が日本と同じアメリカ方式のNTSCで「KBS2」1局だけ映りました。
驚いた事に日本のアニメ(多分ペリーヌ物語)を流していました。
当時から反日的な国と聞いていたので実際に行ってみないと外国の実情は分からないものだと実感しました。
次の日大陸に近づいた黄海の海水の色は真っ黄色でした。
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Unknown (たむたむ)
2014-05-14 11:34:18
さすが!
いつもながら、いろんな角度から
いろんな情報をありがとうございます。
知らなかった~!ってことがありすぎて、
勉強になります。

銀行の話題も、なるほど!と思いながら…
1文字違いの、執行役員さん!
ドラマの時は、色々と(周りの)反応が
すごかったんでしょうね~!
と、勝手に想像したりして・・・
そこら辺に、気が付くtaic02さんも、すごい!
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コメントありがとうございます (taic02)
2014-05-14 22:44:09
>あんなかさん
韓国の事故から時が経ち、最近は国や船会社の落ち度を中心にワイドショー的な取り上げ方が多くなってしまいましたが、学校行事の中で若者が犠牲になってしまったことはほんとうに痛ましいです。

秋田から中国へ船で修学旅行をされたとは、驚きました。飛行機で行くより楽しめそうな気もしますが、日程は非効率的だったでしょうね。
中国といえば、昭和末期に高知の高校の修学旅行で列車事故がありました。日本の戦後と似たような状況の事故だったようです。

>たむたむさん
ありがとうございます。
知らなくていいことばかりかもしれませんけどね…

倍返しだ! さんは、魁新聞に他の役員とともに顔写真・経歴入りで出ていましたから、気付いた人は気付いたようですよ。(以前から、若干話は聞いていました)
TBS系がない秋田では、一般の人はあまり流行らなかったかもしれませんが、銀行内では、(ドラマ化前から?)きっと持ち切りだったでしょうね~
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Unknown (wanp)
2014-05-15 00:45:20
国鉄総裁では、下山事件の下山総裁も有名ですよ。現役中に事件で亡くなっているのではないでしょうか。
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下山事件 (taic02)
2014-05-15 10:04:24
下山事件を忘れて(調べたのに見落として)いました。「初代」という認識はなかったですが、考えてみればそうですね。
ご指摘ありがとうございます。
返信する

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