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ごきげんようの思い出

2016-12-27 20:55:19 | 昔のこと
遅くなったけれど、今春終了したテレビ番組の思い出。2016年3月31日に放送を終えた「ライオンのごきげんよう」のこと。
「ライオンの」はスポンサーであるライオン株式会社(ハミガキとか洗剤の)のことで、単に「ごきげんよう」と呼ばれることが多かったので、以下、そう記します。敬称略。

放送はフジテレビ系列で月曜から金曜日の13時00分から30分間。※2015年度は5分繰り上げ。
もともとは1964年にライオンがスポンサーのドラマ枠として始まり、1984年10月に当時若手だった小堺一機を司会にしたトークショー「ライオンのいただきます」となる。裏番組として日本テレビ系で「ごちそうさま」という料理番組が放送されていたものを意識した番組名。
1982~2014年放送の「森田一義アワー 笑っていいとも!」の直後の枠であり、スタジオアルタを引き続き使っての生放送。したがって、当時は笑っていいとも増刊号でいわゆる“後説”を放送する「放送終了後のお楽しみ」コーナーはなかったことになる。
「いただきます」のコーナーはいくつか変遷があったそうだが、塩沢ときや淡谷のり子のような高齢の女性有名人とのやり取りが人気で、僕もその記憶がある。
なお、いただきます、ごきげんようとも、フジテレビ系列局がない地域では、他系列局で遅れて放送されていた地域があった。笑っていいともとは異なる局で放送する地域もあって、青森県では、いいともは青森テレビ、いただきますは青森放送で放送していたとのこと(ごきげんようは放送されず)。

企業としてのライオンが100周年を迎え、ロゴが変更された1991年1月に、「ごきげんよう」が始まった。
引き続き小堺一機が司会で、生放送ではない収録のトーク番組にリニューアル。
当初は一般的なトーク番組のスタイルだったが(なんとなく記憶している)、後にこの番組の代名詞である「サイコロトーク」が始まる。同年夏休み中の企画で試行したのが好評で、9月9日から正式採用された。

サイコロトークとは、
・1人のゲストが3日(回)連続して出演し、毎日1人ずつ入れ替わる。
・その日初回出演の人から1人ずつ順番にトークし、その間、他の2人は小堺とともに聞き役。1人ずつのトークの時間は決められておらず、適当なタイミングを見計らって終わりを促すチャイムが鳴る。
・「情けない話」「初めて○○した話」など話すテーマが書かれた大きな丸っこいサイコロがあり、トークの前にゲスト自身がそれを振る(床に転がす)。ゲストは出た“目”に沿った内容の話をしなければならない。
といったもの。

ゲストは、老若男女問わず幅広いジャンルから招かれ、同日に出演する3人は、この番組でなければ共演することはなかったであろう組み合わせのこともあった。男女のバランスは考慮されていたようで、男ばかりまたは女ばかりという回は、まずなかったと思う。
夏休みなどは、通常の流れを中断して別の3人を呼んで、3人とも1日限りということはあったが、このパターンが長く継続された。

放送期間が長かっただけに、常連のゲストもいた。
クリスマスに「明石家サンタ」の宣伝を兼ねた明石家さんま(小堺はトナカイの格好をする)、正月の北島三郎、夏の稲川淳二(怪談スペシャルになることも)、夏にアメリカから帰省して稼ぐ野沢直子など。
にぎやかにインパクトある話をする磯野貴理子もしょっちゅう来ており、ゲストとして最多の142回出演だそう。142というのは放送回数だろうから、3で割ると47.3回呼ばれたことになり、年に2回は出ていた計算。割り切れないのは特番などの関係?

視聴者から、その年(または半年)の放送でおもしろかった話を募る「ごきげんよう大賞」が年末などに放送されていた時期もあり、磯野貴理子は常連だった。「電車で乗り合わせた女子高生が、『バイト先でバーコード頭のオヤジをスキャンしてみたら、10円と表示された』と話していた」とか。

2004年にはグッチ裕三、その後にモト冬樹が出演した時は、三宅裕司夫人の天然エピソードを話し、三宅夫人の存在を知らしめた。「マソリン、ガンタン」とか「『口紅を拭いてください』と言われて口笛を吹いた」とか。
森公美子もけっこう出て、おかしな人(一般人)に遭遇した話をよくしていた印象。


その他のこまごまとした番組の設定としては、
・テーブルを前にソファが置かれたセット(何度か代替わり)。
画面に向かって左から3日目のゲスト・2日目のゲスト・小堺・初日のゲストでトークスタート。初日ゲストのトークが終わると、ゲストが1席ずつ時計回りに移動する「席替え」を行う。小堺が立っている状態で席替えが行われるため、小堺の席(背もたれがない)に座ってしまうゲストが時々出現。

・サイコロが転がっている間は音楽が流れ、小堺が「何が出るかな、何が出るかな」と歌詞を付けて歌うことが多かった。
この音楽は、薬師丸ひろ子の「ハードデイズ ラグ」という歌の終わり(アウトロ)部分。テンポを若干変えていたかも。
「ハードデイズ ラグ」は阿木燿子作詞、梅林茂作曲、武部聡志編曲の、OLの1週間を歌うもの。1986年発売の「紳士同盟」のB面曲。
番組内では、その音楽がそういう歌であることの言及はあっただろうか。薬師丸ひろ子は今も歌手活動をしているし、ごきげんようにゲスト出演したこともあったかもしれないから、触れても良さそうなのに。

・スタジオには女性を中心とした観覧客。
サイコロの目が出ると、小堺が「『情けない話』略して…」と振ったのに対し、「なさばなー」と声を揃える。同日に同じ目が2回出ると、「なさばなパート2」となる。略さずに「『信じられない話』アンビリーバボー」に対して「アンビリーバボー!」などと復唱する目もあった。ゲストに、観客の統制が見事なことを指摘されると、小堺は「河口湖(山中湖?)で合宿してますから」と答えていた。

・ゲストには飲み物が出されていたが、中期頃までは「おやつ」も出されていた。
1991年のサイコロ正式導入初回(マルシア、松尾伴内、高見恭子がゲスト)には、リンゴらしきものが出されていた。
各地の銘菓やフードコーディネーターが作ったお菓子が説明付きで出されたこともあり、さらに「おやつボーイズ」というおやつ出し・説明専門の出演者がいたことも。おやつボーイズは1998年頃まで出ており、2014年に久々に出演したとのこと。
飲み物やおやつは、席替え時はゲストが各自持って移動するのだが、たまに錯綜することも。

・1990年代前半のごく一時期だと思われるが、席替え時に観客も席替えをしていたことがあった。聞きたいサイコロの目ごとに席が区分けされていて、そこを移動したのかな?
そのために「サイコロポリス」という人員が配置されていた。
席替え中の音楽(曲名は不明だが、放送初期から末期まで同じ曲がずっと使われたか)に合わせて、警備員風の服装の男が客席の間で交通整理風のダンスを踊る(?)ような感じ。

・番組冒頭は、サイコロトークとは別のミニコーナー(心理テストやゲストが初めて買ったレコードを紹介するなど)があった時期も長かった。
1990年代後半だったか、正月の特別コーナーとして、「さ・い・こ・ろ」を頭文字にした文章を作る、いわゆる「あいうえお作文」「折句」があった。「サイコロ都々逸」と言われていた気もするが、厳密には都々逸ではないでしょう。
その1つ、小堺さんが作ったのだったか、最後の句が「ろきげんよう」になったものがあった。
「ごきげんよう」に結びつけた強引さをゲストの1人(誰かは忘れたが男性)に指摘され、結果として、その後1週間に限り、番組名を「ろきげんよう」にすることになった。
新聞の番組表や番組のオープニングについては記憶にないが、CM前のジングルは、当時の女声コーラスによる「ごきげんよーお」が、小堺さんの声で「ろきげんよーお」としたものに差し替えられ、テロップもそうなっていたはず。
【28日追記】ネット上には、個人が「ろきげんよう」の思い出を記したものがちらほらある。
その中には、「小堺さんが『ろきげんよう』と言い間違えたのがきっかけ」とか「5(ご)の次の6(ろく)で『ろきげんよう』となった」といったものもあるが、それは誤っている可能性がとても高い。上記の通り、強引な都々逸が作られ、そのことをゲストに突っ込まれたのが原因。
そのゲストは、ヒロミだったという情報が複数。そういえばそうだったかも。
また、「『ろきげんよう』は1日だけ放送」という記載も複数あるが、そう言われると… 1週間(5回)だったような気がするけど…(以上追記)


2014年10月からだそうだが、ゲストは関係がある2人がその日1回だけ出演する体制になり、やがてサイコロもあまり使わなくなっていった。ごきげんようとしての個性、おもしろさが失われたように感じていたら、やがて、ごきげんようそのものが終了。
サイコロは19462投に及んだ。

2016年3月には、明治の「サイコロキャラメル」が発売を終了し、89年の幕を下ろしたのは、何かの縁か。
※2016年6月から、明治の子会社により北海道限定で発売再会。


小堺さんは、ごきげんよう・いただきます以前といえば、僕は幼かったので、「欽どこ」で関根勤と「クロ子とグレ子」をやっていた記憶しかない。
ごきげんよう放送中は、ラジオなどもやってはいたが、小堺さん=ごきげんよう、そしてサイコロのイメージが強かった。
青森などごきげんようが放送されなかった地域では、小堺さんの存在が薄かったかもしれないし、「サイコロトーク」も知らない人が多かったかもしれない。(秋田における「クイズダービー」とか「100人に聞きました」と同じこと)

日本テレビで9月19日に放送された「しゃべくり007」で、ご本人が語ったところによれば、ギャラは「通算で20億円くらい」だったとか!
息子の小堺翔太さんは、中学生の時、不良っぽい先輩に「サイコロ」と呼ばれてバカにされていたという。サイコロじゃなく「ごきげんよう」と呼ばれていたら、お嬢様学校のあいさつみたいだね。


大きなサイコロを振る番組としては、少なくとも関西テレビ「三枝の愛ラブ!爆笑クリニック」のほうが先。
しかし、数字やせいぜいマークを目とするのが常識だったサイコロに、まとまった文字を記すのは、この番組が最初だったかもしれない。
合コンなどで使えるように、このサイコロを小さくしたものが売られたり、スマホのアプリにもなったりしている。
他のテレビ番組でも類似のものが使われるようになった。「モヤモヤさまぁ~ず2」で余った時間を埋め合わせる内容を決める「とれ高サイコロ」や、秋田朝日放送「サタナビっ!」で各地の地元の人に話してもらう「サイコロ使って!旅トーク」など。


僕自身は、笑っていいともと比べても、熱心に視聴していたわけではない。放送時間的にも、放送地域的にも(青森にいたので)制約があるし。でも、たまに見ると楽しい番組だった。

ごきげんようの後枠、13時30分からの東海テレビドラマ枠も同時に終了し、フジテレビ系列13時台は、前後の情報番組が枠を拡大する形となった。
ごきげんよう終了によってまた1つ、時代が変わったのかもしれない。

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2 コメント

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午後のひととき (FMEN)
2016-12-27 22:22:05
ごきげんようが終わってからずっと生の情報ばっかで。
アメリカ大統領の報道は奏功したらしいですが。

90年代後半には小堺さんも一緒に席替えしてゲストが全員司会を1回やり小堺さんもサイコロを振ったりする企画や小堺さんが病気した04年は関根や貴理子が司会をしたりしてました。
あと当たり目とかいうやつでトップがあたり、箱の中に怒りをぶつけるとかありましたよね。
話を潰したり冷たい突っ込みをしたりが無いのがよかったですね。
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いいともとセット (taic02)
2016-12-28 20:07:12
ドラマ再放送や通販よりは生情報のほうが、いいということなんでしょうか。ダラダラとやり続けるのもちょっと…ですが。

いいともとセットで視聴していた人が多く、いいともが終わってしまったことが、ごきげんよう終了の一因なのかもしれません。
「当たり目」は、ゲスト自身と観客や視聴者に抽選にライオン製品がもらえるのは「当たり」ですが、その後やらされる内容は果たして「当たり」なのか分からないのもあったような。真実の口から冷気を吹き付けられるのとか、答えづらそうな質問をいきなり出されたりとかもありました。

小堺さんは「いただきます」開始当初は大変だったそうですが、その頃のおばさま方にもまれたことが、後のごきげんようの司会ぶりにつながったのでしょう。
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