Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話

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★700年も続いた崇徳上皇の祟り

2017-09-16 06:10:00 | Weblog

1156(保元元)年に勃発した保元の乱は、平清盛が「鳥羽法皇・後白河天皇」対「崇徳上皇」の対立に乗じて、武家時代の切欠を作った事件と謂える。
同時に、呪術の歴史から見ると、この保元の乱は明治維新の頃まで信じられ続けた怨念を生み出した事件でもある。
約700年もの長い間、人々、特に天皇家や有力武士たちに禍をもたらすと恐れられた怨霊の主は、この戦いで讃岐(今の徳島県)に流された崇徳上皇(1119~1164年)だった。

崇徳上皇の一生は数奇な運命に弄ばれた。
出自からして、その後の人生の暗転を予感させた。
それは、この頃の天皇家の関係図を見てみるとよく分る。第71代の天皇である後三条天皇から続いていた系譜は、その息子の白河院(1053~1129年)、白河院の息子の堀川院(1079~1107年)、堀川院の息子の鳥羽院(1103~1156年)へと続いている。そして、鳥羽院の長男として崇徳上皇が75代目の天皇の跡を引き継ぎ、続いて三男の近衛院、四男の後白河院へと引き継がれている。
だが、崇徳上皇は鳥羽院の実子ではない。彼の祖父・白河院と、鳥羽院の嫁である待賢門院璋子(1101~1145年)との間にできた子供であった。鳥羽院はその事実を知っており、崇徳上皇を「叔父子」と呼んで憚らなかったと謂う。
幾ら世継ぎを多数確保することが命題とされた時代でも、鳥羽院が自分の妻と父の間に生まれた崇徳上皇より、自分の血を分けた子供を可愛く思うのは仕方のないことである。
やがて、長子である崇徳上皇を疎んじる様になり、それを敏感に察した崇徳上皇も父を憎むと云う対立関係の構図ができ上がって行った。

実父である白河院の法皇時代は問題が深刻化することはなかったが、1129年、崇徳上皇が10歳の時白河院が死去すると、
鳥羽院と崇徳上皇の関係に変化の兆しが見える様になる。
この年、上皇となっていた鳥羽院は実質的な院政体制を強化して行く。この体制下では、鳥羽院にとって崇徳上皇は邪魔な存在である。崇徳上皇が22歳の1141年には、天皇の地位を美福門院との間の子、近衛天皇(1139~1155年)へと譲位させ、崇徳上皇を天皇の座から追い落としてしまった。而も、鳥羽院自らは院政の中心の座を譲ろうとはしなかった為、上皇となったとは云え、崇徳上皇には何の権限も与えられることはなかった。この頃から、崇徳上皇の怨みは鳥羽上皇室にだけでなく、天皇の座を継いだ幼い近衛天皇にも向けられていた様だ。呪術者を派遣して、愛宕山にある天狗の眼に釘を打ち付けて呪いがかかる様に祈願していたと云う逸話が残されている。而も、呪いが通じたかどうかは定かではないが、近衛天皇は眼病がもとで、僅か17歳でこの世を去る。

崇徳上皇は失権回復を願い、自分の子供である重仁親王を世継ぎにと画策したが、鳥羽院が天皇に指名したのは、四男である後白河院(1127~1192年)だった。ちなみに、母が違った近衛天皇とは異なり、後白河院の母は待賢門院璋子だから異父弟が天皇の座に就いたことになる。こうして、鳥羽、後白河と崇徳の対立の構図が明確になった。そして、その対立が頂点に達したのが、鳥羽上皇崩御から7日目に勃発した保元の乱だったのである。

戦いは後白河天皇派の圧倒的な勝利に終わる。崇徳上皇は謀反の罪に問われて、讃岐への流刑に処せられてしまい、その地で9年後の1164年に死を向かえている。
崇徳上皇は流刑の地で、ひたすら来世の為に写経をして、高野山に奉納して欲しいと願ったが受け入れてもらえず、憤怒のあまり、送り返されて来た写経に、舌先を食い切って流れ出た血で呪いの言葉を書きつけて海に沈めたと謂われている。
崇徳上皇の祟りが実しやかに語られる様になるには、彼の死から1か月も経たない頃だった。現代で言う怪奇現象が次々と起こる様になったのだ。

噂の発端は崇徳上皇の埋葬での事件にある。
死後20日以上経過した後に、崇徳上皇の遺体は棺に納められ、山上で荼毘にふされたのだが、遺体が納められた棺から、辺りを真っ赤に染めるほどの血が流れ出し、荼毘の煙が逆らって都へといつまでも流れて行ったと謂う。更に、死の翌年には後白河院の長子である二条上皇が急逝したのをはじめ、大火事や飢饉が都を襲う。崇徳上皇が没してから10数年を経た平清盛の死についてさえも、都の人々は崇徳上皇の怨霊が取り憑いた為だと噂し合う様になっていた。崇徳上皇の怨霊を誰もが疑わない様になっていたのである。そして、清盛の死より前のことだが、時の天皇であった高倉天皇は、保元の乱の跡地に、崇徳上皇を祭神とする粟田宮を建立し、讃岐院と呼ばれていた崇徳上皇に崇徳院の号を贈って怨霊を鎮め様としたのである。
しかし、その後も歴代の天皇や武将が不測の事故に巻き込まれたりすると、崇徳上皇の祟りと謂われて来た。その度に、時の為政者たちは、怨霊を鎮め様と様々な奉納を繰り返したが、愕くべきことに、その祟りに対する恐怖は明治維新の時代まで引き継がれて行った。

    

      




                                         呪い あなたの知らない不気味な世界
                                             -恨みの魔力に命を奪われた人々ー
                                                     呪いの惨劇はこうして起きた


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