Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話

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メアリー・リンカーン 大統領をヒステリックに支えた世話好きの悪妻(1818~1882)

2017-09-08 13:36:48 | Weblog

「激しすぎる感情の起伏」
悪妻が夫を育てるエピソードは、世の古今東西を問わず数々挙げられているが、
アメリカ第16代大統領リンカーンの夫人、メアリーも引けを取らない。
歴史の新しい時代の人物だけに、その悪妻ぶりを伝えるエピソードも大そうな数にのぼる。

彼女の最大の難点は、夫の社会的立場や身分を理解していなかったことだ。
これは二人がスプリングフィールドで出会った時、メアリーが名家の令嬢だったのに対し、リンカーンが無名の貧乏弁護士だったことに起因している。しかし、彼女は世話女房で、だからこそ、理想を掲げるなかりで世間に無頓着なリンカーンでも、上手く世渡りができたのである。メアリーは、夫が大統領になっても、世話女房役を降りなかった。自分が面倒を見るのを当然と考えていたのだ。

ただ、私生活だけならそれでも良かったが、彼女は政治問題にも口を出して仕切ろうとし、
人事問題にまで関わろうとしたから、リンカーンは辟易していたという。
また、メアリーの嫉妬深さも夫を煩わせた。
南北戦争勝利後の式典で、リンカーンがグラント将軍の若い部下の妻と話しただけでも、嫉妬で荒れ狂って周囲を困らせたし、
大統領主催のパーティでは、リンカーンが主賓の夫人と腕を組むのがマナーなのにも関わらず、それすらも許さなかったという。
更に、彼女はお嬢様育ちらしく浪費癖があった反面、ケチな行動で夫の面目を潰したし、
小さな出来事でも一喜一憂して大声を上げたり、落ち込んで寝込んだりもした様だ。

しかし、そんな彼女をリンカーンが愛したのは、無名時代の恋と世話女房ぶりに、彼なりの思いを抱いてのこと。
悪妻とはあくまで世間的評価であり、彼の評価は別だったのである。

          




                                                     世界の「美女と悪女」がよくわかる本


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芥川龍之介 (1892~1927年)東京都 自死を選んだ作家は 己の分身に怯えていた?

2017-09-08 11:43:08 | Weblog




近代文学の巨星、芥川龍之介。
知的かつ諧謔に満ちた作品を発表し、今尚多くのファンを持つ文豪の生涯は、その名声とは裏腹に、
決して安らかなものではなかった。

生後直ぐに母の発狂と云う悲劇に見舞われた龍之介は、幼い頃から秀才の片鱗を見せつつも、怪談や妖異を事のほか好む青年に成長する。
そして、「自分もいずれは狂うのではないか」と云う不安に常に怯えていた。
その恐れに拍車をかけたのが「ドッペルゲンガー」の存在だった。
海外の文献から「姿を見たら死んでしまう。もう一人の自分」が居ることを知った龍之介はこれを激しく恐れ、
その恐怖を『二つの手紙』と云う小説に描いた。

これは、ある夫婦がドッペルゲンガーの存在を信じ込み、やがて破滅するまでを手記の体裁で語った異色の作だが、
作中には妙なリアリティが横溢している。
例えば、友人と食事に出た時に、自分と自分の妻が仲睦まじく歩くのを目撃してしまうシーンでは、
第二の自分に恐れ慄く男の心理が、まるで彼自身の体験を反映しているかの様な筆致で描かれているのだ。
龍之介は三十五歳で自殺するが、作中の男の様に、彼も死の予兆である「もう一人の自分」を見てしまったのだろうか.....。

        

        








                                              世界と日本の怪人物FILE
                                                      歴史上の偉人たちに隠された裏の顔

 


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エヴァ・ペロン 美貌と野心でのし上がったアルゼンチンの聖女(1919~1952)

2017-09-08 11:30:36 | Weblog

エヴァ・ペロンと云う名前より、エヴィータと云う愛称で知られている彼女は、女優から大統領夫人にまで成り上がった。
第二次世界大戦後の政情不安定なアルゼンチンで、労働者階級から絶大な支持を受けた彼女は、聖女とまで呼ばれた。
だが、その裏では権力を笠に反対勢力に圧力をかけるなどの二面性も持ち合わせていた。

「私生児として生まれたファーストレディ」
エヴァが、田舎からブエノスアイレスに出て来たのは1934年のこと。
故郷で興行したタンゴ歌手に美貌を認められ声をかけられたと云う理由で、彼を頼って都会へやって来たのだ。
エヴァを大衆が知ることになるのは1939年のラジオ出演からだが、そこに至るまでの5年間の生活を彼女はいっさい語っていない。ただ、この時すでに彼女は大きな野心を抱いていた。それは、私生児として生まれ、貧しさ故に教育すら受けていない自分は、将来ある男性に賭けて権力を手にして行こうと云うものだった。
その為、自分が女優であることを大いに利用し、様々な有名人男性に近づいては物色を続けていた。
そんなエヴァが二十四歳の時選んだのが、四十八歳のファン・ペロン陸軍大佐だった。
ペロンの方も、アルゼンチンの有名人に多くの知己があり、観察力も分析力もあるエヴァが、
自分を権力の座へ押し上げてくれることを直感した。

こうして二人は同居を始め、第二次世界大戦下の国内で、労働者階級が封建体制に不満を抱いてることを察して扇動者となり、
支持を集めて行く。大戦後、ペロンがナチス支持者の嫌疑を受けて投獄されると云うアクシデントが起こった時に、労働者を終結させてストやデモでペロンを助けたのもエヴァだった。

ペロンの釈放後、直ぐに結婚した二人は、1946年の大統領選で勝者となる。
これは、エヴァが、如何にペロンが貧しい人々の味方であるかを演説した結果でもあった。
私生児で女優上がりの彼女には批判的な声もあったが、エヴァの美貌がそれを封じもしたし、
何よりもペロンが彼女を守護神と信じ切っていた。
こうして、権力と富を手にしたエヴァは、演説どおり貧困階級の為の公共施設を作り、訴えがあれば寄付も施しも惜しまなかった為、次第に「聖女」と呼ばれる様になる。しかし、実際のエヴァは、自分が貧しかった時代や、蔑んだ人々への報復はもちろん、ペロンと協力して私腹を肥やすことも忘れなかった。また、若い時代を知る人々には口封じをし、彼女の出自を語る人々は処罰の対象にした。極端な例では、自分の悪口を書いた新聞社を潰したこともあった程だ。

「16年間姿を消していたエヴァの遺体」
1951年には『エヴィータ』と云う彼女の愛称をタイトルにした自伝が出版され、
学校での必読本に選ばれるなど、エヴァの絶頂期が訪れた。
しかし、この時彼女はすでにガンに侵されていて、翌年にはこの世を去ってしまう。三十三歳と云う若さでの死だった。

一方、妻を亡くしたペロンは、度々女性スキャンダルを起こすなど常軌を逸した行動をとる様になり、
次第に民衆の支持を失った彼は1955年に失脚。パラグアイに亡命した後、スペインで隠棲を始めたと云う。

この後アルゼンチン政府は、エヴァの遺体の扱いに困惑する。ペロンの失脚後、エヴァに関する記念品はすべて破棄・破壊されたが、遺体だけは粗末に扱えない。それに、遺体は彼女の希望で防腐処理を施されていたのである。
しかし、そんな困惑のタネは、或る日突然、何処かへ消えてしまう。

ところが、1971年にその遺体が見つかる。
イタリアのミラノにある墓地に埋葬されていることが分ったのだ。実は、遺体がペロン派の手に落ちて復権のシンボルに使われるのを恐れたアルゼンチン政府が秘かに国外へ運び出し、エヴァとは別人の名前で葬っていたのである。この遺体は、翌年ペロンが帰国する時共に海を渡り、現在はアルゼンチンにある墓地に埋葬し直されている。

             

           

                                                     世界の「美女と悪女」がよくわかる本




Don't Cry For Me Argentina Madonna
https://www.youtube.com/watch?v=P9DYUUyKExI


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