Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

安野光雅「わたしの戦後七十年」

2015年04月17日 21時57分25秒 | 読書
 夕方から一眠りしたら頭の重苦しい感じが薄らぎ、随分と楽になった。鼻水が出始めたので、鼻水を抑える薬を1錠飲んでみた。とりあえずは止まっている。喉の症状は軽いのでこのままおさまってほしいのだが‥。
 明日は午後2時過ぎまで団地の管理組合の取組みがあり、その後は退職者会の仕事で組合の会館に出向かなくてはならない。
 明後日日曜日は休養日で家で寝ていたいものである。

 先ほどベッドに入って寝付くまでの間、平凡社の雑誌「こころ」(Vol.24 2015)「安野光雅 わたしの戦後七十年」(聞き手=森まゆみ)を読んだ。

 敗戦直後の将校の無様で泥棒のごとき態様がつぶさに語られている。戦争賛美者が一夜で「民主主義者」・「抵抗者」に世界でも呆れるほどの豹変ぶりとなったが、それ以前に、大日本帝国軍隊は将校が兵を見捨て、みずからが簒奪者に成り果てていた実態が明らかにされている。将校による軍需物資の簒奪から戦後は始まったことは、私も小さい頃多くの大人が語っていたことを思い出した。

「終戦になって(将校が)「みんなすまないことをした」と一種の詫びを言ったのです。昨日までお前たちに迷惑をかけたが、それは俺の個人的な意志ではない、国のために頑張ってもらおうと思ったんだ、というような、すべてが弁解でした。リンチに遭ったのもいる。軍需物資を隠した連中ですから。ぼくら(兵隊)は家に帰るまでの食料として靴下いっぱい分の米をもらっただけなのに、彼らは、柳行李いっぱいだものね。それに生米もらったって、結局は帰るまで食べられない。」

「ともかく戦争をしないでさえいれば今日のような繁栄がある。七十年間戦争をしないできたことはとても大きいなあと思うんです。‥大切にしなくては。アメリカは朝鮮でもベトナムでも、イラク戦争でも大勢の人が戦死しています。一方で戦争ほど儲かるものもない。領土を奪って儲けたのではなくて、戦争という行為のために儲けたんです。「特需」という言葉は朝鮮戦争のとき生まれました。」


重苦しい景色

2015年04月17日 18時47分49秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日も暖かであったが、風がとても強かった。
 昨晩から鼻水が多く出るようになり頭が重い。黄色の鼻汁が夜寝る前と今朝起き抜けに出ていた。喉も痛い。午後にいつもの降圧剤を処方してもらっている病院へ行かなくてはいけない日であったのでついでに診てもらうことにした。
 しかし今季初めての講座でもあり、まず朝一番はみなとみらい地区の会場へ。講座は12時に終了したものの、病院が開く15時までがつらかった。
 昨晩のタケノコご飯でつくったおにぎりを日本丸を眺めながら外で食べた後、喫茶店で2時間ほどを過ごした。頭が重く、喉がいがらっぽい。半分居眠りをしながら時間を過ごし、ようやく病院に着いたら急に具合が良くなってきた。
 いつもの降圧剤のほかに、鼻水を抑える薬と喉の炎症を抑える薬を処方してくれたが、鼻水を抑える薬だけを飲んでから帰宅。先ほどまで寝ていた。
 今度は鼻水は止まっているが、頭が再び重くなってきた。疲れが溜まっていたのであろうか。

 フラフラしながらMM地区を歩きつつ、スマホで3か所の写真を撮影した。



 MM地区ではヤエザクラが見ごろになってきた。しかしヤエザクラ特有のぼてっとした花房ではなく、上を向いて上品に咲いている。もう少し下に垂れているほうがいかにもヤエザクラらしいのだが、MM地区ではそれでは野暮ったいと嫌われるのであろうか。あるいはこれから下に垂れてくるのであろうか。それともこういう種類なのだろうか。



 新しい開発地区とはいえ、もう解体を始めたビルがある。シネコンであったところで確かに仮設のようなビルではあったが、あまりに無惨な姿を晒している。破壊と隣り合わせの不気味な光景であった。



 次第に雲行きが悪くなってきた。風が止まったようなわずかな時間がススキの動きでわかった。10分ほどビル風がやんでいた。
 頭が重苦しいと景色まで暗く感じるものである。青空はのぞいていたが私の頭の上に重くのしかかっている空を感じた。