Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

メアリー・カサット展(横浜美術館)

2016年07月26日 23時11分27秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 本日は横浜美術館で「メアリ・カサット展」を見てきた。私は二度目、妻は初めて。雨は夕方に小雨になった程度で辛うじて傘無しで歩ける程度で済んだ。そのために思ったよりは人は多かったが、それでも広い会場、ゆとりをもって見ることが出来た。人気のある作品の前でも人に遮られることなく鑑賞できた。



 人物画が圧倒的に多い作品群の中で、本日目についたのはジャポニズムの影響がよくわかる作品群。チラシの裏面にある「沐浴する女性」(1890-91)。画家が46歳ころに作成したドライポイントとソフトグランド・エッチングによる作品。銅版画の技術については幾度説明を聞いてもよくわからないが、銅版画の作品である。たまたま本日の朝日新聞の夕刊に解説が掲載されていた。
 私は銅版画という版画によって日本の木版画に近い雰囲気、特に平面的な表現、描線による描写などを取り入れたのだと思う。そして壁と床の藍色に通じるような青と肌の色、洗面台の木の色、壺の肌色に近いクリーム色がかった白い色との対比、布地の褐色、など色彩の取り扱いも似せていると思った。しかし何よりも惹かれたのは、体の曲線と縦縞のスカート様の着物の曲線が一体的に描かれていることに好感を持った。
 何気ない曲線に囲まれた人体だが、上半身の淡い肩から腰の線にエロティシズムすら感じる人体の質感と、下半身のスカートの肌合いは実にリアリティがある。ただし、細部を細かく見ると臀部の着物のふくらみが上半身に比べ少し太すぎるとは思うが、作品そのもののマイナス評価ではないと思った。
 このような沐浴の構図などは浮世絵からの多大な影響を昇華しようとした結果であるとのこと。そういえば洗面台は遠近法からすれば少しずれてもいる。特に水平線が洗面台だけすべて並行であるが、建物の壁と床の間の線とは平行になっておらず、洗面台が壁にくっついているようでいて左側が少し手前に傾いている。こういうところも浮世絵の影響のひとつなのだろうか。木製の洗面台の量感を大きくし、人体の質感の対比を強調しようとしたように見えた。



 後先になったが、展示の概要は
1.画家としての出発
2.印象派との出会い
-1 風景の中の人物
-2 近代都市の女性たち
-3 身づくろいする女性たち
-4 家族と親しい人々
3.新しい表現、新しい女性
-1 ジャポニズム
-2 カサットが影響を受けた日本の美術品
-3 シカゴ万国博と新しい女性像
4.母と子、身近な人々
という配列になっている。
 今回の展示では、カサットを印象派に引き寄せたエドガー・ドガ4点、同時代の女性画家エヴァ・ゴンザレス1点、ベルト・モリゾ3点、マリー・ブラックモン1点、同時代の親交のあったカミーユ・ピサロ3点などの作品が並んでいる。またジャポニズムの影響を受けた喜多川歌麿4点、喜多川相説1点、葛飾北斎4点が並んでいる。これらの参考作品が全体112点の内に23点に及ぶ。特にドガ、ベルト・モリゾや歌麿の作品はそのどれもがカサットの作品との関係が窺える。モリゾの作品も興味を惹かれた。

おぞましい事件 2 NHKの取材態度に怒りを覚えた

2016年07月26日 20時42分30秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 相模原市の事件についてツィッターやテレビ報道を若干見た。民放のニュースは大体感情的なものが多いので普段からまずは見ない。とりあえずNHKを見た。
 まず施設の職員が駆け足で職場に向かうところにマイクを突き付けて付きつけて一緒に走りながら、「どんな連絡を受けたか」などと執拗に感想を求めている。慌てて出勤する職員に何というひどい取材の仕方であろうか。職員にとっては同僚や入所者の安全確認や、家族へのいち早く正確な情報提供と施設の安全な運営は至上命令である。1分、1秒でも早く駆けつけなくてはならない事態である。それを妨害しているとしか思えない取材態度と、それをなんの疑問もなく放映するNHKの姿勢に私は強い怒りを覚えた。
 これが問題にならないのはあまりひどいと思う。猛省を求めたい。些細なことと云われるのはとても心外である。この報道の在り方ひとつで私はやはり、NHKももはや信用ならないと判断できると思った。
 もうひとつ、NHKだったかそれからチャンネルを変えた民放だったが忘れたが、「犯人」とされる人間が小学校で教育実習をした時の生徒へのインタヴューが流されていた。「犯人」の年齢からすればこの女性は10代半ばであろう。このような未成年にこのような凄惨な事件の「犯人」像を求めるというのは、もはやマスコミ失格である。これについてはも強い違和感をもたざるをえなかった。

 私の思いは、まず「犯人」とされる人間が、勤め始めてやめるまでの間の意識の変化と、なぜのこのような意識を醸成させてしまったのか、ということの解明がもっとも大切だということである。
 私からするとそれ以外のアプローチは意味をなさないのではないのか、ということである。労働対象との関係の構築、おなじ職場での同僚や上司との関係の作り方、体外的に問題が生じ始めた原因、「病」なら病に至った経過と治療、この検証抜きに何を語っても先へは進まないはずだ。これを抜きにしては、たとえ予防を求めても予防は出来ない。
 警察やマスコミはすぐに「動機の解明」とか「生い立ち」に注目する。そこには事件の真相も解明もないと考えた方がいいのではないか。報道では「障害者なんていなくなればいい」といったということになっているが、なにゆえにそのような認識になったのか、ここが肝心である。
 最近ヘイトスピーチや政治家のひどい発言には、この手の発言がごろごろしている。発言から「犯行」に至る過程について、人間の心の闇に迫る、ということはどういうことなのだろうか。暗い出口の無い気分にさせられる。

 幾度でもいいたい。もしも「犯人」の「病い」を理由にしてしまっては、解決にはつながらない。もし「病い」ならば病に至った道行きの究明を怠ってはいけない。

おぞましい事件

2016年07月26日 11時53分44秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日の午前中の作業予定は終了。今年の夏はなかなか熱くならない。
 蝉の鳴き声は例年のように賑やかであるが、この涼しさではなんとなく寂しげに聴こえるのは、いつもと違う夏の陽気という思いのためであろうか。
 本日も厚い雲に覆われている。午後からの降水確率は30%に低下した。

 朝からおぞましい事件が報道されている。
 今朝の相模原市内の「津久井やまゆり園」での殺傷事件、相模原消防署の発表では19名が亡くなったという。負傷も26名という。極めてショッキングなニュースである。
 警察発表しか判断するものがないが、ひとりの人間による刃物での殺傷という。数本の刃物を持って自首という報道であるが、刃物で45名の人間を殺傷できるのであろうか、と耳と目を疑った。その現場と状況が到底想定できない。刃物も実行者も大量の血にまみれたはずである。どうしてそのようなことが可能だったのか。それが最初に頭の中で渦巻いた。

 今の時点で軽々には云えないのは承知しているが、もしも報道されているように「「障害者なんていなくなればいい」と言っているととしたら、さらにとても嫌な気分になる。いわゆる弱者や社会的な保護を受けている人に対する嫌悪が根底にあり、それが噴出したものであるならば、いわゆるヘイトスピーチと何ら変わるところがない。例えば自らの処遇や働く労働条件の不満、自らの社会的な不満の原因を、「社会的弱者」や根拠のない「民族性」に求めるというのは、まさに社会の在り方そのものの否定と崩壊を意味しないか。
 他者への憎悪は限りなく、広がっていくことの恐ろしさ、おぞましさにたじろいでしまう。ヘイトスピーチと繋がっていることを恥とも思わない政治がますますのさばるのか。
 具体的に血が流され、人が亡くなるという今回の事件が、あのヘイトスピーチで特定の人々を「殺せ」と絶叫することを「表現の自由」と主張する人々と、私には二重写しに見える。