★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

大才たち

2021-07-28 23:52:54 | 文学


すべて、人に愛楽せられずして衆にまじはるは恥なり。かたちみにくく、心おくれにして出で仕へ、無智にして大才に交り、不堪の座に列り、雪の頭を頂きて盛りなる人にならび、況んや、及ばざる事を望み、かなはぬ事を憂へ、来らざることを待ち、人に恐れ、人に媚ぶるは、人の与ふる恥にあらず、貪る心にひかれて、自ら身をはづかしむるなり。貪る事のやまざるは、命を終ふる大事、今ここに来れりと、たしかにしらざればなり。

死が近づいているという自覚があれば、自分自身を辱めるような恥ずかしい、身の程を知らない社交をやらない、と兼好法師は言うのだが、果たして現実はどうであろうか。強欲の人というのは、そんな自覚で欲がなくなるような人間であろうか。欲といっても、その実態は、自分を一貫性ある何者かに見せようとする欲望なのであって、これは兼好法師が好きそうな世捨て人タイプにも見られるものだ。例はいちいちあげるまでもない。そこらじゅうにいる。

芭蕉に血の通つた人間を見ながら、そのなかにこの三位一体の才能の最も良質で最も調和を得たものを見る者である。つまり要領のいい稀代の大才人と言つてもよいのかも知れない。なるほど藤村に似たところもある。

――佐藤春夫「管見芭蕉翁」


頭が悪い癖に大才に交わるなどかっこわるいと兼好法師はいうが、だいたい、佐藤春夫が言うように、「要領のいい希代の大才人」みたいなやつが多いのが大才が集まる空間であって、そこに大才でもない者が混じっているのは当たり前なのである。要するに「要領のいい希代の」みたいな人間の集まりに多少能力の差があってもなんの問題もない。