王使謂子反曰「先大夫之覆師徒者、君不在、子無以為過、不穀之罪也」。子反再拝稽首曰「君賜臣死、死且不朽、臣之卒 実奔、臣之罪也」。子重使謂子反曰「初隕師徒者、而亦聞之矣、盍図之」。対曰「雖微先大夫有之、大夫命側、側敢不義、側亡君師、敢忘其死」。王使止之、弗及而卒。
ここまでやる気のない口先だけの国民になってみると、負けた責任とって自殺するみたいな者が潔い感じにもみえてきてしまうわけで、非常に危険である。実際失敗しているのに、うまく言っているはずだという強弁、不気味な作り笑顔なんかは昔からあったはずで、これを粉砕するために様々な人たちが知恵を絞った。
いまならたくさんの著者が並んでいる研究本なんかが、不気味な作り笑いに属する。
最近、裁判か何かで「頂き女子」(頂点に立った女子という意味ではない、ある意味宋だと思うが――)というのが話題になっていた。なにかたくさん男性から搾取したそうである。こういう人たちはむかしからたくさんいて、特別に珍しいわけではない。こういうのは親族殺人と同じでありふれた人間的な出来事である。まったく、坂口安吾ではないが、様々な事件をふつうに人間的かどうかで考えて心を静めるみたいな時代になってしまった。安吾も戦時中か戦後、殺人犯を愛でていた。
実際は、人間的かどうかではなく、人間の一生の変転というものもよほど危険なのである。安吾はどこか人間的なものを元気な青春期に置きすぎている。――我々は、中年になると、自分の人生が常軌を逸していたのかどうか、虫の一生と比べてどうだったのかみたいなことを考えはじめる。前にもいったけどこれは第二のアドレッセンスみたいなもので、力を持っているやつは自分の扱いに気を付けるべきなのだ。第一回目はただの猿だったがいまはちがう。心を静めるためにここで文学の登場である。
おばさんでごめんねというほんとうはごめんとかないむしろ敬え
――岡崎裕美子『わたくしが樹木であれば』
戦争はもともと自分以上の物を使用しすぎる傾向のあるものだが、その意味で推し活も戦争である。推し活みたいなものは、いつ力の行使に反転するかわからない。はたしてそれは安吾の謂うように思春期の暴走や恋愛で抑制できるようなちゃちなものであろうか。授業の予習で「推しに認知してもらうためにアイドル始めました」を少し読んだが、推しというのは、こういう作品の雰囲気――つまり「ちゃお」だか「なかよし」だかのセンスに合っていて、思春期的なものと対立させるのはそもそも違うかもしれない。