★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

ほんとうはごめんとかないむしろ敬え

2024-04-25 23:40:41 | 文学


王使謂子反曰「先大夫之覆師徒者、君不在、子無以為過、不穀之罪也」。子反再拝稽首曰「君賜臣死、死且不朽、臣之卒 実奔、臣之罪也」。子重使謂子反曰「初隕師徒者、而亦聞之矣、盍図之」。対曰「雖微先大夫有之、大夫命側、側敢不義、側亡君師、敢忘其死」。王使止之、弗及而卒。


ここまでやる気のない口先だけの国民になってみると、負けた責任とって自殺するみたいな者が潔い感じにもみえてきてしまうわけで、非常に危険である。実際失敗しているのに、うまく言っているはずだという強弁、不気味な作り笑顔なんかは昔からあったはずで、これを粉砕するために様々な人たちが知恵を絞った。

いまならたくさんの著者が並んでいる研究本なんかが、不気味な作り笑いに属する。

最近、裁判か何かで「頂き女子」(頂点に立った女子という意味ではない、ある意味宋だと思うが――)というのが話題になっていた。なにかたくさん男性から搾取したそうである。こういう人たちはむかしからたくさんいて、特別に珍しいわけではない。こういうのは親族殺人と同じでありふれた人間的な出来事である。まったく、坂口安吾ではないが、様々な事件をふつうに人間的かどうかで考えて心を静めるみたいな時代になってしまった。安吾も戦時中か戦後、殺人犯を愛でていた。

実際は、人間的かどうかではなく、人間の一生の変転というものもよほど危険なのである。安吾はどこか人間的なものを元気な青春期に置きすぎている。――我々は、中年になると、自分の人生が常軌を逸していたのかどうか、虫の一生と比べてどうだったのかみたいなことを考えはじめる。前にもいったけどこれは第二のアドレッセンスみたいなもので、力を持っているやつは自分の扱いに気を付けるべきなのだ。第一回目はただの猿だったがいまはちがう。心を静めるためにここで文学の登場である。

おばさんでごめんねというほんとうはごめんとかないむしろ敬え
――岡崎裕美子『わたくしが樹木であれば』

戦争はもともと自分以上の物を使用しすぎる傾向のあるものだが、その意味で推し活も戦争である。推し活みたいなものは、いつ力の行使に反転するかわからない。はたしてそれは安吾の謂うように思春期の暴走や恋愛で抑制できるようなちゃちなものであろうか。授業の予習で「推しに認知してもらうためにアイドル始めました」を少し読んだが、推しというのは、こういう作品の雰囲気――つまり「ちゃお」だか「なかよし」だかのセンスに合っていて、思春期的なものと対立させるのはそもそも違うかもしれない。

呂錡夢射月――戦争

2024-04-24 23:51:22 | 文学


呂錡夢射月。中之。退入於泥。占之曰。姬姓。日也。異姓。月也。必楚王也。射而中之。退入於泥。亦必死矣。及戰。射共王中目。王召養由基。與之兩矢。使射呂錡。中項伏弢。以一矢復命。

月を弓で射ながら自分は泥に嵌まるみたいな挿話はとてもリアリティがある。戦争の描写はたぶん名文的なものの成立に寄与している。いまだってそうなのだ。その意味では、我々は文化の萌芽を戦争によって得ている。

近代文学の小説家や批評家がみずから編集者であったことはさんざいわれてきたことではあったがほんと重要なことであった。本を作るというのは、文章を書くのと違って戦争なのであろう。これを一人でやろうとした吉本隆明は確かに彼らしかったといへよう。

わたしが育った田舎は、いまでも景観がほぼ50年前と変わらない気がする。これは異常に見えるけれども、人類はほとんどそういうことしか経験していなかったはずだ。朽ちるのは人間の方で自然は朽ちたようにみえてそうではないのが普通なんで、人間も案外そうであると普通に考えたに違いない。しかしそれはいくらか不自然なのだ。死と戦うのは人間であって、戦いこそ人間としてのリズムをつくるのだ。

とりあえずだいたい他人は自分よりも頭が良いというのは、人間は戦うということを意味している。

高校生だったころ、「文学論」を読んで漱石は頭いいなとおもったのが、政治と文学について述べている後半のある箇所で、フランス革命は「本来の自由と平等とを享楽せんとする」と書いてあるのだ。さらっと「享楽」と言っているけど、これ重要なところだ。戦いにおいては理念は享楽されるものだ。それをわすれた国民はかならず理念を観念だと思い他の享楽へ自らを埋めて行く。

その堕落した享楽は、文学にもあったであろう。そもそも青年や文学少年が「いた」ということに対して疑念が私にはある。一部を除き文章が読めるようになってくるのは結構遅いから、劣等感になどに苦しむ文学青年みたいなものは、文章ではない別のものにとらわれていたにすぎなかったしれないわけだ。文章に集中する程能力も状況もみたされていない現実があったはずで、それは文学青年でも何でもなく、精神の敗北の過程に過ぎなかった。

マルクスたちは、それでも世の中には意外なことが起こると見做していた。量の質への転化というものは、ハイドンの交響曲が100曲以上書かれた結果、ベートーベンが9曲の傑作を生んだみたいに生じるのだ。民衆の数には頼れない。

死生観と世紀末、その後

2024-04-23 23:23:47 | 文学


「死の旅にも同時に出るのがわれわれ二人であるとあなたも約束したのだから、私を置いて家へ行ってしまうことはできないはずだ」
 と、帝がお言いになると、そのお心持ちのよくわかる女も、非常に悲しそうにお顔を見て、

「限りとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり

 死がそれほど私に迫って来ておりませんのでしたら」
 これだけのことを息も絶え絶えに言って、なお帝にお言いしたいことがありそうであるが、まったく気力はなくなってしまった。死ぬのであったらこのまま自分のそばで死なせたいと帝は思召したが、今日から始めるはずの祈祷も高僧たちが承っていて、それもぜひ今夜から始めねばなりませぬというようなことも申し上げて方々から更衣の退出を促すので、別れがたく思召しながらお帰しになった。

――「源氏物語」(與謝野晶子訳)


日曜日の大河ドラマは、病気で倒れたお姫様を王子様がだっこして看病という少女漫画シーンがすごかったが、その前の、子どもがばたばたしんでゆく場面が悲しかった。我々の感情移入は自分の体験に大きく左右される。我々は虚構に慣れたということもあるが、子どもの死に滅多に出会わない。これが我々の心体に何らかの影響を与えないはずがない。前にも書いた様に思うが――、戦前までの昔の人と我々の違いは、年寄りの死に対するよりも、弱い子どもが死んでゆくのをどれだけ目の前にしたかで大きく違っている。而して、我々は死をはじめとする否定性から遠ざかり、否定性を通さずに生が成立していると思い込む。

それは医学の発展のせいだけではない。そういえば、定期的にKO大学関係者の不規則発言やら悪事がでてくるが、学問のすすめよんでみりゃ、すべての悪事の萌芽が書かれているのだ。古文や和歌は楽しみで学問じゃねえ的なのもこいつからだし。勝手に日用の学問でもしてろよ。文学が否定性の坩堝であり、これを元に我々がその都度生き返っているのを知らないのか。

月曜日は、「推し」現象研究に作品論的なものは有効かみたいな講義をして、その先祖の一部かもしれない、東浩紀氏の『動物化とポストモダン』は倫理学にどれだけ接近しているのかをただひたすら喋った。わたくしが気になっているのは、「推し」という行為のあまりにも楽天的な肯定性であって、これがかえって、必要でない否定性=死を招くということだ。「推しの子」なんか、死ななくてもよい主役を殺すところから始まっている。

身軽になると言うことは、ただひとりの自分になることだ。それは言うまでもなく、余りにつらすぎる。

――梅崎春生「無名颱風」


戦後がまだましだったのは、あまりに死を経験すると生どころじゃなくなる絶望から出発したからだ。これがただ生きること、堕落を生きるということであった。

不思議なことに、大戦争を経験しなくなっても、われわれには何か末世や「世紀末」を待望する観念的なバイオリズムが備わっている。オウム真理教はその意味真面目すぎてバカをやったが、同時代の「エヴァンゲリオン」とかそれに影響されたSFっていうのは、「世紀末芸術」だったのである。だから新世紀にならんとそれを作った作者は新しく出発できなかった。そして、これもさんざ言われているんだろうが、最近は「失われた時をもとめて」の時代である。プルーストのこの作はちょうど百年前ぐらいなのである。「葬送のフリーレン」とか「推しの子」とかみんな失われた時を求めて、である。いままで山田玲司氏のラブコメはスポコンだと思って読んでいたが、最近の「CICADA」は、我々の漫画文化が死んだ後のディストピアを描き、時代に巻き込まれている。たぶん作者としては、まだ終わっていない漫画家としての抵抗なんだと思うが。。

――我々の観念的な生理である100年の前半は回想から始まるのであった。

間隔法

2024-04-22 23:39:28 | 文学


鄢陵の戦は左氏の文中白眉なるものとして、讀書子の推賞措かざる所なり。文に曰く
楚子登巢車以望晉軍。 子重使大宰伯州犂侍于王後。王日。而左右。何也。日召軍吏也。 皆聚于中
軍矣。曰合謀也。張幕矣。曰虔卜於先君也。徹幕矣。日將發命也。甚躑且塵上矣。日將塞井夷竈而
爲行也。皆乘矣。左右執兵而下矣。 日聽誓也。 戰乎。 日未可知也。 乘而左右皆下矣。日戰禱也。
此章を讀むものは一見して其間隔法に於て Ivanhoe と暗合するを知るべし。もし間隔法を度外にして、此文の妙を稱せんとせば、稱する事日夜を舍てずと雖ども、遂に其妙所を道破し得ざるべし。Rebecca の記述せるは眼前の戦なり。楚子の説明を求めたるも眼前の事なり。眼前とは咫尺の距離を意味するのみならず、又現在を意味す。是に於てか先に陳腐にして顧みるに足らずとせる歴史的現在法も、ある變形を以て、ある敘述に包含せらるゝときは、有力なる幻惑の要素を構成すべきかの問題に入る。之を解釋せんには、先に繋げたる二例のうち、幻惑を生ずる上に於て、時の間隔が擔任せる比例は若干に値するかを發見すれば足る。此比例を見せんには此間隔法を含有せざる作例を檢して其效果を明かにするを以て捷徑なりと信ず。


――漱石「文学論」


そろそろ「文学論」を講義にかけるか。。。

負けたくない人たちの情緒論

2024-04-21 23:20:37 | 思想


故詩日『立我烝民、莫匪爾極。』是以神降之福、時無災害、民生敦厖、和同以聽。莫不盡力、以從上命、致死以補其闕、 此戰之所由克也。

中正の準則みたいなものがない国は負けるというの真理なんだろうと思うんだが、それを認めたくない卑しい輩が爆弾とかメディアの暴力を行使している。多数決だって、そういう時の暴力として、機を見て行使されている。誰が観ても真理が明々白々の場合はそんなものを行使する必要がない。しかし、真理の表面化を懼れる連中が少しの差異を強引に作り出している。

だから、敗戦やプロ野球球団の暗黒期なんてのは人間には必要である。一時期の巨人なんか、もしかしたら2位になってしまうという恐怖のために、毎年4番打者を「少しの差異」を作り出すために入団させていた。いまだって、どこが優勝するか分からない団子状態なのである。かくして、――もう誰か言っているだろうけど、中日ファンはいつまでもファンだからだめなんだよな、いまはファン達こぞって中日「推し」となり、巨人や阪神にぼろ負けした選手の子どもに転生して親の無念を晴らす(「推しの子」参照)、これですわ。。。

前にも書いたけど、野球とかサッカー選手のアスリート化は観客を変えるし、飲み会文化も変えるのではないかと思う。というわけで、我々もアスリート達も大してかわらない庶民となりはてた。

そういえば、無頼派と近代文学派のあいだをうろうろし、おれは何処にも属しないとか言っていた不良文士=大井廣介のプロ野球論はいくつか読んだことがあるが、若い広岡達郎に飲み屋か何かで会ったときに、――「その日私はかんしゃくを起こしていた」んだが広岡さんはいい青年だったみたいな意味不明のことを書いていた。かれにとっては広岡は自分より下の存在なのである。彼の野球論は長嶋以降の国民的なにものかになった野球以前の雰囲気を漂わしている。まだ野球選手はスターでは必ずしもなかった。大井の文章からは、野球を職業にしてしまった給料の低い人たちのその競技が大好きという気持ちが――ゴシップだけが活き活きとした全体としては案外淡々とした文章に溢れている。まあ彼のブルジョア文壇論に通じるところが確かにある。文壇と野球が、結局、職業化して行くプロセスの出来事だったのだ。とはいえ、彼の「バカの一つおぼえ」みたいな文学に関する楽屋落ちみたいなもののほうがよほど下品なかんじで、週刊誌的なセンスから言って無頼派なんてのはほんとは大井みたいな奴のことではないかとおもわれる。

私は忠告する。プロ野球選手を志望する人は、プロ野球に骨までしゃぶられ、廃人になり、普通人としては半端者になり、街頭に放り出されてみると、途方に暮れ、死にたくなる。…プロ野球と心中し、野垂れ死にしても構わない人でないと、やめておいた方が無難だ


――大井廣介(1958年)


そのやめといた方がよいというのは、完全に文士と一緒ではないか。

彼には、娯楽に対する憧れはあったが、情緒がなかったのかもしれない。サルトルの『情動論粗描』の飜訳で、竹内芳郎氏が絶対おれは情動じゃなくて情緒を使うんだと言い張っていたら、ある種、また違う可能性もあったんじゃねえかと昨日思ったが、当時の文人は、先輩達を否定しようとして自ら面白いだけの人たちに顛落したところがある。

かくいう私も、いま思い出したところで言うと、映画を二回以上観にいったのは「キルビル」と「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」だけであって、たぶんわたしにとっては映画とは半分以上音楽であるからだ。あと今気付いたんだが黄色が好きなのではないだろうか。――こんな感じでわたくしも情緒みたいなものに対する憧憬を保っているにすぎない。

分身・感染

2024-04-20 23:37:27 | 文学


Le Faune

Ces nymphes, je les veux perpétuer.

                    Si clair,
Leur incarnat léger, qu’il voltige dans l’air
Assoupi de sommeils touffus.

              Aimai-je un rêve ?


牧神の午後への前奏曲は、この詩から生まれた。こういう文化の生じ方を観察するのが日常の我々からすると、米タイムの「世界の100人」みたいな自閉性は、友達100人できるかな、みたいな自閉性とよく似ている。半獣神が何人いようとどうでもいい。

しかし、われわれは屡々、ひとつとひとつの出会いを群衆として描き出す。それらがなぜ繋がってしまうかは分からないが、たぶん時間が関係あるのではなかろうか。時間が経つにつれて、我々の記憶は分身する。宇佐見りんの小説で、仏像に欲情したみたいな場面があったと思うが、確かに、お寺の仏像は何か冷たくて夏なんか昼寝には最高の椅子みたいに見えてくることはたしかである。しかし、そんなことをせずにわれわれは、100体仏像を並べてみた、みたいなことをする。

そういえば、フロイトのいっているとは別の意味で、我々の言い間違えというものがあり、これも一種の分身である。そういえば、あるひとは、デブ専という単語を知らなかった、で、つい豚専と間違えて覚えて使ってしまったことがあるらしいのだが、人間て怖いよな、、と思うのと同時に、こんなことは日常茶飯事なのだと思うべきなのである。

こういう分身は例えば、感染みたいなものとして意識されており、何かを隠蔽していることはたしかだ。ネモフィラが流行っているので、わが庭に植えてみたことがあるのだが、なんか他の雑草に負けて絶滅した。つい我々は、「朱に交われば赤くなる」とか言いがちであるが、それ以前にだいたい誰かが殺されているのである。

電車がくる

2024-04-19 23:22:00 | 思想


これは余談ではあるが、よく考えてみると、いわゆる人生の行路においても存外この電車の問題とよく似た問題が多いように思われて来る。そういう場合に、やはりどうでも最初の満員電車に乗ろうという流儀の人と、少し待っていて次の車を待ち合わせようという人との二通りがあるように見える。
 このような場合には事がらがあまりに複雑で、簡単な数学などは応用する筋道さえわからない。従って電車の場合の類推がどこまで適用するか、それは全く想像もできない。従ってなおさらの事この二つの方針あるいは流儀の是非善悪を判断する事は非常に困難になる。
 これはおそらくだれにもむつかしい問題であろう。おそらくこれも議論にはならない「趣味」の問題かもしれない。私はただついでながら電車の問題とよく似た問題が他にもあるという事に注意を促したいと思うまでである。


――寺田寅彦「電車の混雑について」


わたくしは混雑する電車をさけて次の電車に乗って、更なる混雑に巻き込まれるという人生を送っている。






病膏肓に入る

2024-04-18 23:29:14 | 思想


晉侯夢。大厲被髮及地、搏膺而踊。曰、殺余孫、不義。余得請於帝矣。壞大門及寢門而入。公懼入于室。又壞戸。公覺。召桑田巫。巫言如夢。公曰、何如。曰、不食新矣。 公疾病。求醫于秦。秦伯使醫緩爲之。未至。公夢。疾爲二竪子曰、彼良醫也。懼傷我。焉逃之。其一曰、居肓之上、膏之下、若我何。醫至。曰、疾不可爲也。在肓之上、膏之下。攻之不可。達之不及。藥不至焉。不可爲也。公曰、良醫也。厚爲之禮而歸之。


病膏肓に入る。病の気が膏と肓にかくれてしまって医者が治せなかった。医者が来ることに感づいた病の気の勝利である。「もやしもん」という菌がみえる大学生の話があったが、たしかにわれわれには病がどこかにかくれたりする感覚がある。病だけではない。悩みとか鬱っぽいものとかもどこかにかくれるときがある。

しかし本当にそういう病は存在しているのであろうか。もしかしたらわれわれ自身の一部ではなかろうか。我々はよくうまくいかないのを人のせいにするが、同じように病のせいにしているだけではないだろうか。そもそも上のエピソードでも病が医者が来るのを感づいたのは怪しい。医者が来るのを知っていたのはそいつ本人しかありえないではないか。

我々の文化は粘菌があちこちに手足を伸ばしたところの明哲保身みたいなのであるが、――我々は社会にすら他人のせいという他者性を持ち込んで自分の手足の責任をとろうとしない。

谷崎の「魔術師」を用いて、言葉が魔術――の時代があったかが今日のゼミの話題であった。最近の人間の言葉への過敏さと恐ろしい鈍感さは魔術に対する態度かもしれない、呪物ではなく魔術なのではなかろうか。さんざ言われてんだろうが、「様々なる意匠」の小林秀雄の「言葉の魔術をやめない」というのもレトリックじゃない。ホントの魔術のことなのであろう。

最近、正力松太郎がCIAだったという話題がまたむしかえされていたが、広島カープですら、原爆投下の後始末としての対日工作の結果だったというのだ。そのカープ対日工作説が正しいとすると、「はだしのゲン」の後半、戦災孤児たちが野球にクルってゆく様はもうなんというかより悲惨な話にみえてくる。中沢氏の「広島カープ物語」とかも同様である。――ようするに、われわれが手足と思っている外部に戦後はあったのだ。敗戦というのはそういうことだ。反省によってはそれを捉えることは出来ない。膏肓にアメリカがいることさえ分からない。

学者が本質な革命を諦めて「研究者」になり、外☆資金の公共的テーマに縛られ研究がかえって夏休みの調べ物的になって本質的な跛行がなくなり、面白くない五カ年計画の地獄に落とされている人は多い。特に共同研究は身動きできなくなるから大変である。まあコルホーズか何かである。別にやりたきゃやっていいし共同作戦でやるべき物事も確かにあるわけだが、全員に強制してどうするのであろう。かかることを推し進めればどういうタイプが出世して、誰が未来への尻ぬぐいに奔走するのかやる前にわかるだろうに。もともとの革命の担当者が鋭敏な優しさを用い、ぼろぼろになった組織の運営や知的革命の萌芽を守る担当者になってしまい、一方「研究者」の側は公共的結論に向かって強制労働を続けるのである。これは、シャーレのなかの菌の動きみたいなものである。組織や革命こそが粘菌の手足の外部にあるのは当然である。

博士論文を書くときなんかに、幕の内弁当をうめてくみたいなやりかたは、自分なりの「角度」がないのになにかやってしまった感がでるので危険であるのはさんざ言われているが、これは論文だけの問題じゃなく、「角度」を死守して小説をどうかくかみたいな問題と、リアリズムの問題をうまく考えられなかったことと共通している。坂口安吾の「意欲的創作文章」論にでてくる観点である。わたくしは、結局、菌がシャーレを出られない、シャーレの壁を風景と錯覚する問題と思うわけである。

震度6

2024-04-17 23:20:07 | ニュース


愛媛あたりでは震度6ぐらいあったらしい。高松もゆっさゆっさ揺れた。

水の恩はわすれぬ。香川は南海トラフのときには他県を助ける計画でがんばるときいておる。

香川は台風とかでも四国で唯一被害がなかったりと仲間はずれ的なかんじであり、南海トラフでもまだ香川はましかみたいに言われる。海が邪魔しているのだが、海を除いて考えれば、むしろ香川は岡山南の一部、大阪あたりの土地の仲間と考えた方が良いかも知れないが四国のみんなを見捨てたわけではないのだ。

さっきの地震で書棚からパイドンが落下せり

昨日は木曽でさっきは四国で地震のやつ我が一族をねらとる。

似たひと

2024-04-16 23:27:23 | 文学


陳霊公与孔寧・儀行父飲酒於夏氏。公謂行父曰、「徴舒似女」。対曰、「亦似君」。徵舒病之。公出。自其廏射而殺之。二子奔楚。

お前は**に似ているという言葉はひどく呪いになる。小学生でも知っていることだ。たとえば、君は親に似ている、とかいうのは強烈な呪いとなりうるのである。子どもの頃は誇りに思えるものでもそれがそのままであることはほぼあり得ない。

 お茶をいれている私のそばである友達が栗の皮をむきながら、
「あなた、染物屋の横にあるお風呂へよく行くの」
ときいた。
「行かないわ」
「ほんと? じゃどうしたんだろう、始終あすこで見かけるって云っていた人があってよ」
 ふき出しながら、私は、
「お気の毒だわ、間違えられた人――」
と云った。
「こんな、ちょうろぎのようなの、やっぱりあるのかしら……」

 それから程もない或る夕方、ガラリと格子をあけて紙包をかかえた妹が入って来た。立ったまま、
「きょうお姉様に上野の広小路と山下の間で会った」
とハアハア笑った。
「いやよ、何云ってるのさ」
「だって、バスにのっているすぐとなりの男のひとが、ほらあれって云ってるんだもの」
「見たの?」
「ううん、こんでいてそっちは見えなかった。フフフフ」
 私があんまり丸まっちいので、いくらか丸い、或は相当に丸いひとがみんなその一つの概念にあてはめて間違われるのはなかなか愉快だと思う。

――宮本百合子「似たひと」


なんでもかんでも自分に見えてしまう病に罹っていた芥川の自殺から一〇年、宮本百合子のこのおおらかさは抵抗でもあった。労働者という言葉を合い言葉とするのはこういうおおらかさが必要なのである。

民之多辟、無自立辟

2024-04-15 23:31:59 | 文学


陳霊公与孔寧・儀行父通於夏姫。皆衷其祖服以戯于朝。洩冶諫日、「公卿宣淫、民無効焉。且聞不令。君其納之」。公日、「吾能改矣」。公告二子。二子請殺之。公弗禁。遂殺洩治。孔子曰、「詩云、『民之多辟、無自立辟』。其洩冶之謂乎」。

政治家達がこういう分かりやすいクズであったら話は簡単である、現実はちがうなどと昔はよく考えたものだが、やはり、このようなカスを歴史上に晒しあげておくことは、現実の複雑さ以上に意義がある。そうでないと、現実の複雑さという自明の理を濫用して自分を許す輩が現れるからである。

我々のような文弱が想像する体育会というのは「魁男塾」の男共が陰湿ないじめをやってるイメージがあるかもしれないし、実際そういうこともあるであろう。が、youtubeにあがっているむかしの一流?野球選手たちの座談会とかみてると、むしろ学会の懇親会みたいな感じなのだ。したがって、どの分野でもカスな飲み会はメンバーの実力によると言える気もするのだ。しかし、だからといって我々はだいたいの格率でうごくべきときもある。一見して、だめな奴らは存在する。我々は「一見して」と言っているが、それがほんとは一見ではないからだ。「直観」の大事さは、西田先生もおっしゃっておるぞ。

ローコストなんちゃらという広告がホロコーストに見えたわたしは疲れてる。

落ちこぼれた経験がない人が危険なのは、落ちこぼれは精神的な混乱と衰弱の非常に良くある原因であることが分からないからだ。かくして、落ちこぼれは勉強が嫌だからむしろ元気で暴れていると思ったり、精神的な問題をすべてなにか「物質的」な疾患だと思い込んだりするのである。合理的配慮が言われるようになったことで救われる人もいるのはたしかだが、それで様々な人間的なこころの欺瞞的なからくりが消滅するわけではなく、配慮が問題になった時点で、いろいろな原因を無視しなければならないことにもなりかねない。よくいわれていることなんだろうが、「合理的」という言い方も、何かが様々な原因が整斉され解決するかのような語感でよくない。結局、コロナの件と同じで、すべてをコロナのせいにしたり、障害のせいにしたりというのは、人間の観察の放棄と一部の分野の横暴なのである。もちろんそうなる必然性は科学の進捗上あったわけだが、――われわれはすぐあたらしく発見されたみたいなその原因をすべての原因に置き換えて快を得ているにすぎない。近代とは論理がマッサージ化した時代である。

そういえば、少しの進歩を褒めた方が結果を求めることよりも大事だという考えがよくある。確かにそういう場合もあるんだろうが、そういうことを主張しがちな人が「結果」から逃げがちな人間であることもよくあることであって、こういう逃走癖こそが子どもに感染したりするわけである。

こういう混乱は、すべて人間の自明の理を忘却する頭の悪さからくるのである。むかしからよく言われているように、論理によって我々は狂う。

むろん、自明の理を現実に当てはめすぎるとだめなのも自明の理である。例えば、精神的に追いつめられる大学生がだいたい落ちこぼれでみたいな簡単なことになりゃいいのだが、そして確かにそういう事態は多々あるのであろうが、それ以上に教育自体がやべえことになっている場合がある。そりゃ病む方が正解じゃねえかという。

だから、我々の処世は、一定の正義を体現していれば良いというものではない。つねに、多面的な分析が必要である。最近の管理職の世代は、ものすごくニヒリズムをかんじる人がいて、ほんとに教育を演技だと割り切っている人もすくなくない。でもそれは完全に誤っている。演技だということがものすごく伝わっていることを軽視しているからだけではない。演技は演技としての転向が難しい。一定の方針をもってやりはじめると平気で三〇年はやってしまう。最近はやっているのは、現実的な対処という演技である。これはストレスフルであるので、いずれそれを辞めるときがくる。で、演技を辞めたほうがよいときに、急に本音主義になり、そもそも本音とやらが演技みたいなもので出来上がっている可能性、小学生でも知っている可能性を忘れている。社会に馴致するのはこんな頭の悪い事ではないはずであった。

社会を改革しようとする人間が、制度の悪用・濫用に対してはだいたい及び腰になるのが信用されない原因である。憲法に限らず、不断の努力というのは、そういうことを含めての難しい努力であったはずである。

――民之多辟、無自立辟。(民が邪だからといって自分だけで法を立てるべきじゃない。)

国境を越えない人、愛する人

2024-04-14 23:12:52 | 文学


大史書日「趙盾弑其君」、以示於. 朝。宣子曰「不」然。」対日「子為正卿、亡不越竟、反不. 討賊、非子而誰。」

趙盾は主君の霊公と対立し、霊公は刺客を送ったが二度失敗。で、逆に霊公がクーデターで殺された時に、趙盾は国境を越えられなかった。で、あなたは立場上賊を撃たなければならなかったのだ主君を殺したのと一緒だ、と言われたのである。国境を越えてしまえばよかったが。というわけである。孔子もこれを教訓としてお話ししている。

しかしまあ、このひとが国境を越えられなかったのもわかる気がするのである。そして罪をオワせられるのを知ってて止まった気がする。そもそも自分が主君を諫められなかったのが原因なのだ。主君が嫌いでも好きでも政治家は職務を全うすべきなのである。いまの自民党がだめなのはそういうことだ。立派でないひとは、誰が正義を貫いたかだけで自分を判断するので、いざというときに逃げ出すものである。比較しか頭にないから、こっちがだめならあっちに飛び移る。

夫婦で働けば外での労働に対する理解が進み夫婦で相互理解が、という議論が昔あったと思うが、なぜどういうときだけ同じような体験をした奴が同じ認識に至るという夢を見るのかわからない。だいたい自分の仕事から類推して誤解が進むというのが自然のながれではないだろうか。これも、結局、男女平等の観念を武器として使う局面で必要だった男女の比較で頭がストップしたためである。

そういえば、文理融合みたいな白昼夢が流行るというのは、なにか頭の悪い私にはおもいつかない深い理由があるのかもしれないと思っていたのだが、もしかして旗を振ってる奴が、センター試験みんなできたし、と思ってるからみたいな理由だったらどうしようと震える。

文理融合どころではなく、文武両道みたいになってるのが教☆学部である。


なんでも読むぜみたいなことを実行しているひとはなかなかの者であるが、なにか越境とか融合とか協同とかなんとか言っているやつにまともな奴はいない。たいがい業績を作るための窃盗が目的である。

今日、大河ドラマで、中宮定子と清少納言が初対面を果たし、「清少納言」と名づけられたその人が「推し発見」みたいに夢心地になっている場面があった。これにたいし、ネットで「清少納言爆誕」とか言っている人たちは当然「枕草子」ぐらいは読んでいるであろうから自覚しているのであろうが、人生で推しを発見してしまうタイプは下手すると、そこそこの智慧を振り回して愚痴をいう差別的人間になるのである。大河は、紫式部の「愛」と清少納言の「推し」の対立の話になるではなかろうか。しらんけど。

限界点へのロックンロール

2024-04-13 18:39:47 | 文学


 黒人のヒットを白人がうたいなおす作業は、この頃、さかんにおこなわれた。白人社会のラジオに彼らが登場できずにいた事情があり、また、黒人のオリジナル版は、あまりにも強烈で新鮮すぎたこともある。白人による水ましのつくりなおしロックンロールが多すぎるので、ラヴァーン・ベイカーが一九五五年、法的な規制を求めて訴えて出た。

――片岡義男「エルヴィスから始まった」


自分の限界がどのように生じるかを知る教育を若い頃うけてねえと、やる前の仕事そのものが恐怖の物体と化しプレッシャーとなってしまう。で、そこで、5時に帰る権利が都合良くあるもんだからそういう自分の心理的カラクリを積極的に忘却する。合理的に時間までにきちんとやるみたいな心構えは「仕事」を得て体を長く持たして家族を養う「労働者」になってからでよい。しかしいずれにせよ、我々は自分の身体と心を合理的に管理できない。できると思っているのは、人に尻を拭かせている馬鹿だけだ。普通の才能の人は自分の限界をパッションの限界点に於いて知らなきゃならない。最初から仕事をできるふりをしてもしょうがない。即戦力を求められているからといって、自分が即戦力かどうかはわからない。どうせ違う。

これは、まじめな人の話で、はじめからさぼろうとしているカスにとっては、権利は、為政者における法律のように、いつも濫用にしかならない。こういうのと戦うのは、法律に則しているだけではだめだというのは当たり前である。

考えてみると、自分の骨盤からパッションと音が出てくるみたいなロックンロールは、そういう限界点を知る物語をそこここで生産していた。不良の音楽と言われながら、正しい働き方の準備をなしていたわけである。

むかし不良女学生のロックバンドで「ザ・ランナウェイズ」というのがあると聞き、聴く前から赤面しながらきいてみたらコーラスがきれいなちゃんとした音楽であったのでほんと恥ずかしかったが、おれのせいじゃねえのである。「THE RUNAWAYS」を「悩殺爆弾〜禁断のロックン・ロール・クイーン」と訳した誰かのせいである。なんなんだよこの訳わ。

映画「ランナウェイズ」というのは一〇年ぐらい前に上映されていた。天才子役のダコダ・ファニングが、クスリのやり過ぎで自己崩壊したボーカリストをやっていた。しかし、彼女の限界点の管理――自己管理の失敗だけではない、物語の上では、バンドの崩壊は日本公演と日本の写真家(S氏か?)によるボーカルの性的な写真だった。日本でのロックンロールの熱狂の仕方にはなにか独特なものがある。やっぱ盆踊りなのであろうか。

ボーカルが下着同然のかっこでステージにあがったのは、日本人の写真家に性的写真をとられたあとのような物語になっていたから、なんというか、日本人が望むかっこでやったったみたいな感じに思えた。「アーロン収容所」で、西洋人は東洋人の前では性的な行為をやっても大丈夫というような記述があった気がするが、そういうものを想起した。

一方、――もう研究がたくさんなあるのだと思うんだが、白人のロック、ビートルズや何やらが東洋人の観客にふれた結果どういう変容があったのかなかったのか。。案外、人類学者みたいにその音楽の原始的なものを勝手に感じてる可能性もあるとおもう。

中高年口承文芸宣言

2024-04-12 23:39:54 | 文学


山姥・山姫は里に住む人々が、もと若干の尊敬をもって付与したる美称であって、或いはそう呼ばれてもよい不思議なる女性が、かつて諸処の深山にいたことだけは、ほぼ疑いを容れざる日本の現実であった。ただしこれに関する近世の記録と口承とは、甚だしく不精確であった故に最も細心の注意をもって、その誤解誇張を弁別する必要があるのはもちろんである。自分が前に列記したいくつかの見聞談のごとく、女が中年から親の家を去って、彼らの仲間に加わったという例のほかに、別に最初から山で生まれたかと思われる山女も往々にして人の目に触れた。

――柳田國男「山の人生」


としをとると書くより先に口にだして喋ってしまうという現象が学者でもある。書き物上位のこの世の中では没落にみえても、それを口承文芸として捉えれば中高年はエライといえるのではなかろうか。また、マニュアル作ってるだけじゃだめだという感覚は、口承文芸を舐めてるからだという理屈が成立する。コミュニケーション能力とか言うから、頭が悪そうに見えるのであって、口承文芸性とかいえばよいのだ。

「宋襄の仁」が失われた世界

2024-04-11 23:11:00 | 思想


子魚曰,君未知戦.勍敵之人,隘而不成列 天贊我也.阻而鼓之,不亦可乎.猶有懼焉.且今之勍者,皆吾敵也.雖及胡耇,獲則取之.何有於二毛.明恥教戦,求殺敵也.傷未及死.如何勿重.若愛重傷,則如勿傷.愛其二毛,則如服焉.三軍以利用也,金鼓以声気也.利而用之,阻溢可也.声盛致志,鼓儳可也.

確かに、われわれはやたら文章から表象を取り出す読み方をしつけられているから、宋襄の仁においても、白髪の老人が無惨に殺されるシーンなどを想起してしまいがちである。しかし、昔の人だって、イメージしなかったわけはないのだ。それを乗り越える観念と意志がリアルだっただけだ。窮地に陥った敵に情けをかけるような礼は果たして妥当なのか、優先順位を考えて息の根を止めておくべきなのか、判断はいろいろあるにせよ、例えば「人道状況の悪化」みたいな言葉で理解していることと、「宋襄の仁」みたいな言葉で理解していること、――前者が優れているかはわからないのは当然なのである。むしろ我々は、事態を常に道徳化して考えるような癖もつけすぎている。だから残酷なのである。

ペルーからポリネシアに筏で渡ったヘイエルダールの「コンチキ号探検記」の最初に、筏の上でゲーテを読む仲間の話が出てくる。そのあともでてきたかもしれないが、ゲーテとはこんな旅にも持って行くものであるということが、高校生のころのわたしにやっぱり西洋人なかなか侮れんなと思わせたのを思い出した。確かに、ゲーテはそういう冒険における死と快をさける生を見つめていたところがあるかもしれない。

学生に「葬送のフリーレンは何で出来ているか」という話をしながら、今の説明にはでかいパーツが抜けているようだとか言ってたら、「先生それたぶんゲーム。。」と言われたことがあるんだが、やはりマリオもドラクエもやったことがないからワシは分からないのだ。冒険というものが仮想空間で行われることが全くわたくしには理解できていない。文学を生業としているくせに、冒険譚をあまり好きではないのはそのせいなのか?ゲーテをちゃんと読んでないせいなのか?

ヘイエルダールの頃とは違って、地球が認識内に閉じているということはある。冒険は、アメリカのサブカルがそうであるように、暴力に入れ替わったのである。ジョン・カーペンターの「クリスティーン」で、最後に車に殺されかかった女の子が「ロックンロールは嫌いよ」と言っている。その車がいつも古いロックを勝手に車内に流すからなのだが、文化的にも含みがあるんだろうなと思った。いまの日本でいうと「昭和の暴力は嫌いよ」みたいな感じなのであろう。

例えば、自分が非リア充と思っている文学青年たちが溺愛すべきなのは、梶井とか安吾とか宮沢賢治みたいなあれであって、まちがっても鷗外や芥川、太宰とかみたいなモテるやつではない。ときどき逆になっている奴がいるので忠告しておきたいのであるが、言葉は生身の状態と解離すると兇器だからだ。他人がそういう兇器をほって置くはずがない。どうも冒険が暴力として経験されているから、我々はそこら辺がいつも混乱しがちなのではなかろうか。芥川は、望んだ結婚が出来なかったからといって人のエゴイズムがなんたらとか口では言っているが、――最近の発見でもわかるように押し花を本に挟んだりする気障な野郎である。

そういえば、今頃気付いたんだが、「エイリアン」の怪物は力もそうだけど体液が酸で食欲?が全身に漲っているというのが怖ろしいわけだが、「ドラゴンボール」はどんな敵でも卑怯な酸とか食欲みたいなものじゃなくて、基本殴り合いをしてくれる者の群像劇である。作者も気付いてたのか、魔神ブーのときに相手をお菓子にするというのがあったが、お菓子にするまでもなく食えば良いわけで、でもそうはしない。食と性がどことなく抑圧されているから我々は安心しているところある。鳥山明は「ドラゴンボール」に限らず二次創作的な作品な訳で特に後半はエイリアンのパロディとしてすごく意味があった。アラレちゃんはパロディにする必要がなさそうなのにしてるみたいで私はあまりのれなかった。で、庵野秀明とかはパロディではなく、シンとかいいつつ本質を模倣しようというかたちにして、エイリアン以降のパロディにしないと生理的に収まりがつかないものではない、――子どもにたいして暴力的で真面目な娯楽をとりもどすという感じなのであろう。思想として正しいのかは知らないが。

最近、木曽町出身の俳優田中要次氏が朝ドラで、いい人だが完全に脇役でまた登場している。いつもいいよ、とかおじょうちゃんがしんぱいで、みたいなこと言いながら画面の潤滑油みたいなかんじを担っているのだが、木曽はいつまでも周縁じゃねえぞ。これから主人公と法廷でキスしたり、主人公と一緒に東條英機を暗殺したりする方向でたのむぜ、女の権利が踏みにじられているのはあたりまえじゃねえか。――みたいな感想が出てくる程、我々はまったく冒険をしなくなっているのだ。そうすると、あとは正義と暴力だ。