★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

小説家の憎悪の起源

2014-02-28 18:15:10 | 文学


香川菊池寛賞の授賞式に行ってくる。今年は選考委員をはじめてやったわけだが、あーこの仕事は大変だこりゃ。今日の四国新聞に講評の一部が載っているが……こういう仕事をやってみると、小説家たちが批評家や編集者をなぜ憎んでいるのがよく分かる。文藝評論家を研究していながら、こういうことをあまり考えずに来てしまったが、彼らの一部には、テキストからあまり浮かび上がってこない側面――やさぐれた人間のようにも見えるが明らかにある種の権力のオーラをまとった批評屋としての側面がある。有名人(小説家)との交友関係や金に結びついたそれは、マルクス主義政党や自民党の権力などとちがって見えにくいし、反権力のような風貌をしていることさえあるので面倒である。たぶん、昨今の文学通俗化の責任は読者のニーズより、自称玄人の批評家や編集者の側にあるのである。やはり、晩年の花×清×が、佐々木基一に「一回実作者になれよ、批評家になるのはそれからでも遅くはない」と、佐々木の批評家人生を全否定しているのは正しい。

わたしの肺臓の中へ、バイキンが百萬ほど突貫したわ

2014-02-27 05:46:32 | 文学
『…ハツクショーン!ほーら、ハツクションをするぢやないの。わたしの肺臓の中へ、バイキンが百萬ほど突貫したわ。』
『ホツホヽヽヽヽヽ。佐古さん。あなたの口から百萬のバイキンが飛び出したのぢやない?』
『あらひどいわ。そんなことないわ。――ハックション!』

――横山美智子「嵐の小夜曲(セレナーデ)」


大事なときに必ず失言する元首相も、せめて上の如きセンスをつけて頂きたい。「バイキン」が問題なのではない。「百萬ほど突貫」があるから、上のコミュニケーションは成立しているのである。「バイキン」には意見があるが、「百萬ほど突貫」には心象に即した解釈がある。そして、解釈は、自らをいくらか傷つける。

思うに、内輪のパーティで大事なときに必ず不謹慎なことを言って頭の悪い連中の笑いをとりかわいがられてきている者は、大事なときにこそ失言をする癖が出来ちゃっているのである。飲み屋レベルのことを公で言うなよ、と思うのは、ふつーの人の感覚であって、奴らは、公だから不謹慎なことを言ってしまう能力が求められているのである。……それにしても、こんなことは世間の常識であり、NKの辞表預かりおじさんにせよ、毎回の今回の森元さんにせよ、上司にとっては使いやすい可愛いやざ顔の人たちが、民間や何やらで、権力を握ったとたんうれしさのあまり、むちゃくちゃにいろいろやらかしてしまっているのは、よく知られた事実である。周りを見回してみりゃすぐ分かることである。確かに、頭に問題あるのであろうし、調子に乗って威張ってしまう欠点はあっても、下っ端としては、普段からよく気がつく、惨めな人間の気持ちが分かるこつこつ仕事をするいいやつかも知れない。新疆も、そんなかんじではなかろうか。一緒に飲んでカラオケなどすりゃ結構楽しそうな人物である気がする。ただ、彼らを理念や政治に絡んだ場所に置いてはならない。彼らは、全能感におぼれてもいい公園の砂の小山レベルの場所、せいぜい越後屋のレベルで威張っているべきであり(といっても、そんな威張り方が可能なのは彼らが生きているのが近代以前の野蛮状態であるからというコモンセンスがあったので、彼らは暴れん坊や暗殺部隊に成敗されるのであるが……)、どうせ総理大臣と社長の区別なんかついてやしないのである。ボスになったら寧ろ憲法に拘束されるとか意味わかんねえと思っているのが、われわれの社会で出世するタイプなのである。

でも、よかったではないか。日本の支配階層にどんな人間がおり、憲法がそういう人間のためにこそ存在するということが、日本人に学習されたという意味では……

……と宮台司なら絶望的な調子で言うところであろう。

しかし、宮氏が、啓蒙される側に必要なまともな読解力が欠落しつつあることに、本当に気付いているのか不明である。以前に、文学作品なんて誰でも教えられるとか言っていたからな……

わたくしは、宮台的な啓蒙活動が効力を発揮するためにも、日本人の読解力を妨害している、所謂言葉のポエム化をなんとかしなければと思っている……。日本人の国語の能力をまともな状態にするためには、残念ながら、社会にまともな倫理的感覚が保持されている必要がある。読解力を支えるのは個人の責任で他に即するという非常に困難な倫理である。NHKの文学番組でも、真央氏のインタビューの紹介でも、たぶん悪意によるものではない単なる誤読が垂れ流されている。その点、新疆や森元の発言も全く同じように、憲法や何やらに対する単なる誤読であり、彼らには悪意がないから反省もしない。国語の読解問題ができなかったからといって罪悪感を憶えない者が多いのと一緒である。テストの採点をやっていると、書いてないことを勝手に読むたちの悪いものが増加中であるのに恐怖を覚える。古典漢文が出来なくなっているのは、それらが現代にそぐわなくなっているからではない。極力本文に即する(尊重するのではない)という倫理を国語教育が放棄したからである。現代文も順調に出来なくなってますからな……。(馬鹿な意見)相手の意見を尊重して話し合いさせたり、感想を発表させたり、そんなもん、本文に即する努力がなけりゃポエム化した解釈が勝つに決まっている。ポエムはどんなに自己愛的であっても仲間の言の模倣だからである。内田樹説ではないが、辺境人の我々は、強大な何かを模倣しながら物事についてあーだこーだと不安がることでアイデンティティを形作っており、もっとも恐れているのは、自分で勝手に正解を作り出すことである。それには他人の模倣ではなく、本文に即して自分の……

……と書いてきて思ったが、要するに、われわれの錯乱は、模倣した相手が増えすぎて訳わからなくなったことの反映かもしれない。よく言われるけれども、最近日本人は夜郎自大なところが中国人に似てきているという。しかしそれを言うなら、複雑感情のあり方が北朝鮮にも韓国にも似ていると思う。そういえば、辺境文化的なところはドイツ人にもフランス人にも似ておるぞ、プライドが高くて意地悪なユーモアを好むところは島国のイギリス人やアメリカ人にも似ているらしいぞ。万葉集にも源氏物語にも吾輩は猫であるにも似ておるぞ。あまりにいろいろ模倣しつくしたので、他に即するのは疲れたよ、というわけでもう日本人の得意技を純化して行くしかないのだ。いろいろあるけど「中」とってかわいく馬鹿なふりである。ポエムになるわけだ。確かに、私のなかにもそういうところがある。もっとも、馬鹿なふりというのは、馬鹿の模倣でもあり、本物になってしまうのは上の論理からして必然的であるから気をつけなければならない。

穴だらけの

2014-02-26 01:33:35 | 文学


やかんの湯がちいんと鳴り出した。
 煤けた天井に、いやに大きい神棚がとりつけてあつて、青々としたさかきが供へてある。窓の下には黒板がぶらさげてあり、穴だらけのゴム長が一足、壁ぎはに置いてある。

――林芙美子「下町」

「既成事実への屈服」と「権限への逃避」

2014-02-25 02:35:49 | 文学


「移動する村落」を読んでいたら、蚊柱が出てくるせいか隔靴掻痒となり、丸山眞男の「軍国支配者の精神形態」をつまみ食いする。よく知られた論文であり、みんなが日本のファシズム?の矮小性や「日本の辺境性」などを証明するのに使ったりしているわけであるが、どうも、たとえば丸山の言う「既成事実への屈服」と「権限への逃避」というのは、「即」や「今度は逆に」によって繋がるべきではなく、ちゃんと現実的なプロセスがあるのだと思う。そこで、どのような恐喝や屈服があり得るのか、これをおそらく丸山は描いていないと思う。(心の中では描いてた……)で、葉山嘉樹は、そのプロセスしか書いていないような気がする。

一直線に……矢のように……

2014-02-24 02:39:23 | 文学


 スケート靴を穿いた私は、そうした風景の中心を一直線に、水平線まで貫いている硝子の舗道をやはり一直線に辷って行く……どこまでも……どこまでも……。
 私の背後のはるか彼方に聳ゆるビルデングの一室が、真赤な血の色に染まっているのが、外からハッキリと透かして見える。何度振り返って見ても依然としてアリアリと見えている。家越し、橋越し、並木ごしに……すべてが硝子で出来ているのだから……。
 私はその一室でタッタ今、一人の女を殺したのだ。ところが、そうした私の行動を、はるか向うの警察の塔上から透視していた一人の名探偵が、その室が私の兇行で真赤になったと見るや否や、すぐに私とおんなじスケート靴を穿いて、警察の玄関から私の方向に向って辷り出して来た。スケートの秘術をつくして……弦を離れた矢のように一直線に……。
 それと見るや否や私も一生懸命に逃げ出した。おんなじようにスケートの秘術をつくして……一直線に……矢のように……。
 青い青い空の下……ピカピカ光る無限の硝子の道を、追う探偵も、逃げる私もどちらもお互同志に透かし合いつつ……ミジンも姿を隠すことの出来ない、息苦しい気持のままに……。

――夢野久作「怪夢」



目醒まさせてやるといいと思う

2014-02-23 02:36:56 | 文学


シートンの「動物記」は、熊や鹿やその他の生きものの何ともいえない面白さから、その面白さにつれて我知らずその生活を観察してゆく、その過程を大切なところとして読まれなければならない本であろう。特に、少年少女が、シートンの「動物記」に感興を動かしたら、心ある大人はそれを機会に、子供たちが何でも面白く思えた物事について根気よく観察してゆく、その面白さとでもいうものを目醒まさせてやるといいと思う。

――宮本百合子「シートンの「動物記」」

美少女でよくってよ

2014-02-22 05:05:41 | 文学


オリンピックの番組を観ていたら、なんとも俗悪な演出にうんざりしておつむがどうにかなりそうになったので、唐澤俊一の『美少女の逆襲』を一気読みする。ここらへんの研究については偏見もあって敬遠していたが、いろいろ発見があった。

リプニツカヤちゃんすってんころりん2

2014-02-21 22:51:43 | 日記


リプ様曰く「一度もフィギュアに興味を持ったことはない。時間ができたら映画を鑑賞する」(←私もおんなじ!)


「良い練習ができました。メディアが邪魔でしたけど」(←メディアではなく、森元首相だと思います)

http://www.nikkansports.com/sochi2014/figureskate/news/f-sochi-tp0-20140221-1260595.html
メディアがスパイだとは、さすが本質を分かってるなリプ子ちゃん

そういえば、浅田真央さんといえば、「ジャンプが決まるとスカッとします」とか言っていたのが印象に残っていた(←何時の話だろこれ?)のだが、いつの間にか大人じゃねえか……物心ついたら既に、世界中からあーだこーだ言われる人生ってどんなだろう……まあ、何もせずにだらだら生きるよりましか……


リプニツカヤちゃんすってんころりん

2014-02-20 09:58:42 | 日記


われわれの心の中には、ひいきを応援する気持ちの横に、強いやつを応援する気持ちがあり、人間離れしたキャンドルスピンをこの前目撃して以来、とりあえずロシア15歳リプニツカヤちゃんを応援することにした――だから、昨日、リプニツカヤちゃんがすってんころりんしていたから悲しかった。

彼女だけやり直してよし。


蛙は寧ろラードのようなものでからりと揚げた方が

2014-02-18 23:19:16 | 文学
 池中の蛙が驚いてわめいてる中に、蛇は蛙を啣へた儘、芦の中へかくれてしまつた。後の騒ぎは、恐らくこの池の開闢以来未嘗なかつた事であらう。自分にはその中で、年の若い蛙が、泣き声を出しながら、かう云つてゐるのが聞えた。
「水も艸木も、虫も土も、空も太陽も、みんな我々蛙の為にある。では、蛇はどうしたのだ。蛇も我々の為にあるのか。」
「さうだ。蛇も我々蛙の為にある。蛇が食はなかつたら、蛙はふえるのに相違ない。ふえれば、池が、――世界が必狭くなる。だから、蛇が我々蛙を食ひに来るのである。食はれた蛙は、多数の幸福の為に捧げられた犠牲だと思ふがいい。さうだ。蛇も我々蛙の為にある。世界にありとあらゆる物は、悉蛙の為にあるのだ。神の御名は讃む可きかな。」
 これが、自分の聞いた、年よりらしい蛙の答である。

――芥川龍之介「蛙」



養殖家の話では巴里で一年に食べられる蝸牛の数は約七千万匹で、それを積み重ねると巴里の凱旋門よりも高くなるというから大したものである。
 蛙を食べ始めたのもフランス人だと聞いた。食用蛙は近来日本でも養殖されるが、本場のフランスに於てさえまだなかなか普遍的な食物とはなっていないようだ。その点から云えば蛙より蝸牛の方が遥かに優っている。蛙料理は上等のバタでフライにしてトマトケチャップをかけて食べる。上等のバタを使うので、出来上りがねっとりしていて些か無気味に感ぜられる。蛙は寧ろラードのようなものでからりと揚げた方があっさりしていてよくはないだろうか。
 蛙や蝸牛などのグロテスクなものを薄気味悪い思いをしてまで食べなくとも、巴里には甘い料理がいくらもある。

――岡本かの子「異国食餌抄」



イキなアゴヒモでもつけたら、キリリと

2014-02-17 23:01:46 | 文学


後楽園球場で、最も実質ある内容をそなえていたのは、チョコレートスマックであったようだ。
 どうせロクなシロモノじゃなかろうと僕は目もくれたことがなかったのだが、文藝春秋の連中と見物したら、先ず田川君が買ってきてくれて、たべてみると、うまい。池島信平は、もっぱらスマックを食い、合いの手に野球を見ていたようであるが、実際これが、後楽園球場のカケネなしの実質ある商品ではなかろうかと僕は思った。然し、ともかく、精神病院の生活よりはマシであったことは確かであるから、二週間の野球見物を仇オロソカに思っているわけではないのである。
 申し忘れたが、ランナーが走るたびに、シャッポが脱げて後へとぶのは見ていて苦しいものである。イキなアゴヒモでもつけたら、キリリと、一段と男振りもあがるであろう。

――坂口安吾「神経衰弱的野球美学論」