★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

秘蔵と破壊

2021-07-03 23:50:17 | 文学


或者、小野道風の書ける和漢朗詠集とて持ちたりけるを、ある人、「御相伝、浮ける事には侍らじなれども、四条大納言撰ばれたる物を、道風書かん事、時代やたがひ侍らん。覚束なくこそ」と言ひければ、「さ候へばこそ、世にありがたき物には侍りけれ」とて、いよいよ秘蔵しけり。

有名な段だが、小野道風が死んでからなった「和漢朗詠集」を書いているという珍品を秘蔵する――そのしゃれた男は実に芸術というものを理解しているいるのであった。紫式部が書いた「万延元年のフットボール」なんか実に読みたい感じではないか。

是に比べて、偽物だとよといわれて日本刀でその掛け軸をたたき切る小林秀雄は、芸術家というより、ほぼプロレタリアートといえよう。

それに引きくらべて定型の創作詩は、曲節の変化によって姿を変えることから超越してしまい、専ら視覚を媒介として読むようになるために、その型を表現上の一つの習慣として固定させるようになるものであるらしい。詩型にはその詩型独特の情趣が生れてくるので、和歌は宮廷の文字的詩歌に定着すると同時に、伝統の詩歌となった。ことに和魂漢才というように、和漢ということが宮廷ではっきりと相対立する観念として意識されたことは、漢詩に対する和歌の用途をひろくもしたし重くもした。

――風巻景次郞「中世の文学伝統」


ほんとかどうかしらないが、上の徒然草の御仁が掛けていたのが和漢朗詠集であったことが気になる。やはり、これは偽でも真でも大事にするしかない。これに対して、小林の見ていたのはたしか、良寛で、まあ勝手な想像であるが、小林の芸術観はむしろ、風巻が言っているどんどん変化しうる木曽節みたいな民謡みたいなものの働きであって、とりあえず、創造するためにはまず破壊である。