★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

赤面逆上的混乱苦痛とともに、誤謬の訂正的発狂状態が起る(坂口安吾)

雪降らず

2018-01-22 23:57:23 | 思想


でも寒いですね。山口諭助って全集出てるんだな……。今日は彼の『悪と文学』という戦後の本を覗いた。



この記事をはてなブックマークに追加

ニュースなど

2018-01-21 23:27:39 | 思想


・パソコンを新調したら、知らないうちに顔認証みたいなことになっており、顔が近いとか遠いとか言われて、もはやセクハラで怒られている気分だった。

・西部邁が入水自殺したらしい。確かなことはいえないが、どうやら死ぬ自由を選択したみたいである。確かに言いたいことはわかるのであるが、生きる自由の方は死ぬ自由よりも地味になってしまうからこまるのだ。まあ、最近は、善意はあるのだが人の手足を縛ることばかりしてしまう輩に生かされているだけになっている人も多いので、いっそのこと、と思う人も出てくるであろう。大概、自分ではなく他人を殺す(ことを想像する)方を選択するであろうが……

・学生が推薦してくれた「ぼくらの」という作品を少し読んだが、世界の終わりのかわりに自分の終わりが近い場合、人はどう行動するかという話であるようだ。主人公たちは子どもで、突然巨大怪物の操縦を任されて、大怪獣と戦わなければならない。「エヴァンゲリオン」の場合は、なんだか選ばれた子どもたちが、親との心の壁に悩んでるタイプで、だからこそロボット(親)とシンクロしようとするから操縦できるという――親と一緒に幼稚園に行けば無敵みたいな、幼児みたいな話であったが、一応、理屈はあった。「ぼくらの」はそれがないので(これから明らかになるかもしれないが、1巻では理由はわからなかった)ほぼ徴兵制であった。言うまでもなく、人間、自発的な兵役の場合は、その目的意識と違う場合は不満を持つのだが、自発的ではない場合には不満も持ちようがない。というわけで、理由を探したあげくに従うしかない。こんなものは目覚めでも何でもない。

・黒澤明の「生きる」の場合はどうであろうか。主人公の公務員は癌に侵されながら、急に自発的に仕事をし公園をつくる。わたくしは、昔からどうもこの結末は好きではなかった。もう遅いような気がするのである。

・どこかで読んだんだが、西部邁は学生時代、マルローの「征服者」とかが好きだったらしい。わたくしも好きだったと言いたいところだが、なんかそう言ってしまうと恥ずかしい書物であると思う。

この記事をはてなブックマークに追加

無の藝術など

2018-01-20 23:24:57 | 思想


山口諭助の「無の藝術」とか「個と全体」とかを読む。学校現場ではないが、こういう書物からは「いいところ」を見つけようと思って読む方がいいような気がする。

この記事をはてなブックマークに追加

モンティーニュのように

2018-01-09 23:42:09 | 思想


今日は、演習の授業である批評家の「モンティーニュのように」という文章を扱った。「エセー」のような文章を書くのが大変なことだというのは、すぐ理解できるようで、これまたすぐ忘れがちなことである。しかしこれを忘れたらわれわれは人文学から単なる知識の整理係にみたいなものに変化しはじめたと言っていいのではなかろうか。確かに、この悠々たるテンポは彼が仕事を若い頃に辞めて隠居したことと関係があるに違いないと想像されるけれども、そうでもしなければ、宗教戦争のさなか、考えることは出来なかったのも事実のような気がする。これに比べると、日本の随筆文学は鋭さを殊更誇ろうとしてかっこをつけすぎている気がしてくる。これは、――多分そうだと思うんだけども、日本では、平安時代から随筆的なもので「政治」を行っているからだ。まったく耳が痛い。

この記事をはてなブックマークに追加

【ガストン】科学と諸科学【グランジェ】

2017-12-25 16:39:42 | 思想


年に数回、同僚が集まって読書会をやっていて、わたくしも時々参加しているのである。この前は、ポランニーの「暗黙知」のあれを読んだのだが、今回はジル=ガストン・グランジェの「科学と諸科学」を読んだ。この本は、クセジュから「科学の本質と多様性」と題されてこのたび出版された。訳者のお一人がうちの学部におられるのである。

あまり体調がよくないまま読んだのでかなり理解が行き届かない所もあったが、本質的にやくざなタチであるところの文学の徒であるわたくしからみると、なぜこんなに真面目に「科学」の存在証明を行わなければいけないのかそもそもよくわからないのであるが、確かに、こうでもしないと、「科学」は誤解と偏見にさらされているのであろう。「結」の部分なんか、大学のシラバスみたいな感じであるし……。この人の「科学」概念を支えているのは数学であろうが、何しろ、ほとんどの人類は学校数学の初歩で躓き、――ファイヤアーベントみたいな人に、科学は神話と変わらんよ、と言われると喜んでしまうような輩である。グランジェは科学哲学の大家であったが、孤立していないとは言えないのではなかろうか。文学でもこういう役回りをする人がいるべきなのかもしれない。もう読者たちの擁護は期待できない。

文学の徒のわたくしは、いや神話だって数学と同じく、最近はいろいろと形式的内容によって進歩していて、例えば「君の名は。」とか「ハリーポッター」とかさ、――など、また大多数の人類を喜ばしてしまいそうになってしまうのであるが……。しかし、確かにグランジェの言うように、科学が執拗な一貫性への追求によって、クーンのいうパラダイムの如き、一見すると共約不可能性が存在するような状態を経験しながら、結局は全く進歩の止まらない――その様子を概観させられると、人文学の方にこそクーンのパラダイムによる進歩の停止が起こりやすい気がしてくる。グランジェが本書で指摘しているように――、人文学は数学とかと違って日常言語から借用した概念(言葉)による操作とある種のレトリックの巧みさに頼っている所があるので、その操作とレトリックの違いがすぐさま意見の対立に見えてしまうのである。かかる「言葉違えば主張違う」の哲学は外野が考えるよりも非常に神経質かつ感情的な対立を生み出している(学会に行けばそれが分かる)。――のみならず、だからこそ議論をして自分の意見を固めているうちに自分の説が神話的に見えてくることがあるわけで、そうなると符丁でしゃべり合って徒党を組むこともしばしばである。また、言うまでもなく、最近言われている「実践的な」ものなど、グランジェが科学に対比させる技術知ですらなく、むしろ神話の実現のための労働に近いから、実現されていないものまで実現されたと思い込む(最近の企業の隠蔽騒ぎなどよい例だ)。そんな停滞を見えなくするためにも、たとえば一年ごとにテーマ(神話)を変える教育学者とかが現れる次第である。わたくしが思うに、数学のような役割を文学の場合果たしていたのは、良くも悪くも心理学とかマルクス主義だろうと思う。これがリアリズムとファンタジーの対立などを止揚してきたところがあるばかりではなく、文学者が世界から降り注ぐ過剰な何かで気がフレることを防いできたように思われる。最近の小説なんか、方法の不在のためか、むやみに「私小説」=「全体小説」への意識なんかが出てきているのが現状ではあるまいか。そうすると、もう文学の議論は、世界観(宗教)の対立みたいな話になってくるのでは……

この書を読むにあたって、本棚の奥に転がっていたファイヤアーベントの「方法への挑戦」をめくってみたが、懐かしい感じであった。

一番おもしろかったのは、「第5章、自然科学と人間科学」の「歴史学という極端な事例」という節で、歴史学の対象は常に個体でありその理念は「真なる小説」である――「ポイエーシス(詩的)」であるとグランジェが言っているところであった。例としてあがっているのは、ミシュレであるが、わたくしとしては、「チゲーよ」と言いたい。理由は、司馬遼太郎好きが喜びそうな意見だからということに尽きる。

読後の感想は、「われわれは学問をやっていればいいことあるぞ」みたいなものであった。確かに、グランジェの云うように危険なのは、科学に対する過度な懐疑や盲信なのである。道学者じみた言い方ではあると思うが、とても難しく知性を要求する言葉であった。

追記)このときの読書会で初めてPDCAサイクルがイノベーションを絶対に生まないということを即座に了解してくれる集団に出会った。よかったよかった。

この記事をはてなブックマークに追加

ソクラテスと美しい星

2017-12-11 01:49:00 | 思想
飯田隆氏の『新哲学対話』のなかでちょっと気になった点があったので、「ソクラテスの弁明」を読み直してみた。20年前に一応目を通したはずだが、そのときの感想は、「ソクラテスは理路整然としすぎててこわいなあ」であった。しかしそれはわたくしに、民主主義とは無知の知を自覚するプロセスだということを教えたのである。ただ、ソクラテスの弁明はあまりにも無駄がなく、そして、読者たちよ死んだオレを反復せよ、みたいに言っているところもあって、ドストエフスキーみたいに、二十年後にそういえば気がついたわ、みたいな余裕がないようにわたくしには思えた。文学は、読後何十年先のための細部みたいなのが存在する。しかしソクラテスの場合はどうなのであろう……とわたくしは今でも思う。わたくしが結局、哲学じゃなく文学を選んでいるのもそんなところに原因があるかもしれない。わたくしがたぶん哲学のテキストを読む訓練を受けていないせいだろうが……

とおもって、観たのが「美しい星」映画版。



原作の後半、宇宙人同士でたたかわされる論争が、しばしば論じられているが、この映画ではどうかと思って興味深く観た。原作は予備校のときに読んだのでもうほとんど忘れてしまったのであれだが、映画での論争はあまり心に残らなかった。よくよく考えてみたいとろだが、少なくとも、ソクラテスがすごく知的であることは分かった。


この記事をはてなブックマークに追加

シンポジウム・県外移設論と脱植民地主義・沖縄差別

2017-11-18 01:08:40 | 思想
http://rfweb.ed.kagawa-u.ac.jp/terao/temp/OkinawaSymposium_Kagawa.pdf


第9回公開シンポジウム(香川開催)
「県外移設論と脱植民地主義・沖縄差別」
期日:2017年11月26(日)18:00~20:30(開場17:30)
会場:香川大学幸町北621教室
主催:東アジア共同体・沖縄(琉球)研究会

この記事をはてなブックマークに追加

秘密県会、よさ開いたんぞ

2017-09-02 02:02:20 | 思想


寺岡文太郎氏の『伏石事件』を読んでいて面白いのは、彼の学生時代の日記とか、付録の平野市太郎氏の聞き書き「おらはがいなんぞッ」である。わたくしは、どうも讃岐弁がいつまでたってもちゃんと聞き取れず意味もわからないので、細君に意味を聞きながら読んだが、戦前の農民運動の雰囲気の一部が感じられる。

 頭の固いもんばっかし七八人集めて地主組合を組織したんじゃ。こっちは十人か十五人が団結して毎晩寄り合って協議したもんじゃ。
 夏が来たわい、田に水はったんじゃ。
 四反で四俵負けてくれた滝の庄吉ちゃんがの「おい平野、今日、地主がようけ妙見(堂)さんへ寄っとんじゃ」おらがガイなん知っとるけん言うて来たんじゃ。
 「ようし、地主あますかッ、ぶち殺してしまうがア」ちゅう位での、おらパンツ一つでの飛んで行たんじゃ。
 「どこにおるんや?」とおらびながら、頭の固い宮本の地主やの、多川新平坊主やに、
 「何ちゅうことしやがるんじゃ。町のもんが田んぼ持つべきもんじゃないんじゃ。どなな組合作ったんじゃ。おらも地主の立場もあるんじゃがア」
 おら、どなッりゃげるだけ、どなッりゃげた。そしたら、いつの間にか、誰ッちゃおらんようになったんじゃ。おら、拍子抜けしてしもうただろうがア。だが、こっちは滝の庄告が言うて回うたもんじゃけん、小作組合のもんがようけ寄ったもんじゃ。面こうの地主組合の者はどこへ失せたんかおらんのじゃ。
 そこへ、妙見さんのお坊主が出て来ての、
 「縁の下へかくれとったけど、裏からコソコソ飛んでしもうたんじゃ」ちゅうんじゃ。
 「顔、煤もぶれになってニタ目と見られなんだ」言うたわい。
 それをの、伏石の植田の光(光次)ちゃんや林の雪(雪次)ッさん、松本市太郎が、妙見堂の縁の下の石垣にかけて、じっとの、見とったけど、その時はまだ、村が違うけん、おららと心安うないわい。ほんでの、おらはのう、その連中らに、
 「地主が組合作るんなら、みんな小作人は田んぼの水ぶち落としてしまえ、水切ってしまえ、田んぼ作るなッ。そしたら地主がへこたれるんやガァ。ヘエヘエ言うて作るけん、いかんのじゃ。旦那いうこと絶対に言うなッ。水引こ切ってしまえッ」
 言うたんじゃ。みんな活気立っとるけんのう、田植えするアラ水を引こ切ってしもうたんじゃ。
 そうしたら、この村で一番の宮武弥太郎、これがもう一番に震え上ってしもた。キモ(胆)の小んまい奴でのう、地主組合に這入っとりながら組合の決議も経ずしての、
 「うんと負けるから、石五斗にするけん皆さん作ってくれ」となったもんじゃ。


――次は、四国水力との戦い。勝手に工事に取りかかろうとした連中に向かって

 「おい、こらッ、お前、そこへ置いといたらいかんがア。これ、おれがつくっとる田んぼぞッ。何ぼ、そとの溝やいうても、そこへ置かさんぞッ。何思いがなっとるんならッ。よもくそしよると、おら殺すんぞオッ。おらはガイナンじゃけんのオッ、監獄へ行くん構んのじゃッ」

――ずっとこんな調子なのであって、下手なプロレタリア文学よりよほど面白い。というか、讃岐弁のニュアンスがどうなっとるのかわからんわたくしは、広島のヤクザ映画みたいに感じられるが、それはともかく、こういう「感じ」を、自民党の一部やトランプなどに奪われているのが問題なのだ。という簡単な問題ではないのだが、君子面では何も出来ないことは確かである。

羽原正一氏が書いた『香川農民運動秘史』にも当時の福本イズムに対する反感は指摘されていたが、それは上のような「感じ」から理解されなくてはならない。インテリの観念論が大衆を理解しなかったのではない。実のところ福本の文章にも上のような感情――「感じ」があるのである。そこを説明するやつがいなかったのが問題だったのだ。問題は理屈ではなく感情を理解することである。エヘラエヘラ「寄り添って」ばかりいるからいかんのだ。最近、宮台★司なども、なにかあると「ケツ舐め野郎」、「ウンコを付いたケツを舐める輩」などの比喩を連発しているが、彼が言いたいのは、上のような「感じ」のことなのである。今度、島木健作でも読みかえしてみることにしよう。

それはともかく、平野氏の証言のなかに「秘密県会、よさ(夜)ひらいたんぞ」という部分があって、わたくしは恥ずかしながらはじめて「よさこい」の意味を理解した。わたくしは勝手に「よってらっしゃい」という意味だと思っていたのである。(そういう説もあるらしいが――)。よさこいソーランは、あんな大人数で夜這いを勧めているようなものだ。(いや、本人達の意識はともかく実際のところ、そんなところがあるのかも知れけれども)。よさこいソーランを右傾化の象徴として論じている論客もかつていたが、たしかに、それは思ったよりも面白く深刻な事態を示しているのかも知れない。わたくしの知り合いは「よさこい」を「良い恋」のことだと思っていたと言っていた。

この記事をはてなブックマークに追加

ヘグルンドの翻訳出てた

2017-08-20 23:00:34 | 思想


Radical Atheism の翻訳出てた……あらら

三本松高校は、東東京の代表に負けてしまったが、四国では徳島商業が昔から強かった。なんといっても、昭和17年の特別ルールの「幻の甲子園」での優勝があれであろう。

早坂隆氏が本で書いているが、その特別ルールとやらは

・球から逃げてはいけない(逃げろや)
・デッドボールにはならないよ(さっさと事態を認めろよ)
・原則として1チームあたりの選手数は9人とする(補給をさっさとよこせよ上の方はよ)
・選手交代ならびに控え選手の起用は怪我を除いて原則禁止(死ぬまで交代できませんか、そうですか)

宿泊は大会本部指定の宿(兵舎かよ
遠征費は自費で(はいはい、現地調達の練習ね
グラウンド入場は「愛国行進曲」(笑)
スコアボードには、「勝って兜の緒を締めよ 戦い抜こう大東亜戦」(まず、全員が勝つわけじゃねえし)
「防諜は民一億の非常戦」のスローガンもスタンドにあり(スパイどころの話じゃねえだろがよ、戦艦大和とか無駄船つくってちゃあ)
ユニフォームのローマ字は禁止(漢字は、中国伝来なんですが、それはいいんですか、ああそうですか)
宮城礼拝→君が代→祈願黙祷→委員長挨拶→戦士(おいっ)答辞
サイレンのかわりに進軍ラッパ(はあっ?)
勝利校の校歌斉唱は自粛(これは今もやってほしいね)
閉会式で「海ゆかば」(死ぬ気満々じゃねえか

進駐軍と、もと球児達が試合をやったことがあったそうだが、球児達の大勝利だったという。だから?素人相手に勝っただけでしょう?戦争には負けてんじゃんか。

要するに、上のような学級会的=全体主義的な戦争対応のショーが、実は存在していたであろう地道な事態打開への努力の記憶を我々から遠ざけ、戦後になっても、わたくしのような滑稽なツッコミをまずはしなくてはならなくなってしまったことが問題なのだ。われわれはいろいろとやりなおすのにさしあたり呆けた自分を叩くような妙な演技を要求されるに至っているのである。昨今の右左の対立など、その応酬が激しくなっただけのことだ。

時間の無駄であるが、そうでないとルサンチマンを払底できないのだから厄介だ。

パック3とかJアラートとか、たぶん役にたたんだろう。核を打ち落とすだ?はずれたらどうすんだ?ていうか、当たっても逆に怖いだろうが、うちの上で爆発させるんじゃねえぞ、たのむから。で、グアムじゃなくて他が標的になったら、そのパック何ちゃらは他の場所に瞬間移動でもすんの?Jアラートを聞きました、で、どうすれば?他にもいろいろあるだろうが、お得意の想定外が……

――つまり撃たれたらいろいろと終わりなのだ、というより、撃たれたら妙な連鎖がいつまでも続いて終わらないんですよ。テロや戦争じゃないですよ、上のようなルサンチマンの劇が終わらないから厄介なのです。……政府はさっさと、キム君の部下のところに話し合いに行ってください。もう誰か行ってると思うけれども。

この記事をはてなブックマークに追加

個人析出

2017-08-17 23:51:50 | 思想
せめて高校生までに丸山眞男ぐらい押さえといてもらいたい、と言ったのは確か九〇年代?の浅田彰であるが、わたくしもそう思う。とはいえ、ちゃんと全部読んだ訳ではないのだが、ちょっとした短い文章とか、講演録みたいなのをよんだだけでも、そこらの秀才が太刀打ちできない巨人だったことは明らかだと思うのである。中高の先生は、へんな変化球の知識で学生をおもしろがらせてないで、これをさしあたりきちんと理解せよ、そのあとにやれるもんなら反論を考えよ、という感じでやるべきだと思う。受験だか、政治的中立だか、無知だか知らんが、それ以前にちゃんとしろよ

という言葉が自分に返ってくる前に、気になる文書が頭の片隅に浮かんできたので、さっそく『丸山眞男集』をひっくり返してやっと第九巻にそれをみつけた。「個人析出のさまざまなパターン」

わたくしは、『丸山眞男集』を全巻古本で安く手に入れたが、そこにはすごい書き込みがあった。色の違うペンで線と傍点があちこちに記されていて、なんだかものすごい。




この記事をはてなブックマークに追加

存在の耐えられない山々

2017-08-04 23:43:34 | 思想


わたくしには、小さい頃から辛気くさいところがあったが、たぶん喘息のせいであろう。木曽山中の襞で育ち、実家にはなぜか高山岩男(←山に関係ありすぎ)の本などがあったせいかますます辛気くさくなった気がする。駒ヶ岳や御嶽山があるからきれいなところだねーとか言ってくれる人もいるが、そんな一番高い部分はほとんど見えねえんだから……木曽福島の実家から見える駒ヶ岳は、じつは駒ヶ岳ではなく、となりの山だし。駒ヶ岳山頂はちょっとその裏に隠れている。御嶽は反対側の山の山の向こうである。

入った大学も気がついたら富士山の麓であったが、もちろんそこからは富士など見えない。何百メートルか飛び上がれば見えたかもしれないが、わたくしは辛気くさいのでそんなことをするつもりはなかった。

山内志朗氏のような西洋中世哲学を猛烈にやった人が地元の湯殿山あたりに往還した場合、どうなったかが『湯殿山の哲学』である。

読んでみると、御嶽や駒ヶ岳より月山や湯殿山の方が、あーでもなくこうでもなくという往還に適しているようであった。森敦を公開講座で論じた時も思ったが……。雪がどっさり降るのもいいね。その虚無が襲ってくる感じは理解できるが、木曽の場合はそこまでのあれはない気がする。どうも、木曽の場合、檜を権力に握られてきた歴史や中山道の公的性格からして、なんというか、案外「開けている」のである。「木曽は山の中である」という藤村は、その自意識に於いてそう言っているわけである。

山内氏みたいな境地にはわたくしは達しそうにもないが、存在の奥の方に山々がある、という感じは分かる気がする。わたくしが分からないのは山内氏の言う「花」である。水とか花については、一昨年、坂口安吾を論じた時にちょいと随想風に書いてみたことがあるが、よくわかんないですね。

わたくしは、桜より軒先の朝顔みたいなのが好きなので……



この記事をはてなブックマークに追加

来たるべきバカになってしまう

2017-08-02 23:53:29 | 思想


橋本治というのは、桃尻なんとかとか、窯変源氏とか、小林秀雄論とかしかちゃんと読んでいないのであるが、――なんというか、大学の時にその部室の前をささっと通り過ぎることにしていた、源氏物語研究会とか西行を愛でる会、弥次喜多偏愛会みたいな(全てわたくしの妄想である)学生サークルの匂いがする。当然である、わたくしと同じく、大学は違うが「文学部国文科」の出身なのだ。卒論は、鶴屋南北(原稿用紙600枚)だそうだ。まったくスカした野郎である。

わたくしは、「ブリダンの驢馬」(原稿用紙700枚)だ。つまり「馬盥の光秀」の南北と同じようなもんであるし、枚数で勝ったな(文豪ミニ執筆だが

わたくしが、筑×大学の大学院に行った時に何とも言いがたい不快感があったのは、そこが「国文」ではなく、「文芸・言語研究科」だったからであろう。まさに滅びの歌が聞こえるネーミングである。「国文」にあるいいようもない「これが國文学の世界ですよ」(小林秀雄)という感じのいやらしさがない。しかし、これが文化に必須の臭みであることを理解できない人はイカンとわたくしは思っている。

橋本治は、しかし、あまり好きではない。文章がうますぎる人の特徴であるが、てめえのリズムで滔滔とやり過ぎるのがどうも……。わたくしも知らず知らずのうちに、英米系のレポートの「パシッと要約して簡潔だyeah」みたいな価値観に侵されていたらしい。

橋本治が桃尻ではなく天下国家を語るようになってはおしまいだよ、とわたくしは思うのであるが、先日、千葉インターネット雅也の『勉強の哲学 来たるべきバカのために』を読んだから、同じく副題に「バカ」という言葉が入っている橋本の『知性の顚覆 日本人がバカになってしまう構造』を読んでいる。

まったくみんな「バカ」と言いたいだけではないかと思うのであるが、気持ちは分かる。しかし問題は、いま、戦前のバカが誰だったのかわからなくなってしまったように、誰がどのように「バカ」だったのかちゃんと名前と行動を記録しておくことなのだ。バカが沢山いるのは当たり前だ。しかし問題は犯罪的なバカである。たとえば、会議で汚らしい言い換えとかをやってる元インテリとかである。

それはともかく、千葉氏が『来たるべきバカ』とか、スピノザ的だかニーチェ的だかの何かで力んでいるのに対し、橋本氏は『バカになってしまう』と言っている点で、もっといろいろと絶望が深いといえよう。だいたい、千葉氏のバカからの離脱から離脱してバカに帰るという「来たるべきバカ」という道行きは、ちゃんと最初に離脱(勉強)した人にはドラマチックに面白い事態であろうが、そこらのバカにもよくある事態であってその場合、「よりバカになってしまう」説明としても有効なのである。対して、橋本氏のそれは「顚覆」とか難しい言葉で持ちこたえているが、要は「バカに転んでしまった、落ちるーっ、もうだめだ」という感じだ。確かに「構造」を考えりゃそういう感じがするであろう。そのあまりに重い「構造」は見ないことにして一点突破を図ろうというのが、我々や千葉氏の世代である気がする。そして、彼らが本当にはなれなかった「バカ」が最近出現しつつある。

いま第二章を読みつつあるが、そんな気分で読んでいたら、ちょっと面白くなってきました。

この記事をはてなブックマークに追加

心優しき応援ダンス――『勉強の哲学』

2017-08-01 23:16:04 | 思想

こんなのあるそうです。



千葉雅也氏の『勉強の哲学』についてはちゃんとどこかで書くつもりなので、印象だけ――

優等生のための「学問のススメ」だな――と言ってしまえば元も子もないが、たぶんその側面が大きい。受験時代の労苦がなかったことになっているからである。

この本は、補論でも述べられていたように、著者のドゥルーズ論である『動きすぎてはいけない』の特に第五章を想起させる。千葉氏のこの処女作にしてからが、ドゥルーズ論というより彼なりの日本社会(ネット社会)批評ともいうべきものであったから、彼がツイッター論や勉強論をやっていても彼は比較的自然に自分の哲学を行い続けることが出来るのであって――、つまり、おそらく、彼はかなり若い時に『勉強の哲学』に書かれていることを自覚していたはずだと思うのである。この本に書かれていることは、ある種、受験勉強や大学の講義、そしてドゥルーズのような学問的「対象」とのつきあい方の問題だからである。わたくしが思うのは、彼の置かれた知的境遇が、疎外論では言い表せない孤独みたいなものを最初から抱えており、それゆえ、受験勉強を含む勉強に対して、むりやりな決断主義やテクストを必要以上に偏重する「苦行」を強いなかったのではないかということだ。そこには、ある種の屈辱が必要であり、そうでないと上の孤独はでてこない。千葉氏のような自己分析的な姿勢をとらなくてもあっさり勉強や学問をやり遂げる人だっている。案外、そういう人の方も多い気もするのである。それは氏の言う「勉強」ではないと言われればそれまでなのだが――、わたくしとしては、氏のようではない受験フリーク、あるいは、享楽があるんだかないんだか――でも安倍首相頑張れみたいな人の方に興味がある。わたくしは、彼らは単に「ノリ」で楽してそうなっているとは思わないがルサンチマンでそうなっているとも思わない。こっちの方が「人間」というか「文学」の問題のような気がするのである。

まあ、どこかで氏が言っていたが、勉強して(言語偏重になって)「キモ」がられている人を応援したかった、というところが一番大きいのであろう。とにかく、勉強するのが恐ろしい行為であるような雰囲気があるという――大学も含めて社会がウンコ状態なのだ。後半なんか、非常にオーソドックスな学問の方法論であって、学部の三年生ぐらいに読ませれば、卒論のレベルが全体的にあがりそうだ。人文学への擁護にもなってるし――。そういう意味で、そろそろこういう本は書かれなくてはならなかったのであって、――やっぱりドゥルーズ論と同じで、東浩紀とおなじく、ほんとやることはやいと言わざるを得ない。例えば、浅田彰なんかは、やることが遅すぎてフットワークが良いように見える。まあ、あとドゥルーズというのが、ほんとうまいことヤルやつであって――まあいいか……

本書のたぶんわかりにくい部分が、アイロニー(バカ=みんなの世界、からの離脱)→ユーモア(言葉遊び的な楽しさ)の境地を経て、本当に「行為」する「バカ」――「来たるべきバカ」になれるかどうか、だ。実際、氏は、最初の「バカ」とある意味区別が付かんと言っているわけである。確かに、「自分の享楽」(勉強)とは「自分のバカな部分」に他ならず、ゆえに、勉強を中断を含んだ形で続けて最初のバカにならないようにするのであろうが、――現実的にはそこが一番みんなが苦労するところで、千葉氏の言うアイロニー的な享楽の暴走を防ぐ有限化も下手をすると、受験テクニックみたいになるのかも知れず、氏も自覚的であるが、官僚的作文的な厳密化みたいなところへの道も拓けているわけである。それに、氏の言う「自分の享楽」へのこだわりはなかなか厄介であって、確かに「キモ」がられている人の応援歌としてはいいとしても、その先は、どうなるか分からん――文学の問題が待っていると思う。「あなたに特異なダンス」。これは大変な――ソナタ形式のように一度死んだ主題が生き返るが如きダンスである。ドゥルーズの影響があるとは言え、それがさらっと書けてしまうところに、千葉氏の「特異なダンス」がある。わたくしは、あまりにそれは弁証法的な、音楽的なイメージではないかと思うのである。

要するに、この千葉氏の本は、自己啓発本のパロディのような体裁をとりながら、かなり本格的な「私小説」、あるいは「教養小説」なのである。

『動きすぎてはいけない』の最後に、海辺で他者や無関心が鞭打たれなおしている、とか書いてあったのを、なんというスカした感じであろうかと思ったわたくしであったが、この本では千葉氏を応援したくなった。ほんと、優しい人だと思うね、氏は。――こういう感情が沸いてくるのが「教養小説」であった。そういえば、東浩紀も小説を私小説として書いていたから、似たような感じであった。普通の意味でのアイロニーでゆくと、「批評家たちの処世術の一種だろうこれは」ということになりがちである。それは「教養小説」の持つ効果である。しかし、優れた「私小説」はそんなアイロニーを吹き飛ばす力をもっているものだ。はたしてこの書はどちらなのか?

とはいえ、ただ「学問は限度の発見だ」とか言いつつ、自分が最も限度知らずだった坂口安吾よりは千葉氏は自己に対して冷静だ。

この記事をはてなブックマークに追加

古い機械に新しいことばを

2017-07-19 23:19:14 | 思想


『闘走機械』――なんかこう、中年になっても暴走族をやっている感じがする題名であるが――、原題は「冬の時代」らしい。全然違うではないかっ

わたくしも高校後半あたりから大学にかけて、「ポストモダン」などと騒がれていた書物などを一生懸命読んだ口で、しかし全く分からなかったので結局、様々なものを復習する羽目になったのであるが――、最近あらためて、ドゥルーズ=ガタリを何冊かめくってみると、思ったよりも古風な人たちであるような印象を受ける。要するに、彼らは古い機械と化した思想を組み替える新しい言葉を一生懸命探していたのであろう……。それは、先日のポランニーみたいな人たちの目指す科学と案外近いところにいたのかもしれない――しかし勝ったのは、彼ら思想家ではなくテクノクラートだった。

翻訳しか読めないのであれなのだが、このガタリという人は、こんな風になめた口調でしゃべる人なのであろうか。ドゥルーズとどういう会話をしながら本を書いたか知らないが、全く話が通じない同士が、しばしば「新しい言葉」をむりやりつくりだして意気投合することはよくある話であって、彼らもそうだったのかも知れないと想像した。

この記事をはてなブックマークに追加

雨降ってコンクリートの上を流れ去る

2017-07-18 23:24:48 | 思想


今日は、雷雨が突然やってきた。

雨降って地かたまる、ということが教育現場ではたぶん必要であるが、いまの我々の生活環境と同じく、雨が降るとコンクリートの上を水が流れ去るただの洪水になってしまうことが多い。

我々の社会は、子どもを学校や文化でロマン主義の対象として愛でることで、男女関係はもとより政治的な問題からも逃避してきた面があるが――、そういう我々をくさす言説は、さすがに以前より多くなってきたのではなかろうか。「芽むしり仔撃ち」的な愛で方ならまあ許せたが、AKBや「心のケア」的宗教がここまで猛威を振るうようになると、薄々何かバランスがおかしいなとみんな思い始め……

わたくしも、シャルル=ルイ・フィリップの「アリス」なんかを以て、子どもの純情さを主張することには反対である。ここにでてくる、生まれてきた弟に嫉妬して餓死する女の子をどう考えたらいいのか、これはほぼシャルル・ポヴァリーの頓死みたいなものではないかと思うが、なにが何だか分からないことはどちらも一緒である。確かに、なんとなくしおらしいのも一緒ではある。子どもは生まれてきた姉弟に嫉妬するが、餓死せずに彼らに暴力を振るったりするものであるし、シャルル・ポヴァリーが妻よりもっとすごい浮気をしていた可能性は捨てきれぬ。だからといって、餓死が暴力的ではないというのは的外れだ。

たしか、『〈子ども〉の誕生』のアリエスが紹介していたが、17世紀のどこかの国では、銃や剣を持ってたら校長に預けなさい、という校則まであった。いまだって、教員は、そんな怖れを子どもに感じているのだが、隠しているだけである。特に最近は、子どもの背後にはマスコミや親という怪獣がひかえているからおとなしくする訳である。しかし、教員も子どもと全く同じ人間であり、その状態を続けることは出来ない。

ただ、わたくしは、近代の様々な抑圧によってなかったことになっていた性質が噴出してきたからといって、リセットしてやりなおせとは思わない。ルソーが「子どもの魂のまわりに柵を作れ」といった、その柵の作り方は非常に複雑な工夫が常になされてきた。「雨降って地固まる」方法を誰かが自慢もせずいろいろなかたちで開発してきたのである。ほとんどは失敗するのだが……。

それはすごくゆっくりとした進歩の条件であって、いけないのは、雨を振らせないようにするとか、コンクリを剥がしてしまうことだと思う。子どもが心配なのはわかるが、特に国家、マスコミ、親たち、そして教員達も自重して欲しいと思う。

この記事をはてなブックマークに追加