★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

摩利支天の冥応と黄泉の国

2021-02-28 23:59:44 | 文学


さるほどに兵仏殿に乱れ入つて、仏壇の下天井の上までも無残所捜しけるが、余りに求めかねて、「これ体の物こそ怪しけれ。あの大般若の櫃を開けて見よ」とて、蓋したる櫃二つを開いて、御経を取り出だし、底を翻して見けれどもをはせず。蓋開きたる櫃は見るまでもなしとて、兵皆寺中を出で去りぬ。宮は不思議の御命を継がせ給ひ、夢に道行く心地して、なほ櫃の中におはしけるが、もし兵また立ち帰り、委しく捜す事もやあらんずらんと御思案あつて、やがて前に兵の捜し見たりつる櫃に、入り替はらせ給ひてぞおはしける。案の如く兵どもまた仏殿に立ち帰り、「前に蓋の開きたるを見ざりつるが無覚束」とて、御経を皆打ち移して見けるが、からからと打ち笑うて、「大般若の櫃の中をよくよく捜したれば、大塔の宮は入らせ給はで、大唐の玄弉三蔵こそおはしけれ」と戯れければ、兵皆一同に笑うて門外へぞ出でにける。これひとへに摩利支天の冥応、または十六善神の擁護に依る命なりと、信心肝に銘じ感涙御袖を湿せり。


大塔宮は、般若寺に隠れていた。そこに興福寺の侍法師どもが五百人も押しかけてきたのである。寺に隠れている宮に、寺の侍もどきが押し寄せるというう、基本、にんべんに寺(侍)的状況である。般若寺には、大般若経を入れた櫃が3つあったので、そのひとつに宮は隠れていた。ただでも寺的状況なのに、お経の中に埋もれているとはまさに文脈的擬態である。案の定、二回の危機を回避し、侍法師たちは「大般若の櫃の中をよくよく捜したれば、大塔の宮は入らせ給はで、大唐の玄弉三蔵こそおはしけれ」(大塔じゃなくて大唐の三蔵法師がいたことよ)とからから笑っている。やはりこの人たちが侍法師であってよかった。こんなレベルの低い洒落でも三蔵法師と聞いて十分ありがたい気持ちになっているのである。これが、いまのエビデンスきちがい的役人なんかが調べに来たらすぐ見つかってしまう。

摩利支天といえば木曽御嶽山である。関係ないけど。

そういえば、今日はこんなニュースの存在を知った。

観光協会イベント · 2020/11/01 飛鳥時代の黄泉の世界へ(石舞台古墳で被葬者体験)https://t.co/9dKomcc5Kk?amp=1

この古墳は7世紀前半の築造で、当時天皇をも凌ぐ権力を持っていた蘇我馬子の墓であろうと言われています。その石舞台古墳を埋葬の舞台とした葬送儀礼を文化庁のLiving History(生きた歴史体感プログラム)促進事業により体験プログラム用として造成。体験者が被葬者となり横たわる石棺も、明日香村教育委員会文化財課の考証によりメラミン樹脂により製作しました。飛鳥時代の貴人が空蝉の人から黄泉国の人に移り変わるを“刻(とき)“を体感してみませんか?
 お一人…まさに被葬者になる…だけの体験でもOK。また、グループで葬送儀礼の参列者にもなれます。


非現実的なかんじにくらっと来てしまったが、我が国は本当に大丈夫なのであろうか……。

誠に天狗の集りけるよ

2021-02-27 23:03:03 | 文学


或夜一献の有けるに、相摸入道数盃を傾け、酔に和して立て舞事良久し。若輩の興を勧る舞にてもなし。又狂者の言を巧にする戯にも非ず。四十有余の古入道、酔狂の余に舞ふ舞なれば、風情可有共覚ざりける処に、何くより来とも知ぬ、新坐・本座の田楽共十余人、忽然として坐席に列てぞ舞歌ひける。其興甚尋常に越たり。暫有て拍子を替て歌ふ声を聞けば、「天王寺のやようれぼしを見ばや。」とぞ拍子ける。或官女此声を聞て、余の面白さに障子の隙より是を見るに、新坐・本座の田楽共と見へつる者一人も人にては無りけり。或觜勾て鵄の如くなるもあり、或は身に翅在て其形山伏の如くなるもあり。異類異形の媚者共が姿を人に変じたるにてぞ有ける。官女是を見て余りに不思議に覚ければ、人を走らかして城入道にぞ告たりける。入道取物も取敢ず、太刀を執て其酒宴の席に臨む。中門を荒らかに歩ける跫を聞て、化物は掻消様に失せ、相摸入道は前後も不知酔伏たり。燈を挑させて遊宴の座席を見るに、誠に天狗の集りけるよと覚て、踏汚したる畳の上に禽獣の足迹多し。城入道、暫く虚空を睨で立たれ共、敢て眼に遮る者もなし。良久して、相摸入道驚覚て起たれ共、惘然として更に所知なし。

北条高時は田楽に夢中であった。語り手は調子に乗って、「四十有余の古入道、酔狂の余に舞ふ舞なれば、風情可有共覚ざりける」とからかっている。このあとに、妖怪共が化けた田楽師の登場であるから、高時の醜態というか酔狂ぶりと妖怪たちは繋がっている。高時はただの人間であるが、田楽に狂って踊っている。そこに本物の田楽師たちがやってきたようにみえたが、彼らの姿には、その前の40男の醜悪なイメージが被さっている。いっそのこと、彼らを妖怪としてしまえ、と言うわけだ。

魚の骨しはぶるまでの老を見て
 芭蕉がそれに続ける。いよいよ黒っぽくなった。一座の空気が陰鬱にさえなった。芭蕉も不機嫌、理窟っぽくさえなって来た。どうも気持がはずまない。あきらかに去来の「道心のおこりは」の罪である。去来も、つまらないことをしたものだ。
 さてそれから、二十五句ほど続いて「夏の月の巻」が終るのだが、佳句は少い。
 ちょうど約束の枚数に達したから、後の句に就いては書かないが、考えてみると私も、ずいぶん思いあがった乱暴な事を書いたものである。芭蕉、凡兆、去来、すべて俳句の名人として歴史に残っている人たちではないか。夏の一夜の気まぐれに、何かと失礼に、からかったりして、その罪は軽くない。急におじけづいて、この一文に題して曰く、「天狗」。
 夏の暑さに気がふれて、筆者は天狗になっているのだ。ゆるし給え。


――太宰治「天狗」


本当の妖怪は、芭蕉一門なのだ。太宰治は、文芸のもつその妖怪性から人間に復帰したかった。天狗を妖怪から人間に変容させたその手法は流石だ。この文章は昭和17年のもので、現実の妖怪性が虚構を圧迫していた。そんな現実から離れるためには、人間に帰る必要があったのである。

現在の火星の王様は、チンチクチン

2021-02-24 23:19:56 | 文学


鶏人暁を唱へし声、警固の武士の番を催す声ばかり、御枕の上に近ければ、夜の御殿に入らせ給ひても、露まどろませ給はず。萩戸の明くるを待ちし朝政なけれども、巫山の雲雨御夢に入る時も、まことに暁毎の御勤め、北辰の御拝も怠らず、今年いかなる年なれば、百官無罪愁への涙を滴配所月、一人易位宸襟を悩他郷風給ふらん。天地開闢よりこの方斯かる不思議を不聞。されば掛天日月も、為誰明らかなる事を不恥。無心草木も悲之花咲く事を忘れつべし。

「萩戸の明くるを待ちし朝政なけれども、巫山の雲雨御夢に入る時も、まことに暁毎の御勤め、北辰の御拝も怠らず」と、ちょっと錯乱しているようでもある。清涼殿の萩の戸を開けて待った政務はいまはないし、そういえば、后たちとの愛の夢が空けた朝でもちゃんと勤行や皇祖神への拝礼はやってたのに、……というわけで、いや、あんた、妻たちと遊びすぎてこうなったのではないからオチツケ、といいたい。よほど、中国の楊貴妃の件などが我々の先祖たちには怖ろしい出来事だったのだ。なぜというに、古事記の昔から、天皇家の歴史とは、愛と欲望の歴史だからであった。つい、愛欲に溺れた自分がその愛欲に苦しんで身を滅ぼした?皇祖神だかに祈ってしまうという聖なる循環……

……今年はヒドイ年であった。なにゆえ、部下たちが罪に落ち、流刑の月に涙を流し、天皇が退位して他郷に悩むこととなったのか。此の世が始まっていらい、こんなことは聞いたことねえぞ(そ、そうかな……)。日月もこればっかりは恥を知るべきだ。あなた方の役割は善悪を照らしてなんぼじゃないか、もはや、心のない草木でさえ花咲くことを忘れてしまうに違いないよ。

訳してみたら、ひどい愚痴である。

――とはいえ、天皇の生活習慣がひっくり返ってしまうと、彼らの目からは世界がひっくり返ってみえるのであった。彼らにとって世界とは、天皇が照らす秩序のことだからである。我々みたいな「世界」が彼らにあるわけではない。このときのショックは、一世一代の大失恋をして生きる気がなくなった中学生を想起すればよいのではないか。

こういう純情をみるにつけ、二十世紀の我々の枯れ果てた感じはすごく、昨日少し、杉山平助の『二十一世紀物語』(昭15)を読んだのだが、こんなせりふに感動した。

現在の火星の王様は、チンチクチンという傑物だそうで、学問も大して深い人だといふことでございました。


一見、こういうせりふは余裕があるようであるが、このあと日本は破滅的な最後を迎えるのである。天皇が生き延びたのは運に過ぎない。

天莫空勾践

2021-02-23 23:46:54 | 文学


せめても此の所存を上聞に達せばやと思ひける間、微服潜行して時分を伺ひけれども、然るべき暇も無かりければ、君の御坐ある御宿の庭に大きなる桜木有りけるを押し削りて、大文字に一句の詩をぞ書き付けたりける。
天莫空勾践(天勾践を虚しうすること莫かれ)
時非無笵蠡(時に笵蠡無きにしも非ず)
御警護の武士ども、朝に是を見付けて、「何事をいかなる者が書きたるやらん」とて、読みかねて、すなわち上聞に達してけり。
主上は、やがて詩の心を御悟り有りて、龍顔殊に御快く笑ませ給へども、武士どもは、敢へて其の来歴を知らず、思ひ咎むる事も無かりけり。


このエピソードを読む度に、わたくしは中島敦を思い出す。

「児島高徳」のところで、桜の木に書きつけた詩の文句を私が読み始めると、皆がどっと笑い出してしまった。赧くなりながら一生懸命に読み直せば読み直すほど、みんなは笑いくずれる。しまいには教師までが口のあたりに薄笑いを浮かべる始末だ。私はすっかり厭な気持になって了って、その時間が終ると大急ぎで教室を抜け出し、まだ一人も友達のいない運動場の隅っこに立ったまま、泣出したい気持でしょんぼり空を眺めた。今でも覚えているが、その日は猛烈な砂埃が深い霧のようにあたりに立罩め、太陽はそのうす濁った砂の霧の奥から、月のようなうす黄色い光をかすかに洩らしていた。あとで解ったのだけれども、朝鮮から満洲にかけては一年に大抵一度位はこのような日がある。つまり蒙古のゴビ砂漠に風が立って、その砂塵が遠く運ばれてくるのだ。その日、私は初めて見るその物すさまじい天候に呆気に取られて、運動場の界の、丈の高いポプラの梢が、その白い埃の霧の中に消えているあたりを眺めながら、直ぐにじゃりじゃりと砂の溜ってくる口から、絶えずペッペッと唾を吐き棄てていた。すると突然横合から、奇妙な、ひきつった、ひやかすような笑いと共に、「ヤアイ、恥ずかしいもんだから、むやみと唾ばかり吐いてやがる。」という声が聞えた。見ると、割に背の高い、痩せた、眼の細い、小鼻の張った一人の少年が、悪意というよりは嘲笑に充ちた笑いを見せながら立っていた。成程、私が唾を吐くのは確かに空中の埃のせいではあったが、そういわれて見ると、また先程の「天勾践を空しゅうする勿れ」の恥ずかしさや、一人ぼっちの間の悪さ、などを紛らすために必要以上にペッペッと唾を吐いていたことも確かに事実のようである。

――「虎刈」


「私」は転校生であって、これがおそらく「天勾践」と掛けられている。中島敦はこういう細かいところで日本近代の植民政策をからかっている。――それはともかく、上の程度の書き付けが天皇の機嫌をよくしたからといって文部省唱歌にしてしまう日本近代というのは、ほとんど近代とは言えない。むしろそれは鎌倉時代以降の否定である。わたくしは、むしろいまの日本に必要なのは鎌倉仏教の復興ではないかと思ったりするくらいだ。今日も、天皇が、聖武天皇の大仏の件を持ち出してコロナ禍を語っていたが、そんな昔のことを持ち出されてもこまるのだ。大仏でコロナがなくなるはずはない。あれはむしろ通俗的にも、公共事業として捉えられているのではあるまいか。

ともかく、文化的に急速にレベルが下がりまくっている我が国である。天皇が統合の象徴というような、声を失った鳩みたいになってしまったのも原因のひとつかもしれない。――こう言うと三島由紀夫みたいだが、事態は逆で、大衆社会における天皇制は、天皇さえも大衆化してしまうにすぎない。これはデモクラシーのせいじゃない。もっとも、象徴である限りは、文化的に立派であることを放棄したらもうそろそろこの制度もおわりかなという感じがする。後醍醐天皇だって、警護の武士たちよりは教養があったのだ。

悲しみがいっぱい

2021-02-22 23:21:14 | 文学


桜井の宿を過ぎさせ給ひける時、八幡を伏し拝み御輿を舁き居ゑさせて、再び帝都還幸の事をぞ御祈念ありける。八幡大菩薩と申すは、応神天皇の応化百王鎮護の御誓ひ新なれば、天子行在の外までも、定めて擁護の御眸をぞ廻らさるらんと、頼もしくこそ思し召しけれ。湊川を過ぎさせ給ふ時、福原の京を御覧ぜられても、平相国清盛が四海を掌に握つて、平安城をこの卑湿の地に遷したりしかば、幾程なく亡びしも、ひとへに上を犯さんとせし驕りの末、果たして天の為に罰せらるるぞかしと、思し召し慰む端となりにけり。印南野を末に御覧じて、須磨の浦を過ぎさせ給へば、昔源氏の大将の、朧月夜に名を立ててこの浦に流され、三年の秋を送りしに、波ただここもとに立ちし心地して、涙落つるとも思えぬに、枕は浮くばかりに成りにけりと、旅寝の秋を悲しみしも、理なりと思す召さる。

考えてみると、八幡菩薩を応神天皇の仏身であるとか、そういう自明な知識をわざわざ言っていることが引っかかるのであるが、一応、このあとの平家の福原京の件につなげる為もあるであろう。天皇をないがしろにした罰が当たって平家は「程なく亡びた」というのだ。――しかし、福原京を焼き払ったのは天罰などではなく、木曾義仲のおかげである。そこんとこよろしく。

はずかしくなったのか、源氏物語の大将が須磨に流された件までも持ち出してくる語り手であった。がっ、――まことに申し訳ありませんが、源氏物語はフィクションです。

時経てから、源氏が出た或酒宴で、柏木も席に列っていたが、内心の苛責から、源氏に対して緊張した態度をとっている。其が却って源氏の心の底の怒りに触れて来る。そして源氏は柏木を呼んで、酔い倒れるまで無理強いに酒をすすめる。柏木は其が原因で病死する。源氏が手を下さずして殺した事になる訣だ。殺すという一歩手前まで迫った源氏の心を、はっきりと書いたのが、若菜の巻の練熟した技術である。美しい立派な人間として書かれて来た源氏が、四十を過ぎて、そんな悪い面を表してくる。此は厭な事ではあるが、小説としては、扱いがいのある人間を書いている訣である。大きく博く又、最人間的な、神と一重の境まで行って引き返すといった人間の悲しさを書いている。作者に、其だけの人間の書ける力が備っていたのである。此だけの大きさを持った人間を書き得た人は、過去の日本の小説家には、他に見当らない。
源氏物語は、男女の恋愛ばかりを扱っているように思われているだろうけれど、我々は此物語から、人間が大きな苦しみに耐え通してゆく姿と、人間として向上してゆく過程を学ばなければならぬ。源氏物語は日本の中世に於ける、日本人の最深い反省を書いた、反省の書だと言うことが出来るのである。


――折口信夫「反省の文学源氏物語」


そうだったのか、という感じである。確かに、後醍醐天皇も、八幡大菩薩、清盛、源氏物語、と落ちぶれてゆく自分をイメージで糊塗しているようにみえるが、心の中は怒りと悲しみでいっぱいである。この総量が大きくなければ反省は生まれない。西田幾多郎の哲学なんか、反省とか自己同一とかなんとかいろいろ言っているが、とにかく悲しみでいっぱいだったのである。

体を敵に知らせんと思ふなり

2021-02-21 23:55:41 | 文学


この間数箇度の合戦に打ち勝つて、敵を亡ぼす事数を不知といへども、敵大勢なれば敢へて物の数ともせず、城中すでに糧尽きて助けの兵なし。元より天下の士卒に先立つて、草創の功を心ざしとする上は、節に当たり義に臨んでは、命を可惜にあらず。しかれども事に臨んで恐れ、謀を好んで成すは勇士のするところなり。さればしばらくこの城を落ちて、正成自害したる体を敵に知らせんと思ふなり。その故は正成自害したりと見及ばば、東国勢定めて悦びを成して可下向。下らば正成打つて出で、また上らば深山に引き入り、四五度がほど東国勢を悩ましたらんに、などか退屈せざらん。これ身を全うして敵を亡ぼす計略なり。面々いかん計らひ給ふ」と云ひければ、諸人皆、「可然」とぞ同じける。

正成の有名な死んだふり作戦である。よく猫とかやってる気がするが、――とにかく、我々は大勢の死には強いが個人の自決には弱い。案の定、正成の死んだふりに、相手は正成を讃えてしまうのである。総力戦になっては、こんなことを夢想しているとだめである。個人の自決は蟻が踏み潰されたのと同じである、敵はかさにかかって爆弾を落とすだけである。

以前、「紺碧の艦隊」というアニメーションを少し見たことがある。パールハーバーの前に、山本五十六の転生した人物たちがクーデターを起こし政府を乗っ取り、潜水艦とかを作って有利な敗戦を導こうとする話である。

最後まで見ていないのであれなのであるが、あいかわらず、正成みたいな個人の知略を頼っている。潜水艦が好きなのは、死んだふりが好きなのと似ている。

自害をする勇気のない私は。少しでも世間の眼に私自身を善く見せたい、さもしい心もちがある私は。けれどもそれはまだ大目にも見られよう。私はもっと卑しかった。もっと、もっと醜かった。夫の身代りに立つと云う名の下で、私はあの人の憎しみに、あの人の蔑みに、そうしてあの人が私を弄んだ、その邪な情欲に、仇を取ろうとしていたではないか。それが証拠には、あの人の顔を見ると、あの月の光のような、不思議な生々しさも消えてしまって、ただ、悲しい心もちばかりが、たちまち私の心を凍らせてしまう。私は夫のために死ぬのではない。私は私のために死のうとする。私の心を傷けられた口惜しさと、私の体を汚された恨めしさと、その二つのために死のうとする。ああ、私は生き甲斐がなかったばかりではない。死に甲斐さえもなかったのだ。

――「袈裟と盛遠」


昨日語ったような正成的なウルトラ個人主義は、結局はこういうかんじになるのではないか。戦後の我々は「死に甲斐もない」と思いながらいるもんだからこそ、勇気は甲斐を獲得する方向で働き、時々死に急がせる。病もあるし苦悩もある。もっと厄介なのは、個人を労りすぎる個人である。

一人いまだ生きてあり

2021-02-19 23:10:17 | 文学


ただし天下草創の功は、武略と智謀とに二つにて候ふ。もし勢を合はせて戦はば、六十余州の兵を集めて武蔵相摸の両国に対すとも、勝つ事を得難し。もし謀を以つて争はば、東夷の武力ただ利を砕き、堅きを破る内を不出。これ欺くに安うして、怖るるに足らぬところなり。合戦の習ひにて候へば、一旦の勝負をば必ずしも不可被御覧。正成一人いまだ生きてありと被聞召候はば、聖運遂に開かるべしと被思召候へ


「正成一人いまだ生きてありと被聞召候はば、聖運遂に開かるべし」とか言ってみたいものである。いまなんか、どうみてもそうしてはいけない人間が、自分で自分を褒めたりして、自己肯定をはかっており、――にもかかわらず、どうせこの輩は今自己肯定が流行っているから肯定しているからであり、自分一人になったら、どこかに隠れてしまうであろう。正成は、自分を過大評価しているとともに、天皇に最後までついて行く、そのためには死ぬ準備があると言っているのである。

これが、日本人のマジョリティの中で消化されると、相手は物量だけだ最後の一人になるまで戦う、――とかいいながら、誰もそんな気はなく、ヨーロッパと本気で戦おうとしてたのは思想家たちや文学者のごく一部に過ぎない。やはり、スローガンでなく、思想の問題として闘いを考えた連中だけが戦うことができるのである。ただ、頑張りゃいいというのは、いまの自己肯定マニアとおなじで、――もうはっきり言った方がいいと思うが、偏執狂であろう。

いかなる茅屋に住んでいても、いかなる身装をしていても、偉人は必ず偉人である。いかなる地位にあろうとも、父祖の地位財宝を擁しているだけでは、凡人以下の凡人である。で、乱世でなくとも大人物になれるのは同じいことである。
 世の中には戦争があり、平和がある。何人も爛漫たる平和を望まぬものはないが、その平和を維持せんとしては、時に戦争をしなければならない。大戦争さえすればその後に大平和が来る。世の中はこういうものである。実力のない国は戦争には負けるし、平和もいつ破壊せられるか知れない。一個人にしてもそうである。大いに奮闘した人でなければ大きな安楽は得られない、少ししか働かないものは、いつ一日休息ということなしに、こせこせ働きつづけている。青年の血気盛んな時代にやれるだけやって、いかなる圧迫にも苦痛にも堪えて行くだけの反撥的勇気を養うに限る。


――大隈重信「青年の天下」


すなわち、こういうことを青年に吹き込んだ人間の凡人性、小人性をそろそろ問題にした方がよいようだ。

2021-02-19 23:10:17 | 文学


主上是は天の朕に告る所の夢也と思食て、文字に付て御料簡あるに、木に南と書たるは楠と云字也。其陰に南に向ふて坐せよと、二人の童子の教へつるは、朕再び南面の徳を治て、天下の士を朝せしめんずる処を、日光月光の被示けるよと、自ら御夢を被合て、憑敷こそ被思食けれ。夜明ければ当寺の衆徒、成就房律師を被召、「若此辺に楠と被云武士や有。」と、御尋有ければ、「近き傍りに、左様の名字付たる者ありとも、未承及候。河内国金剛山の西にこそ、楠多門兵衛正成とて、弓矢取て名を得たる者は候なれ。是は敏達天王四代の孫、井手左大臣橘諸兄公の後胤たりと云へども、民間に下て年久し。其母若かりし時、志貴の毘沙門に百日詣て、夢想を感じて設たる子にて候とて、稚名を多門とは申候也。」とぞ答へ申ける。

源氏物語の恋人たちが夢を見るように――天皇も楠を夢に見た。後醍醐天皇は既に部下を殺されている。私のかってな妄想であるが、夢には自分を慕っていた人間が回帰してくるのである。天皇の夢はうたた寝のものである。うたた寝の夢は確かに、現実感がある。日光菩薩と月光菩薩が、ふたりの童子となって楠を勧めているように思えてくる。――すると、楠という武士が見つかるのだ。そりゃ、楠はたくさん生えておる、いないことはないだろう。で、なんかよく分からんが、武神である毘沙門天に百日詣していたら生まれた楠木正成という輩が見つかる。

夢と現実が、――これは総じて現実の出来事だから、それが仏の世界との架橋を現実として認識させる。そしてその認識は、現実をそのように認識させる。

楠正成のような者がみつかるのは偶然ではなく、この人物の由縁のようなものが偏在してしたことの証拠であろう。なぜなら、上のような認識はありふれているからである。そして夢を見る人間は無限にいる。

どうも、自分の家がなんとか天皇だとか清和源氏だとか言っている家は無限にあるのだが、おそらく夢の重層的効果なのである。とにかく、誰かが天皇が祖先だみたいなことを言い出したとたん、どこかで誰かと血がつながり、オセロの端っこの黒が遠くに離れた黒に反応して、全てが一気に黒くなる。血とは夢であり現実でありオセロの駒に過ぎない。

「いまごろの馳せ参じさえ、ちと懈怠と思われるのに、ぼッと出の河内の新守護などが、何の策を持ちましょうや。なるほど、金剛千早ではめざましい善戦をした者かもしれません。けれどあれは自領の一小局地の戦い」
「む」
「ここの大局では、戦場の規模、戦いのかけひき、雲泥のちがいです。すべて堂上方のみでなく、世上の武士も、ちと楠木の名を買いかぶッてはおる。どう見ても義助には、あの正成に、韓信、張良の智謀の片鱗もあろうとは思えません」
「しかし」
 と、義貞は抑えた。自分の言いたい以上、弟が言ってしまったからである。


――吉川英治「私本太平記 湊川帖」


楠木の名を買いかぶっている訳ではない。しかし、我々の先祖は隣の家に生えている楠をみても、つい正成を口走ってしまう経験をしたことがある。

落花の雪に踏み迷ふ

2021-02-17 23:12:23 | 文学


落花の雪に踏み迷ふ、交野の春の桜狩り、紅葉の錦を着て帰る、嵐の山の秋の暮れ、一夜を明かすほどだにも、旅宿となれば物憂きに、恩愛の契り浅からぬ、我が故郷の妻子をば、行末も知らず思ひ置き、年久しくも住み馴れし、九重の帝都をば、今を限りと返り見て、思はぬ旅に出で給ふ、心の内ぞ哀れなる。

倒幕計画の罪で鎌倉に連行される日野俊基の、有名な場面である。落花の雪は雪だろうか、花であろうか、それよりも、それを踏み迷っている人と雪・花が揺れているのが印象的である。こういう場面は、その韻律が心情のリズムになっているので、内容がそこそこ紋切り型でも、その揺れるものの動作が重要なのだ。

新古今集や古今集といった文化を背負っているこの当時の人々は、もう自分の言葉などとうに喪失しており、あとは動作なのである。

もしかしたら、やれ茶道だ、切腹だ、武士道だといった、動作中心の文化は、――今と同じく、煮詰まった文化を揺り動かすだけの目的だったのかもしれないのである。我々の国の歴史は、実は長すぎるのだ。我が国は、米国の独立戦争・南北戦争と同じように、江戸幕府を実質建国だと思っている節がある。織田、豊臣、徳川のトライアングルは内面化しているが、その前はカオスである。しらんけど。

「落ちざまに虻を伏せたる椿かな」漱石先生の句である。今から三十余年の昔自分の高等学校学生時代に熊本から帰省の途次門司の宿屋である友人と一晩寝ないで語り明かしたときにこの句についてだいぶいろいろ論じ合ったことを記憶している。どんな事を論じたかは覚えていない。ところがこの二三年前、偶然な機会から椿の花が落ちるときにたとえそれが落ち始める時にはうつ向きに落ち始めても空中で回転して仰向きになろうとするような傾向があるらしいことに気がついて、多少これについて観察しまた実験をした結果、やはり実際にそういう傾向のあることを確かめることができた。それで木が高いほどうつ向きに落ちた花よりも仰向きに落ちた花の数の比率が大きいという結果になるのである。しかし低い木だとうつ向きに枝を離れた花は空中で回転する間がないのでそのままにうつ向きに落ちつくのが通例である。この空中反転作用は花冠の特有な形態による空気の抵抗のはたらき方、花の重心の位置、花の慣性能率等によって決定されることはもちろんである。それでもし虻が花の蕊の上にしがみついてそのままに落下すると、虫のために全体の重心がいくらか移動しその結果はいくらかでも上記の反転作用を減ずるようになるであろうと想像される。すなわち虻を伏せやすくなるのである。

――寺田寅彦「思い出草」


確かに、物体の運動は近代によってあらたに見出された。しかし、「落花の雪に踏み迷」わなくなったわけではない。

無礼講

2021-02-16 22:06:52 | 文学


その交会遊宴の体、見聞耳目を驚かせり。献盃の次第、上下を云はず、男は烏帽子を脱いで髻を放ち、法師は衣を不着して白衣になり、年十七八なる女の、盻形優に、膚殊に清らかなるを二十余人、褊の単へ計りを着せて、酌を取らせければ、雪の膚透き通りて、大液の芙蓉新たに水を出でたるに異ならず。山海の珍物を尽くし、旨酒泉の如くに湛へて、遊び戯れ舞ひ歌ふ。その間にはただ東夷を可亡企ての外は他事なし。


まさに「さちゅりこん」の趣の無礼講である。目的は倒幕である。かんがえてみると、いまもおねえさんたちを呼びつけて無礼講をしている人々はいるのであろう、――そして、目的は倒幕かも知れない。いや、まあ目的はどちらかというと無礼講のふりをして上下関係をむしろ明瞭にしているのであろう。そういうレベルの低い物はともかく、無礼講は、――やるのであればできるだけ派手に常軌を逸しなければならない。ルネサンスが大概酒と狂気に満ちているのはそういうことであろう。ついでにエロティズムであるが、これはもっと具体的な政治的な表象であり、――芙蓉(美人)のこと、長恨歌のことを思い出すことは、政治的な人間を思い出すことだ。

帰来池苑皆依旧 太液芙蓉未央柳
芙蓉如面柳如眉 対此如何不涙垂


朝光にあかき芙蓉をほめてゐてすがすがし妻と麺麭もぎり食ふ(北原白秋)


北原白秋も惜しいことをした。パンをもぎり食うことで止まっているから、戦時中は戦争協力という政治に行ってしまった。

狼煙と星

2021-02-15 23:19:55 | 文学


ここに本朝人皇の始め、神武天皇より九十五代の帝、後醍醐の天皇の御宇に当たつて、武臣相摸の守平の高時と言ふ者あり。この時上乖君の徳、下失臣の礼。これに従ひ四海大きに乱れて、一日もいまだ安からず。狼煙翳天、鯢波動地、至今四十余年。一人として而不得富春秋。万民無所措手足。

ぱっとみると、「狼煙翳天、鯢波動地」という漢字が濃く、上を見ると、後醍醐という漢字も濃い。冗談であるが、なにか字面というものが、天に煙が覆っている感じを思わせる。「而不得富春秋」、もはや漢文がよめなくてもいいこと書いている感じがしない(ちがうか)。いまも国語が不得意な学生は、文字自体をいやがっている。これは重要な点ではあるまいか。

以前にも書いたが、北一輝の存在感は、あの漢字片仮名交じり文にある。曰く、「明治大帝ナキ後ノ歴代内閣ノ爲ス所悉ク大帝降世ノ大因縁タル日露戰爭ノ精神ニ叛逆セザル者ナシ。一幸徳秋水ノミガ大逆罪ニ非ズ」。福本和夫だって、あの暴力的な二文字縦棒とか「過程を過程する」などの二重パンチにある気がするのだ。こんなかんじでゆくと、大江健三郎は、自らの複雑な草稿を研究者にみせることによって、より自分の文学を複雑に見せたいのではなかろうか。

よだかはもうすっかり力を落してしまって、はねを閉じて、地に落ちて行きました。そしてもう一尺で地面にその弱い足がつくというとき、よだかは俄かにのろしのようにそらへとびあがりました。そらのなかほどへ来て、よだかはまるで鷲が熊を襲うときするように、ぶるっとからだをゆすって毛をさかだてました。
 それからキシキシキシキシキシッと高く高く叫びました。その声はまるで鷹でした。野原や林にねむっていたほかのとりは、みんな目をさまして、ぶるぶるふるえながら、いぶかしそうにほしぞらを見あげました。
 夜だかは、どこまでも、どこまでも、まっすぐに空へのぼって行きました。もう山焼けの火はたばこの吸殻のくらいにしか見えません。よだかはのぼってのぼって行きました。


――宮澤賢治「よだかの星」


さすが、宮澤賢治ともなると、狼煙は世を乱すものではなく、もっと反抗的なものだ。狼煙が黒く思考を乱すとは限らない。星になることもあるのだ。

覆って外無き

2021-02-14 19:08:33 | 文学


蒙ひそかに古今の変化を採って安危の由来を見るに、覆って外無きは天の徳なり。名君これに体して国家を保つ。のせて棄つることの無きは地の道なり。良臣これにのつとって社稷を守る。もしそれその徳欠くるときは、位有りといへども久しからず。いはゆる夏の桀は南巣に走り、殷の紂は牧野に敗らる。その道違ふときは威有りといへども久しからず。


「方丈記」の貴族的無力感がだめだからといって、こういう風にクリアカットにものごとを裁断されてもこまるのだ。「太平記」では天の徳であるが、いろいろここに代入できる。この融通無碍さを見えなくしているのが、「覆って外無き」という、いまだったら「一人も取り残さない」なんとかというやつで、SDGs的な何かとも似ている文言で、これは取りこぼした時には名君じゃなかったね、はい交代、という風になるわけで、――結局、ずっと「取り残される」人がいるのが前提になっている。――というのは冗談だとしても、案外君主の威張る理由と臣下がそこにぶら下がる理由を正当化しているところがある。強力なリーダーによる共産主義みたいなものである。危機の後にはみなそんなことを考えている。

あるいみで、自助共助公助というのを政権がいいだすのは当然なのである。全てを助けるのは太平記みたいな大義名分の道徳に帰ることであり、あくまで君主はいてはならないので。むろん、今の政権はそんなモチベーションでいるのではなく、コネクションが小さくなってしまったのである意味で身動きがとれずに「公」に力を行使するために、お金をちらつかせた命令しか出来なくなっているにすぎない。

「方丈記」の作者がそうであるように、末期的状態ではコネクションが寸断されていて、孤独な人が増えている。

だからそれを一気に乗り越えようと思って、「立正安国論」のように、「先ず国家を祈って須らく仏法を立つべし」という感じで、「公」を「国家」という大きさで考えることを徹底せよ、みたいな意見が出てくる。長明みたいに個人の範疇が重荷になるような状態からの解放である。

独り此の事を愁いて胸臆に憤悱す客来つて共に嘆く屢談話を致さん、夫れ出家して道に入る者は法に依つて仏を期するなり而るに今神術も協わず仏威も験しなし、具に当世の体を覿るに愚にして後生の疑を発す、然れば則ち円覆を仰いで恨を呑み方載に俯して慮を深くす、倩ら微管を傾け聊か経文を披きたるに世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る言わずんばある可からず恐れずんばある可からず。

当たり前であるが、客と主人の対話である「立正安国論」は、一人の人間が書いている。「世皆正に背き人悉く悪に帰す」という重みに耐えるだけの世の酷さに関する観念的描写を、この前に客がしている。長明がこういう風にならないのは、対話をしようとしなかったからではなく、しっかり描写にたいして意味づけをせずに呆然としていたためだ。