★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

2023-01-31 16:52:30 | 文学


ラシェルと言うのは、はじめ俺と仲好くなり、ゴーガンが来てからはゴーガンと仲好くなった五フラン屋の女だ。――カーッとなってしまった俺は、眼の中から光が飛び散る。ゴーガンの歪んだ鼻! それを目がけてアブサンのコップをビュッと投げた! どこかで、チャリンと鳴って、白い炎が立ちあがる、白い炎が――

――三好十郎「炎の人」


今日は、江藤柄谷内田宮台をいっしょくたに一時間でまとめて講義した。なんか異物がくるまれたお焼きみたいな講義だったな。。。絶対に売れ残って善光寺の煙をかぶってしまう。授業は、題材を包むのではなく、炎によって焼かれているものがなければならない。


反=コミュ

2023-01-30 23:57:18 | 文学


T「此奴は巾着切ですよ」
 と言う。
 浪人は「ナニッ」と遊び人の胸倉をとる。
 遊び人の懐から半分覗いて居る浪人の紙入れの大写。
 三次が素早く投げ込んだのだ。
 ナニをするんだと抵抗する遊び人の懐から紙入れを取り出した浪人が、
 「憎い奴!」と肩にかついで投げ飛ばす。
 投げられた遊び人泡食って、
T「ナッナッ何かの間違いですよ」
 と言いわけするのも聞かず、さんざん叩きのめす。見ている三次とお絹。
 逃げ廻る遊び人と浪人の三枚目がかった立廻りがあって、浪人は結局フラフラになった遊び人の首筋掴んで引きずって行く。
 後見送って三次とお絹。
 お絹が三次に、
T「巾着切って嫌ですわね」
 と言う。

――山中貞雄「恋と十手と巾着切」


上のようなものもコミュニケーションである。しかし、彼らが自分の能力を「力」だと言い始めたら、そいつは頭がおかしい。すなわち、コミュニケーション能力とかいうてる人間は例外なく怪しい奴だが、それはそれとして、そういう力とやらはコミュニケーションそのものによって鍛えられるのであって、国語や数学の紙試験にそれっぽいことまぜても、実際それは忖度=読解力しか試してない。コミュ力とはほぼ関係なしですがな。

我々はコミュニケーションを意識しすぎて、現実がその結果だと思い込むくせがある。SFアニメにどっぷりはまり込んでいると何がやばいかといえば、そこにあるよくあるボスと技術屋とのコミュニケーション――「あと10分でやれ」「無理です。あと5時間はかかります」「死んでもやれ」――という展開で、なぜか間に合ってしまう展開に慣れるからだ。誠になんじらに告げます、本当は5時間以上かかるから計画的にやれ、10分で間に合うわけないだろ死んじまうぞ。

それはそれとして、文章からなんらかの人生がにおってくることは確かにある。この前、昔の自分の論文の要約を昔順に書いてたら、論文からおれの当時の体調とか気分が窺われて悲しくなってきた。我々がものを見るというのはいったいどういうことであろうか。そのときに、文章や他人を媒介にしてみる他はないが、それがどのような媒介となるのか。

あれやからね、マイノリティに寄りそうをこえて彼らのみた世界でみてみるとか、それに対して物に即して世界を見るんだ、みたいなの――、蔵原惟人と横光利一のみかけの対立みたいなもんで、新しくも何ともないわけだ。しかし、だからだめだというより、まだ反復せざるをえないということだ。機械文明の「力」を自らのものとして見せつけられた我々は、他をコントロールできていないことに鈍感になりつつある。モダニズム以降、機械主義と評論は似ている。小説の読みの方が評論よりも難しいという通説があって、言いたいことはわかるけどそうでもないよなと思っていたが、そろそろほんとにそうでもなくなってきた。そもそも評論が論理によってできてるみたいなとらえ方だと、知ってるロジックをそこに当てはめるだけになる。小説とおなじく。むしろ、経験をベーシックに解釈するしかない小説のほうよりも、論理でわかると思われている評論の方に学生の読解のいまいちさがあらわれている。たのむから評論をネタにディスカッションやって意見が言えたのでよかったね、という授業はやめてほしい。他を批評することは、対象が強力に見えるほど、自らの力も過信されるものである。余りに危険である。

反接続論

2023-01-29 17:59:31 | 文学


日本人の外国文学を味はふ、その味はひ方が、これまで、あまり独り合点ではなかつたか。日本人の解り方で、あまり満足し過ぎてはゐなかつたか。つまり、どこかでも言つたが饅頭の皮ばかり食つて、これが饅頭か、なかなか美味いとか、どうも甘くないとか、そんな勝手なことを云つてゐたのではないか。
 文学と、話の筋とを混合してゐる批評の多いことなど、やはり、そんなところから来てはゐないか。
 これで、現代の日本文学が、もつと外国文学の影響を脱してをり、尠くとも、日本在来の文学的伝統の中に育つて来たものでゝもあれば、「外国文学は外国人と同じやうに得られなくてもいゝ」などゝ平気で云つてをられようが、実際は外国文学の模倣から出発してゐるところが多い。


――岸田國士「横槍一本」


岸田はそういうが、どうしても模倣でない何かを目指したり、急に「超克」とか「統一」をしたりしようとすると、どうしようもないというのは、大概のひとは20ぐらいまでに気付く。――はずである。しかし、実際はこの問題をめぐって右往左往するのが日本のインテリの通常運転である。ときどき、源氏のように「大和魂」の存在をくちばしってみても、実際はほとんど漢学の学習だったのだ。

毎年思うんだが、坂口安吾の小説に対するレポートは、他の作品とはよいものを書く学生の層が違う。明治の作品と昭和の作品での違いも何となくあるが、坂口安吾の違い方はなんか別種のものである。思うに、やはり安吾はほんとうに落ちこぼれたことがあり、その気質は、後に東洋大学で猛勉強しても変わらなかった。彼は右往左往しないのである。そして、インテリは自分ができもしないくせに、安吾的なものに憧れる、さもなくば、馬鹿にしてなかったことにしょうとする。むかし、ある英文学者が、ほんと坂口安吾は論理に整合性がなくて勉強が出来ない感じがする、と言い放ったのをいま思いだした。太宰に対してはそういう非難は聞いたことない。太宰は右往左往の人だ。

日本の文化の美質は、ビートルズを、カブトムシズみたいにイメーじして、そこに非人間的な輝きをみてしまうような、二項対立の自己生産にあり、ほんとの対立には弱い。ビートルズはどちらかというとニュアンスとしては、ゴキブリズらしいんだが、そう認識されているんだったらむしろゴキブリ野郎みたいな擬人化は我々自身にそれが迫ってくるようで気持ちが悪い。寄り添われるといやなのに、外敵に脅かされるのがいやなのだ。

教育の世界でも、より添いと外的なものへ恐怖の関係をうまく構築出来ない状態が続いている。最近は、寄り添えばなんとかなる勢力が弱者のルサンチマンを携えて台頭中である。小中、中高、高大接続とやたら接続したい考え方があるが、断絶があるからやり直しや成長があるんで、ほんとそこにある平準化思想が気持ち悪い。小学校の優等生が中学で挫折し中学校の優等生が挫折し、そんなかんじで彼らはものを考えるようになるんじゃねえかな。それを回避したら、小学生みたいな大学生がまた増えてしまうであろう。

国語の教科書ひとつとってみても、小学校と中学校、高校と大学それぞれの方向性で書かれていて、整合性が一見ないようにみえるが、その整合性のなさを乗り越えるのが成長というやつで、積み木を積むようには出来ていない。教師も前の校種での内容を相対的に無視することが重要だ。わたしだったら、なんというか小学校の頃に内面化させた吉野源三郎的というか、岩河三郎の合唱的ななにかを、中学での志賀直哉やトーマス・マンとかの読書でたたきつぶしたことが重要で、そのまま小学校九年生みたいな成長をしててもしょうがなかった。でも、小学校での経験はちゃんと基盤か否定的媒介になっているはずだからなくちゃならんと思う。しかし続けてちゃだめだな。

ちなみに、教育の世界は、小学校、中学校、高校、大学とそれぞれの先生たちが世間が思うより反発し合っている状況が昔からあって、それが何らかの障碍になっていることはありうるのだが、別に仲良くすることがよいとも限らない。小学校で中学的な考え方はやはり危険な部分もあるし、中学で小学校のやり方をやってもうまくいかない。無理に統一的な体制で一致団結しようとすると、かならず何か出世欲があってリーダーになりたい欲のある人物が台頭して大勢が我慢させられる集団になる。目的を相対的に失うことで集団として形成し直そうとする力学が働くからだと思う。そういう欲深馬鹿は確かに馬鹿なんだが、混ぜた方にも責任がある。もうはっきりしているように、少なくとも主観的にはそう思われるんだが、軒並み集団のトップがこの人だけはまずいんじゃないかみたいな人に入れ替わったのは、いわゆる「協働」みたいなことをやったからだ。そうなるに決まっているとおもうぜ。協働やら協同なんて、戦時下にインテリを動員していじめるための言葉だからな、もともと動員して馬鹿の元で働かせて溜飲下げたい奴らがいたんだよ。それが戦争の状況を利用した。戦争を煽った奴らがもっとも目的を戦争に置いてなかった。しかし、馬鹿馬鹿しいが、こういうのは社会の通常モードだと考えておいた方がよく、全体を急に改造しようとすりゃ別の馬鹿の台頭を許す。

婿選抜

2023-01-28 23:56:43 | 文学


「なほ、正頼は、この藤中将こそいとほしけれ。世の常の人にもあらず、めでたき公卿の一人子にて、よろづのこと心もとなからぬ、この世の人の限りなくあらまほしきになむ。藤中将、勢ひはあるまじ。源中将は、いと目もあやに、一の者なりと見ればこそ、ふさひにはおぼえね。必ず、人々思ふところあらむと思へば。人の婿といふものは、若き人などをば、本家の労りなどして立つるをこそは、おもしろきことにはすれ。労りどころもなくて、本家の恥づかしくものせらるるなむ、ものしき。さるは、 いと見どころある人にこそあれ。この二人の人見る時にこそ、目五つ六つは欲しけれ」とのたまふ。

仲忠と涼、どっちが婿としてふさわしいか、財力とかひとがらはそれぞれだし、五つも六つも眼が必要だね、と言って居るわけであるが、そもそも、優れた二人で迷ってるんだからこれは悪くない状態である。完璧な二倍の競争は期待出来ない一〇〇倍よりも有効である。

いま日本で起こっているのは、倍率1倍をきる世界である。それがどういうことを意味しているかというと、我々の周りに居る決して政治家・教師などになってならぬ倫理的人格的な人間を選んだ振りをして包摂せざるを得ないということである。足りなくなった人間を補充しなければ、みたいな発想ばかり唱えられているが、昨今の事態は、定員を埋められない危機ではなく、選抜が意味をなくしたら本質的に終わる分野というものがあることに気付かないふりをしていることにある。

しかし、かような偉そうなことを誰もが言えないのも確かで、いい人材に来てもらいたいという気持ちはよくわかるけれども、まずはてめえがまともになってからだ、はなしはそれからだ、みたいなことが多すぎるからである。来る方にもそれはいえるわけだが。。

近代人の間には、自分自身を道徳的であると考える傾向が強くなってきている。というのは、彼らは自分の不道徳をますます多くの集団に押しやっているからである。
――ラインホルド・ニーバー『道徳的な個人と不道徳な社会』


人間の「関係」は、相互関係であり、高度な相互浸透的なやりとりで成り立っている。対話性だか他者性がないからといってディスカッションの練習をさせたら人の意見を受けいれない人間がたくさん出てきてしまったのは当然だ。対話が出来るようになるためには、抵抗がある文章に必死で付き合う練習したほうがはやい。相互関係は、個がまともで居られるネットワークでなければならない。それ以外は、ただの衝突であり、個の腐敗である。

郷土史や地方文壇でよくみられるのは、自らの孤立に自覚的であるあまり、地元の知の系譜に大仰なせりふをくっつけてしまい、かえって価値付けをあやまるという現象である。これは芭蕉や国学者や蘭学者にあったような地域間の知的ネットワークにおいても解消されなかった問題だ。やはり近くにそこそこのレベルの知識人がいないと孤立した知はかえって腐敗してしまう。心的には単純なはなしで、孤立は、知に対する「幇間」的な態度を醸成するからである。それを防いでいたのが、多くの学校の先生の存在だったりしたわけだ。遠くの知的な友人も必要だが、近くの何を言ってくるかわからない人の方が重要だ。同じ意味で、学校の先生は同僚の他に、自分の教え子たちのレベルも高い方がよく、それが近くにいるとなおよいが、――すべて実現不可能になってしまっていることである。というのは、孤立して駄目になってしまう人にとって知的な近しい人が必要なことは確かだが、それは彼らにとって、であって、若者がその駄目さに反応して地元を捨ててしまうのはおもてだってあらわれているよりも多いと思うからである。みんなが、「都会に憧れて」みたいな馬鹿みたいな理由で地元を捨ててるわけがないのだ。

温かさへの欲望

2023-01-27 22:08:01 | 文学


いつものように学生たちを軽蔑する気も起らず、また憎む心もなく、不憫な気持が幽かに感ぜられただけで、それも雀の群に対する同情よりも淡いくらいのもので、決して心をゆすぶるような強いものではなかった。ひどい興覚め。絶対孤独。いままでの孤独は、謂わば相対孤独とでもいうようなもので、相手を意識し過ぎて、その反撥のあまりにポーズせざるを得なくなったような孤独だったが、きょうの思いは違うのだ。まったく誰にも興味が無いのだ。ただ、うるさいだけだ。なんの苦も無くこのまま出家遁世できる気持だ。人生には、不思議な朝もあるものだ。

――太宰治「正義と微笑」


てめえが孤立しているからといって、正しいとはかぎらない。しかし、なぜか我々は孤独こそが正義や悟りへの道であると思いがちである。そこには何か、我々が共同体の意識としてもつ、温かさへの郷愁にもにた欲望の存在への直情的な反発がある気がするのである。ルサンチマンがある奴を出世させるのはどうかともおもうわけだが、もっと最悪なのはルサンチマンすらない幇間である。これもたしかだが、その無垢な微笑をたたえる従順な人々の姿にも、なにか孤立による凍死みたいなものへの恐怖がある気がする。我々の国土は、案外肌寒い時期が長いのだ。

物言へば唇寒し秋 の風


ほんとうはもっと肌寒いのだと思うのである。「鼻」の最後にも、世間からの風であろうか、なにか坊さんの長い鼻さえぶらつかせる風が吹いていた。

「おたく」という言葉はいかにもなんとなく「こたつ」とか「あたい」に似て温かみがあって、それゆえ馬鹿にされるので、思い切ってYOUという意味の原点に返り、「キサマ」とか「テメエ」とか「アンチクショウ」とか「キデン」とかにした方が攻撃的で地位が上がるのではないか――こんな風には考えられない。我々は「おたく」という語を再び選ぶであろう。「あはれ」もそうである。我々はなにか、寒い日常に対する報酬系への欲望を保つように行動している節がある。それが、言葉のセンスにも影響を与えているのかもしれない。

細がいってたんだが、わたしが小さい頃体調悪かったのは、木曽が寒すぎたからではないかと。確かに寒さに震えるみたいなところまでは容易に表象されているが、そのあと慢性的に体調が悪くなってるところまで描かれない傾向が、我々の文化にあるかも知れない。それで油断しているのだ。両親たちは、戦前戦中の苛酷な寒さでも大丈夫だった生き残りだから平気なんだが、――現代は、昔は死んでた子どもたちが生き残ってる時代だ。メンタルの弱さもふくめて、もしかしたら我々は大人として初めてみる人たちを多く抱えているんじゃねえかなと思う。医学の進歩がほんとに新人類をつくっているのかもしれない。

しかし、にもかかわらず、温かさを我々は求めている。仕事をするためには、暖かいものたべて暖かくすべし。それに、いつの頃からかしらないが、日本の分断は右と左のそれじゃなくなっていると思う。この対立は、心理的なコモンセンスに頼るか、理性的な合理性に頼るかの違いだが、それが対立するためには、ちょっと気に入らない人を困ってる人なら助けるか、あるいは助けないか、みたいな対立は存在してはならない。今日本にあるのは、あってはならない基底的な対立である。ミシュレの「フランス革命史」は、そんな基底の対立を力としての「自由」で押し切る強引さの描写から始まっている気がする。これは我々にはいまだに出来ない芸当で、だから、「寄り添い」などという体温を匂わす言葉でしか、改善を示唆出来ない。本当は強い自由への理念を、相手の自由を守る風に展開する攻撃的なあり方だってありうるのである。たぶん「走れメロス」とはそれをいいたいんだろうと思う。

新右翼の鈴木邦男氏がなくなった。氏の本は買った割にはあんまり読んでないが、いつのころからか本の表紙がちょっとケバいはずかしいかんじになってきており、本人というより、氏をとりまく環境に問題ありとおもった。本人もそれで左側?のひとと話すようになったのであろうか。最後まで本が好きな大学生のような人だった気がするのは、氏の部屋の写真の印象にすぎないかもしれない。氏の顔も七福神に出てくるような顔であった。とりあえず、氏の残したものは、右翼は優しくなきゃイカンということであったと思う。

ああ、顰みに倣いたし

2023-01-25 23:28:56 | 文学


昨日は、1時間30分間、吉本隆明の「関係の絶対性」論を太宰とか花×との比較において展開したが、――そもそも相関関係とはなにか語るだけで、昨今の世の中全体を論破でき、吉本が「死ね」となぜ言ったか語ってオレを含めた知識層を殲滅できた。もはやここまでくるといまや地球も爆発しているようなきがする。とにかく、バタイユだか太郎だか日大闘争でもなんでもいいんだけど、すぐ爆発したり殲滅したりするのは、もういっそ「花火屋さん」とでも言えばかわいいのではないか。

上のように調子こいた授業では、たいがい吉本のひそみに倣い、事実認定がふらつく。関係の絶対性は結構だが、ファクトが揺らぐ世界だからこそ、関係が絶対性として輝くのだ。マチウの言う、実家で神通力を失ったイエスのエピソードは、神通力のほうのエピソードが疑わしいのではなく、実家のなかの事実認定があやしいのだ。世の中に、因果が見えない奇蹟はある。しかし、因果が見えているのにそれを言ってはならなくなるのが家庭内暴力(domestic violence)だ。ドメスティックな組織ではボスが理より思いを優先するバカに必然的に化けるので幇間にもその感情の感染によってバカになるからだ。関係の絶対性というのは愛みたいなものだけでなく、そういうものもある。その実、マチウや吉本はそういうことがあまり分からないたちなのなのであろう。。自分が孤独だと思ってるやつが絶対性とか言う。――私も、その、ひそみに倣い、八路軍の説明を間違えた。

ああ、偉人の顰みに倣いたい

ところで、会議中の資料とかに唐突に「人民」とか入ってると八路軍じゃないが、突然目覚めたりするものだ。

抑圧の委譲程度の理論づけもないハラスメントの議論て何なの?不正選挙の研究あるのかしらべてみよう。

寒い時代――ごめんとありがと

2023-01-24 23:05:25 | 文学


かくて、致仕の大臣、かかることを聞きて、水も暖らず、泣く泣く言ふほに、「我、昔より、食ふべき物も食はず、着るべき物をも着ずして、天の下そしられを取り、世界に名を施して、財を貯へしことは、死ぬべき命なれど、難きことも、財持たる人は、心にかなふものなり。今は大臣の位を断ちて、ただ思ふこと、このこと一つなり。そのかなはずは、今は、わが財、あるに効なし」とて、七条の家・四条の家をはじめて、片端より火をつけて、片時に焼き滅ぼして、山に籠りぬ。

三奇人というのがでてきて、これはその一人であり、三春高基という。大臣になったのに、大臣は出費がおおいからやめて美濃の守になった。しかしあて宮が好きになると、新居を買い、あて宮の侍女にお駄賃をあたえて仲介を頼んでいた。しかしあて宮が入内すると上の如くだ。いきなりもう何もかも無駄だと言い、屋敷を焼き払って山に籠もってしまった。思い切りのよい男である。

しかし、山というのはどこのことであろうか。今日は、京の郊外に住んでいる妹のあたりもホワイトアウトみたいになっていた。最強寒波だそうである。

今日は高松のくせに木曽のような寒さであった。――しかし、関東平野や四国がひどく寒くなるときはだいたい風で体感気温が下がるパターンな気がするけれども、木曽は地の底から冷えて空気が凍ってる寒さみたいな感じである。やっぱちょっと違う。。。

寒い時代だと思わんか(ガンダムのなんとかっていう軍人)

少年兵が徴兵される時代に対しての発言だったような気がする。目標に服従させられた世の中では、コミュニケーションの言語が多義性すなわち感情を失う。それが意味が単一の命令と服従の言葉になってしまう。いま、家庭教育のなかに学校教育的なものが適用されているのが不安である。やっぱり親は教師ではない。家族の対面での付き合いでは正直な感情のやりとりがないと、これはそこでは言っちゃ駄目というものがわからなくなるんじゃないかなと思うのだ。親が教師みたいな技術で、まずは褒めて、みたいなのはだいたい将来的にみて失敗してる気がする。それこそ子どもの気持ちを考えたほうがいいのだ。感情的な言葉それじたいは暴力ではない。それが暴力的にみえる勘違いは非人間的である。

「新世紀エヴァンゲリオン」の、碇君が「ごめん」連発をやめる、綾波が「ありがと」みたいなこと言うのが成長でみたいなの、ちょっと変である。そういう奴もいるかもしれないけど、ふつう「ありがと」でなく「ごめん」をいかに適切に言えるようになるかが成長のあれだったりするんじゃねえかな。。。社会が学校化しているとはよく言われるけれども、たしかにそういう面はありそうだ。「ごめん」より「ありがとう」がよいと思ってしまえるのは、社会的存在が小学校の先生的な意味を持ってしまっているということかもしれない。

It was a very strange scene

2023-01-23 23:35:40 | 旅行や帰省


故郷に住んでいるころは、長野県というのは分け入っても分け入っても黒い山みたいなところ、すなわち自分の住んでるところみたいなところとして象徴されると思っていた。しかし、外に出てからこういう分け入っても系の山里は日本の至る所にあることに気づき、むしろ松本や伊那から見える山脈のパノラマこそが信州の象徴でいいわもう、と想到した。新海誠のアニメーションをみるがよい。彼の描く光の影が織りなす空間の世界が信州の一部で特殊的に観られる、それは特殊という意味では変な風景であった。――というわけで、むしろ普遍性を備えていたのは木曽であると決定されました。

むしろ、意味が分からないのは、次のような実態である。

香川県の家は全国で一番寒い?! 北海道より約7℃も低い居間…健康への影響や寒さを防ぐ対策は
https://news.yahoo.co.jp/articles/42b3897c452e2b9d15ce4ed94ad14a7c715733bd


交通死亡事故の割合がトップクラスだったり、室温が一番低かったり、ゲームが1時間しか出来なかったり、うどんが100円台だったりと、何かが変だな讃岐。。。

変と言えば、学生の書く「人間失格」と「仮面の告白」のレポートの変化をこの10年間みてみると、どうも後者への共感の度合いが前者を逆転したみたいなかんじがあるな。。どちらも似たテーマといえばそうなんだけど、人間への擬態と仮面をかぶっちゃうことの違いや、セクシュアリティのありかたとかが後者の方がわかりやすいのかもしれない。わかりやすいから、容易な批評も出てくるということだ。

素朴ということ2

2023-01-22 22:13:18 | 文学


「先生、日本人に大和魂があれば支那人には支那魂があるでせう。日本に加藤清正や北条時宗がゐれば支那にだつて関羽や張飛がゐるぢやありませんか。それに先生はいつかも謙信が信玄に塩を贈つた話をして敵を憐むのが武士道だなんて教へておきながらなんだつてそんなに支那人の悪口ばかしいふんです」
 そんなことをいつて平生のむしやくしやをひと思ひにぶちまけてやつたら先生はむづかしい顔をしてたがややあつて
「□□さんは大和魂がない」
といつた。私はこめかみにぴりぴりと癇癪筋のたつのをおぼえたがその大和魂をとりだしてみせることもできないのでそのまま顔を赤くして黙つてしまつた。


――中勘助「銀の匙」

朝の「吹奏楽の響き」で藤田玄播氏の特集があった。大学時代、氏の元で吹いたことがあるが、つねに響きがゆがまないようにするテンポ設定がちょっと独特なものがあった。氏は編曲家としてすごく有名だったわけだが、作曲家としてもどちらかというと本質的にはアレンジメントの人だったような気がする。民謡を大切につかっている行進曲だけではなく、「天使ミカエルの歎き」みたいな曲でも、マルティヌーの「ギルガメッシ」メロディがアレンジされて内面的な現代音楽に化けていた。そこには、たぶん、通俗的なものに素朴なもので抵抗しようという心意気があったと思われる。「吹奏楽のためのカンツォーネ」がよい曲だったが、同じような意味で「若人の心」も素朴な心の表現だったように思われた。吹奏楽の世界は、素朴なアマチュア音楽人のための世界で、だから氏のやり方が有効だったし意味があった。民謡などをバルトークよりも洗練させクラシック音楽にしてしまおうとするような動きも一方であったからである。

昭和も終わりにさしかかり、その素朴なものは、――かつての文明開化の時期のように、文化のランキングのなかに組み込まれていってしまった。勉強の世界も、単なる受験地獄が、大衆化した階層構造の地獄に変化していったような気がする。教師になると急に出来のよい/悪い、一生懸命やってる/やってない、みたいな基準で人間を判断するようになるが本来そういう輩は特殊で、広くそんな感じになってしまったのはこの頃からではなかったであろうか。経緯や原因はどうあれ、生徒や学生との関係は人間関係であるからして、どんな関係も好き嫌いみたいな関係になりがちである。そこでは、勉強の様々な側面に対する様々な反応と感情が、好き嫌いの感情に捨象されてしまうのである。その勘違いは、勉強を好きになれば出来るようになるという勘違いに直結する。これが、いまの主体的で深い学びなどという空言に嫌悪感を抱かない遠因となってるような気がする。そんな誤った雰囲気の中では、勉強する前に主体性を何とかしようともがくか、自分に自足するようになるわけである。我々は、単に実力が下がっているのに我々は間違いを認めようとしないほどには心を大事にして生きてゆくしかない。

アクティブなんちゃらでなければ授業に非ずみたいな強迫的なあれも、一部の教師に講義が出来るほどの実力が失われつつあったのを講義そのもの価値を下げることによって無視し、別の価値(アクティブなんちゃら)で仕切り直すことによってなんとかしようといういつものあれであった。そりゃ隠蔽が目的の一部だから強迫的にもなるわけである。

強迫的な働きは、それをし続けることで成り立つわけだが、しかし、し続けると疲れてくる。自分の実力を隠し続けているのだから疲れるわけである。学生の鬱やなにやらの原因にはいろんなものがあるが、とにかく何かを隠して乗りきろうという苦しさがしばしばあり、これは医学的な問題ではなく、どうみても人文的な問題のようなきがするのである。学生と話していると、屡々、その考え方こそがあなたを自分で追いつめるものでは、と思わせるものがあるのだが、それをつい「寄り添い」だか「共感的」なあれで「そうですね」とか言うてしまうと相手の首をまた絞めてる気がするのである。でも「違うよボケッ」と言ったらそれはそれで相手は「もうオレだめだ~」となるわけであるから難しい。カウンセリングマインドの心構えの説明は簡単だが、それによって何かが簡単になっているわけではない。

我々の気質は、長い時間のなかにも求められる。単に、素朴さが失われたと言っても始まらない。例えば、1970年前後の生まれの特徴として考えられるのは、一種の幼少期における転向で、その親たちが敗戦で経験したものの反復という面があるかもしれない。我々は「ウルトラセブン」的な暗い戦争の雰囲気と「うる星やつら」みたいな非日常的狂騒を発達段階的に自然と経験しなければならなかった。学生運動的な怨念と八十年代の馬鹿騒ぎについて、大人は、原因をふくめてその関係を考えることができたが、子どもはそれを自然の推移として経験させられたわけで、そこでの妙なかんじを強引に納得した感じを東浩紀氏なんかにも感じるし、私の中にも感じる。小学生の頃、タモリがお昼休みに進出してきたときにその雰囲気にものすごく嫌悪感があった。小学生のくせに、わたしの人生は、それより前とそれより後に分割され、八十年代以降がすべて「最近」である。わたしの世代の物書きのなかに、蔵原惟人もびっくりのスターリン主義者がいるのも原因はそこで、子ども時代のやり直し=暗い戦争続行みたいなところがあるかもしれない。しかしそれは学生運動の一部が太平洋戦争続行だと言ってたことに似て、それだけ言っててもしょうがないところはある。大人として子どもの時代を生き直せばいいんじゃないか、気分としてはそう思う。

素朴ということ

2023-01-22 20:02:14 | 文学


かくて、侍の君も、参り給へりし日、なくなり給ひにしかど、御消息に懸かりてありつる、御思ひは月日に添へてまさり、身は弱くなりつつ、え堪ふまじくおぼゆれば、あて宮に、かく聞こえ給ふ。
「いひ出でてもつひにとまらぬ水の泡をみごもりてこそあるべかりけれ
かくまで、聞こえであるまじくおぼえしかば、聞こえ初めて。 侍らざらむ世にも、いともいともいみじう厭はしければ。 いや、あが君の御ためには、身のいたづらになりぬるも思ひ給へず。いま一度の対面賜はらずなりぬるを思う給ふるなむ」
と聞こえたり。あて宮、見給ひて、あるがなかに、いかでと思ひ聞こえし人の、あやしき心の見えしかば、つらしとはおぼえ給ひしかど かう、心細くのたまへること、心憂く、など、この君にしも、かく思されけむなど思して、かく聞こえ給ふ。
「同じ野の露はいづれもとまらねどまづ消ゆとのみ聞くが苦しさ
かく承るも、いとほしうなむ」
と聞こえ給ふ。侍従、見給ひて、文を小さく押しわぐみて、湯して飲き入れて、紅の涙を流して、絶え入り給ひぬ。殿の内揺すり満ちて、惑ひ焦がれ給ふこと限りなし。


あて宮は実の兄からも愛されていた。兄は妹を恋い焦がれて死にかけている。「秘めた思いは水の泡のようなものだ。秘めておけばよかった」という彼の手紙を読んだ妹は「同じく露のように消えてしまう身ではありますが、兄上が先に消えてしまうのはつらいです。申し訳ないです」みたいな返事をする。これを読んだ侍従はこれを小さく丸めて飲み込み、眼から血を流しながら死んでしまう。屋敷のなかは大騒ぎになった。

侍従が妹からの微妙な手紙を飲み込んでしまうのがすごい。それにしても、兄の妹へ手紙にしても妹の返事にしても、そしてそれを届けるよりは死を選ぶ侍従にしても、あまりにも単線的に死に向かいすぎである。酒をくらって憂さを晴らすとか、他の相手を探すとか、――柄谷行人の「単独性」にさからうようであるが、そんなあり方がありえないのはちょっとおかしいと思うのである。我々は死に向かうときにあまりに屈折がない。大きく傷ついて心がふたがれたら死ぬのが許されるとおもうのか。ここに我々はなにか心を越えた重力を感じざるを得ない。

たとえば、伝説によれば、義仲殿は、仏足石のブッダじゃあるまいし岩に足跡がつくほどの馬にお乗り遊ばしていたそうであるが、そんなのにのってりゃ、田んぼの氷もわれて沈むにきまっとるやないかと。。。義仲は、なにか都の空気にあてられて死に急いだところはないであろうか。

自然の事を自然の順序に考えて行くと、万事が否定的のフン詰まりになる(夢野久作「夫人探索」)


Pなんとかサイクルの説明としてこれほど適切なものをみたことないきがするが、それはともかく、人生は成り行きに素直すぎると、「万事が否定的のフン詰まりになる」のである。わたくしも心が汚れているためにときどき、「小さな恋のメロディ」でも観てしまうクチであるが、ガキは勉強してなさいと思うことも確かである。勉強は、あて宮のアニキのようにならないためにやらねばならない。それは通俗性を拒否すると言うことで、素朴なものを切り捨てることではない。

戦後の歴史は、素朴なものが通俗的におちてゆく世界であった。三島の小説の通俗性はしばしば言われるけれども、戦後派というのは、近代文学派は特にと言っていいのかも知れないが、頽廃性よりもかなり通俗的なるものに向かっている。いずれこれは市民性みたいなものに換言されてゆくものであった。かかる見方だと梅崎春生のセンスの良さみたいなものは隠れちゃうんだけど。。学生に研究してもらうとなんとなく感じるのだが、戦後派の小説は芥川にあったような「解釈」を通過させずに、なるべく誤読させないようにできてるものが多い。戦後の解放は、解釈を必要とする文章の屈折をも解放してしまった面があるかも知れない。むろん大衆化路線もからんでるんだろうが、根本的にはそういう問題とは思えない。

人間と検索機能

2023-01-21 19:13:10 | 文学


かくて、あて参り給ひて、また人あるものとも知り給はず、うちはへ参上り給ふ。まれに、人の宿直の夜は、夜更くるまで、この御局にのみおはしまして、御遊びなどし給ふ。
かくて、二日ばかりありて、参上り給へるつとめて、春宮、
めづらしき君に逢ふ夜は春霞天の岩戸を立ちも込めなむ
とのたまふ。あて宮、寝給へるやうにて、ものも聞こえ給はず。
かかるほどに、妊じ給ひぬ。


この部分の直前には、天皇の后のなかでも意地の悪い人が居てみたいなことが書いてある。その「歳老い、かたちも憎し、時なし。心のさがなきこと、二つなし」というたたみかける書き方にたいし、春霞の力で天岩戸を隠しいつまでも夜が明けなければよいのに、という歌を寝たふりをして聞き流し、「かかるほどに」妊娠してしまうあて宮の描き方が人間離れしている。

どちらかというと、あて宮の妊娠が自然であり、后たちの悪さの方は人間的である。しかし、我々が愛でるのは、自然の方である。例えば、我々の使っているコンピュターは自然の方である。これに対して、人間たちはその自然に悪口を書き込むことで対抗しているのかもしれない。

コンピュータの検索機械がなかったころ、われわれ人間の方に、なんとなく言葉やらせりふの一部を頁をめくりながら探す機能があった。何年も注釈の訓練をしているうちになんとなくそこら辺にあるみたいな勘もそなわってくる。わたしもそれが発達してたのは院の前半頃だったきがする。最近、国会図書館のデジタルコレクションの検索機能が驚異的な性能アップを起こした。これで研究の世界がまた違ったものになることは明らかであるが、我々は人間であり、それほどやることが変わるかどうかは分からない。前述の人間の検索能力の場合は、速読とは違ってもっと速いなぞり方なんだけど、なんとなく文章も読んで探している感じがあったと思う。結局、検索自体を機械にやらせても、そのあとの文脈との関係を考える方は同じような時間がかかるのだし、結局、大蔵経の山を目の前にして頁をめくってた時代にあるいみ戻るんじゃねえかと思われる。というか、べつにパソコンによってやることが変わっていたわけではない。単語がはやく手元に集まるようになっただけだった。だいたい単語の同一性にもとづいて用例がたくさん出てきちゃったほうが研究は大変だというのは、わりと常識的なはなしである。

「百万円を奪った犯人は、あなたの心のほかに居ります」
 芳夫は愕然とした。無言のまま眼を輝やかして一膝進めたが、名探偵は依然として微笑を続けた。
「それは一人の若い女性です。しかも非常な美人で、学識といい、心操といい、実に申分のない処女です」
 芳夫は思わず叫んだ。
「それはどこに居りますか」
「それを探し出し得る人は世界中にあなた一人です」
 芳夫は面喰った。独言のように云った。
「いったい……それは……どういうわけで……」
 名探偵は厳粛な口調で説明した。


――夢野久作「夫人探索」

夢の崩壊

2023-01-20 23:10:30 | 文学


かまのような、お三か月、
早う、大きくなって、
お嫁入りの晩に、
まるい顔出して、
雲のあいから、のぞいてみい。


――小川未明「三日月」


よく言われるように、我々は欠損に耐えられない割には欠損に惹かれる。例えば、私なんかも青春時代に帰りたくはない。あげな無知で細胞がふさがったような感覚の悪い状態に戻りたくないからだ。しかし、未練がないわけではなく、恋愛ドラマにもあいかわらず心惹かれている。そういえば、ミシュレの『フランス革命史』には、最初の方で、ルブランのアントワネットの肖像画について触れ、女王の人を見下した感じがでていると主張している。しかしまあ、ルブランの絵というのはみんなそんな感じにみえるといえばみえるのであって、そのあまりに美形らしい美形すら、打ち壊すべきアンシャンレジウムを無理やり見出すための材料になってしまっている。ルブランの絵に、昔の恋人の理想を見出し、不満を漏らす中年男性は今も多いと思われる。これは革命への欲望が、打ちこわすべき対象へ憧憬とともにあることとあまり違っていない。

擬態の主体はまねる側にもまねられる側にもあり、結果をみる主体にもある。そして、そこには常に真似ない欲望も主体間を行き交うのである。

我々の日常でも、自分が馬鹿にされる理由というものは、「すべての人」がたいがい理解できないことが判明することがある。その不理解の極端な人をきっかけに判明するのであるが、それもある種の模倣かもしれない。模倣させているものは欲望であろうか、情報であろうか。

夢も大概は情報でできている。小学生に将来の夢を聞くと、サッカー選手とかユーチューバーとか医者とかがでてくる。しかし、こやつらの夢はこんなものではなく、**と結婚するとか**とデートするとか、**に遊びに行くとかではないだろうか。わたしの夢はぜんそくを治すことだった。そういえば、わたくしの田舎ではあまりに前情報社会だったためか、わたくしのまわりには医者になりたいとか公務員になりたいとかいう輩はひとりもおらんかった気がする。一番本気な夢を語っていたのは、明菜ちゃんと結婚したいやつと、小学校の頃だったら、赤レンジャーになるといってたやつである。最近の周囲の学者たちをみてみると大概、試験監督を辞めたいとか猫になりたいとか本気で言っている。

結論・夢は大概叶わない。

思うに、ピラミッドや古墳も完成に向かって制作されたようにみえながら、崩壊して自然の風景に戻ってゆく。月の満ち欠けのようなものだ。古墳が緑の丘に帰るのも人々の計画のうちだったに違いない。死後の世界を信じていようといまいと、モノの崩壊を信じなかったわけがないと思うのだ。これに対して人間の言論の世界は、永遠を夢みている。

鶴見和子がいぜん、「わたしの仕事」のなかで、自分の仕事の「筋道だけは通しておく」のだ、と言っていて、一瞬「筋を通しておく」んじゃないんだな、と思ったことをおぼえている。アカデミシャンにもいろいろいて、筋を通すみたいな労働者風の人と、筋道だけは通すみたいな貴族風の人がいると思ったものだ。いずれにせよ、大変に思い上がっている態度である。

真砂子君、「さは思へど、えぞあるまじきや。わがなからむ代はりに、上に仕うまつりへよ」など言ひわたるに、つひに、父君を恋ひつつ、亡くなり結ひぬ。母君惑び焦がれ給ふに、効なし。


言論を夢みる人々は、妻子がありながらあて宮に求婚し、息子を死なしてしまう実忠みたいなものである。

コスパ論者とねずみ

2023-01-19 23:20:27 | 文学
「言の葉も涙も今は尽き果ててただつれづれと眺めをぞするいでや、聞こえさすべき方こそおぼえね。ここらの年ごろ思ひ給へ惑ひつるところ効なく、人伝てならで、夢ばかりも聞こえさせてやみぬること。あが君や、雲居のよそにても聞こえさせてしかな。いましばしだにいたづらになし果て給ひそ」など聞こえ給ひつれば、御返りもなし。

あて宮の春宮入内が決定的になったので、求婚者たちはパニックになり、神仏にすがるものもおおくでた。最初の求婚者の実忠もうえのように歎く。川に身を投げようと、草木を見ては涙を流すのである。明らかに、過剰な行為である。コストパフォーマンスが悪すぎる。が、そんな風に考える奴は論外なのである。恋に落ちると、草木や川は我々の心を形作っていることがわかるし、草木は我々の内部にあり同時に包むものとして変容する。

若者たちが身につけるべきなのは、よく言われている、不確かな未来に対する思考力みたいな、わけわかんないものではない。この発想だと逆に、わけわかんないことはわけわからないから、とりあえず現在を乗り切ろうと我々は出力を最小にしてしまうものだ。しかし、仕事というものは根本的にどこまでやったらいいいのかわからない作業がほとんどである。それは相手が他者として現れているからで、根本的に恋愛と同じである。そのことは、どこかで学んどく必要があるのだが、それを回避することばかり推奨されている。コスパがよいみたいなやり方を実現出来ている者は、どうせ誰かにコストを払わせてパを自分が実現したかのように考える人間しかいない。これが増えてくると、逆にその誰かにより合理的に仕事を押しつけるために、「協働」だとかいうて、一気に仕事場が全体主義と化してますます上司や部下の弱い部分に仕事の押しつけが始まる。卒業論文となると、普通の授業のレポートに比してそれを遂行出来ない学生が増えているのは、頭や体力がおいついていないのもあるが、思想がおかしいのだ。学問にはやればよいことが決まっていないのに、勝手に決めているからである。この調子では同じように仕事も(恋愛も)できないに決まっている。

しかのみならず、むろん、学問が何か学問以外の目的に奉仕させられている状態だと、やることが決まっている訳だから楽だけど、ますます学問のパフォーマンス自体は落ちている。だから、それは職業訓練にもならないわけであった。なぜ、こんな簡単なことが分からなくなってしまったのか。



「まあ、あなたよりもえらい方があるのですか。それはどなたでございますか。」
「それはだれでもない、そういうねずみさんさ。わたしがいくらまっ四角な顔をして、固くなって、がんばっていても、ねずみさんはへいきでわたしの体を食い破って、穴をあけて通り抜けていくじゃないか。だからわたしはどうしてもねずみさんにはかなわないよ。」
「なるほど。」
 とねずみのおとうさんは、こんどこそほんとうにしんから感心したように、ぽんと手を打って、
「これは今まで気がつかなかった。じゃあわたしどもが世の中でいちばんえらいのですね。ありがたい。ありがたい。」
 とにこにこしながら、いばって帰っていきました。そして帰るとさっそく、お隣のちゅう助ねずみを娘のお婿さんにしました。
 若いお婿さんとお嫁さんは、仲よく暮らして、おとうさんとおかあさんをだいじにしました。そしてたくさん子供を生んで、お倉のねずみの一家はますます栄えました。


――楠山正雄「ねずみの嫁入り」


かんがえてみると、昨今のコスパ論者は、偉いというカテゴリーをもとにしてねずみが一番偉いというところに漂着してしまう馬鹿ねずみに似ている。本心はコスパ、コストパフォーマンス云々ではなく、結局偉くなりたいだけなのである。