★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

THEM!

2017-02-28 22:34:42 | 映画


これを「放射能X」と訳したことに当時の願いみたいなものが感じられる。観てみると、この作品がのちの化け物映画に与えた影響の大きさがわかる。それは、怪獣よりもその他の描写に手を抜かないということである。日本の九十年代あたりのゴジラ映画にいうてやりたい。

そういえば、アメリカはニューメキシコで原爆実験をやったのであった。日本で東北に発電所をつくるようなものだ。日本も、マッドサイエンティストや海(宇宙人も可)に原因をおしつけず、ちゃんと本州から怪獣を出現させねばだめであろう……

ハリウッドと空想科学映画

2017-02-27 23:29:08 | ニュース
今年の「日本近代文学演習Ⅱ」は結構良いレジメが提出されたと思う。



その演習であつかった■田▼輝の『宝島の教訓』のなかに「空想科学映画」というコラムがある。そこでは、「ゴジラ」と「原子怪獣現る」が比較され、ハリウッドの近くに原爆でも落とせばより作品が良くなるのに、とか書かれている。また、武器をつくるのをやめれば、怪獣を家畜に出来るとも……。特に後者をどう解するのかはちょっと難しいのだが、それはともかく――、原爆でも落とされなければ傑作をつくれないのは、アメリカよりむしろ相変わらず我が国である。このコラムが書かれた頃、ハリウッドは赤狩りの時代だった。しかし、ハリウッドは、ゴタゴタしながらそれを自己批判する映画業界というイメージをなんとか作り上げている。

今回のアカデミー賞授賞式は、報道によると、「反トランプ」の嵐だったらしい。文化はだいたい様々な人たちが関わらないと生じないところがあるという一般論は脇に置いたとしても、ハリウッドがそうしなければ引っ込みがつかないのは、歴史的に理解できる。しかのみならず、そもそも原爆よりも赤狩りの方が気持ち悪い出来事なのだ。わたくしは、自己批判できるタイプの人間というのは、すすんで気持ち悪い行動をしてしまうものだと思っている。要するに批判とは振り子のようなものであって、批判のためにも意図的に一度あっち側にふれる必要があるからだ。アメリカというのは、なぜかそういう才能がある国である。今回、「作品賞を言い間違え事件」というのが起こった。司会者が主演女優賞の作品を言ってしまったのである。どうもあやしい。意図的に間違えたのではないか。「嘘じゃないよ、事実だよ」と受賞者が叫んでいたが、まさに、トランプへの当てつけとして解せる。よくわからんが、アメリカという国は、我々が考えるよりも、陰湿な社会かもしれない。だから、ときどき外部に爆弾をおとさないとやってられないのではないか……陰湿すぎて勢いあまったその流れで自己批判してしまうのだ。だから、「反トランプ」はその流れの一部であり、トランプと「対立」してはいないのではなかろうか。

対して、われわれの国はどうであろうか。われわれが反省するのは、いつも何か派手に押し流されたり爆発した時であり、その度に清清して再出発しているが、普段の陰湿さに関しては案外淡泊であり、権謀術数からも逃げている。日本のいじめは陰湿だと言われるが、それほどとは思えない。上の方に「馬鹿の匂いがする」ので脅えて身動きがとれなくなっているのが我々のいじめの正体だ。その代わりに、「火垂るの墓」に描かれたような庶民同士のねちっこい嫌がらせが、それへの抵抗として行われてしまう。我々の芸能界は、まったくからかうべき人間をちゃんとからかっていない。芸能人たちはどちらかというと、みずから「ゴジラ」的な存在となって喜ばれているだけで、確かに多少の思弁をもたらしはするのであるが、それだけである。だいたい、最近の「シン・ゴジラ」にしても、自動的に敵を排除する高度な機能を持っていながら、なぜしゃべらないのであろうか。まさに、われわれが夢想する専守防衛のイメージである。しかし、そんなことは絶対にありえない。

総合雑誌

2017-02-26 23:06:37 | 文学
総合雑誌の意味というのは、近代文学の研究でもいろいろと議論されるところである。いま時々コンビニに置いてあるものを買ってみたりすると、案外楽しい。「純文学」のポジションは、こういう雑誌でこそ、そのポジションが明視される。現実の社会の中になんかそのポジションは最初から存在しているかどうかあやしい。だからそのポジションは誇張であり嘘なのだ。総合雑誌は『太陽』の昔から、むしろ「社会」の「構成」をつくる役割を担っていたところがある。「常識」がその「社会」の「構成」を知っていることと関係があることは言うまでもなし。ネットは、読書が選択的になりすぎてやっぱり偏る。確かに『文藝春秋』は偏っている。しかし……

コンビニで売ってた『文藝春秋』の中に載っている「コンビニ人間」。

小林秀雄 対 西村寿行

2017-02-24 22:13:44 | 文学


西村寿行といえば、近所の男木島の出身である。生まれたのは、昭和5年だから、開高健とか野坂昭如とかの世代である。たしかデリダやジーン・ハックマンもこの年の生まれではなかったであろうか。戦争が終わった時に、ちょうど反抗期。ある意味大変幸運な世代である。一生懸命、パンチを繰り出そうとしていると、世の中自体が本当にひっくり返ったのだ。ふつうは、そうじゃない。で、「君よ憤怒の河を渉れ」という感じになる(以上、イメージ)

中学のとき、西村寿行はちょうど長者番付で話題になっている頃で、酒を飲んで泥酔し、編集者に「今すぐくたばれ」、「おまえはクズのなかのクズ」などと言い放ったあげくひっくり返っていた、というような武勇伝?が新聞だか週刊誌に載ってた(個人の記憶です)→ウィキペディアにも同じようなことが書いてあったから、本当なのかもしれない。

「鬼女哀し」を読んでいたら疲れてきたので、小林秀雄の壺の文章なんかをなめなめしてみたが、西村寿行と小林秀雄は似ている。編集者に乱暴をはたらいたことが似ているのではない。そこも似てるが、「反省なんか頭のいいやつがやれよ、おれはしらねえよ」と虚空をにらんでいるところが似ている。そして、案外使っている漢字が難しい。

ファルコンの顔

2017-02-22 23:34:22 | 映画


「ネバーエンディングストーリー」の見所といえば、やはりファルコンの顔であろう。エンデが激怒したというエンディング――いじめっ子をファルコンに乗ったバスチャンが追いかけ回してゴミ箱に追いつめる――も、ファルコンの顔で少しは救われている(誰が救われるのかわからんが)。とりあえず、いじめっ子を、でっかいかわいいのかかわいくないのかきわめて微妙なぬいぐるみが追いかけているという結末に見えるのである。

そういう風に受け取ってしまうわたくしは自分にこの国の風土に染みついた相対主義的なにおいをかぐ。エンデが思い描いているのは、古びてゆく紙幣とか利子としての時間とか――、見かけほどファンタジックではない。虚構と現実の二元論は、本当は真の問題からの逃避にすぎず、エンデはその二元論の地点では戦っていないはずである。

とはいえ、原作がどういうものか忘れてしまった。「モモ」を含めてエンデのお話は小学生にはものすごいものに思えたことは確かである。

ルソーではないが、「子どもというものを我々は知らない」という言葉は時々反芻してみる必要がある。たぶん、子どもに近いのは主人の下で極端に自由がない使用人ではないだろうか。大人には想像しにくいが、容易に想像すべきではない。大人の内部を分析してそこに到達すべきである。

マーラーの「感じ」

2017-02-21 23:01:10 | 音楽


マーラーの音楽を聴いていると、なんというか、聴衆に対する不信感があるのではなかろうかという感じがする。わたくしも音楽を志したことがあるのでなんとなくわかるが、クラシック音楽の聴衆の中には音楽に集中できないひどい連中がものすごくたくさんいる。いったい、何をしに演奏会に来ているのか、意味がわからない。音楽を聴く行為は文学の読書に似て非常に内面的な行為で、ほぼ考える行為に接近しているところがある。しかし、――「感じる」という行為には却って野蛮なものがおおいように、そうではない人も多いだろう。かかる人たちを音楽に縛り付けておくためには、「ここは試験にでるぞ」的な脅しを連発する必要があり、マーラーの音というのは、そういう感じがする。そこまでせんでもいいのにという感じがする。しかし交響曲第9番は、マーラーがリハーサルを重ねて楽譜を直さなかったせいなのか、そこまで聞いていて胸ぐら捕まれる感じがしない。何回聞いても信じがたいほどものすごい曲であるのだが……

とはいえ、よく分からんが、マーラーの楽譜を見ると、演奏の印象よりも何か非常に整然と書かれている(気がする)。

じぶんで演奏したことがある楽器のパートを目で追いながら楽譜を追って行くと、マーラー並に知的になった気がする。

病気の時には、一切のゾルレンが消えてしまふ

2017-02-18 23:27:54 | 文学


何よりも好いことは、病気が一切をあきらめさせてくれることだ。病気の時には、一切のゾルレンが消えてしまふ。「お前は病気だ。肉体の非常危期に際してゐる。何よりも治療が第一。他は考へる必要がなく、また況やする必要がない。」と言ふ、特赦の休日があたへられてる。それの意識が、すべての義務感や焦燥感から、公に自己を解放してくれる。病気であるならば、人は仕事を休んで好いのだ。終日何も為ないでぶらぶらとし、太々しく臥てゐた所で、自分に対してやましくなく、却つて当然のことなのだ。無能であることも、廃人であることも、病気中ならば当然であり、少しも悲哀や恥辱にならない。
 健康の時、私は絶えず退屈してゐる。為すべき仕事を控へて、しかもそれに手がつかないから退屈するのだ。退屈といふものは、人が考へるやうに呑気なものぢやない。反対に絶えず腹立たしく、苛々とし、やけくその鬱陶しい気分のものだ。だから人の言ふやうに、仏蘭西革命は退屈から起つたので、之れがいちばん社会の安寧に危険なものだ。そこで為政者は、人民の退屈感をまぎらすために、絶えず新しい事業を起し、内閣を更迭し、文化をひろめ、或いは種々のスポーツを奨励し、娯楽場や遊郭や公共浴場を設計する。

――萩原朔太郎「病床生活からの一発見」


…歳を重ねてだんだん朔太郎が嫌いになってきた…

◎●×スと恋愛の経済学―― Dollars and Sex

2017-02-17 18:54:24 | 思想


ときどきヤクザな本を買いたくなるのであるが――、上の本はカナダの名門大学の学部生向けの講義録だそうである。すごく人気のある授業だったそうだ。どこの学生もだめですなあ……。

だいたい読んだが、交渉とエビデンスという言葉が恐ろしい頻度で出てきて、なんとなく読者の精気を吸い取っている気がする。これでカナダの学生も勉強に集中したに違いない。とはいえ、ある意味、イメージ通りの結果が語られているところは面白い。レズビアンカップルは経済的には堅実だとか、リスク回避の人間はセックスを忌避するようになるのでリスクを大して気にしない人間同士がより夜ってしまうようになって性病が増えるとか…、どうもこういうエビデンス人間科学が、「ああやっぱりそうなんだ、エスタブリッシュ死ね」「ああそうなんだ同性愛者は迫害されろ」とかいう意見を生み出すところがあるのではと思うのである。こんな科学的?なあれを知らなければ、目の前の相手や、ネット上の相手への妄想で楽しんだり苦しんだりしながら陳腐な自分流の物語で自分を慰めることが出来るのに、それを科学は、本来政治があつかうような材料だけを与えてしまうのではなかろうか。まるで社会や政治が変わらなければ自分がどうにかならないような……。

大謝恩会ともっち

2017-02-16 23:38:53 | 大学

4年生の皆さんが、大謝恩会を開いてくれました。ありがとうございました。みなさんの心に幸福の鳥が舞い降りますように。


4年生がくれた、もっちリングクッション。下にあるのは、昨年の4年生がくれた似た触感のもの。みんなわたくしの体を心配してくれているのであろう。あるいは、なにかわたくしをもっちもっち人形的なものとみているのではなかろうか。――わたくしがまず幸福になりますように。