★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

松井選手引退

2012-12-29 01:29:29 | 日記


元読売の四番、ヤンキースワールドシリーズ優勝時のMVP、三島由紀夫好きと伝えられる松井秀喜選手が引退。

大リーグに行ってからの活躍はよく知らないが、読売時代、からくりドームやナゴヤ球場でぽかすか打ちまくっていたのは覚えている。松井選手のホームランは弾道が他の選手と全然違う、相手チームに絶望感を与えるそれであった。

このときなんか、ただでさえ不快感を与える巨人戦の実況も「入ったホームラン」とか「セイヤー」の代わりに「*ー*ー*ー」と東宝の著作権を踏みにじっている。確かにこの当たりはウッズとか福留(ただし数年に一回)とかブランコ(横浜に行きおったな、覚えてろ)ぐらいにしか(すみません、中日の選手しか知らんもんで)打てまい。しかしこんなのがしょっちゅうあったのである。




髪の毛をかっこつけてないところがよかったよ、松井選手。お疲れ様でした。頑張れドラゴンズ。


埴谷死霊かく語りき──予定

2012-12-28 02:45:38 | 文学


死んだものはもう帰ってこない。
生きてるものは生きてることしか語らない。

 それは、絶えざる囁くような暗いリフレインを操返した。二十年? 何をいってるのか。何故、そのとき、組織のなかで闘わなかったのか。何故、そのとき、組織のそとへ出て原因の探求に精根をこらさなかったのか。このニ十年のあいだに私の知り合っている幾たりかはすでに死んでしまった。その裡のひとりは、自殺し、ひとりは、気が狂った。彼等に、お前達は否定的な影響を受けてむだな自己消費をしてしまったのだといっても、もはや彼等はもとへもどらない。彼等がどんな入念な是正をされても、そこに暗い悲哀はのこるだろう。(「永久革命者の悲哀」)

……確かに「帰ってこない」のであって、「語らない」のではない。「死霊」を読んでる限りじゃ、埴谷雄高には、その語る声が聞こえたらしい。熊野純彦氏の埴谷論を読んでいても何かわたくしにも聞こえる気がしてきたぞ!





……埴谷雄高は死霊になったあとも語るべきである。はやく語ってくれないかな?さっきから待ってるんだが……。

勝手に逃げろ/蓮×重彦

2012-12-27 22:54:48 | 映画
いやなのは、ゴダールの名が蓮×重彦の名とともにわたくしに記憶されていることである。「勝手に逃げろ/人生」を見直すと、「ゴダールは馬も撮れるという思いもかけぬ事態に不意撃ちされ」などというせりふが去来し、「不意撃ちされねえよ」と思ってもみないではないのだが、「露呈された女陰とのコミュニケーションを得意げに達成しているらしい何頭もの乳牛」などというせりふまでもが陸続として不意打ちしてくるので、そもそもナタリー・バイが湖畔を自転車で疾走する場面を「ぎくしゃくした」と形容する蓮×が果たして自転車に乗ったことがあるのであろうか(自転車の運転はストップモーションがそもそも度々あるではないかっ)という疑問を投げるまでもなく、蓮×氏の馬のような風貌を思い浮かべ、想起される文が「「馬など、どこにもいはしない」とゴダールはつぶやく」という蓮×氏の文章の一部であったことに想到し、わたくしの90年代の勉強の偏りを嘆く始末である。

ストップモーションの多用が印象的な映画である。特撮ファンなら「ウルトラマン」のストップモーションを思い出すであろう。「ウルトラマン」は、毎回のワンパターン・反復による時間の停滞をウルトラマンの死でしか断ち切ることができない。ゴダールの「勝手に逃げろ/人生」も、浮気男の事故死によって、勝手に逃げることができる人生の隙間が辛うじて開いたような感じがする。しかしそんなことを信じる観客がいるであろうか。確かなのは、「サウンドオブミュージック」の草原で、実際のオーケストラがくさむらから出現する類の冗談──いやとても感動的なので冗談とは思えない──場面──浮気男の娘が、死んだ夫を「関わり合うな」と言ってその場から立ち去ろうとする母親に反目する予感を漂わせながら歩く姿を彩るオーケストラ音楽は、娘の前方で実際に演奏されていて、その傍らを彼女は孤独に歩む如く見える──その場面が自転車や馬との運動の対比において……

蓮×的なイロニーは映画とは対極である。90年代、わたくしもそんな感慨から出発したつもりだった。