★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

いつものコンビニ猫ちゃん

2012-04-24 17:48:04 | 思想



いつもコンビニ猫ちゃん。我々はそういえば猫ちゃんの声を下の方から聞く。アリスの猫のように上からなのは珍しいのである。

で、太田竜の「辺境最深部からの出撃」(『テーゼ』3)をちびちびと読んでいたら書評の仕事が舞い込んできたので、そっちも取りかかる。書評は何回やっても胸の下あたりがもぞもぞする。言ったことは全部自分に当てはまりそうだからである。この感覚を解消するために、ただ「勉強させて頂きました」的なせりふを書いたりしているうちはまだよいが、よく読んでみりゃ学会内の人間関係しか気にしていないような書評を書くようになったらおしまいだ。革共同結成者の一人であった太田竜は、とにかくどこまで真面目なのかよく分からん人であるが、ときどき面白いことを書く。(昔UFOの本だと思って、『UFO原理と宇宙文明』を買ってしまったところ、革命の本だった、というかよくよく考えてみるとやっぱりUFOの本だった)うろ覚えだが「人類独裁の打倒によるゴキブリの解放・ネズミの解放・ミミズの解放を!」など、せりふとして面白いではないか。少なくとも学会の懇親会では出てこないだろうこういうせりふは。また、ただの猫ちゃん好きで「うちの家族の一員です」といいながら、ゴキブリなどを虐殺する人よりはましであろう。ただ、これだけでは、ごきぶり鼠蚯蚓がプロレタリアートに取って代わっただけのような気がしないでもない。太田氏もどきは結構世の中にはたくさんいるのであるが、彼らがそこまでいうのなら、まずはちゃんとゴキブリ鼠蚯蚓と連帯して頂きたい。(その際、ディズニー映画やら宮澤賢治に逃げないでちゃんと連帯するべきだと思うのだよ。)

もやしもん 対 黙示録

2012-04-23 23:39:26 | 漫画など


たしか内田樹氏もどこかで言っていたが、『もやしもん』は大学漫画の傑作である。(主人公達のゼミの先生の名前が「樹」だから褒めたのかもしれない)大学漫画というのは、学園漫画とは違う。学園漫画というのは、「ああ、こういうカッコをつけてるだけの、その実教員に依存しまくりの生活を送ってる奴が、自分が日本のマジョリティとは永遠に気付かずに知識人を迫害しているのだなあ」と思わせる主人公がホレたハレたを繰り返し、卒業式で紋切り型の感慨を持って卒業してゆくものである。つまりファシストや田子作が若いから学校を通過しているだけである。大学漫画とは、その迫害を逃れた社会不適合者達の巣窟を描くものである。もう現実の大学はこんなではない。大学の教員がそもそもその巣窟の住人でなくなってきているのだから、学生が一年生から就職活動に勤しむのも無理はない。最近大学の教員の言うことをよく聞く学生が増えたような気がする。社会不適合者の言うことなら「うわっなんだこりゃ」で酒のつまみの話にもすりゃいいだけだが、案外処世に役に立つことを言うもんだからな。だから、それ以外のことはよく聞いていないだけでなく、聞いていないことを批判すると逆ギレする。そりゃそうだ、処世を妨害されたんだからな。巣窟人の使命は、このような輩を徹底的に弾圧することにある。

この漫画からも分かるように、迫害されたものたち(笑)がルサンチマンに満ちているという偏見は間違いである。ちゃんと生きてゆく場所があれば、愉しくやっているのである。むしろ、ルサンチマンが意識できないほどルサンチマンに満ちているのは、常に迫害する方なのではないか。昨日から黙示録のことを考えていたが、あれが、迫害された使徒が洞窟で怨恨で気もおかしくならんばかりに復讐を妄想したものだとは限らない。人間、勝ち組にいる時だからこそルサンチマンが生じることだってあるのである。安冨歩氏などに言わせれば、それはハラスメントの連鎖なので、勝ち組は元負け組と言うことになろうが、本当にそうであろうか。聖書学については何も知らないから何とも言えないし、まったくの妄想であるが……。ああ、それにしても黙示録はニーチェやらロレンスに題材にしてくださいと言わんばかりの極端さだ。これはちょっと扱おうとする者が感情的になってしまう。それが狙いかもしれない。『もやしもん』にはそれがない。いい漫画だ。いつのまにか社会もこんな大学みたいな世界がいいなと思ってくれりゃいいのかもしれない。天使がラッパ吹いて世界が何回も破滅しているようでは……。

Eclairs sur L'Au-dela...

2012-04-22 23:06:06 | 音楽


授業の予習をしながら、メシアンの「彼方の閃光」(1992)を聴く。彼の最後の作品ともされるものであるが、これが黙示録をテーマにしていることが怖ろしい。第6楽章「7つのトランペットと7人の天使」は、第七の封印が解かれた後、七人の天使がそれぞれにラッパを吹いて、雹や火や隕石やら蝗などで地上の偶像崇拝者などの異教徒たちを皆殺しにしてゆく場面──の怖ろしい音楽で、管楽器の低音に答えるように、低音の打楽器が爆弾を落とすように歩みを進めてゆく。(そういえば「世の終わりのための四重奏曲」でもこのラッパの部分は第6楽章だった。)続く第7楽章「そして神はことごとく涙をぬぐいさってくださる」と言われてももう遅いわっ。もう異教徒は殲滅されておるのであろう?作曲当時、時はまさに世紀末で、ある者は真剣に、ある者はおふざけに人類の全滅を語っていた。メシアンは果たしてどうだったのであろう。メシアンの作品を全て聴いたわけじゃないが、この人の音楽の美しさは、人間味を超越した感じがある。鳥ばっかり出てくるからかもしれないが……。本当は超越ではなく、鳥とか天使を人間の代わりに選別しただけかもしれない。

日本に幽霊が出る――宮澤賢治という幽霊である

2012-04-21 05:45:58 | 文学


最近、宮澤賢治についてちょっくら考えているので読んでみた。宮澤賢治は小学校の時に「どんぐりと山猫」のオペレッタをやって以来、私にのしかかる何物かである。大学の時には、ちょうどブームの時で、国文科の卒業論文の何割かが宮澤賢治である現象をみるにつけ、この作者の感染力に恐怖を抱いたものである。私の卒論なぞ、マルクス主義の評論についての論文だというだけでけちが付いているのに、国柱会(文学)はいいのかよ、と思った。大学院に行ったら、宮澤賢治をやろうとしている人(←東北出身)がいて、ちょうどそのころ、吉田司の『宮澤賢治殺人事件』や『批評空間』での特集があったりして、苦悩しておられた。気の毒であった。宮澤賢治は、例えば夏目漱石や萩原朔太郎よりも遙かに難物だと私は思う。すなわち、宗教やマルクスが文学にとって必要であろうか?というアポリアを説明する勇気と胆力がなければ、扱えない。私は、大学院の頃から、この問いは、テキスト論でも文化研究や脱植民地主義的な批評でも必ずしも解けないと思っていたし、いまもちょっと考え方は変わったが、そう思っている。換言すれば、戦争犯罪は裁判で裁かれることもあろうが、日蓮を裁くことが出来るか、ということである。私は裁く必要があると思う。オウム真理教の件でも同じことが言える。私が妄想するところによれば、信者達の真の目的は、非信者達に禍根を残すことにある。実際、もう残っている。我々がオウム真理教の事件を厭だなあと思うのは、彼らのような人々は時代が変わってもまったくそれとは関係なく現れること自体が示されたことを知っているからである。宮澤賢治も復活する。上の宮下氏の本は、研究上どのような位置づけになるのか知らないが、たぶん研究としてはそれほどの水準でもなく、先行研究を抜いているわけでもない。しかし問題はそこじゃない。宮下氏が宮澤賢治によって明らかに精神的に蘇生し、紋切り型のせりふをものともせずに書き続ける勇気を得ていることである。「研究」に意味があるとすれば、そんな勇気を一度たたきつぶすことにあると私は思う。

私は、「気のいい火山弾」とか「虔十公園林」にみられる、最後に救われるようなデクノボー的人物を迫害していた連中に対する激しいルサンチマンはただものではなかったと思う。私がハルマゲドン的な発想をしているからとは思えない。

土地を歩き回ったり、旅行に行ってみたり、孝行をしてみたり、趣味を仕事にしてみたところで、問題はいっこうに解決しない。研究がそんなものの代替物であったりしてはならないと私はあらためて思った。その「代替」の危険性は、宮澤賢治の文学にあり得るだけでなく、宮下氏の著作にも含まれるものである。

四大動物大行進

2012-04-19 23:09:07 | 思想


今年の「日本近代文学講義」のテーマは、「〈動物〉と〈投企〉」であるが、今日の授業は、「エヴァンゲリオン」と「蠅男の恐怖」と「アバター」と「猿の惑星 創世記」の比較をやって終わってしまったよ……。ハイデガーの総長就任演説についてしゃべろうと思ったのに……。来週も、下手すると「魔法にかけられて」の解説で終わってしまいそうだから気を付けよう……。

放送大学およびかがわ長寿大学告知

2012-04-18 20:19:16 | 文学
http://syl-web1.code.ouj.ac.jp/ouj-f241/dt-8696.html

今年は放送大学でも授業します。「日本近代文学と「共同体」」。話がでかすぎて、妄想をただひたすら喋りそう……。

http://www.kagawa-swc.or.jp/home/tyouzyu/04/daigaku2.pdf

かがわ長寿大学では、6月に「動物たちとフィクション──第2次大戦下の文学を中心に──」をします。毎年のように題目設定を失敗しているような気がしないでもない……。ゆるキャラと文学、動物が文学の中で何故しゃべるのか?我々は人間か動物か?ハイデガーの動物論に戦争責任はあるか?などについてしゃべります。